第32話 宿屋のアルバイト

 ルファについて行った晶穂とユーギは、宿の雑用を申し付けられた。晶穂は厨房で皿洗いを頼まれ、ユーギは宿の廊下を掃除するようにと言われてしまった。

「……まさか、宿泊客なのに手伝わされるとは」

 苦笑いを浮かべつつも手際の良い晶穂に、同じ仕事をしていたふくよかな女性が感心した顔で話しかけてきた。

「あんた、うまいわねえ。何処かで厨房仕事してたの?」

「いえ。以前住んでいた所でお手伝いをさせて頂いてたくらいです」

「そうなの? でもうまいわ~。こんな皿洗い程度、誰でも出来るだろって思われがちだけど、やっぱり違うのよね。本当に上手な人は、皿の音をさせないんだもの。貴女もそれに近い仕事をしてるわ」

「あ、ありがとうございます……」

 思わぬ所で褒められ、晶穂は恐縮してしまった。頬を赤らめる彼女に、女性は「照れなくても良いのよ」と言って豪快に笑った。

 その後彼女はアニヤと名のり、自分には息子が一人いることなどを話してくれた。どの世界でもおば様方は話し好きなようだ。

 しばらくしてルファに呼ばれたアニヤは去り際に手を振ってくれた。

「じゃあね、晶穂ちゃん。ここの主人、人遣いは荒いけど、約束はキチンと守るわ」

 支払いの時はビックリするわよ。そう言った。晶穂も笑顔で手を振り、次いで来た皿に手を伸ばした。

 一方のユーギは箒と塵取りでの掃除を終え、雑巾がけを始めた。固く絞った布に両手をつき、長い廊下を一気に駆ける。真夜中という理由で大きな足音をたてるわけにはいかなかったが、ある程度は仕方ない。防音の施されたドアのはずだから、とユーギはバタバタと廊下を磨き上げた。

 それも終わると、布は真っ黒だ。バケツの水でゆすぐとそれも黒くなった。何度か水を換え、ようやくきれいになる。雑巾とバケツを片付け、まとめたごみ袋を持つ。これは何処に置くのかと通りがかりの男性に尋ねると、宿の裏にごみ置き場があると教えられた。

 ユーギは教えられた通りに裏口を開け、外に出ようとした。その時だ。

「!?」

 何者かがユーギの背後に忍び寄り、振り向く隙を与えず呼吸を奪うように口に手を伸ばした。危険を察知したユーギは一瞬で思考を巡らせた。助けを呼べる相手は一人しかないと、

「あ、晶穂さん!!」

 と声を張り上げた。

 厨房にいた晶穂は、遠くで自分を呼ぶ声を聞いた気がして手を止めた。嫌な予感を覚え、そこにいた女性に後を託すと、声がした方へ駆けだした。

 裏口を見つけ、勢いで開け放つ。

「ユーギ!?」

 晶穂が目をやると、ユーギが背の高い何者かに口を押えられていた。ユーギは抵抗してごみ袋を振り回しているため、捕らえている方が辟易している様子が見受けられた。体つきから男と判断し、コンマ何秒か躊躇した後、晶穂は叫んだ。

