第54話 謝罪
魔女が消えたのと同時刻。
ユキは何かに呼ばれるようにして目を覚ました。
「ここ、どこ?」
見慣れた部屋の景色ではない。いつも淡いオレンジ色の照明をつけっぱなしにしているはずだが、それが傍になかった。それどころか、自分が寝ている場所がベッドですらないことに、ユキは驚いた。ユーギもいない。
遠く目を凝らしても何も見えない。暗闇に閉ざされている。かろうじて、足元は砂で覆われていることだけは、感触で分かった。
とりあえず歩いてみよう、とユキは前に向かって足を出した。
ようやく目が慣れてきたと思った頃、遠くでさざ波の音がしているのに気付いた。
「……海?」
海はアラストで見た。漁港もあるアラストで釣りをしたのだ。釣に連れて行ってくれたのは、ユーギと唯史という犬人の少年だった。青や赤の色をした魚達が釣れる度に歓声を上げた。帰宅すると、調理係が早速夕食のおかずにしてくれた。確か、焼き魚やナムル、スープなどに化けたと思う。「おいしい」と言うと、みんな笑ってくれた。
それ以前に海を見たことがあるのかは、分からない。その記憶はすっぽり抜けている。
自分が記憶喪失だと気付いたのは、いつだったか。
リンの寂しげな顔を見た時か。親切な銀の華の皆に自分が違和感を持った時か。
その理由はわからないが、もしかしたら今回の戦いに関係あるのだろうか。
「つめたっ」
つらつらと思考していたユキは、つま先に水を感じた。足を引っ込め、その場に腰をかがめてみる。手を伸ばすと、確かに水が足元にあった。
立ち上がって海の先を見渡した時、何かをユキの目が捕らえた。
目を細め、凝視する。
「何、あれ……」
月光もない水面に、ぷかりと浮かぶものがあった。黒い物体だ。
そこから、ポンッと何かが弾け出された。水色に光るそれは、頼りなくふわふわと空中を漂い、ユキの胸の前で止まった。ぼんやりとした光が、ユキの顔を照らし出す。
「ぼくの……きおく?」
何か確信があったわけではない。けれど、直感がそう告げた。
ユキは両手を上げ、包み込むように握った。それは、温かく点滅した。
そして、ユキの胸の奥へと溶けていく。
「ねむ……い……」
唐突な眠気に襲われ、抗いきれずにユキは砂浜に崩れ落ちた。
水面に浮かんでいたはずのものは、いつの間にか姿を消した。
誰かが、自分を呼んでいる気がした。とても温かな声で。
「ん……ん?」
酷く体がだるい。しかし意識ははっきりとしている。まるで、体の中の荷物を下ろしたてのようだ。
ゆっくりと片手を上げてみる。開いて閉じて、確認する。自分の手だ。
――魔女は、もういない。
「わたし、戻れた?」
ふと、上げなかった右手に何かを握り締めていることに気付く。首を巡らせると、見慣れない銀色の刃物があった。恐ろしくなって離そうと思ったが、相反する感情が沸き上がる。
(駄目だ。離しては……)
困惑する少女の耳に、遠慮がちな声が聞こえた。そういえば足元に重さを感じる。「うう……」という呻りが聞こえて身を起こす気配がする。
「晶穂……起きたのか?」
「リン……先輩?」
晶穂は自分の声が掠れていることに苦々しさを感じた。何故リンがここにいるのかという当惑と恥ずかしさが胸の中を焼く。
どうやら晶穂のベッドに頭を乗せて寝ていたらしいリンは、ほっと安堵した表情をした。
「よかった。貧血気味だけど元気そうだな……」
「あの、あ……と……ありがとう、ございます」
ぽんぽんと頭に手を乗せられ、晶穂は赤面した。唐突に魔女から解放された瞬間のことを思い出し、顔だけでなく、首まで真っ赤に染めてしまった。リンもその理由に気付いたのか、慌てて手を退けてしまう。
数分の沈黙を経て、リンが先に声を出した。
「……晶穂、その手の矛についてはどのくらい覚えてる?」
「そう、ですね……。いつどうやって矛がわたしの手にあるのかはわかりません」
儀式の際意識はあったはずなのだが、魔女が抜けたのと同時に失われてしまったのか、晶穂は覚えていなかった。彼女はふるふると頭を横に振った。
「――そうか」
再び沈黙したリンは、何かを迷っているようだ。数呼吸後、意を決した顔で晶穂に向き直った。
「その矛は、魔女がお前の……『神子の力』を使った結果だ。矛は、お前の血が形を成したものだ」
「わたしの、血……神子の」
「その矛を手放した時、何が起こるのか分からない。お前がどうなるのか、想像も出来ない」
リンは腕を組み、苦し気に目を伏せる。
「……お前に何か起こったらと思うと、俺は恐いんだよ」
「先輩……」
