第60話 創造神話

 春休みに入るより数週間前。リドアスの図書館で書棚を物色していた時、パタパタという軽やかな足音が聞こえてきた。

「お兄ちゃん、これー」

「ユキ、館内では口にチャックだ」

 リンは自分の唇に指を当て、チャックを閉める動作をして見せる。するとユキも慌てて「うん」と頷きつつ仕草を辿った。リンは微笑して、ユキの目の高さに腰をかがめる。小声で会話を再開する。

「で、どうした?」

「うん。あのね、この本借りようと思って」

 ユキが差し出した本の題名は『ソディール神話』。日本で言えば『古事記』や『日本書紀』の神代にあたる。つまり、神々の物語だ。彼が持つ本は分厚いものの、子供用の平易な文章で書かれ、挿絵も多い。

「へぇ、神話に興味があるのか」

「うん。知らない話って面白いよ」

 そういえば自分も幼い頃に、母親に本を読んでもらったなとリンは振り返った。そして、ユキにその思い出はあるのだろうかと思う。あるとは思うが、それも物心つく前の話だ。リンに読み聞かせてくれた母親も既にいない。手がかりは全くないが、ユキの状況を鑑みる限りこの世にはいないだろう。

「よし、今夜にでも俺が読んでやるよ」

「本当? わーい」

 ユキは兄の提案を心底嬉しそうに受け取り、リンの手を引いて受付へと歩いて行った。


 その夜。ベッドで毛布を被ったユキの隣に寝転び、リンは今日借りて来た本を開いた。分厚く重い本を持ち上げ続けるのは辛いため、へその上に乗せて本を開いた。

 目次を開き、ユキに問いかける。

「ユキ、どれから読む?」

「うーん……これ!」

 ユキが指したのは、目次の最初にあった物語だった。「世界のはじまり」という神話だ。短く現代語訳され、読みやすくなっている。

 リンは軽く息を吸い、静かな声で語り出した。


 


 この世のはじまりは、何もない、色もない場所だった。

 ある時、男神おがみ女神めがみが生まれた。男神は魔神とも言う。女神は創造の女神とも言う。

 二柱の神は、協力して世界(ソディール)を産み出した。地を産み、空を産み、人を産み、獣を産み、草花を産んだ。そして、その他の様々なものを産み落とした。

 二柱の神々は、一部の人間に力を与えた。彼らは神々に捧げものをし、献身的に世話をした。それを喜んだ神々によって与えられた。魔種というのがそれだ。

 力は後に魔力と呼ばれる。魔神により与えられた力のことである。

 特に女神は人間を慈しんだ。女神が特別に愛した一族は神子と呼ばれ、魔力と対になる力を与えられた。

 二柱の神々は、世界が創り終えられた後も、世を見守り続けた。


 しかし、ある時、男神の裏切りが女神の心を引き裂いた。男神には別に愛する女神がいたのだ。

 その女神は、二柱の神々が生まれる前に世に生まれた神であった。

 女神と男神の間にも生まれた命があった。彼らは人間や魔力を持つ人々より早く生まれ落ち、別の力を持ち合わせていた。後に生まれた人間達に流れる命血を好み、吸い上げるのを主とした。古来種というのがそれだ。

 世界を産んだ女神は怒り狂い、味方の神子族の力を変化させた。魔種の力を殺ぎ、古来種の命を奪うものとなった。

 世は戦いの渦に巻き込まれ、多くのものが失われた。


 男神は自らの過ちに気付き、先の女神の許から去り、創造の女神に歌を贈ったという。

 その歌は、今に伝わらない。神の言葉で歌われたという。

 女神は矛を収め、戦火は消えた。

 先の女神は追われ、北の山脈の遥か向こう側に消えていった。

 地は男神と創造の女神の子が治め、二柱の神々は天に去った。


 


