第66話 名前呼び

 牧場に着くと、濃い牧草や牛のにおいが漂って来た。

「うわぁ、牛だ!」

「ユキ、転ぶなよ」

 はしゃぐユキの後を追うリンの姿は、長い時間離れていたとは思えないほど兄らしい。彼らの姿を微笑ましく見守っていた晶穂は、

「広いですね」

 と隣にいるジェイスに話しかけた。彼は丁度メールを打ち終えたところだ。宛先は克臣だろう。晶穂が見上げているのに気付き、微笑んだ。

「そうだね、この広大な牧草地で数十頭の牛を育てているみたいだよ」

「流石、北海道……」

「晶穂、ジェイスさん、置いて行きますよ」

「はーい」

「今行くよ、リン」

 まずは乳しぼり体験からだ。張り切るユキの背を追って、三人は受付をする小屋へ向かった。

 受付を済ませ、乳しぼりを体験した四人は、そのまましぼりたて牛乳を飲ませてもらった。そして場所を移り、併設されたカフェに入った。

 牛の縫いぐるみや牛柄のクッションが置かれた店内は、まさに牧場のカフェという雰囲気だ。リン達はカフェオレやミルクコーヒー、ミルクたっぷりのケーキやアイスクリームを注文した。

 ユキがアイスを頼んだことに関し、リンが苦言を呈した。

「アイスは寒いんじゃないか? しかもホットケーキにダブルだろ」

「下のホットケーキがあったかいからいいんだ!」

 ちなみに、現在の外の気温は五度前後だ。

 そんな会話を楽しんでいると、やがて飲み物と料理が運ばれて来た。

 ユキの目の前に置かれたのは、子供の顔位の大きさのある二枚重ねのホットケーキとその上に乗せられたバニラと苺のアイスクリームだ。晶穂とリン、ジェイスはミルクをクリームとスポンジにたくさん含んだケーキだ。ショートケーキ、チョコレートケーキ、フルーツタルトと種類は違うが、どれもおいしそうだ。

 いただきます、との挨拶をして、四人はフォークを手に取った。一口ショートケーキを食べた晶穂は、幸せそうに片手を頬にあてた。

「うん、おいしいっ」

「柔らかいスポンジでうまいな。チョコも甘過ぎない」

「タルトも食感が絶妙だ」

 それぞれが無意識に頬を緩める。そんな中、ユキはまさに脇目もふらず、ホットケーキにかぶりついている。口の端に生クリームがついているが、それに気付く様子もない。晶穂は苦笑し、人差し指でそれを拭い取った。はっとしたユキの頬が染まる。

「あ……ありがとうございます」

「おいしく食べるのもいいけど、口の周りに気を付けてね」

 くすくす笑い、晶穂はテーブルにあった紙の布巾で指を拭った。

 しばらく四人は今後の行動計画を立てたり、雑談をしたりして過ごした。

 窓の外を見れば、牛が広大な牧草地の草を食んでいる。牛追いの犬が二匹走り回っているが、牛たちが気にする様子はない。なんとも和やかな風景が広がっている。ジェイスは目を細め、すっとスマートフォンを取り出した。カメラ機能を呼び出し、夢中で話したり食べたりしている三人の後輩達にそのレンズを向けた。

 音を消すことは出来ないため、料理を撮っている体でシャッターを押す。

 (……これは、公開不可だな)

 忍び笑いをしつつ、カメラを閉じる。

 アルバムを開いた。

 ユキを真ん中に、三人がわいわいと楽し気に話す光景が写真に収められていた。まるで若い夫婦と子供だな、と一人心の中で呟く。まさかそれを当人たちに言うわけにはいかない。ユキは笑ってくれるだろうが、晶穂は赤面して黙り、リンは烈火の如く怒りそうだ。

 その様子をありありと思い浮かべられ、ジェイスは失笑した。すると不審そうな顔をしてリンがこちらに顔を向けた。

「……ジェイスさん、どうしたんですか?」

「いやいや、何でもない。――さ、食べ終わったのなら出ようか。観光して、晩御飯を食べに行こう」

 閑話休題してさりげなくスマートフォンを鞄にしまった。リンはそうですねと言って立ち上がり、それ以上追及してくることはなかった。ジェイスは内心でほっと胸を撫で下ろし、会計を済ませた。


 その夜。

ホテルの近くにある高台で、リンはベンチに座って夜空を眺めていた。晩御飯にはジンギスカンを食べ、腹の中は満たされている。ユキ達はホテルの部屋にいるはずだ。眠いとむずがる弟を部屋に追い立てたのは十分前である。ジェイスか晶穂が付き添っていてくれるだろう。

ぼんやりとしていたリンは、背後から近付いて来る足音に気付かなかった。

「先輩」

「うわっ」

「だ、大丈夫ですかっ?」

 突然声をかけられ、リンは危うくベンチからずり落ちそうになった。心配する晶穂に手を振り、座り直す。ベンチの真ん中から横にずれ、晶穂に自分の左側に座るよう促した。

「……まさか、晶穂が来てるとは思わなかった。完全に背後をとられたな」

 額に手をかざし、自嘲する。これが晶穂でなく古来種を始めとした正体不明の者だったらどうするのか、うすら寒い思いがリンの胸をかすめた。

「そんなに自分を責めないでくださいよ」

「いやいや。……そうだな。お前でよかったよ、晶穂で」

「そっ……それはそれとして。綺麗な星空ですね」

 ほんのりと顔を赤くした晶穂は妙に早口になった。その理由を知らずにリンは首を傾げたが、早口を気にするのをやめて空を見上げた。

 北海道の大自然の中。空気は澄んで清々しい。夜空は星々と満月を抱き、北海道の大地全体を包み込んでいる。冬の空は冴え冴えとしてはいるが、そこに暖かみも感じるのは何故だろうか。

