第92話 白の部屋で
何も聞こえないし、何も見えない。
ただ、真っ暗な世界が広がる。
ツユは苦しかった喉の痛みがなくなっていることに気付いた。いつの間にか、苦しさが緩和されている。
「……これって、現実じゃないってことかな」
自分の手足すら確認出来ない。まるで、自分の実体が失われてしまったようだ。
そう思い、ぶるりと身を震わせる。薄命と言われ続けたためか、死ぬことに恐怖はない。けれど、もう会えなくなることへの恐怖心はある。大切な一族の人々との別れ。それが近付いているのかもしれないと何となく思い当たった。
「クロザ……」
彼が何をしてきたかは知っている。何のためにしてきたのかも。
ツユは苦い思いを抱えた胸があるはずの場所に手をやり、呟いた。
「あたしも、同罪だね。生きたかった。どんな手を使うことになっても。……ただ、彼と共に生きたかった」
目覚めたかった。でも、目覚めたくない気持ちもあった。
「……もう一度だけ、会いたいよ」
不意に沸き上がった悲しみは、ツユの頬を滑り落ちていく。
その時、胸の奥から温かい何かが生まれた。ゆっくりと体中を包み込んでいく。ツユは急激な眠気を感じ、抵抗することが出来なかった。
「よし。晶穂、何かあったら呼んでくれ」
「えっ、克臣さんはここから出るんですか?」
リンをベッドに寝かせて掛け布団を丁寧にかけてやった克臣がくるりと背を向けたことに、晶穂は慌てた。克臣は不思議そうな顔をした後、にやりと笑った。
「目覚めた時、晶穂だけの方が都合良さそうだからな」
「え?」
「じゃあな」
晶穂が困惑の表情を貼りつけているのをスル―し、克臣は笑いながら戸を閉めた。
置いて行かれ、仕方なく晶穂はリンが眠るベッドの傍らに椅子を引き寄せて腰を下ろした。寝顔を見つつ、ため息をついた。
「……わたし、迷惑かけてばっかり」
誰もいない部屋だ。起きているのは自分一人。誰にも独り言を聞かれる心配はない。
二人が入った部屋は、城全体と同じく白で統一されたシンプルなものだった。ベッドの骨組みは木製で茶色。それ以外は小さなラックもテーブルも、布団さえも白い。その境界線のなさが晶穂を一人語りに導いて行く。
「今回もそうだよ。春直くんを助けたい一心だったけど、考えれば敵の目的はわたしが持つ聖血の矛なんだよね……。考えが至らないなんて、ほんと、ばか」
晶穂は矛を出し、刃を手のひらに載せた。キラリと光るそれは、晶穂の血で形作られているなんて思えないほど鋭利で冷たい。これが敵の手に渡ると考えただけで、晶穂の背筋は寒くなった。体の中に戻し、苦笑いを洩らす。
「って、わたし、自分のことばっかり」
晶穂は静かに眠るリンの顔をじっと見つめた。傷だらけの体の表面的な怪我は治療されていたが、魔力と体力の消費が激しく、眠ることでしか回復出来ないのだろう。まだ顔が青白い。晶穂は躊躇しつつ、そっとリンの頬に触れてみた。少しでも自分の魔力で回復の手伝いが出来ればと思ってのことだ。目を閉じれば、手のひらから力が流れているのが分かった。
自分がただの人間だと思っていたのに、いつの間にか魔力を目覚めさせ、聖血の矛という諸刃の剣のような武器を手にしている。不思議な縁だと思う。
ふ、と晶穂の頬を温かなしずくが伝って行く。幾度も幾度も。溢れ出るそれを留められるはずもなく、流れ落ちるのに任せてしまう。掛け布団の端から少し出ていたリンの手を握り、晶穂は嗚咽した。
「……ごめん、なさいっ。……リン。……来てくれて、ひっく、ありが……と……」
晶穂は涙に濡れたまま、自分の顔をリンに近付けた。
トン、トン
それから十分後。控えめにリンが眠る部屋の戸が叩かれた。晶穂が返事をすると、ジェイスがわずかに開けた戸の隙間から顔を出した。
「ごめんね、晶穂。リンの様子はどうかな?」
「はい。……変わらず、眠ったままです」
「そうか」
