第51話 儀式
森の中を疾走しながら、魔女――フェリツ・リーツ――は微笑んだ。
体の中からはあの娘の抗議の声が聞こえてくるが、表に出られない以上何の脅威にもなり得ない。この体の主であった娘は、今や精神だけの存在だ。体と切り離されようとしている不安定な存在であり、遠からず消える。そうなってしまえば、この体の主はフェリツだ。
フェリツは風のように走り抜けながら、胸の奥でこちらを睨む娘に話しかけた。
(そこで大人しくしていなさい、三咲晶穂。あなたの神子の血は、わたくしがあの御方のために有効活用してあげる)
――ふざけないで。絶対、取り戻すから。
(ふふ。そう息巻いていられるのも、あと数時間といったところ。……精々、あがくがいい)
――くっ。
歯噛みする娘の姿が見える。小気味良いことだ。
後方からは、この娘を取り戻そうとする青年が追って来る。まだこちらには来ていないが、時間の問題だろう。
フェリツは足を止め、青年がやって来るであろう方向を振り向いた。
あの夜、フェリツはとある場所に立っていた。
その場所は、狩人の中で聖地と呼ばれる場所の一つ。ソイ湖からほど近い森の中。ぽっかりと空いた空間に、石が組み合わさって作られた祭壇がある。昔、狩人がまだ組織化されていなかった頃に作られたものらしい。
その祭壇を中心に、女たちがくるくると回る。円になって、回る。
場は整然として、それでいて不可思議な空気をまとう。
ここならば、あの御方とつながれる。力を、受け取ることが出来る。
本当ならば、リドアスにあるという封珠を取り返してしまいたい。それをこの胸に抱き、直接あの御方と語り合い、一体になってしまいたい。そんな欲望が頭をもたげる。
けれど、それは一人では不可能だ。フェリツは唯一人、行動を起こしている。それに同調する者はない。
だから、フェリツはここに来た。ここで、神子の血を目覚めさせるために。血の力を我がものとするために。
フェリツは祭壇の上に立ち、夜空に向かって手を伸ばした。そして、唱える。
「我が主、ダクト様。フェリツ・リーツの名において、ここより呼びかけん。汝が力、我がもとに。我のうちに眠る力を解放し、我に主を助く力を――!」
祭壇から、ぼんやりと薄暗い
――あ……アァあ……。
身体の何処かで、晶穂が苦し気に声を上げる。しかしフェリツは高揚感に包まれて、それには気付かない。空から降り注ぐ見えない何かが、少しずつ彼女の体に溜まっていく。
その体は黒く輝き、女たちの崇拝を浴びている。自身を抱き、フェリツは快感に身をよじった。
「ああ……。あの方の御力が、入って来る。あの御方は、わたくしを望んで下さる……」
そんな台詞を晶穂の姿で言う。晶穂は苦しい胸を抑えつけるようにして、ダクトの力に抗う。そうすることで、晶穂という存在がある場所にだけ、ダクトに侵されない空間が出来た。晶穂はようやく、意識を魔女に向ける。
晶穂は魔女の中で別の意味で身悶えする。魔女の恍惚とした感情は、彼女には受け入れがたいものだったから。羞恥心で死にそうだ。
――やめて! わたしの体を使ってそんな台詞を言わないで!
「……五月蠅いわね、小娘」
魔女は心の中に呼びかけた。刃物のような鋭さを閃かせ、晶穂を
その間にも、フェリツの中には、力が雪崩れ込む。それは体の中で形を成し、一本の武器の形を取った。
それは、まだ実体を持たないもの。それは、晶穂の体の中で時を待っていたもの。
太古の時代、神子と呼ばれた者たちが残し伝えてきた得物。
フェリツはその存在を感じ、身震いした。
「ようやく、大いなる力を我が手に得られる。……これが、待ち望みし時だ」
いつの間にか、彼女の周りを舞っていた女たちの動きが止まっている。
「……我が尊き方よ。血に眠りし太古の業によりて、汝を呼び覚まさん。汝に我が身を捧げ、
魔女を囲う女達も、それを復唱する。鈴花が抜けて数は減ったものの、十人以上が再び舞い踊る。
おもむろに、魔女は両手を天に差し出した。その先は黒く渦巻く雲があり、白い稲光も見える。
「……あははっ、晶穂。あなたの願いは、ここで潰える。あなたは永遠に、外に出ることも、目覚めることもないのよ」
狂ったように奇声を上げて笑った魔女は、ポケットから銀色に光る円錐形を取り出した。その先端は磨かれて尖り、十分に人を傷つけることが出来る。
ニイと嗤った魔女は、躊躇うことなくそれを自分の手に突き刺した。
「……せいぜい足掻きなさい。わたくしが主なのですから」
滴る血を艶然と見つめながら、フェリツは自分の内側に語り掛ける。
痛みはない。それどころか、喜びが駆け巡るほどだ。
フェリツは血でぬれる右手を掲げ、それが頬にかかることさえも嬉し気に微笑んだ。
赤濡れた花は、地面に届く前に動き出した。それは意思を持つように、集まり、離れる。やがて形を成し、姿を変えた。
そこに現れたのは、一本の矛。神秘的に輝く、神子の武器。刃と柄のつなぎ目には、銀色の花のような装飾が施されている。
矛を手に取り、フェリツは理解した。これが神子の力の象徴であり、生命線。ただの人間では持ち得ない強大な遺産。そして、ダクトが欲した世界への近道。
「……さあ、絶望に打ち震えなさい」
フェリツの右手のひらからは、まだ流れ出る血がある。それらは全て矛に吸収され続ける。痛みを感じていないのか、魔女は再び哄笑した。
それら全てを内側から傍観することしか出来なかった晶穂は、涙を流した。
ここで目覚めさせるつもりなど、なかったのに。リンに全て話し、相談したかったのに。神子として覚醒しても、その力は大切な仲間を守るために使いたかったのに。
――何処で、間違えたんだろう。
あの時、フェリツの誘いに乗らなければ。そう悔いるが、遅い。
けれど、絶望に打ちひしがれている時間はない。自分が目を閉じてしまえば、仲間を失う。大切な人を、再び失う。
――そんなのは、嫌。
意識だけの存在である自分には、出来ることがあまりにも少ない。けれど、信じることだけはやめないでいよう。
高笑いするフェリツには、全てお見通しだろうが、まだ負けられない。
――信じる。そして、応える。
絶望にだけは染まらない。晶穂の固い意志は、フェリツに舌打ちをさせた。
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