第69話 結界内戦闘

 目を開ける前に、身じろぎをした。じゃり、と砂の音がする。心なしか、別の誰かの温度も感じる。

 晶穂はゆっくりと目を開け、自分の状況を見た。思いがけない状況を知り、「ふひゃあ」という訳の分からない悲鳴を上げた。同時に飛び起きる。

「リ、リン!?」

「……あ、きほ、か。よかった、無事だな」

 頭を打ったのか後頭部に手を添えて立ち上がったリンは、砂だらけの衣服をはたいて周囲を見た。風景は先程の荒野と変わらないが、ツユの姿がない。リンが得心したように腕を組んだ。

「ここは、あの結界の中だな」

「結界、なの?」

「ドーム型の形状に、誰かを飲み込むもの。結界以外に考えられない」

「……じゃあ、助っ人って?」

「ここだ」

 晶穂の問いに答えた声がした方向を見ようとした時、

「危ないっ」

「――ッ」

 突然晶穂はリンに押し倒された。悲鳴を上げる間もなく、晶穂は今まで自分がいた場所を一陣の風が吹き抜けるのを見た。

「……地面がえぐれてる」

「ちっ。魔剣か」

 下がっていろ。そう言ってリンは手のひらから自分の細剣を出現させた。自分の体が鞘となったそれをカチリと鳴らし、構える。

「誰だ、お前は」

 そのまま、視線を向け、問うた。

 砂埃が舞うその先で、誰かが剣の切っ先をこちらに向け直したのが分かった。

 少しずつ視界が開けて行く。古来種特有の鮮やかな色の髪が見えた。澄んだ青色だ。ショートのそれは少し癖があり、魔力で立ち上がる風に遊ばれている。

「オレは、クロザ・ゼロス。古来種を束ねる者」

 整った容貌に似合わぬ低く唸るような声。厳しい目元は彼の決意の表れか。紫色の瞳は燃えている。

 短い自己紹介の後、クロザと名のった青年は、目にも留まらぬスピードでリンに迫り、一閃で彼を弾き飛ばした。

「ぐっ」

「リン!」

 結界の見えない壁に背中を打ち付けられ、リンは呻きを洩らした。駆け寄ろうとした晶穂の首筋に、冷たいものが触れた。ひやりとした冷気に晶穂は動きを止めざるを得なかった。

「……動けば、首をはねる」

「う……」

 冷や汗が頬と背を伝う。リンが剣を杖にして立ち上がるのが見えた。そのこめかみから一筋の血が流れている。目に入れば視界を奪いかねない。しかし晶穂はクロザの殺気を感じて動くことが出来なかった。

「晶穂を、離せ」

「矛を渡すなら」

 即答され、リンは言葉に詰まった。押し黙る彼を見下すように、クロザはせせら笑った。

「無理だろうな。聖血の矛を手放した瞬間、神子は死ぬのだから」

「――分かっているのに、何故それを強いるの?」

 震える声で問う晶穂に刃を向けたまま、クロザは笑った。声だけで。

「理由は簡単。オレはツユを、そして虐げられ続けてきた仲間を解き放ってやるためだ」

 整然と言い放つクロザに、リンは再び問いかけた。

「……お前は自分の大切なものを守るために、別の誰かの大切なものを奪うのか?」

「それが必要な犠牲なら、オレは容赦なく奪う」

「なら、俺は必ず守り抜く」

「やってみろ」

 見えない火花が散るようだ。晶穂は動けないまま、じっとリンの瞳を見つめていた。リンの目は、決意を秘めて光る。

 クロザは晶穂の腕を引き、強引に下がらせた。「きゃ」と声を上げ、勢い余って晶穂は尻餅をついてしまった。首筋には、魔力で創られた刃物が触れている。不審な動きをすれば、首をかき切るという脅しだ。

「……」

「……」

 無言で二人の青年が向かい合う。一歩踏み出せば、それは死地に踏み込むのと同じだ。先に動くべきか、後に動くべきか。それは直感に頼るしかない。

 じゃり……。

 砂を踏みつける乾いた音がやけに響く。

 突然、二人同時に走り出した。

 刃と刃が唸り、火花が散る。キンッという金属音が何回も何十回も響き渡る。

 攻勢に出たリンの刃を、クロザは涼しい顔で防いで行く。

 ザッと同時に退く。再び刃を合せた時、攻撃はクロザに移っていた。

 激しい攻めに、リンの息が上がって行く。はあ、はあ、と苦しげな呼吸に、晶穂の胸は締め付けられた。

「リン……」

「大丈夫だ」

 その言葉とは裏腹に、目に見えてリンは瀬戸際に立たされていた。結界の限界を背中に感じ、ギリリと噛みしめる。

「お前を片付けたら、神子を殺す」

「そんなこと、させるかよ」

 荒い息を呑み込み、リンは剣を構え直した。クロザはふんっと鼻を鳴らし、とどめにと剣を振り上げた。

 その時だ。

「……わたしは」

「何っ」

 余裕をかましていたクロザの顔に、初めて焦燥が走る。ばっと振り返る。

 無力と思っていた少女が、手に矛を握っていたのだ。いつの間に出現させていたのかと問う時間はない。晶穂は蹴り出す力を利用して突発的にスピードを上げると、猛然とクロザに斬りかかった。