わずかに赤みが差した晶穂の頬に気付かないふりをして、ジェイスはそのまま体を横に動かした。誰かいるのかと晶穂が首を傾けると、ジェイスと同じか少し高めの背丈の影が見えた。誰かを察し、びくりと肩を震わせた。さっきはリンのことで頭がいっぱいだった。しかし少し頭が冷えた今は、彼らにされた所業が蘇り、自然に体に震えが走る。赤かった顔は白くなり始めた。
「……クロ、ザ」
「……そう、だ。お前をさらい、閉じ込めた。……謝っても許されることではないが、あなたに頼みたいことがある」
ジェイスに無言で背を押され、つんのめるようにしてダクトが部屋に入って来た。晶穂はぎゅっと意識のないリンの手を握っていた。ジェイスは首肯することで晶穂を安心させようとした。無言で「大丈夫。わたしが見てるから」と言っているのが分かる。晶穂はごくりと唾液を飲み込み、クロザを正視した。
「なん、ですか?」
「……」
「えっ!?」
がばり、と音を立てそうな勢いでクロザが頭を下げた。晶穂が面食らっている間に矢継ぎ早にまくし立てる。
「ツユを……ツユを助けてくれッ。あいつの命が消える前に。……ダクトが消えて、ツユの命も消えてしまう」
「……分かりました」
「えっ」
問い返すことなく了承した晶穂に、クロザの方が驚いた。ジェイスも面白そうに目を細めている。晶穂はリンの手を握ったまま、毅然として口を開いた。
「わたしの魔力を与えてくれ、ということですよね。蘇生の手伝いしか出来ないでしょうが、それでも良いのなら」
「………恩に着る」
「頭を上げてください。そして、ツユの所に連れて行ってください」
少しでもいいから、リンのもとを離れる時間を短くしたい。そんな思いだけで口走った。晶穂の思いを汲んでか、ジェイスが口を挟んだ。
「その心配はないよ」
そう言うが早いか、ジェイスは指を鳴らした。空気で創ったベッドに寝かせたツユが運ばれて来る。空気で創られているためか、ツユが宙に浮いているようにも見える。
晶穂は一瞬リンの手を強く握るとすっと離した。そして足早にツユに近付く。
ツユの目はしっかりと閉じられ、顔色は悪い。美しい髪が顔にかかっている。力なく両腕は体に添わされていた。死相が見える気がした。一時でも友人になれるかもしれないと思った少女だ。晶穂は深呼吸をして、そっとツユの額に触れた。
その触れた所から、温かなものが広がっていく。晶穂はリンに注げない時間を惜しみながらも、ツユが目覚めるよう心を砕いた。
(……あなたたちは、生きて償うべきものがある。こんなところで、勝手に死んだら許さない)
ダクトが古来種の彼らを利用していたことは分かっている。それでも、許容出来るものと出来ないものがある。
触れ続けること五分。ツユの顔色が赤みを帯びてきた。指がピクリと動く。
「ツユッ」
「乱暴にしたら、また悪くなる。そっと休ませてあげて。まだ生きたいと全力で願うなら、ツユはまた戻って来れる」
「……分かった。感謝する」
クロザはツユをそっと抱きかかえると、一礼して部屋を出て行った。
「ありがとう、晶穂。……あとはわたしたちに任せて。リンを頼んだよ」
「はい」
ジェイスもクロザの後を追って戸を閉じて行った。足音が遠ざかるのを聞きながら、晶穂は崩れ落ちるようにリンの傍に座り込んだ。再び彼の指を握り、呟いた。
「早く、目を覚まして。……リン」
これまで起こった出来事が多過ぎて気力も魔力も限界だ。晶穂は残った魔力をリンに注ぎ込みながら、いつしか掛け布団に頭を預けていた。手を通じて触れあっていることが、不安を少しでも薄れさせてくれるような気がして。
体は、まだ熱い。自分のしたことが信じられなくて、ただ衝動に任せてしまった自分が恥ずかしくて。リンが目覚めていなくて、本当に良かった、と安堵もしていた。
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