第80話 万病の薬

 晶穂は夢を見ていた。古来種が事件を起こし始めた頃、矛の鍛錬をリンに見てもらっていた時のことだとすぐに分かった。しかし、当時は最後に彼が何と言ったのか分からなかった。

 雨音が五月蠅い。何か、大切なことを言われたはずなのに。

 心臓が五月蠅い。思えばあの時、強烈に思慕を抱いたのかもしれない。

 抱きしめられて、体温に触れて。

 あの時聞こえなかった言葉が、夢の中でよみがえる。


 ―――この前みたいなことがあったら、俺は生きていかれない。


「きゃあぁ……あれ?」

 飛び起きた晶穂は、疾走する心臓を抱えて呆然と周りを見渡した。

 暗い。おかしい。自分はリドアスの中庭にいたのではなかったか。ゆっくりと記憶を手繰り寄せていくと、自分がクロザと対峙したことを思い出した。春直は無事だろうか。

「……いや、まずはわたしだよ。何度さらわれれば気が済むんだか」

 空しいつっこみは、虚空へと消えた。

 ぼんやりと見える景色に目が慣れてくる。床も壁も石造りだ。戸は鉄製に見え、小さな窓には格子がはめられている。見たままの牢である。晶穂がいるのは部屋の角にある粗末な木製ベッドの上だ。今が春と夏の間でよかった、と晶穂は場違いな安堵感を覚えた。

「……体、だるいな」

 先程は夢の勢いのまま起きられたが、それが過ぎてしまえば猛烈な虚脱感が襲って来た。クロザが言っていた封血のせいだろうか。あの話も最後まで聞くことは出来なかったと記憶している。確か、大陸の所々に封血を伝える村があると。

「封血って、なに?」

 その問いに応える声はないはずだった。

「……神子の血を強制的に抑制するもの」

「誰?」

 いつ戸を開けて中に入って来たのか。戸を背にして、一人の少女が立っていた。赤く鮮やかな髪を背中に流している。彼女は街中で見るのとは違う軽装で、腰に手をあて微笑んだ。

「気分はどう? 囚われのお姫さま」

「……ツユ」

 赤髪の少女の言葉が、晶穂の意識に魔法のように入り込む。体のだるさも手伝って空ろな目を彼女に向けた晶穂に、ツユは心底哀れだという顔をした。

「まあ、可哀想に。でも、可笑しいものね。あたしたちを散々苦しめてきた神子の末裔の最期が、こんなものだなんて」

「わたしを、さらっても、得るものなんて」

「得るものは、ある」

 ツユは口端を吊り上げた。楽しくて嬉しくて仕方がないといった表情だ。身を乗り出し、晶穂の眼前に迫る。

「クロザは教えなかったかな。神子の聖血は、使い方次第で古来種の命、能力を向上させ、長らえさせるの。知ってると思うけど、そのままでは身の破滅。そこで封血を用いて聖血の力を血自身が生きながらえるための生存エネルギーに変えさせる。聖血は矛の形をとることで世代を渡ってきたんだ」

 封血を浴びた聖血の矛は自身の危険を感じ取り、エネルギー体としての聖血となる。聖性を失うことと直結するその変換は、同時に宿主たる神子との関係性も断絶する。それによって神子は死に、矛はエネルギー体イコール薬弾とも称される物体となって次代の神子を待つのだという。薬弾が眠りにつく前に確保に成功すれば、それは古来種にとって万病の薬となるのだ。

「……だから、あたしたちはあんたが欲しかった。あんたの中に宿る聖血が、ね」

「……そのために、たくさんの人を殺した?」

「ええ。矛を薬とするには、少量の封血では駄目。この部屋を満たすんじゃないかってくらいの封血が必要。……昔の人はそれを集めるのは不可能だと思ってそんな方法を作ったんだろうけど、詰めが甘かったな」

