第58話 名も知らぬ敵
誰もいないのかと思うほどに静まり返った館の中、一人分の足音だけが響く。
コツ、コツ、コツ
青年は照明もない暗闇の中、見えているかのような軽い足取りで前へと進む。長い廊下を突き当り、トントン、と扉を叩いた。
「―――はい」
「入るぞ」
中からの許可を得る前に扉を開き、入室する。
「具合はどうだ?」
「お蔭様で、つつがなく。……目当てのものは、見つかったの?」
青年がドサリと腰を下ろしたベッドから上半身を起こしたのは、十代後半から二十代前半に見える少女だ。ボブの髪は赤く、薄青い瞳は少し熱に浮かされているようだ。青年もそれに気付いたのか、彼女の顔を覗き込んだ。
「……まだ熱があるな。話してやるから横になれ」
「わかった」
少女がきちんと布団をかぶったことを見とめ、青年は話し出した。
「お前が言った通り、目当てのものの一部は見つけた。接触もした」
「そう」
「ああ。そいつは始末し損ねたがな」
「あらら。……では、あの存在も未確認、と」
感情の籠らぬ声音に、青年は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そう、だ。あれを見つけ出し、始末しなければ。……オレ達の願いは叶わない」
青年の頭を、身を起こした少女は優しく抱き締めた。そっと耳に顔を近付け、囁く。
「じゃあ、あたしも手伝う。……勿論、熱が下がった後でね」
「助かる」
「彼も、手伝ってくれるでしょ?」
「あいつも、オレ達と思いは同じだ」
青年は目を閉じ、少女に身をゆだねた。少女は受け止め同じく瞑目する。この場所だけ、時間が止まったようだった。
一陣の風が窓にかかるカーテンを揺らした時、既に青年の姿はなかった。
大学から帰宅したリン達は、迎えたジェイスに座るよう促された。食堂に三人だけが集まった状態で、ジェイスは温かいカフェオレを出して来た。
「で、話とは?」
「それだよ」
ジェイスは微笑して二人の向かい側に腰を下ろし、指を組んで肘をついた。
「昨晩、克臣が襲われた」
「襲われた? ……誰にです」
「相手の正体は分からない。ちなみに場所は海色文具支社の建物前だ」
「えっ……。たくさんの人がいたんじゃないんですか? それにしては、朝のニュースにもなかったし、大学で話題にもなってなかったですよ」
「そうだね、晶穂。でも人はいなかったんだ」
「……はい?」
「克臣によれば、その人物が現れる前には上司達を見送ったらしい。その後、彼の周りに人影はなかった」
「……魔力か何か使った、ってことですね。結界かな」
「わたしもそう考えているんだ、リン」
「そういえば、張本人の克臣さんは」
晶穂の言葉に、リンも周囲を見渡した。思い出してみれば、今日は一度も克臣の姿を見ていない。襲われた本人が姿を見せないとはどういうことか。
その疑問はすぐに氷解した。
「ああ。実はあいつの息子の明人くんが朝から熱を出したらしいんだ。一応引いたみたいだけど、心配だから直帰するって。話すのはわたしに任せて行ったんだよ、今朝ね」
「えっ。克臣さんって子供いたんですか? まだ二十三歳でしたよね」
驚く晶穂に「言ってなかったっけ」とジェイスが頭をかいた。
「ジェイスさん、晶穂はまだ園田家との面識はないです」
「そっか。近々克臣の家に遊びに行くと良いよ」
「はい、楽しみです」
克臣を家長とする家庭とはどんなものだろう。きっと温かく楽しいのだろうな、と晶穂は想像を膨らませた。
―――温かい家庭。晶穂が失い、憧れているものだ。
「まあ、詳しくは明日来るって言ってる克臣に聞いてくれ。……それと、相手はわたし達の知らない生物を使役していたというよ。蝙蝠に似た、言うなれば生きた刃物だ」
「生きている刃物、か」
思いを巡らせていた晶穂はリン達の会話で現実に引き戻された。生ける刃物とは、危険極まりないではないか。
顔を青くする晶穂の顔を見、リンは苦笑した。ポンッと彼女の頭に手を乗せた。
「大丈夫だ。へまはしない。克臣さんだって、先手必勝で逃げて無事だったんだし」
軽く頭を数回たたいた。くしゃくしゃと撫で回され、
(大きい手……)
少し速まった鼓動から意識を背け、晶穂はにこりと微笑んだ。
「先手必勝で逃げたって、それでいいんですか?」
「良いんだよ。逃げるが勝ちのこともあるんだ」
微妙に視線を外されていることに気付かない晶穂は、「下げてきますね」と全員のコップを集めて台所へと向かった。
彼女を見送り、リンは少し表情を改めた。ジェイスに向き直る。
「ジェイスさん、克臣さんが対峙した相手は……敵、になるんでしょうか?」
「どうだろう……。まあ、そう考えておくのが無難かな」
「そうですよね。……克臣さんがここに来るのを待って、対策を立てないといけないですね」
「ああ。わたし達で終わる問題ならそれで済ませば良いし、リドアス全体に影響を及ぼすなら他の仲間とも話し合わないといけないね」