消え入りそうな呟きを洩らすリンに、晶穂は声を詰まらせた。ゆっくりと矛を持ちあげ、銀の光を確かめる。確かに指に吸い付き、馴染む感覚がある。それは、もとが自分の血だからだろうか。刃と柄の境目にある銀色の花は、美しいが冷たい印象を受ける。
軽いのだが、こんなに大きく危ないものを持ち歩くわけにはいかない。そう言うと、リンは頷いた。
「それについては……」
「それについては、考えがあるよ」
「うわっ」
肩をびくつかせ、リンは振り返った。そこには扉に背中を預けたジェイスが、微笑ましいという感想を顔に貼りつかせて立っていた。
「ジェイスさん」
「……一体いつから」
「それは、今は置いておこうよ」
赤面する二人に微笑み、手で四角いものを横に置く仕草をしたジェイスは、晶穂が横たわるベッドの傍に立った。
「あの、考えって何ですか?」
「うん。その矛を、リンの杖や克臣の剣みたく出し入れ可能に出来ないかな、と思ってさ」
「出し入れ、ですか?」
話しているうちに気分が良くなってきたのか、晶穂は体を起こして尋ねた。さりげなく彼女の背を支えたリンを横目に、ジェイスは「その矛見せて」と言った。
「あ、手に持ったまま。渡さなくていいよ」
晶穂の手にある矛を丹念に見たジェイスは、苦笑した。長さは一メートルと少しだろうか。これを華奢な晶穂の体で魔女が振り回してリンとわたり合っていたのかと思うと、笑うしかない。
「……うん、きっといける。晶穂、目を閉じて」
「はい」
言われた通りにした晶穂に、ジェイスは次の指示を与える。
「矛の存在を感じて。……そう。それが自分と一体になることを想像して」
リンは目を見張った。矛が淡い光を発し、銀色からみるみる鮮血の色に変わっていく。そして形を失い、晶穂の手のひらに吸い込まれるようにして消えていった。
「……軽い」
目を開けた晶穂は、えっと声を上げた。
「ない……」
「そう。今、晶穂の中に矛を戻したんだ。基本的に必要ないだろうから出さなくていいけど、念じればその手に戻るから」
「克臣さんと同じだ。俺のは、ここにあるから」
リンはそう言うと、首に下げた紐を取り出した。そこにはマスコットのように小さくなった杖のペンダントトップがある。
「……ジェイスさんって、何者なんですか?」
「ふふっ」
晶穂の問いには答えず、ジェイスは「じゃ、ごゆっくり」という言葉を残して去って行った。
「……」
「……」
「ふっ」
「ははっ」
顔を見合わせ、リンと晶穂は噴き出した。何故笑えてきたのかは二人とも分からなかったが、しばらく笑い続けた。
笑い過ぎて涙目になった晶穂に、ふいに真面目な顔になったリンが話しかけた。
「そうだ。晶穂に謝らなきゃいけないことがあったんだ」
「謝らなきゃいけないこと、ですか?」
そんなことがあっただろうかと首をひねった晶穂に、頭をかいたリンがぶっきらぼうに頭を下げた。耳が赤くなっている。
「ちょ、先輩」
「……お前を取り戻すためとはいえ、その……あんなことをしてすまなかった」
「……あっ。と……」
頬を染め、思い当たる節を回顧するように赤らんだ頬を両手で包んだ。リンはそれを直視せず、
「分かってる。何とも思ってない男にあんなことされたら、動揺するよな。他に考えが及ばなかったとはいえ、ほんとにあんなこと……克臣さんにもちゃんと謝っとけって釘刺されて……」
「ちょっと、待ってください!」
弁解を続けていたリンに口を挟む形で晶穂は身を乗り出した。赤い顔でリンを真正面に見て、晶穂はつっかえつっかえ言葉を紡ぐ。
「わたし、わたし……動揺はしましたけど、でも、何とも思ってないなんてことは……」
「え……?」
後半の発言がよく聞こえず、リンは軽く首を傾げた。晶穂はより赤面を濃くし、息を吸い込んだ。何か言おうとしたが、息を吸い込み過ぎて咳き込む。
「おい、大丈夫か?」
「はい……ごほっ……大丈夫です」
「……焦んなくていいから。俺も、整理出来てない」
ゆっくり休めよ、という言葉を挨拶に、リンは頬を淡く染めて部屋を出て行った。
晶穂はリンを呼び止めようと上げた腕を停止させ、ゆっくりと下ろした。
「……整理、出来るかなぁ」
そう呟いて、晶穂は枕に頭を預けた。気持ちの名前は、決まっている。けれど、それを考えるだけで胸が苦しくなる。
晶穂はごろんと寝返りを打った。左の手のひらには包帯が巻かれている。
時計の針は、午前十時を示していた。どうやら、半日ほど寝ていたようだ。
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