 あんたの代で、神子はいなくなる。

 不敵に笑ったツユに、もうろうとする意識の中で、晶穂は一つだけ尋ねた。

「……あなた、短命なの?」

「それを知っても、冥途にしか持ってけないよ」

 感情のこもらない解答を最後に、晶穂は意識を失った。

 晶穂が倒れたのを見届け、ツユは牢を閉じた。そこへ様子を見に来た青黒い髪の青年と出くわした。

「あら、ゴーダ」

「ツユ。神子の様子を見ていたのですか」

「ああ、そうだ。封血の力は大きいね。神子は抵抗する力もないみたい。ここまで銀の華が来るとも思えないし。……ふふ。これで血の力はあたしたちのものだね」

 勝ち誇った笑いをこぼすツユに、ゴーダと呼ばれた青年は緑の瞳を伏せて冷静に釘を刺した。

「いや、来るでしょう。彼は。クロザと、立場が似ている」

「そうだとしても」

 ツユは青い目を細めて呟いた。

「来れない。ここまで」

 それだけ言い残すと、ゴーダに部屋へ戻ると言い置いた。

 少女の細い背中を見送り、ゴーダは独り言つ。

「……きみは、何を求めるんだろうね」




 リンと克臣が話をした翌日の夕方。一組の母子がリドアスの玄関に立った。

「ここが、あなたのもう一つの家?」

「……浮気してるみたいに言わないでくれ、誤解だ」

 困り顔の克臣を見上げて微笑んだのは、彼の妻である園田真希だ。長い黒髪をバレッタでとめ、胸に息子の明人を抱いている。荷物は旅行鞄に入るだけ入れて、克臣が持っていた。

 出迎えたジェイスが真希に微笑む。

「お久しぶりです、真希ちゃん。明人くんも元気そうだね」

「ほんとに久しぶりだね、ジェイスくん。あ、皆さんも。いつも旦那がお世話になってます」

「ご、ご丁寧にどうも」

 ジェイスと共に出てきたサラが、真希に負けないくらい深く頭を下げた。ぴょこんと動く彼女の耳を見て、真希が目を丸くした。

「……ほんとに、猫の耳。そこにいるのは犬耳の男の子だし。……本当に、日本とは別世界なんだね」

「……狼だよ」

 ぼそり、と反論したのはユーギだ。頬を膨らませる少年にごめんなさいねと謝り、真希は夫が持つ鞄から紙袋を取り出した。

「これ、近所のケーキ屋さんの焼き菓子。ここは大所帯って聞いたから、足りると良いんだけど」

「わざわざありがとう、真希ちゃん。それじゃ克臣、お前の部屋に荷物類は置いて来いよ。真希ちゃんはサラにリドアス内を案内してもらうから。サラ、頼めるかな?」

「オッケー。それじゃ、真希さん。こちらにどうぞ」

「ありがとう」

 歩き出す直前、明人が目を覚ました。下ろしてもらいたがっている様子を見て、真希が息子を立たせて手を引く。

「さ、明人。お姉ちゃんについて行こうね」

「ん!」

 幼い明人に興味を持ってか、ユーギやユキといった年少組もくっついて行く。サラの案内する声が遠ざかってから、克臣はソファーに鞄を下ろしてジェイスに尋ねた。

「……リンは、もう出たのか?」

「ああ。今朝早くにね」

 克臣は力なく笑い、どっかと荷物の隣に腰を下ろした。軽く嘆息して、背中をソファーに預けた。ぼそりと呟くように言う。

「そんなに兄さんたちは足手まといで……頼りにならんかね」

「そうじゃないよ、きっと」

 ジェイスはリンが旅立ったであろう方向に目をやった。

 克臣を頼りにしていないわけではない。勿論、ジェイスも頼られていないわけではない。それでも、リンは一人で向かった。

 くすり、とジェイスはかすかに笑った。

「かっこつけたい年頃だから」

 北には、まだ白雪が積もる山々がある。あの雪は、年中解けることがない。今年の雪の下には、去年の雪が埋まっている。その更に下に行けば、いつしか、神話の時代にたどり着く。

 そうやって、雪は他者を排除してきたのだ。

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