「あ、リン先輩、ジェイスさん。ユーギとユキ達が帰って来ました」
「ただいま~」
「おう、おかえり」
ピョコリと頭を出したユーギに、リンは近付いて笑いかけた。その横からユキも顔を出す。頭を撫でてやり、二人と共に食堂を出て行く。
「ジェイスさん、詳細は明日」
「ああ」
リン達がいなくなり、晶穂はふとジェイスを見上げた。
「ん、どうした、晶穂?」
何かを言いたい様子に見え、ジェイスは首を傾げた。逡巡を見せた晶穂は、意を決したのか顔を上げた。
「……あの、ジェイスさん。お願いがあります」
「うん。何だろう?」
「……リン、先輩が、危ない方に向かおうとしたら、助けてください。わたしに出来ることがあるかどうかもわかりません。その時一緒にいられるかどうかも。……だから、いつも傍にいるジェイスさんと克臣さんにお願いしたいです。傲慢な独りよがりな考えかもしれませんが……」
「いや、そんなことはないよ」
ジェイスは首を横に振り、自分より背の低い少女の目の高さに合わせて屈んだ。しっかりと見つめ、頷く。
「任せて。克臣にも言っておく。勿論、リンにもね。晶穂を心配させないようにって」
晶穂は頬を染め、ぺこりと頭を下げた。「失礼します」と言って慌ただしく辞去する背中を微笑ましく見送り、ジェイスは窓の外を見た。
月が昇って来ている。今夜は三日月だ。曇りのない空に、ぽつんと浮かぶそれは、何を暗示しているのだろうか。
「まあ、全く関係ない可能性の方が高いけど」
独り言を言って苦笑し、ジェイスも自室へと戻って行った。
翌日の夕刻。日に日に気温は下がってきている。
薄めのコートを羽織った克臣が姿を見せたのは、そんな時間帯だ。
「克臣さん、お仕事お疲れ様です」
「おお、晶穂。リンとジェイスは?」
「会議室で待ってるから早く来い、だそうです。夕食はお家で食べるだろうから、と軽食というかおやつだけ用意してあります」
「流石、よく分かってるなぁ。了解、すぐ向かうよ」
奥へと向かう克臣を見送り、晶穂はリドアスの扉を閉めた。
会議室の戸を開けると、三人が向かい合って座っていた。晶穂はリンの隣の椅子に落ち着き、克臣の口から話を聞く態勢に入った。
そんな彼らの様子に、克臣は苦笑を洩らした。
「お前ら、そんなに身構えてるともたないぞ」
「それだけの事態だと思っているってことさ。克臣、お前が体験したことをお前の口から話してくれよ」
「分かってるよ。―――じゃ、大したことは話せないけど」
そう前置きし、克臣はジェイスがリン達に話したことを補足するように話していく。
「俺は退社後、部長達に飲みに誘われたんだが断り、家に帰るつもりだった。だけど会社を出た途端に殺気を感じた。それは近くの路地から漂って来る。部長達もいたし、その時点では無視したんだが」
克臣はその時のことを思い描いたのか、眉間にしわを寄せる。
「部長たち飲み組を見送り、俺はそいつに声をかけた。あいては言った。『銀の華の園田克臣』と俺の名前をな」
「昨日もジェイスさんに概要は聞きましたけど、やはり相手は自分の名は名乗らなかったんですか?」
「ああ、そうだ。俺は自分で正体を暴いてやろうと近付いたが、相手は俺が知らない生き物を出して来た」
「……それが、『生きている刃物』?」
「そう。俺はそう見た」
克臣は晶穂が用意したチョコレートを一粒口に放り込んだ。花やハート、葉っぱなどの形をしたチョコレートは直径五、六センチある。ブラックとホワイトのチョコレートを選べるよう同数皿に置いていたのだが、克臣を含め男性陣はブラックチョコレートが好きなようだ。
「蝙蝠のようにも見えたし、羽が生えた哺乳類のようにも見えた。名前すら不明だ。……そいつらは何十匹もいて、俺に向かって来た。数匹なら相手出来たが、あれは無理だ」
街路樹の枝がスパッと両断されていたのを見たからな、と克臣は苦虫を数匹噛み潰したような顔をした。
「見たこともない生物を操るやつ、か……」
「? リン、心当たりがあるのか?」
「いえ。記憶を掘り返したつもりですけど、覚えはありません。俺らは色んな勢力から恨まれることがありますけど、そんな刃物のような生き物を使う人間なんていたかなあ」
「リンでも分かんねえか~」
克臣はうーんと体を伸ばした。それから「まあ」と口を開いた。
「俺達に好意があるようには見えなかったな。どちらかと言えば
「それはお前にこそ言うべき台詞だな」
「いったっ」
ペシン、と軽い音をさせ、ジェイスが隣の克臣の後頭部をたたいた。恨みがましく睨む幼馴染を素通りし、リンに目を向ける。
「今すぐどうこうって話じゃない。とりあえずは様子を見よう」
「はい」
「そうですね」
「了解」
それぞれがジェイスの意見に賛成し、会議は散会した。
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