第81話 アルジャの町

 ガタン、ゴトン

 北の大陸の都市・アルジャ行きの汽車が発車して数分が経っていた。アラストを発って座席に座ったリンは、ぼおっと車窓から変わり続ける景色を見つめている。

 三十分も経つ頃には向こうの方にソディール最大の面積を持つ湖のソイ湖が見え、次第にテラフの町が近付いて来る。大陸を横断する汽車は、木炭と魔法を併用して走っている。だから木炭の量は普通の汽車の半分以下で済む。煙の量も少なく、トンネルの中でも窓を開けていておけるのだ。

 幾つかの駅を通る間に、向かい合うボックス席で相席になったのは、犬人のカップル、魔種の女子学生、そして猫人の青年だった。どの人もリンを見て銀の華の人間だと分かったらしく、好奇の視線を投げてきた。また売り子の声も明るく響き、車内に花を添える。それら全てをガン無視し、リンの意識は昨日に飛んでいた。


 春直が中庭にいることを聞き知っていたリンは、晶穂もそこへ行ったとサラから報告を受けていた。けれどリドアス内で危険な目にあうこともないだろうと高を括って、彼は自分の仕事に勤しんでいた。

 その時だった。強力な魔力が爆発する気配を感じ、次いで古来種特有の気配が流れてきた。リンは一挙に後悔に襲われ、急いで部屋を出て中庭に向かった。

「リンっ!」

「ああ、ジェイスさん……。晶穂は、春直は……」

「落ち着け。まずは何が起こったのかを把握することだ」

 気を動転させたリンの姿に、ジェイスは自身の焦燥が静まって行くのを感じた。自分より焦る相手に出会うと、人は落ち着くものらしい。それと同時に、晶穂に出会うまであんなに冷静沈着だった青年がこうも人らしく変わるものかと思うと、可笑しくもあった。しかし、それをここで口にすることはない。

 ジェイスはいつも通りに中庭につながる戸を開けようとした。しかし、

「……開かない」

「俺に貸してください」

 ジェイスが後ろに下がると、リンがドアノブを力任せに回そうとした。それでも全く動かない。わずかに動いた気もしたが、気がしただけだ。戸の向こうには、強力な魔力の気配がある。

「―――結界、か」

「しかも、かなり強力だね。わたしの力でも簡単には解けそうもないな」

 でもやってみるよとジェイスが魔法解除を始めるとすぐ、リンは何かを閃いて廊下を走り出した。

「リンさん?」

 集まっていた中からユーギがリンに呼びかける。それを無視し、リンは玄関から外へと飛びだした。

「……中が駄目なら、外からだ」

 収めていた翼を広げ、空中から中庭を目指した。しかし、何故中庭が見つからない。何処に行ったかと再び探せば、あるはずもない建物が見えた。ゆらりと水面の波紋のように揺らめいて見えるそれが、結界だった。近付いて杖で魔力を噴き出させるが、全て弾いてしまった。

「くそっ」

 魔力も武力も持たないに等しい晶穂と春直が中にいるのだ。それが分かっているのに何も出来ない自分がもどかしい。己の魔力のなさが悔しい。リンは何処か魔力の薄い場所はないかと空から探し回った。

 そうやって時間を空費している間に何故か結界が解け、傷だらけの春直を介抱するに至ったのだ。

(あの時、クロザが結界外に出た気配はなかった。……あそこから瞬間的に移動したのか?)

 分からないことだらけで気ばかりが焦る。ギリと奥歯を噛みしめていたリンは、自分の肩をたたく人の声にようやく気付いた。

「あ、ようやくこちらに気付きましたね。お客さん、終点ですよ」

「ああ。ありがとうございます」

 車掌に「大丈夫ですか」と次いで問われたのは、自分の顔色が良くなかったせいだろう。リンは曖昧に笑みを返してホームに降り立った。

 冷たい風が頬を撫で、リンはぶるりと身を震わせた。

「……コート、一応持ってきて正解だったな」

 紺色のパーカーの上に、黒いコートを羽織ってボタンを留める。濃緑のリュックを背負って改札を通った。

 汽車の終点・アルジャの町。ここから北にずっと行った所に山脈がある。その近くにはユーギの故郷であるホライやトースがあるが、今回はそれらの場所に寄り道している暇はない。