「その子を放しなさい!」

 ユーギに気を取られていた男は、突然現れた少女の大声に驚いた。拘束が緩んだその隙を突き、ユーギは逃げ出して晶穂の許に走って来た。

「良かった、怪我はない?」

「うん!」

 無事を喜んだのもつかの間、男は「この野郎」と呟き、二人に襲いかかってきた。

 晶穂はユーギを背に隠し、覚えたての回し蹴りを駄目もとで男の鳩尾を目指して放った。

 がはっ

「嘘、成功した……」

 男は腹を押さえ、崩れ落ちた。自分の技の成功に呆然としかけた晶穂だったがすぐに気を取り直し、ユーギを急かせて宿の中に逃げ戻った。

「よかった~」

「本当に……」

 裏口を閉じ、戸に背中を預けて二人は体の力を抜いた。同時に口にした言葉は違ったが、意味合いは同じだ。

 その後厨房に二人して戻ると、ニヤニヤしてルファが待っていた。


 部屋にはまだ明かりが灯っているようだ。廊下から光が漏れているのが見える。リンは大きな音を立てないよう、十分注意して戸を開けた。

「あ、おかえり。リン、ジェイス」

 ふよふよと浮いて二人を迎えたのは白竜のシンだけだった。

「おや、シンだけかい? 二人は何処へ……」

「宿の人に呼ばれて行っちゃった」

 ジェイスの問いにそう答えたシンは、彼らが出かけた後の成果を見せたがった。

「みてみて! 腹筋に腕立て伏せ、それにボク、こんなことも出来るんだよ!」

 そう言うが早いか、シンは口から火をはいて見せた。炎には遠く及ばないが、シンは得意げだ。魔力が少し戻って来たのだろう。

「おおっ。凄いじゃないか、シン」

 ジェイスはシンを手放しで褒めたが、リンはしきりに廊下を気にしていた。それに気付き、ジェイスはそっとリンに顔を寄せた。

「そんな難しい顔しなくても大丈夫。二人とも、すぐに帰ってくるよ」

「別に、俺はそんなつもりは……」

 そう言い募るが、ジェイスは聞く耳を持たなかった。分かった分かった、と微笑むだけだ。更に口を開こうとしたリンの耳に、パタパタという足音が聞こえてきた。

「ただいま! あ、リンさんとジェイスさん、おかえりなさい」

 戸を遠慮がちに開けたユーギがぱっと目を輝かせた。その後ろから、晶穂も顔を覗かせる。

「お二人とも、おかえりなさい」

「やあ、ただいま。二人ともちょっと疲れてるようだけど、宿の人に連れて行かれたって?」

「ジェイスさん、そうなんですよ。ここの主人のルファさんが、起きてて暇ならバイトしろって、皿洗いとかごみ捨てとかさせられたんです」

 その分、宿泊費から引いてくださるそうですが。と晶穂は続けた。それは大変だったね。と共感を示したジェイスは、自分達二人がしてきたことを簡単に話した。

 アイナとの短い攻防は晶穂とユーギのみならずリンをも驚かせたが、ジェイスは涼しい顔だ。

 一方リンもその後を引き取り、ハキと一戦交えたことを報告した。生来口下手なこともあり詳細には話さなかったが、リンの身体の傷が雄弁に闘いの激しさを物語った。

 晶穂は何も言わずに荷物の中から救急セットを取り出し、リンの腕や足、頬の傷を消毒した。

「いっ……」

「ちょっとの我慢です。後でジェイスさんもしますからね? 服が黒いから傷が目立たないなんて思わないで下さいよ!」

「ああ、ばれたか」

 軽く舌を出したジェイスは降参だと両手を上げ、それからシャツを脱いだ。確かに腹に刃物で切られたような傷が走っていた。先程の彼の話から、アイナのナイフによる傷だと想像がつく。

 二人の傷を手当てする晶穂の隣で、ユーギが自分の体験を話し始めていた。廊下掃除の話を微笑ましく聞いていたリンとジェイスだったが、話がごみ捨て場に及ぶと表情を険しくした。

「……晶穂さんを咄嗟に呼んで、逃げられましたけど、あれはびっくりしました」

「わたしが教えた護身術が早速役立ったみたいだね。けど危ないから、今度からは人を呼ぶようにね?」

「はい。でも、ジェイスさんに習っててよかったです」

「僕も教えて、ジェイスさん!」

「良いよ。でも明日からだ」

「やった! ボクももっと強くなるよ!」

 わいわいとユーギ達が話し合う中、リンは一人、押し黙って拳を握り締めていた。それに気付きながらも、晶穂はどんな言葉をかけたら良いのか分からない。

 午前三時をまわろうかという頃合い、まずユーギが舟を漕ぎ始めた。それにつられてシンも浮いているのが億劫になってきたらしく、ゆらりゆらりと揺れながら床に下り、丸くなった。

「わたし達も寝ようか」

 ジェイスの提案は難なく受け入れられ、全員が布団に収まった。程なくしてそれぞれの寝息が聞こえ始め、最後にジェイスが明かりを消した。


 四日目。短い睡眠を経て起き出した一行は、約束通りルファに宿泊費を半値以下にしてもらい、イーダを出発した。

「まさか、本当に宿泊費を減らしてくれるとは思いませんでした」

「ルファさん、太っ腹だったね~」

 晶穂とユーギの言葉に、リン達も頷く。半分以上冗談だと思っていたのだ。二人はそれほど長時間働いたわけではない。しかしルファは気前良く二人分以上の費用を免除したのだ。もしかしたら、ユーギが襲われた件を知っていたからかもしれないが、もはや分からない。

 既に予定の一週間のうち半分が経過している。気は逸ったが、こればかりはどうしようもない。四人と一匹は少し足を速め、午後にはファルス近くの村へやって来ていた。ノイス村というそうだ。

 そこで食料を調達し、すぐにファルスへ足を向けた。




 目を覚ますと、そこは彼女がよく知る自室だった。薄暗いことが、日が明けきらない時間であると分からせる。

 アイナは身を起こし、頭痛を感じて額に手をやった。

「昨日……」

 昨夜、アイナはジェイスに散々もてあそばれた結果、鳩尾を叩かれて気を失った。ジェイスは彼女の攻撃を受け押されている風を出していたが、それは演技だったのだろう。そう、思えた。

 しかし、その後の記憶はない。イーダの住宅地で気を失い、どうやって自室に戻ったのか。全く分からなかった。

「……っ」

 拳を握り締め、アイナは人知れず涙を流した。

 自分の力は、行ける所まで行けたものだと思っていた。厳しかったソイルにようやく褒められ、自分はここまで来たのだと自画自賛した。

 だが、鼻っ柱をへし折られた。

 悔しくて、悔しくて。どうしようもなかった。

「……でも、これで終わると思うなよ」

 アイナは顔を上げ、唇を引き結んだ。

 彼らは近く、このユラフへやって来る。その時が彼らに報復する最後のチャンスだ。きっと。

 少女は手にしたナイフを構え、向かいの壁にかけた的に投げた。

 カッ

 という音を立て、それは中心に刺さった。

 同じ頃、ハキも自室で目を覚ました。

 彼はリンによって屋根から落とされた時、受け身を取って骨折を免れた。しかしすぐに動くことは出来ず、去るリン達を追うことは叶わなかった。

 数時間後、東の空が白み始めた頃に痛む体を叱咤し、屋根に登った。地面で倒れていれば住民に発見される危険があった。それは、狩人として避けなければならない。

 屋根に上がると、気を失ったアイナが横たえられていた。軽く揺すってみたが、目を覚ます気配はない。

 ハキは舌打ちをし、アイナの華奢な体を抱き上げた。そしてユラフへ戻るために水門を目指したのだ。

「リン……」

 また、負かされた。また、力及ばなかった。

 必ずあいつを斃す。

 次の一戦が成るのは、決して遠い日ではない。すぐに来る。

 それが、最期だ。

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