第88話 手加減なしで

 はあ、はあ

 心臓が激しく鼓動する。荒い息を整える暇もなく、リンは廊下を駆けていた。一分一秒が惜しい。コンマ一秒でも早く、クロザを探し出し、晶穂を取り戻さなければならない。

 廊下は進む毎に狭くなる。初めは翼を広げ飛んでいたのだが、すぐにそれも出来なくなった。翼を広げられる空間がなくなったのだ。

 人一人がようやく通れる幅しかない。

「何処だ、晶穂……!」

 唸るように呟いたリンの耳に、物音が聞こえた。わずかに鼠が動いたほどの音。遠くかと思われた。反対に近いかもしれないとも思えた。この城は防音対策が万全だ。何故なら、克臣たちの戦闘音が聞こえない。真っ直ぐ進んだだけであるのにもかかわらずそうなのだ。一枚壁を隔てただけでもわずかな音にしかならないだろう。

 リンは物音の方向を頼りに、スピードを緩めた。小走りから歩みに変え、ゆっくりと進む。

 すると突然、目の前に扉が現れた。一七〇センチのリンの身長をゆうに超えているそれの内側に、何者かの気配がある。リンは息を吸い、扉に手をかけた。

 ギイ

 音を立て、木製の扉が開く。廊下は眩しいばかりの照明に照らされて見通しが良かったが、この部屋は薄暗く奥が見通せない。暗さに目が慣れるまで、時を要した。

「……誰か、いるのか?」

 大声で問うたが、反応はない。何もない部屋かと眉をひそめたリンの背中を何かが襲った。

(何だ、この、殺気……?)

 ビリリと伝う張り詰めた何か。リンは振り返ると同時に身をひるがえした。彼がいた場所に、黒い光が高速で通り過ぎた。それは遠いであろう壁にぶつかり、ドスと突き刺さったようだ。

「何者だ」

「―――ようやく来たか。王子様」

「……クロザ」

 薄闇に慣れたリンの眉間に深いしわが刻まれる。そのきつい眼差しの向こうには、弓に矢を番えた一人の青年が立っていた。青い髪が浮かび上がり、鋭い紫の瞳の中にリンが映る。

 クロザは微笑み、矢を持った手を後ろに引いた。

「本当にここに来るとは思っていた。だが、ゴーダを突破されるとは思ってなかったよ」

「そいつは今、俺の仲間が食い止めている。俺は、自分の目的を達するために来ただけだ」

「……へえ。でもオレにもお前をここに呼んだ目的があってね」

 クロザは不意に指を放した。一直線に向かって来た光る矢を、リンは身軽に避ける。ちっと舌打ちしたクロザは、弓を捨てた。代わりに愛用の剣を取り出す。晶穂と春直を傷つけたものだ。リンも剣を召喚し、構える。

 何もない空間。薄闇と青年二人の影だけがある。たっぷり十秒を数え、リンはクロザに向かって駆け出した。間の距離は五メートルもない。


 


 リンがクロザの許に辿り着く数分前。

 晶穂は壁の薄い所を探そうとしたり床の脆い場所を探したり、格子戸を外せないか試したりと脱走を図り続けていた。しかし何日やっても埒が明かず、自分の中に眠る矛の魔力を高めるための精神集中に従事するようになっていた。

 矛を手に入れることが古来種の目的だということは分かり切っていたから、その力を強めることは敵の目的達成の片棒を担いでいるのと同じかもしれない。

 しかし万が一戦うことになった時、悔しいかな、聖血の矛は晶穂の戦闘力を何倍にも強くしてくれる。もう一つの矛は手にしっくり馴染むとはいえ普通の矛だ。魔力を使う戦いとなった折には分が悪かろう。

 晶穂に今出来ることは、助けが来ることを信じつつ、何があっても絶対に聖血の矛を体外に出さないことだ。

 そう考えて粗末なベッドに腰を下ろしていた時、部屋の外に人の気配がした。

「……誰?」

「晶穂、いるのか」

「リン?」

 晶穂は思わず扉に走り寄った。何日も何日も聞くことを夢見てきた声。迎えに来てくれたのだと思った瞬間、扉が開き、眩い光が晶穂を包み込んだ。

 その光が白ではなく黒だと気付いた瞬間、晶穂は自分が浅はかだったと後悔した。

 あの声は、魔力によって創り出された幻聴。相手の考えていることをそのまま見せたり聞かせたりする魔法の一つだ。こんな手に引っかかるとは、自分は相当堪えているらしい。

 意識を失う直前、晶穂の閉じた目の端に一筋の涙がこぼれた。


 


 激しい刃のぶつかり合いに、火花が散る。何度も何度も斬り合い、それぞれの頬や腕には幾つもの切り傷が生じた。

「くっ」

 キンッという音がこだまする。リンとクロザの技量は互角なようだ。否、クロザの方が少し勝っている。それを証明するように、リンの息はクロザのそれより上がっていた。

「このままじゃ、ケリがつかないな」

「は?」

 ぼそり、と呟かれた言葉に疑問を呈したリンの前で、クロザは背後の何かを掴んだ。それが藍色のカーテンだと気付いた時にはそれが引かれ、向こう側に隠されていたものが露わになった。

 そこにあったのは、金属製の鎖。じゃらりと長いそれは、何かにつながっている。リンは何故か逸る心臓を制しつつ、その先を探した。

 そうして、目を見開く。信じられない、と全身が叫ぶ。

「晶穂っ」

 そこに力なく横たわっているのは、探していた少女。細い足首には枷がつけられ、自由に動けないようになっている。そうしなくても動けそうもないほどに、晶穂はぐったりと床に体を投げ出していた。目を閉じ、開く様子はない。

 飛び出しそうになる自分自身を必死の思いで制し、クロザを睨みつける。下から見上げる形になり、目付きが悪くなるのは仕方がない。その方がこの場合は有効だろう。クロザはニヒルな笑みを浮かべてこちらを見ている。

「さあ、これで手加減なんて無くなっただろ?」

「……ひでえやつ」

 リンはさっと視線を巡らせた。晶穂に今、逃げるという選択肢はない。攻撃を彼女に当てずにクロザを倒さなくてはならない。リンは剣を構えた。

「……次でる」

「やれるものなら」

 次の瞬間、二人は激突した。




 春直は学校の宿題を解いていた。ここはリドアスの図書館。彼のような学生の多くがここで課題を片付ける。

 クロザの襲撃を受けてから早数週間が経っている。その時受けた傷は完治している。しかし、あの時自分を助けてくれた晶穂はまだ戻って来ない。リンたちが救出に向かったが、彼らも音沙汰がない。ここに残った猫人のサラによれば、

「大丈夫。必ずみんな無事で帰ってくるから~」

 と気楽な返事があったのみだ。彼女によればこういうことは初めてではないらしい。当事者でもある春直は、内心不安でいっぱいなのだ。

 晶穂が簡単に襲われ連れ去られたのは自分が持つ血のせいだ。責任を感じずにはいられなかった。

「……晶穂さんが帰って来たら、謝らなきゃ」

 そう決意を新たにした時、ユーギに名を呼ばれた。

「はーい」

 春直は控えめに返事をし、ノートや鉛筆を鞄に片づけた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る