 アルジャの市場で食料や山越えの道具をそろえる。山脈に行くにはどの道を行けばいいのかと案内所で尋ねた。応対した狼人のおばさんは、健康的な赤い頬を一気に青くした。

「あんた、北の山脈を越えようって言うの?」

「あ……いいえ。山の方に用事があって」

「それでもせめて真夏まで待ちなさい。夏にならなきゃ、あの万年雪は罠でしかないわ。猟師ですら、夏でなきゃ狩りに行かないのよ!」

 それとも、どんな用事があるのか。そう尋ねられ、リンは「あ、じゃあやめときます」と慌てて答えて案内所を出た。こちらの様子を窺う女性が古来種とつながりがあってはたまらない。そうでなくてもソディールの北の町とも言われるアルジャには、土地勘がほとんどないのだ。用心に越したことはないだろう。

 腕の時計を見れば、既に一日の半分が過ぎようとしている。食事を一度抜いたくらいどうということはないが、腹が減って戦は出来ない。昔の人は偉いものだ。

 晶穂を取り戻す直前でこちらが空腹で倒れては目も当てられないではないか。ということで、リンは急いで持って来たサンドイッチを口の中に放り込み、北を目指した。出来る限り、日のあるうちに進んでおきたい。

 最近の自分は、自分を見失っている気がする。リンは土の道を歩きつつ、自嘲した。晶穂に出会ってから、本来のキャラクターがぶれている。こんなに走り回る人間ではなかったのだが。

「いいんじゃないかな、変わるもんだよ」

「!?」

 突然背後からのんびりとした声が聞こえた。しかも下の方から。リンが振り返って見下ろすと、見慣れた黒髪の少年が笑っている。リンは思わず大声を上げた。

「お前っ、何でここにいる!」

「追いかけて来たんだよ。お兄ちゃん独りじゃ不安だから追いかけてきてくれって、ジェイスさんと克臣さんが」

「……あの二人」

「二人とも言ってたよ。頼ってくれないなんて寂しいから、ユキを派遣する。後から俺達も加勢するからなって」

 リンは片手を額に当てて息をついた。彼は二人の兄貴分を頼りにしていないわけではない。むしろ、頼り過ぎている自覚がある。それに今回は一人で晶穂を取り戻しに行きたかったのだ。この複雑な心情を理解してほしいものだが。

「……まあ、こうなることも想定してないと駄目だよな」

「お兄ちゃん? さっきから、考えてることほとんど口から出てるよ」

「マジか」

 リンは苦笑し、ユキの頭を撫でた。ユキは本来なら十四歳になっていなければならない。しかしダクトという悪神に体を乗っ取られた期間が長過ぎ、乗っ取られる直前の四歳で体の時が止まっていたのだ。ようやく動き出したユキの時間だが、彼の思考は十代の少年に近く、時々ハッとさせられるリンである。

 同行するというユキを伴い、リンは旅を再開した。ユキの装備を見れば、完璧に山仕様だ。戦闘能力は未知数だが、幼い頃は自分より魔力が高いと専ら言われていたこともあり、心配はしていない。

 町から離れる毎に、寒々しさを増していく景色。緑豊かな平原は山から落ちてきたとも思われる角ばった岩が散乱する荒野へと変わっていく。道で人に出会うことも減り、また出会う人もこれまで見たことのない髪の色や目の色をしているようになってきた。

「……この先に、グリゼがあるんだ」

「グリゼ?」

「ああ。一つ山脈を越えた先にある都市。真冬になると雪祭りが開かれるんだ。最近、ジェイスさんと晶穂と四人で行っただろ? そのまた先に、山脈を幾つか越えた先に俺達が目指す古来種の里があるんだと」

「思い出した! あの時は色々あったけど楽しかったよね。あんな旅行、もう一回行きたいな」

「……ほんと、目的が楽しいものだけなら良かったんだがな」

 獣人や魔種の姿がまばらになっている。リンはコートのフードを被り、ユキにも同じようにさせた。自分達のことを知っている者がいるかは分からないが、クロザが放つ刺客がいないとも限らない。

 リンは図書館でコピーして来た古地図を開いた。数百年前に作られたという地図は、図書館長のフォルタから貰ったものだ。そこには現在売られている地図にはない、北の山脈以北の地形も描かれている。古来種の里は、グリゼを迂回して行ける。リンとしては人目につく道を通ることは極力避けたい。好都合である。

 気が付けば、山の入口に来ていた。針葉樹林が広がり、そのどれもが雪や氷をまとって光り輝いている。しかしその美しさも、リンには恐ろしい魔物の口の中に生える尖った歯のようにも見えた。ユキがリュックを背負い直し、気合を入れた。

「お兄ちゃん、行こう。それで、晶穂さんを助けなきゃ」

「ああ。……クロザを倒す」

 待ってろ、晶穂。

 二人きりの兄弟は、恐怖への一歩を踏み出した。

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