第38話 目覚め

 同日の夕方、晶穂は目を覚ました。西日が差し、窓の外は茜色だ。

 晶穂達がリドアスに戻って来たのは午後一時過ぎだった。それから四時間以上が経過していることになる。

 寝過ぎたかな。と目を擦った晶穂の耳に、扉を叩く音が聞こえてきた。

「はい、どうぞ」

「あきほさん、起きてる?」

 狼の耳が半分開いた扉の向こうから覗いた。すぐに顔を覗かせ、少年らしく明るい笑顔で晶穂を見つめた。

「どうしたの、ユーギ」

「あの、一緒に晩ご飯食べないかなと思って。今日は食堂当番がぼくらのために腕を振るってくれたんだって!」

「そうなの? 楽しみ」

 リドアスの食堂で食べる料理はどれも美味しい。大学の食堂も県内でのランキングで上位だと聞いたことがあるが、ここのものは別だ。晶穂は期待に胸を膨らませつつ、ユーギと共に部屋を出た。

「お、来たな」

「克臣さん、ジェイスさん。リンさんもお疲れさまです」

「晶穂もな。ユーギ、良く寝たみたいだな。寝癖ついてるぞ」

「えっ」

 ユーギが慌てて頭に手をやる。しかし晶穂が見る限り、髪が跳ねているところはない。ユーギは見えないからか、何度も髪をすいている。見かねたリンがその手を止めた。

「ユーギ、髪は大丈夫だ。……克臣さん、からかわないでやって下さい」

「ばれたか」

「かーつーおーみーさーん……」

 目を吊り上げたユーギを見て、克臣が「やるか?」と構えた。

 次の瞬間。

 パクッ

「あ!?」

 克臣の皿からエビフライが消えた。見れば、ユーギの口がもぐもぐと動いている。目を見張った克臣の肩をジェイスがたたいた。

「くくっ……。やられたな、克臣」

「……ジェイス、笑いが隠せてないぞ」

 恨めしげな目を向けられ、ジェイスは笑いを堪えきれなくなった。エビフライを飲み込んだユーギ、晶穂そしてリンも加わり、笑いの渦が起きた。克臣も諦め顔から吹き出し、笑い出した。

 そんな始まり方をした夕食会だったが、和やかなのはそこまでだった。

 談笑しつつ箸を進めていたリンの耳に、廊下から性急な足音が聞こえてきた。

「リン団長!」

「一香?」

 荒い息を吐きながら食堂の入口に立ったのは、祠に行っていたはずの一香である。まさか封珠の封印が解かれたのかと場が緊張した時、一香は空気を読んで首を振った。長い髪が乱れ、指で顔にかかったものを掃った。

「違い、ます。私、祠を確認した後、救護室に行ったんです。そうしたら……」

 時は数分前に遡る。一香が救護室の扉を開けると、看護師の女性はいなかった。席を外しているのだろう。一香は静かに入室し、リンの弟でダクトを身に宿していたユキの様子を見ようと彼が眠るベッドに近寄った。

