第39話 失われた過去を探せ

 息苦しさを感じた。

 まるで、水の中にいるように。

 薄く目を開け、周りを見る。水泡が見えた。幾つもの泡が自分より下から湧き出ている。

 水の中にいるのだろうか。目を開けるのは簡単だった。本物の水なら、それは難しいはずだ。

「……ここは、どこ?」

 黒髪が浮遊し、体が自由に動かせる。

「だれ?」

 唐突に何かの視線を感じ、視線を彷徨わせた。しかし、誰もいない。

 次の瞬間、周りが凍り付いた。氷が音を立てて水を変えていく。

 気が付くと、自分の体から青白いものが出ていた。右手を見ると、炎のように立ち昇っている。自分の目の色によく似ている。

 不意に影が生じた。振り返ると、黒いローブを被った何者かがいた。

「……だれ?」

「……」

 相手は一言も発しない。

 少年は焦れて詰め寄ろうとした。その時、ローブの下から声が響いた。地響きをさせるような暗く低い声色だ。

「ワレの仮身。ワレの身体。……ワレのものを返せ……」

「ぼ……ぼくは、ぼくだ。ユキってなまえだって、おしえてもらった! だから、ぼくはユキだ。ぼくは、ぼくだ!」

 ユキは後ずさりしつつ、そう叫んだ。早く、出来る限り遠くへ逃げなければならない。頭ではなく直感でそう悟った。しかし氷で閉ざされた空間は、彼の退路すら断とうとしている。

 ローブが迫る。

 ユキは金切り声を上げた。体の奥から何かがせり上がった。それは力となり、体外に放たれた。

「なに、これ……」

 世界が青い。氷で染まった空間に、ユキはいた。ローブは姿を消してしまった。

 ユキは息を吐いた。自分が何者でここは何処なのか、もう分からない。

 少年は気を失った。それと同時に世界も霧散した。

 しかし、それをユキは知らない。


 


 自室に帰った後、晶穂は何かもやもやしたものを抱えて逡巡していた。何がひっかかているのかは分からない。

「……さっきの、かな?」

 晶穂は首を傾げた。思い出した途端、頬が火照った。

 ユキが眠ったと聞いた時の柔和なリンの表情。今まで見たことのない顔に出会い、驚いたのだ。きっと。そうに違いない。

「他にないしね!?」

 誰とはなしに説明する。独り言が増えるのは一人で部屋にいる弊害だ。

 置時計を見れば、現在午後八時。

 明日から大学の後期が始まる。この一週間が濃厚過ぎて忘れかけていたが、晶穂とリンは大学生だ。早速始まる講義の準備は出来ている。ノートとテキストを数冊と筆記用具がトートバッグに入っているのを確認し、手近にあった黄色のクッションを抱えた。そうしていると、再び彼の姿が脳裏を過ぎった。

 ようやく再開した弟。しかし、彼の記憶は消えていた。それがリンにどれほどの衝撃を与えただろうか。少しでも慰めにはなれないだろうか。

 自分には根本的解決策はない。それはわかっている。晶穂はクッションをベッドに置き、部屋着の白いワンピース姿で廊下へ出た。


「―――ああ、もう。……どうしろって言うんだよ」

 リンは救護室から自室に引き上げた後、すぐにベッドに仰向けになった。机に上には書類の束があったが、それほど急ぐものはないはずだ。自分の心を整理するのが先決だと納得させ、今に至る。ぼやいたところで誰も答えをくれないことは百も承知だ。しかし、言わずにはおれなかった。

 十年探して来た血のつながりがある存在。ようやく再開した弟は、己自身に関する記憶を失っていた。それを解決する策はないかと幾つかの文献を読んだが、結果はベッドに散らばる本が物語っている。つまり、見つかっていないのだ。