「……『これが、ソディールの創造神話である。』だと」

 パタンと本を閉じ、傍にあった机に置く。隣に目をやれば、すうすうと寝息をたてるユキの姿があった。

「どこまで聞いてたんだか」

 苦笑し、寝返りを打った弟の体に毛布を掛け直してやった。それから静かに体を起こし、彼を起こさないように戸を開け、

「おやすみ、ユキ」

 そう囁いて、リンは戸を閉めた。


「ねえ、お兄ちゃん」

「何だ?」

 読み聞かせをした翌朝。朝食を食べていたリンの傍に寄って来たユキがお盆を置いて座った。

 ユキは塩結び二つと豆腐の味噌汁、目玉焼きとサラダを持って来た。リンはお茶碗に白米と肉と野菜炒め、そしてヨーグルトである。二人とも和洋折衷メニューだ。

 箸を取り、味噌汁のお椀を手にしたユキは、

「昨日読んでくれた本に出てた『古来種』ってもういないの?」

「なんだ、それは覚えてるのか。結構最後の方まで聞いてくれてたんだな」

 リンは苦笑いし、ユキの問いを考える素振りを見せた。

「俺は会ったことないけど……。ソディールの何処かには、もしかしたらいるのかもしれないな」

「どんな人達だったんだろ……」

「神話や物語の中でしかわたしたちは追えないけど、地球で言うところの吸血鬼のように人血を吸って生きていた、とは読んだことあるけどな」

「ジェイスさん、おはようございます」

 にこりとした青年は、リンとユキの前に腰を下ろした。彼の朝食は、フランスパンとサラダ、そしてコーンスープだ。

「吸血鬼……。あの本の中で『魔種』と言われた俺達の呼び名と同じですね」

「魔種がわたしたちのことだとよくわかったな。うん、わたし達の場合は忌み名のようなものだね。畏怖の念が見え隠れする呼び名だ」

「いふ……。ぼく達は、怖いものなの?」

 不安げに揺れるユキの瞳を覗き込み、リンは首を横に振った。

「違う。確かに他の人にはない魔力を持ってるけど、俺たちにも仲間はいる。……ユキは、エルハさんを怖いと思うか?」

 エルハ・ノイルは、銀の華のメンバーの人間であり、特別な力はない。

 ユキは即座に「ううん」と首を振り、パッと顔を明るくした。

「エルハさんはぼくらと少し違うけど、でも大好き!」

「よかった」

 リンとジェイスは顔を見合わせ、笑いあった。

 その時、ユーギと晶穂がやって来て、より賑やかになった。他のメンバーも続々と食堂へとやって来る。

 窓の外は曇り空だが、昼過ぎには温かな光が降り注ぐだろう。




 さらりとした赤い髪が人目を引く。だからつばの広い帽子をかぶり、他人を避けてこの街までやって来た。

 周りに目を配れば、里では見慣れない人々が練り歩く。その奇妙な姿は彼女に気味が悪いと感じさせたが、向こうから見れば自分がそうだと思い直した。

 彼女がここに来たのには理由がある。一度目通りしなければならない相手がここを訪れると掴んだからだ。

 彼女は一軒のカフェに入った。コーヒーとケーキを注文し、頬杖をついた。

 待ち人はいつ来るか。それを待つのも一興だ。


 


 青い空に白い雲が浮かぶ。冬本番が近いせいか、澄んだ空気が身を刺す。

「うわあ~。山が綺麗!」

 ユーギが目を輝かせて叫ぶ。

 ここはアラスト郊外の村トゥールである。

 紅葉の盛りからは少し外れたが、まだまだ美しい色の木の葉が残っている。更に常緑樹が青々と茂っている。

 リンも背伸びをし、美味しい空気を吸い込んだ。ジェイスはリュックを背負い直し、ユキが畦道を見渡した。晶穂は遠くに果樹を見つけ、この地では何が出来るだろうかと胸をときめかせた。

「あっ、カエル!」

「何処どこ?」

 走り出しかける年少組の襟を掴み、ジェイスとリンは歩き出した。

「今日お世話になる民宿には着く時間を知らせてあるんだ。遅れるわけにはいかないだろう?」

「う~」

「あ~」

「ほら、二人ともぶーたれない!」

「後でたくさん遊べるから、今は我慢して、ね?」

 ジェイスとリン、晶穂の順にいさめられ、ユーギとユキは不承不承の体で頷いた。

 彼らが目指す民宿は、少し山を登ったところにあった。

「おやおや、賑やかなご一行ですね。ようこそ」

「一泊、お世話になります」

 出迎えてくれた老女は、描人である。茶色の耳が少し垂れ、優しげな瞳が眼鏡の奥から若者達を見つめている。

 荷物を客間に置き、リン達は老女の夫に導かれて裏の山へとやって来た。夫は人間であり、夫婦で民宿と山を守ってきたのだという。二人の息子は都会に働きに行っているが、数年後には家族と共に戻って来る予定だそうだ。

「じゃあ、跡取りもいるんですね」

「ああ。あいつが本当に戻って来るかどうかは分からんが、現実になれば嬉しいもんだがな」

「きっと、戻って来られますよ」

「ふん……。さあ、着いたぞ」

 山の斜面に作られていたのは、果樹園だ。晶穂が来がけに見ていたのがこれである。果樹はりんごに似た濃い橙色の実をつけているものやミカンに似た赤い果実もある。

「こいつらを夕食の最後にケーキにして出してやる、とあいつが言ってた」

「ケーキ!」

「「やったぁ!」」

 晶穂や年少組が諸手を挙げて喜ぶ様子を見、民宿の主は不器用に微笑んだ。

 それからは、果物狩りのはじまりだ。きゃいきゃいと賑やかな笑い声が山中に響く。

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