「どうしたんだ、こんな所に来て。風邪ひくぞ」

「それ、先輩が言います? そんな薄着で」

 晶穂はリンの頭から足の先を順に見た。彼女は厚手のブラウンのコートを羽織っている。ポケットや襟に小さなフリルがついており、女の子らしい。対してリンは黒く短めの薄手のコートだ。シンプルなデザインが好きなリンに良く似合っている。

 リンは己の腕を上げて見せ、「そうか?」と小首を傾げた。

「ソディールの冬はこんなもんじゃないからな。慣れてるだけだろ」

「……え、ここより寒いんですか」

 ぶるりと身を震わせる晶穂に笑いかけ、安心させようと努めて明るい声を出す。

「大丈夫。リドアスの中は温かくしてるし、一度経験すれば慣れるよ」

「それ、安心させようとしてます?」

「してるよ」

「ほんとですかぁ?」

 しかめた晶穂の顔が可笑しかったのか、リンが堪えきれずに笑い出した。それにつられ、晶穂も笑い声を上げる。

 しばらく笑い合い、収まると、ふと沈黙が訪れた。

 沈黙は決して居心地の悪いものではなかった。まるで、この空間に二人しかいないようだ。

「「あの……え?」」

 二人は同時に相手に話しかけ、また同時に疑問符を頭に浮かべた。

「晶穂が先でいいよ」

「いや、先輩から」

「そっちからでいいって」

 そんな不毛な会話が何巡したか分からない。二人は顔を見合わせ、軽く息をついた。

「……終わらん。もういいから、晶穂から話してくれ」

「ほんとですね」

 晶穂はくすりと笑い、再び満天の星空を見上げた。少し逡巡し、ゆっくりと口を開く。

「……先輩。この五日間、とっても楽しかったです。ソディールと日本と、みんなで来られるなんて思ってませんでした。サラや克臣さんたちは完全に別行動になりましたけど、あちらもそれぞれ楽しんでるみたいですし」

 本当に、ありがとうございます。

 にっこりと微笑を浮かべる晶穂を直視してしまい、何故かリンの心臓は跳ね上がった。体温が急上昇し、真冬の北海道に似つかわしくない汗が背中を伝って行く。

(落ち着け、心臓っ)

 ぐるんと体ごと後ろに向け、リンは火照る身体を夜風で冷まそうとした。しかし心臓はなかなか落ち着いてくれない。これから自分が言おうとしていることが拍車をかけているなど、思いもよらない。

「……先輩?」

「……なあ、晶穂」

 心臓を放っておくことに決め、リンは晶穂に向き直った。わずかに頬に朱が差しているが、それは夜の闇が覆い隠してくれる。

「その『先輩』呼び、そろそろやめないか?」

「え……」

 それは、どういうことか。

 晶穂の思考は、一旦停止した。

 固まってしまった彼女に対し、リンも自身の提案を後悔し、内心身悶えていた。説得と説明の言葉も自然と早口になる。

「ほら、銀の華に来て結構経つだろ。半年以上か? 他のメンバーは俺のことを団長って呼ぶこともあれば名前で呼ぶこともある。俺も晶穂のことはもう名前で呼んでるし。……だから、晶穂にも、俺のことを名で呼んでほしいんだ」

「え……え? リ……ンさん?」

「そうじゃ、なくて……」

 ああ、もうっ。

 胸の奥がやけに五月蠅い。その音に煩わしさを感じつつ、リンは叫んだ。

「俺はリンだ。……名で、呼ばないか、晶穂」

「え、えと………………リン」

 たっぷりと二十秒かけ、晶穂はたった二文字を絞り出した。

 言った瞬間、顔から火が立ち昇るかと思えるほどに熱くなった。晶穂は両頬を両手で包み、自分の膝を見つめた。

 リンも顔を真っ赤にしていたが、下を向いている晶穂には見えない。

「あ、ああ。これからはそう呼んでくれ」

「は、はい」

 どぎまぎと妙に温かい雰囲気を遠目で眺めていたジェイスは、くすりと音もなく笑った。

「明日は早いからそろそろ寝ないか、って誘いに来たんだが。あれじゃ、しばらく寝そうにないな」

 しかし、あのままでは埒が明かない。夜風も冷たいし、声をかける頃合いだろう。物陰から身を起こし、背後から後輩二人に声をかけた。

「こんな所にいたのか、二人とも」

「あっ……ああ、ジェイス、さん」

「こっこんばんは?」

 二人の慌てぶりが可笑しく、ジェイスは笑い出しそうになるのを必死でこらえた。それまでの顛末を知らない体を装い、小首を傾げて見せる。

「どうしたんだよ、二人とも。ユキはもう寝たよ。君らも明日は早いんだから、寝ようか」

「「はいっ」」

 ユニゾンし、顔を背けて赤面する。その微笑ましい画をずっと見ていたい気がしたが、流石に気の毒だ。ジェイスは直立した少年少女の肩を軽くたたき、ホテルへ向かうよう促した。

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