古来種編

異世界間旅行

第57話 仕事中

 トゥルルルル……

 一コール目で出ろとよく言われるが、人は機械ではない。二コール目で受話器を取った。ここは、日本のとある場所にあるオフィスである。

「はい、海色文具うみいろぶんぐです。……はい、少々お待ち下さい」

 受話器の口を押え、目当ての人物を探して視線を彷徨わせる。あ、いた。誰かと話していたが、いいだろう。

「部長、あさひ木工所の結城様からお電話です」

「わかった。五番につないでくれ」

「はい」

 言われた通りに繋ぎ、自分の仕事に戻った。

 今日の午後、得意先に赴いて新商品のプレゼンテーションをしなくてはならない。その準備は昨日までに済ませたが、午前中には事務仕事を片付けなければ。

 忙しくパソコンの画面に目を通す彼に、背後から声がかかった。ショートボブのスレンダーな女性だ。黒いスーツを着こなしている。

「園田くん。はい、頼まれてた資料」

智田ともださん、ありがとうございます」

 軽く先輩に頭を下げ、紙の束を受け取った。二十枚近い束だ。思ったよりも多いことを口にすると、彼女は微笑んだ。

「ええ。今日はプレゼンでしょ? あの会社の社長さんや役員の人達の簡単なプロフィールも添えといたから。相手の好みも知ってると、雑談で役立つわよ」

「成程。助かります」

 頑張ってね、という智田の背中を見送り、克臣は報告書の入力を再開した。

 ここは、園田克臣が勤める『海色文具』の営業部。地方支社ということもあって、人数は二十人程だ。それぞれが己の仕事を懸命にこなしている。しかしオンとオフがはっきりと分かれているのがこの部署の特徴かもしれない。残業を減らす程賞与が上がる仕組みを持つこの会社では、退勤時間はほぼ全員が午後五時台だ。

 会社を出た克臣は、部長に呼び止められた。

「園田くん、今夜飲みに行かないかい? 花金だし」

「いいですね。ご一緒したいところなんですが、実は今日は嫁の誕生日でして。早く帰らないと臍曲げるんですよ」

「それは残念。奥さんに宜しく」

「はい、失礼します」

 部長を始め数人の先輩や同期を見送り、克臣は「さて」と表情を一変させた。この辺りにはもう誰もいない。自分と、相手以外は。

「……そこにいるやつ、俺に何か用か?」

「―――流石、銀の華の園田克臣」

 電灯もない脇道から、笑いを含んだ声がする。低音で穏やかな声色は女子受けが良さそうだ。しかし、克臣は同じ声から危険の臭いを嗅ぎ取った。きな臭い。

 不安が過るが、それを面に出すようなへまはしない。あくまで冷静に話し続ける。

「男、しかも見知らぬやつに褒められても嬉しくないね。こっちのことが筒抜けなら、そちらさんも正体を見せてはくれないのか?」

 下手したてに出たつもりだったのだが、相手は哄笑して答えない。克臣は舌打ちし、自ら正体を暴いてやろうと脇道に足を踏み出した。足音をたてず、忍び寄る。

 暗い道に顔を出そうとした瞬間、何かが襲いかかって来るのを感じ、さっと身を引いた。

 克臣がコンマ何秒か前にいた場所を動く刃物が薙いだ。失敗して不平を言う声を耳にして目を凝らすと、鋭い羽を持つ蝙蝠のような生物がとてつもない速さで羽ばたいていた。見たこともない生物だ。手を出すのは危険と判断しじっと観察する克臣の耳に、関心を示した風情の男の声が響く。

「これを知らないのか? ……当たり前か。こいつはオレ達の間でしか知られていないからな。あんたたち所謂吸血鬼や獣人には扱いきれない代物だ」

「……ほう」

 つまり、この男は吸血鬼でも獣人でもないということになる。ならば正体は人間か。克臣は一歩前に出る。

「君は、俺たちに敵対する存在か?」

「さあね。それは、そっちの対応次第だ」

 続けて正体を探ろうとした克臣に、耳障りな羽音が聞こえてきた。傍の脇道から群を成して飛び出して来たのは、先程の蝙蝠に似た輩だ。

 ブウウゥゥン

 一匹二匹なら倒せる自信がある。しかしこの数は。軽く百匹は超えていそうだ。

(ここで保身するのは危険を避けるためだ!)

 一斉に飛びかかられたらひとたまりもない。克臣は踵を返し、駅に向かって走り出した。

 男の声はそれ以上蝙蝠に克臣を追わせようとはせず、身を翻して消えた。

 しかし、一言だけが克臣の耳に届いた。

「これは、ほんの挨拶だ」

 その後、何かを消し去ると口にした気がしたが、気にする余裕はなかった。

 駅の改札をIC定期券で通り、来た電車に飛び乗る。荒い息を整え、冷たい汗を拭った。

「あ。……ケーキ買って帰らないと」

 妻へのケーキは最寄り駅で買うことにし、克臣は車内の壁に背を預けた。周りには会社帰りのサラリーマンやOLが思い思いに過ごしている。ほとんどがスマートフォンの画面を見ている。こちらを気にする人は誰もいない。

