第70話 渡せない
真昼間の晴天の中。黒い翼は住み慣れた建物の前に降り立った。
「どうした、リン!?」
リドアスの中から見ていたらしいジェイスが飛び出してくる。バタン、と荒い音を立てて開かれたドアから彼が跳び出して来た時、リンはようやくほっとした顔をした。
「……ジェイスさん」
「リン。晶穂も……。詳しい話は後で聞く。まずは中に」
「はい」
「は、い」
リンにお姫様抱っこをされている晶穂も頷く。ジェイスは彼らの靴に砂が付着していることや、妙に埃っぽい様子にも気付いていた。
しかしそれらに何か小言を言うことはなかった。
(何が起きた?)
ジェイスの心は、その一言に集約されている。
晶穂はリンの腕から降りようとしたが、彼は頑なにそれを拒んだ。
まるで、何か失いかけたものを再び失うことを怖れるように。
ツユは自室のベッドに腰を下ろし、一息をついた。その傍にあった椅子には、彼女の想い人が温かな飲み物をコップに入れて二人分持っている。片方を落ち着いたツユに手渡した。
「ツユ、無理したんじゃないか? あんなに長く外出して」
「心配性ね、大丈夫。目的の神子に会えたし、次会う時に手に入れられそうだし」
「……無理はするなよ?」
折角これからのことを相談しようと思ったのに、とツユはむくれた。しかし長く――例えば一日中――起き上って動き回ることは、彼女の体が許してくれない。頭を働かせることすら、今のツユには苦しい。顔が青い、とクロザに指摘されて苦笑する。
湯気をが上がるコップを机に置き、気遣わしげな彼を少しでも安心させるべく、ツユは温かな掛け布団を胸の上まで引き上げた。
「流石に、簡単にはいかないか。……こちらの力を見せてやらなくてはね」
ジェイスは自分の部屋にリンと晶穂を招き入れ、ソファーに座らせた。
彼の部屋は落ち着いた白やブラウンの色彩に統一されており、そこに暮らす者の性格すらも反映されているようだ。
ジェイスは魔法瓶から紅茶を入れ、二人に出してくれた。それを一口飲み、彼は「さて」と呟いた。
「……君らの身に何があったのか、順を追って、ゆっくりで良いから教えてくれるかな?」
もしかしたら内心では憤っておるのかもしれないが、大人の彼はそれを表には出さない。しかし空気でそれを感じ取り、リンは居心地の悪い思いを禁じ得なかった。
「……俺達は、出掛ける前にお伝えした通り、晶穂のもとに届いたメッセージに随ってツユという古来種に会いに行きました」
「うん」
歯切れの悪いリンの言葉に、ジェイスはただ頷く。
「晶穂が待ち合わせ場所のカフェに先に入り、俺は後から入りました」
そこからツユと晶穂の間にどんな会話があったのかは分からなかった。リンがちらりと隣を見ると、晶穂もそちらを見て頷いた。
「……わたしが入店した時、既にツユはいました。わたしは彼女に矛を渡せと言われました」
「矛……。やはり、彼女は神子の血を欲しているんだね?」
「はい。しかも矛に形を変えた血、です。彼女によると、その血は古来種にとって薬なのだとか」
「血から生まれる矛に宿りし血、か」
「え、ご存知なんですか?」
晶穂が驚きの声を上げる。リンも目を見張った。そもそも彼は、晶穂達の会話内容を知らない。今、初めて知り、しかもそれを予感していたようなジェイスの言葉にも驚いていた。
ジェイスは浅く頷き、「以前読んだ書に書かれていたんだ」と種明かしした。
「全て書いてあったわけではないだろうけどね。その書物に、神子の手を離れた主を持たない血は、毒を失い、己の存続をかけて毒を生命エネルギーに変換する。そのエネルギーは莫大で、あらゆる生命体の薬となり得る、みたいな内容のことが記されていたんだ」
「何か、万能薬みたいですね……」
「その通りだ、リン」
ジェイスは目を細め、次いで眉を寄せた。
「だから、欲する者は多い。今は古来種だけだが、神子の血のことが良からぬ奴らに広がれば、また命の危険にさらされる。それだけは、防がなくてはね」
「「―――はい」」
二人は真摯に頷いた。晶穂は自身の人生を守るために、矛を渡すわけにはいかない。リンは、そんな彼女を失わないために、守り抜かなくてはならない。
ジェイスは一転笑顔を見せ、二人に「続きは後で落ち着いてから聞くよ。風呂で汚れを流しておいで」と言った。素直に頷いたリン達が部屋を出た後、彼はふと窓の外を見た。
「全く。こちらが予期しない時に限って、厄介事が舞い込むものだね」
リンが男子用の風呂場を覗くと、既に温かい湯船が出来上がっていた。どうやら彼らが帰宅した直後に誰かが沸かし始めてくれたようだ。特に風呂番などを決めているわけではないが、ジェイスが今いるメンバーに頼んだのだろうか。
「はあ……」
汚れを流し湯につかると、外気に冷えた体がゆっくりと温まっていく。リンは息を吐き出し、湯に身をゆだねた。
数分経った頃、
「お兄ちゃん、入っていい?」
「ユキか、いいぞ」
「おじゃましまーす」
元気な声と共に、リンの弟であるユキが入って来る。体を洗わずに入ろうとするのを止め、洗い場で体を流させた。