「わたしは、護られてばかりじゃ、いられないっ」

 叫びと共に決死の攻撃へと打って出た晶穂だったが、

 キンッ

 戦士であるクロザの敵ではない。

 訓練を積んできたとはいえ、晶穂は未熟な矛の使い手だ。付け焼き刃の攻撃は、反対に彼女に危機をもたらす結果となった。

「遅い」

 クロザは矛を悠然と弾き、態勢を整えかけた晶穂の面前へと滑り込んだ。

「ひっ」

「晶穂!」

「終わりだ」

 三人三様の声が響く。

 クロザに軽々と矛を弾き飛ばされた晶穂は、瞬間、その場に崩れ落ちた。

 矛を奪われまいと先回りしていたリンがそれを空中で掴み、襲って来たクロザの胸を剣の柄で突く。

 グッと呻って動きを止めたクロザを放置し、リンは晶穂を抱き起こした。

「晶穂っ!」

 呼べども、返答はない。血の気を失った彼女の体は氷のように冷たく、見開かれた瞳に光はない。リンは矛を晶穂の手に握らせた。

「目を覚ませ……晶穂……」

 その様子を少し離れた場所から眺めていたクロザは、つまらなそうに呟いた。

「……神子は、矛を落とせば死ぬ、か。大したことはないな」

 青年の言葉を背で聞きながら、リンは歯を食いしばる自分を自覚した。晶穂は、自ら望んで神子として目覚めたわけではない。魔女と呼ばれた存在に体を乗っ取られた際、無理矢理覚醒させられたのだ。

(それでもこいつは、そんな状況をも受け入れ、自分の力にしようとしている……)

 どんなに危ない道でも、自らに振りかかったものなら受け入れて進むのだ。

 本当ならば、そんな彼女の意志を受け入れ、応援してやるべきなのかもしれない。しかし、矛を手放す度に命の危険に見舞われていたのでは、彼女も自分も気が休まらない。

 リンは、以前から考えていたことを実行しようと決めた。

 その時、腕の中の温度が上がってきたのを感じ取った。

 うっ……。

 背を支えていた晶穂の体が震え、瞼がゆっくりと開かれる。同時に矛が彼女の体に吸収された。リンは身を乗り出す。

「晶穂?」

「……リン……? ごめん、なさ……」

「喋らなくていい」

 少しきつい言い方になったかもしれないな、と後悔しつつ、リンは素早く周囲に目を向けた。するといつの間にかクロザは消え去り、結界も消えている。身構えても襲って来る気配はない。その代わりに、何処からかあの青年の声が聞こえてきた。

「次は、神子の命を奪う。楽しみにしていることだ」

「……」

 リンは静かな眼差しを閉じ、晶穂は悪寒を覚えて身を震わせた。

「あ、ご、ごめんね。重いよね……」

 重い雰囲気を少しでも変えようと、少女は無理矢理笑顔を作った。しかしリンは何も言わず、ただ晶穂を見返している。その顔の中に表情を見とめられず、晶穂は慌てた。

 そうして立ち上がるために身じろきした時、リンが黙って行動を起こした。

「えっ」

 間の抜けた声を上げ、晶穂がふっと体が軽くなったと感じた時には、既に空に浮いていた。見れば、リンに抱えられて飛んでいた。更に慌てた少女は言い募る。

「もう、大丈夫だからっ」

「……」

「リン、離し……」

「少し、黙ってろ」

「―――っ」

 顔を真っ赤にして黙り込む晶穂を抱き上げた格好のまま、リンは地上に目を向けた。荒野が広がるばかりだと思われたその場所から視線を転じれば、何キロか離れた所に街並みが見える。しかもそれは、彼が見慣れた景色だった。

(――そうか。ここはソイ湖の向こうにある砂漠地帯か)

 滅多に足を踏み入れることのないロイラ砂漠には、ほぼ土地勘がない。加えて非常事態でもあったため、場所の見当がつかなかったのだ。

 場所と行くべき方角さえわかれば、リドアスに帰ることが出来る。リンが黒い翼を羽ばたかせ、目指す方向へ飛んで行った。

 胸元には、リンの服を握り締める晶穂の細い指がある。それがかすかに震えている。一度命を失いかけたのだ。怯えて当然だろう。

 リンの眉間には、深いしわが刻まれていた。

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