 眠っているだろうと思い、カーテンを引いた。

「そうしたら、ユキくんが、体を起こしていて」

「本当か!?」

 風のように、とはまさにこのことだろう。一香が報告を終えるより早く、リンは席を立って食堂を出て行った。

 呆然と見送る一香に「最後まで続けてくれるかい?」と先を促したのはジェイスだ。我に返って咳払いをした一香は、落ちてきた髪をかき上げた。

「そうでした。ユキくんが体を起こしていて、こちらを見て笑ってくれたんです。無邪気な笑みでした」

「そうか。サンキューな、一香」

「ええ」

 克臣に会釈を返し、一香は入り口を振り返った。リンの後を追い、晶穂が出て行ったのだ。克臣が幼馴染に目で合図を送った。ジェイスは頷き、席を外した。


 ほぼ全員の団員が食堂に集まっているためか、リドアスの中は静かだ。その中を焦燥した足音が響く。一人分だ。

 否、後から二人分の足音も聞こえてくる。

 ガラッ

「ユキ!!」

 勢い良く扉を開けたリンの目の前に、救護室長が立ちはだかった。「静かに」と一喝され、慌ててリンは軽く頭を下げた。彼から解放され、リンは奥のベッドに目をやった。

 そこには幼い男の子が半身を起こしてこちらを見ていた。ダクトの魂が抜けた時は気を失っていた。現在、少年は大きな目を開けている。

「……だあれ?」

「あ……」

 声をかけようとしたリンは、ビクリと身を固くした。目を見開き、ユキを凝視する。後から入室した晶穂とジェイスも動くに動けず、扉を背にして立ち止まった。

「………え……」

 少し怯えを含んだ声音。ユキ、と口を動かしたリンは、凍り付いた目を閉じた。一呼吸置き、目を開く。そして目を細めた。

「はじめまして。俺はリン」

「リン……」

「そうだ。君は、自分の名前は分かるかな?」

 そう問われ、ユキは首を傾げた。腕を組んで考え込んだが、

「わかんない」

「そうか……。俺は、君の名前を知ってるんだ。それを教えても良いかな?」

「うん。なあに?」

 つぶらな瞳を輝かせる少年の足下に腰かけ、リンは微笑した。

「ユキ、だ。君の名前は」

「ユキ?」

 実の兄弟なのに兄だと名乗らないリン。その姿を目にし、晶穂は胸の前で指を組んだ。どうにも切なく、目が潤む。隣に立つジェイスも息を呑んでいる様子が窺えた。

「そう。ユキだ。今は忘れてるかもしれないけど、いつか思い出せるから心配はいらない。そして――」

 リンは晶穂達を振り返り、手で指した。

「あの女子が晶穂。そっちの背が高いのがジェイス。他にも俺の仲間がたくさんいるよ。ユキのことも仲間だと言ってくれるはずだ」

「よろしくね、ユキくん。わたしは晶穂」

「わたしはジェイスだ。よろしく」

「はい。おねがいします」

 ぺこりと頭を下げられ、晶穂とジェイスもそれに倣った。

 挨拶が終わる頃、ユキと晶穂達の間の空気はやわらかなものに変わっていた。晶穂がユキの話し相手をする間に、リンとジェイスは廊下に出た。

 少年らしい笑い声を聞きながら、リンは壁に背中を預けた。傍にはジェイスが無言で控えている。

「……ははっ」

 渇いた笑い声を上げ、リンはずるずるとその場にうずくまった。しばらくの間無言を通し、彼はかすれ声を吐きだした。ジェイスは静かに次の言葉を待っていた。

「……覚えてないとは、思わなかった。俺のこと、忘れてないと、高を括っていました」

「リン……」

「でもそれは、希望的想像に過ぎなかったんですね。俺は、ダクトがユキの中から消えれば、あいつは元に戻ると思っていたんです」

「でも、違ったね」

「はい。……ダクトの仮身でいる期間が長かったせいでしょうか? あれから十年以上が経っています。それなのに、ユキは成長していなかった。あの頃のまま、四歳の姿で戻って来た」

 ジェイスはリンの傍に片膝をつき、彼の顔を覗き込むような姿勢になった。

「うん、それも原因の一つと考えられるけど、根本的な理由は分からないね。……でも、ユキくんが戻って来た。まずはそれを喜ぶのはどうだろう? 記憶が戻るに越したことはないから、その方法はゆっくり考えれば良いと思うな、わたしは」

「……そうですね」

 リンは顔を上げ、ジェイスを見た。その顔は笑ってはいたが、苦しさを含んだ笑顔に見えた。ジェイスは黙って弟分の頭を撫でた。普段ならば嫌がるリンも、今回はなされるがままでいた。


 同じ頃、晶穂はユキの話し相手をしていた。ユキの記憶がどの程度失われているのかを探るため、晶穂はソディールについて分かる範囲で説明しようとした。

「……で、ユキくんは今、リドアスっていう建物にいるんだ。ここはリンさんが団長を務める『銀の華』という組織の拠点だよ。そして、リドアスがあるのは、アラストの町。……アラストは分かる?」

「うん。ソディールのアラストだよね。ぼく、おぼえてる。そのなまえはしってます」

 救護室の壁に貼られた世界地図を指し、ユキは各都市名をそらんじた。どうやらユキの記憶は自分や家族など周辺環境についてのことが失われているようだ。学校で習うような内容に不自由はないらしい。ただ、精神年齢も肉体年齢も四歳だ。小学生よりは幼稚園児が持ち得る知識だと思っておく必要があろう。

 晶穂は駄目もとで尋ねた。

「……じゃあ、ここに来るまでのことで覚えていることはある?」

「……ううん。ない」

 ユキは緩慢に首を横に振った。落ち込み、しょぼんと頭を垂れた。晶穂は慌てて、

「まだ目が覚めたばかりだもんね、仕方ないよ。リンさんの言う通り、追って思い出してくるかもしれないし、そんなに落ち込むことないよ」

 と励ましてみた。

「ありがとうございます。やさしいですね……えと」

「わたしは晶穂。三咲晶穂、だよ」

「あきほさん。ありがとうございます」

 改めて頭を下げられてしまい、晶穂は面食らった。こんなに幼い少年が並の大人より礼儀正しい。この子の親はどんな教育をしていたのだろうか。親の顔が見てみたい。

 そうしみじみと思うと同時に、そういえばこの子の兄はリンだったということも思い出した。リンも目上に対しては基本的に礼儀正しい。兄弟でそれなのだから、両親はよほどしっかりとしていた人達だったのだろう。

 それから、ユキと晶穂は話をした。地図を見ながら、その土地について知っていることや覚えていること。ユキの記憶はほとんどなかったが、その記憶はこれから作っていけば良い。彼はまだ四つだ。日本で言えば幼稚園児である。この年頃ならば新しいことに慣れていくのは、周りが温かく見守ればそんなに難しいことではないだろう。

 しばらく話をしていると、ユキがこっくりこっくりと舟を漕ぎ始めた。ダクトから解放されて自分の身体を取り戻し、更に目覚めたばかりだ。精神的にも疲れたのだろう。

「ユキくん、寝て良いよ?」

「うん……おやすみなさい……」

 こてん

 ユキは枕に頭を預け、目を閉じた。すぐに規則正しい寝息が聞こえ、晶穂は頬を緩ませた。掛け布団をかけてやり、足音を忍ばせて救護室を出た。

 廊下に出ると、見慣れた人影が立っていた。

「寝たのか、ユキは」

「はい、ぐっすりです。疲れさせちゃったかもしれないですね」

「十年も自我を封印されていて、ようやく目覚めたんだ。自分の体を思い通りに動かすことに慣れるためには体力がいるんだろ。……あいつは不安だと思う。それを和らげてくれて、感謝する」

 まさかお礼を言われるとは思っておらず、晶穂は不意を突かれて赤面した。リンを見返すと、目を細めるその柔らかな表情が目に飛び込んできた。どくん、と心臓が跳ね、晶穂は耳まで赤くなった。その様子を外野からにこやかに見守るジェイスは、無言を通した。

 リンも薄く頬を染め、ぶっきらぼうに「帰るぞ」と踵を返した。彼の背を追い、晶穂とジェイスは救護室を離れた。

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