リドアスの浴場はなかなか広い。男女共に余裕で十人は同時に湯船につかることが出来る。男子用は水色、女子用は淡い桃色のタイル張りの床の上に桶や石鹸が転がっている。町の銭湯ではないはずだが、アラストの住人もやって来ることがある。獣人も多いため、毎晩の掃除は欠かせない。
じゃぱん、と兄の横に入り込んだユキは、うーんと伸びをして足も延ばした。
「やっぱり、寒い時はお風呂だよね」
「……おっさんかよ」
「え~」
むくれるユキの頭から桶を使ってお湯をかけてやる。「なにするの」という弟を見て、リンはようやく微笑を浮かべた。
しばらく他愛もない話を続け、ふと無言に陥る。シャバと音を立て、ユキは顔を洗った。
「今日は何処に行ってたの?」
「ん、ああ。晶穂と一緒に人に会いに行ってたんだ」
「ふーん……」
ユキは足を湯上に出し、バタバタと水をかいた。
「あんまり面白くはなかったみたいだね。晶穂さんも疲れてたし、お兄ちゃんも」
「まあ。……愉快な相手じゃなかったからなぁ」
こっちを殺そうとしたし、とユキに聞こえないように呟いた。「ん」と首を稼げたユキに反応せず、
「さて、そろそろ上がるわ。ジェイスさんに話さなきゃいけないことがあるし」
「ぼくも上がる」
兄弟は湯気立ち昇る浴場を後にし、それぞれ部屋着に着替えた。
同じくすっきりとした晶穂と共に、ユキと別れたリンはジェイスの待つ食堂を訪れた。夕食を食べながら話そう、と先程メールがあったのだ。
食堂に入ると、三人分のお盆をテーブルに置いたジェイスが気付いて手を振ってきた。
「来たね、二人とも」
「お待たせしました、ジェイスさん」
晩ご飯にと二人に出されたのは、親子丼だ。体が温まるから、とのチョイスである。ふわふわの卵と鶏肉のバランスが絶妙で、リドアスの団員は皆大好きなメニューの一つだ。それに豆腐とわかめの味噌汁がつき、晶穂は目を輝かせた。
「おいしそうですね!」
「ま、ゆっくり食事しながら、さっきの続きを話してくれるかな?」
「「はいっ」」
湯気立つ丼を手に持ち、リンと晶穂は声を揃えた。
温かな食堂で穏やかな空気の中、それとは真反対の殺伐とした会話が交わされる。
「……ツユという娘には仲間がいたんだねぇ」
「はい。やつはクロザ・ゼロスと名のりました。魔剣を用い、俺と晶穂に対する殺意は明白でした。……晶穂から矛を奪い、その元となった神子の血でツユの体を治すつもりのようです。彼女は生まれつき薄命で、その命を長らえらせるのが目的かと」
「成程ね。神子の血は神子の体内にある間は毒だが、矛として奪い血として利用すれば、薬になる」
リンはご飯と鶏肉を飲み込んでから頷いた。
「……もしも人の命を救うため、また仲間の強化のためだとしても、そのために人一人の命を奪うことが許されるはずがない」
「わたしも、可哀想だとは思います。でも、そのために自分の生命線を明け渡すことは出来ません。――しかも渡してしまえば、他の誰かが傷つけられるかもしれない」
三人は顔を見合わせ、頷き合った。
ジェイスは食べ終わったトレイを戻し口に戻すために立ち上がった。
「わたしはこの後、克臣とも連絡を取るよ。大学が始まるまではもう少しあるから、その間もその後も、十分気を付けてくれ。……今は、それしか言えずに申し訳ないね」
「いいえ。気をつけます」
「俺は遠方の調査員にも問い合わせてみます。何か起こっていないか、と」
「頼むよ」
ジェイスが食堂を出た後、リンと晶穂は黙したまま食事を続けた。起きた出来事が出来事なだけに、軽い会話がし辛いのだ。
すっかり冷えた空の丼を戻し口に置き、二人は廊下に出た。前を歩くリンの背に手を伸ばしかけ、晶穂はその手を引っ込めた。何度かそれを繰り返した時、進んでいたリンが振り返った。
「あ……」
「何か用か、晶穂」
感情のこもらない低い声。晶穂は臆したが、改めて呼びかけた。
「お礼」
「?」
「さっき助けてもらったお礼、言ってなかったと思ったので。――危ない所を助けてくれて、ありがとうございました」
「……ああ」
しん、と静まり返る。
晶穂は内心冷や汗を流した。このままでは気まずいままだ。これから何が起こるかしれないが、この雰囲気ではやり辛い。何とか言葉を続ける。
「あと、勝手に飛び出してごめんなさい。自分の力、というか、矛の力を過信してました。……えっと」
言いよどむ晶穂の様子を見、リンはふっと軽く笑った。
「そんなに緊張しなくても良いだろ? 俺はいつも通りだから、普段と同じように接してくれよ。それに……」
「それに?」
「―――お前が自ら飛びだして驚きはしたけど、怒ってはない」
だから、心配するな。
リンはそれだけ言うと、ぽんぽんと晶穂の頭をたたいた。そして廊下の先に歩いて行った。晶穂は彼の手が触れた所に自分の手をやり、その熱を感じて微笑した。
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