「……自分以外の他人に体を乗っ取られた上で記憶を失ってしまった人、か。そんな事例はないようだな」

 嘆息し、手元で広げていた書籍を閉じて机に置く。ここにもない。

 明日からはまた講義が始まる。支度は万全だ。

 壁にかけられた時計を見れば、現在午後八時半。

 この一週間は特に寝不足だったことに加え、体の疲れも溜まっている。早く寝るのが吉だろうが、ユキを元に戻す手がかりも探したい。

「……あと数冊、書庫から持って来て寝るかな」

 読むのは明日以降でも良い。手元に本を置いておきたかった。

 そう考えた時、トントン、とリンの部屋の戸が控えめに叩かれた。

「誰だ……? どうぞ」

 こんな時間に人が訪ねて来るのは珍しい。リンは訝しがりつつ入室を許可した。

 それに応え、遠慮がちに戸が開いた。

「すみません、寝てました?」

「どうしたんだよ、晶穂」

 リンは戸を開けて姿を見せた少女に目を丸くした。晶穂はリンと目を合わせようとはせず、わずかに逸らせて、

「……リンさんが、落ち込んでるんじゃないかと思ったので。話し相手くらいにはなれるかな、と」

「……わざわざ来たのか。明日講義だろ? それに疲れてるだろうし、寝ろよ」

 ビクリと晶穂の肩が震えた。自分の口調が険しくなっていたと気付き、リンは頭をかいた。

「すまん、怒ってるわけじゃない。ただ――」

「わかってます。それに、明日講義なのも疲れてるのも、リンさんと同じです」

「……まあ、そうだけど」

 入れよ。そう促し、リンは晶穂を椅子に座らせた。ポットから水を注ぎ、コップを差し出す。それから自分用のコップを手にして斜向かいのベッドに腰を落ち着けた。

 十数秒の沈黙が下りた。リンは晶穂の訪問に戸惑っていたし、晶穂はどう切り出すべきか逡巡していたのだ。互いに視線を交わすことなく、天井を見たりコップの中を凝視したりした。

 先に沈黙を破ったのはリンだった。晶穂が来た理由はさっき聞いた。それに応えようと思ったのだ。それにより、少しでも考えを整理したかった。

「……俺さ、ユキが無事と分かって、ほっとしたんだ。勿論ダクトに操られてることは悔しかったけど、あいつを引き剥がせば問題ないと思った。元の弟が戻って来ると信じた。……いや、信じたかった。そのために、これまでやってきたようなもんだったし」

 晶穂は口を挟まず、ただじっと聞き入った。

 リンはコップの水で口の中を湿らせた。

「でも、違った。ダクトはユキから記憶まで奪いやがった。幸い身体に異常はないようだが、元通りとはいかなかったな。……一生、兄弟には戻れないかと思うと、なんかな」

「……一生、ではないかもしれないじゃないですか」

「え……?」

 訊き返すと、晶穂がコップを握り締めてこちらを見つめていた。その懸命さに怖じ気付いたように、リンは軽く体を引いた。晶穂はそれに構わず、ずいっと距離を詰めた。

「何か、方法があるはずです。ユキくんは確かに記憶を失いましたが、それによって彼自身が失われたわけじゃないです。さっき話していて、彼は無邪気で素直な男の子だとわかりました。それは、ユキくんの変わらないものです。きっと、昔から同じものです。時間はかかるかもしれません。でも――でも、諦めないでください。記憶は完全に失われてはいないと思います。何かのきっかけで、思い出すかもしれないじゃないですか。だから……」

 そこまで一息で言い、晶穂は息を吸った。再び口を開き、リンを見つめた。

「……だから、そんな顔、しないでください」

「つっ……」

 どくん、と何かが跳ねた。血が逆流するようだ。赤面しているのが自分でも分かった。リンは右の掌で口元を覆い、目を逸らそうとした。しかし視線は目の前の瞳に固定されてしまい、うまくいかない。黒い瞳の中に、青い光がわずかにある。

(……綺麗だ)

 眉尻を下げ、心底リンを心配しているのが手に取るように分かる。何か言わなければならないのは承知しているが、リンの意識は晶穂の目に集約されていた。

「……あ、ああ」

 そう言うのが精一杯だ。自分がどんな顔をしていたかなんて分からない。それどころではなくなっていた。

 気が付くと、リンの右手が晶穂に伸びていた。彼女の頬に触れるか触れないかの所でぴたりと止まる。

「す、すまん!」

「え、あ……ごめんなさいっ」

 突然引っ込められた手を名残惜しく思う自分に戸惑いながら、晶穂は自分でも何に対してか分からない謝罪の言葉を口にした。胸の奥で早鐘が打たれている。

 このままじゃ、何をしでかすか分からない。

 二人は同時にそう思った。

「あ……じゃあ、わたし、戻ります!」

「そ、そうだな。お……おやすみっ」

「おやすみなさい!」

 音を立てんとする勢いで立ち上がり、晶穂は扉の前に立った。そして扉を開けて、逃げる様に廊下へと出た。

「……何やってるの、わたし……」

 頭を抱えたくなったが、こんな所でそんな真似をすれば誰が見ているか分からない。晶穂は頬に手を当てながら、自室を目指して駆け出した。幸い、誰ともすれ違わなかった。その後、部屋に着いてベッドに倒れ込んだのは言うまでもない。

「……何やってんだ、俺……」

 全力疾走する心臓をどうにかこうにか落ち着かせようと試み、リンはベッドに仰向けになって悶えていた。先程の自分を顧みたくもないのだが、無意識に晶穂の瞳が思い出される。それだけで胸が苦しくなるのは、何故だろう。

「……そうだ、別のことをしよう。丁度書類もたまってる」

 一人になると独り言が増える。しかし今は、呟いて自分の意識を逸らせるしか手がない。

 明日からはまた講義が始まる。大学二回生であるリンは、まだまだ単位のためにも取る講義数が多い。一回生の晶穂程ではないが、おろそかには出来ない。そのためにも早く寝なければもたないのは承知している。

「……この状況で、安眠出来るとは思えん」

 一つ息をつき、眠くなるまでと定めて書類に手を伸ばした。

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