「……あれは、何だったんだ?」

 突然の襲撃。意味深な言葉。詳細は不明だが、自分たち銀の華はまだまだ受難らしい。

 それも面白い。克臣は無意識に口元を綻ばせた。生来、荒事好きなのだ。

 ソディールの存在を知らない妻や息子には心配をかけるだろうが、許してもらわなければなるまい。以前足に大怪我をして帰った時、妻は大きく目を見開いて夫を迎えた。営業に行く途中、誤って盛大にこけたのだと言い訳した。それを信じたのかは定かでないが、妻はそれ以上咎めてくることはなかった。

(ま、埋め合わせはさせられたけどな)

 罰として、一週間の家事代行。掃除洗濯、食事作りを指示された。しかしそれらは克臣が家にいる時だけ。つまりは朝と夜のみである。仕事をしている夫のため、甘めの指示にしてくれたのだろう。

 あれくらいのおねだりは許容範囲だ。次はこれじゃ済まない、と釘を刺されている。精々、怪我をしないように気をつけなければならない。

 克臣は、妻が可愛い。極偶に喧嘩をすることもあるが、どちらということもなく謝るため、大ごとにはならない。

「明日、リン達に報告しとくかな」

 幸い、明日の予定では定時以前に仕事が終わりそうだ。早めに切り上げ、リドアスへ行かなければなるまい。それとも、大学へ行く前に捕まえようか。克臣の出勤時間は午前八時だ。朝早く家を出て、用を済ませてあちらから扉で飛べば、余裕だろう。

 そんなことを考えていると、車内放送がかかった。次が、自宅の最寄り駅だ。

「さて、ケーキは何がいいかな……」


 正体不明の人物に襲撃された翌朝。克臣の姿はリドアスにあった。ただしリンと晶穂は大学に行き、ユーギやユキ達も学校へ登校した後だったが。

 克臣は幼馴染の部屋に押しかけ、椅子に陣取っていた。

「この時間ならもうあの子達がいないことくらい、克臣なら分かってただろう?」

「しょうがないだろ、明人あきとが熱出したんだ。朝っぱらから病院に駆け込んだんだよ」

 子どものように頬を膨らませる克臣だが、目は息子を案じていた。

 明人は克臣の息子でまだ一歳だ。妻の真希は克臣の小学生時代からの同級生で、付き合いが長い。成人式の日に式を抜け出し、克臣が彼女にプロポーズした。真希とジェイスも昔馴染みの友人で、プロポーズを勧めたのもジェイスだった。

「明人くんの容体は?」

「おかげさんで微熱だ。栄養摂ってゆっくり寝れば治るとよ。真希まきには、後は自分に任せて仕事に行けって追い出された」

「流石、真希ちゃんだね」

「ったく、手が震えてんの丸分かりだっての。だから、夕方にはリドアスに来ない。会社から真っ直ぐ帰るから。リンにはお前から伝えといてくれ」

「了解。―――じゃ、聞かせてくれるか?」

 尻に敷かれてるなぁ、と苦笑しつつ、ジェイスは克臣に話をするよう促した。明人の熱以上に驚く話ではないと高を括っていたが、襲われたと聞いた途端、顔色を変えた。

「……それで、相手は?」

「ぶっちゃけ、正体は分からん。ただ、吸血鬼や獣人を知っている様子だったし、ソディールの人間だろうな。どうやって日本に来たのかは知らんが」

「余裕?」

「なわけあるか。あんな生物は見たことも聞いたこともない。相手の言葉を信じるなら、あれは俺達が知らない何か、だ。俺はあれに殺されかけた」

 蝙蝠に似た空飛ぶ刃物は、確実に克臣を殺しにかかっていた。

 ――否、あれらを操る人物に殺気があった。

「あいつ、余裕かましてやがった。……どうやら、争いの火種はまだあるようだぜ、ジェイス」

「そのようだね」

 ジェイスは自分で用意したミルクティーを口に運び、一息ついた。ちなみに克臣の前には緑茶が置かれている。ほかほかと湯気を立てるそれは、冬を迎えつつあるアラストにぴったりだ。

 緑茶をグビリと飲み干し、克臣はニヤリと口端を上げた。

「それはそうと、リンは近々結論を出すらしいぞ」

「……緊迫感が続かないね、克臣」

「五月蠅い」

「で、結論って何の?」

 首をひねるジェイスに、克臣はわざとらしくため息をついた。

「お前なあ……。リンの結論と言えば、恋愛のに決まってんだろ?」

「ああ……」

 成程、とジェイスは微苦笑をした。

「どうせ、克臣が炊きつけたんだろ?」

「人聞きの悪い。ユキに訊いてもらっただけだ。『もう告白したのか』ってな」

「……弟使って逃げ道塞いだのか」

「埋めるなら、外堀も内堀も埋めないとな。攻め易くならん」

「何処の戦国武将だ」

 呆れるジェイスに、克臣はカラカラと笑って見せた。

「面白いじゃねえか、あの二人を見てるのは。あんなにクールだったリンが、今じゃ他人にも分かるくらい慌てたり必死になったりしてるんだ。兄貴分として、からか……応援しないで何とする」

「からかう気満々だな」

「―――まあな」

 克臣は緑茶のお代わりを頼み、ジェイスはそれに応えるために席を立った。

 親友が茶を注ぐ間、克臣は独り言ちた。

「……そういや昨日、普段あるはずの人ごみが、あの時だけなくなったな」

 結界というものが張られた可能性がある。あのまま殺されていたらと思うと、克臣は身震いした。

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