第20話 わたしにできること
時間は少し巻き戻り、リンたちがリドアスを出た直後のこと。晶穂はある人物のもとを訪ねていた。
そこは、リドアスのすぐ傍にある住宅。
「どうしたんだい? 晶穂」
「こんにちは。突然申し訳ありません、文里さん」
時計は午前十時過ぎをさしている。部屋の奥には彼の奥さんと息子・唯文がいて、こちらを見ていた。
ぺこりと頭を下げ、晶穂は「頼みたいことがありまして」と前置きをした。
「実は……」
「まあ、まずは入りなさい。お茶を飲みながら話を聞こう」
文里が室内に招き入れると、彼の妻である
「文里さんは、武術に通じておられると聞きました。わたしでも、経験のないわたしでも出来ることってないですか? 何か、身につけたいんです!」
「……それは、何故だい?」
文里はお茶を一口飲んで、尋ねた。
「晶穂の周りには、既に強い彼らがいる。きみの事情は知っているから、非力なことを責めているんでも、頼り過ぎだと苦言を呈するわけでもないよ。彼らがいるのに、中途半端に鍛えるのでは、逆に足手まといになりかねない。妙に戦闘力を持てば、妙な自信につながる。それは向こう見ずで強いかもしれないが、同時にとんでもなく弱いものだ。言いたいことは、わかるね?」
「はい」
晶穂は神妙に頷く。
「それでも武力を身につけたいというなら、その理由を、私に理解させてみてくれるかい?」
「……はい」
深呼吸を一つして、晶穂は膝の上の手を握り締めた。
「わたしは、ご存知の通り非力です。後天性吸血鬼の娘だろうというだけで、何か能力を持っているということはありません。精々、皆さんにお菓子を作って食べてもらえるくらい。……リンさんやジェイスさん、克臣さんは自分の力として魔力や戦闘力を持ち合わせておられて、狩人と戦っておられます。わたしは、守ってもらうばかり。……リンさんは、剣で戦うことだけが『戦うこと』ではないと言ってくれましたが、わたしも、あの人たちの力になりたい。同じ場所で戦いたいんです。もう、手を伸ばせずに失うのは……嫌なんです」
晶穂の脳裏には、殺されたであろう両親のことがあった。ほんの赤ん坊に出来ることなどなかったわけだが、様々なことを理解できるようになった現在、あの時が今であったならと何度思ったことだろう。大切な友人がたくさんいるこの場所を守るため、戻る場所を守る以外に戦う術が欲しかった。
「……それが、きみの答えかい?」
「はい。文里さん」
「……」
文里は腕を組み、目を閉じた。晶穂に教えるべきか否か、考えているのだろう。その時間は、何十分にも思えた。
「いいじゃない。何を迷う必要があるの?」
「……郁乃」
お茶のお代わりを注ぎながら問う妻に、文里は渋面で答えた。
「女の子を戦場に送り出すかもしれない。その葛藤がわかるのか?」
「わからないわよ?」
「……おい」
あっけらかんと返答され、文里は額に手をあてた。そんな夫には目もくれず、郁乃は晶穂の背後に移動し、その肩に手を置いた。ふわり、と白い犬の尻尾が揺れる。
「わからないけれど、この子が本気だということはわかる。あなたも難しく考えないで、護身術を教えるくらいのつもりでいいのではないかしら? 本式はジェイスくんが教えるでしょうから、基礎だけでも、ね」
ね、と郁乃は晶穂に目配せした。晶穂はそれに気付くと、慌てて頭を下げた。
「お願いします、文里さん!」
はあ、と文里はため息をついた。「しょうがない」と呟くも、その顔は嬉しそうだ。
「昔、ちびのジェイスや克臣にも教えたもんだが。……私は、晶穂に教えたくなくて意地悪な質問をしたわけじゃない。そこだけは間違えんでくれよ?」
「はい。ありがとうございます」
「あいつらが北から戻るまでの短期レッスンだ。昼食を食べたらリドアスの中庭に来なさい」
「はい! では、またあとで」
勢いよく頭を下げ、笑顔で文里宅を出る晶穂。その後ろ姿を、唯文がじっと見つめていた。
昼間の太陽は、あまり優しくない。夏だから当然だが。それでもリドアスの中庭には、たくさんの木々が植わっており、木陰が多い。湧水が小さな池を作っていて、それも暑さを軽減させてくれる。
緑と透明が溢れる中で、晶穂は文里と対峙した。
「さて、始めようか」
「お願いします」
晶穂は文里に手渡された細長い棒を握り締めた。それは、槍や
「さあ、まずは私の動きを真似ることから始めよう」
「はい!」
棒の持ち方を変え、晶穂は慎重に文里の動きをなぞっていった。
「……で、進捗はどう?」
「や、やっぱり難しいよ」
初日ということで三時間ほどのレッスンで終了した。明日は午前中から始めることになっている。
棒を自室に置きに行く途中に出会ったサラに誘われ、晶穂は彼女とお茶をしていた。場所はリドアスの食堂である。
腕や肩が筋肉痛だ。今まで使ったこともない筋肉を使っているのだから仕方がないが、明日に備えて夜はしっかり寝た方がいいだろう。
紅茶を飲みながら、晶穂はサラに鍛錬の内容を話す。手加減はしてくれたのだろうが、文里の体裁きについて行くだけで必死だった。
「心が折れそう、とかは思わなかったの?」
「へ? うん、それはないかな」
晶穂は三時間の間にできた手の豆を見つめて、苦笑した。
「やりたいって言ったのはわたしだし。それに……リンさんたちは北でもっと大変な状況にいる。わたしが出来ることって、待つことだけじゃないと思うから。今は、これが最善だと信じてるよ」
「……晶穂って、強いね」
「そう、かな」
「うん」
サラはお茶請けのクッキーを手に取った。アイシングで可愛らしい装飾が施されている。ハートのクッキーは優しい桃色に塗られ、白いレースがあしらわれている。同じように星型は黄色に、月型は白に。ハートのクッキーを口に入れ、パキンと音をさせる。半分を食べ終わってから、彼女は言った。
「だって、自分が何で狙われるのかわかったとはいえ、怖いと思うもん。あたしならどうするかなって、いつも考える。……きっと、エルハに泣きついてるだろうなって思うけど」
あはは、と乾いた笑い声を上げ、サラは身を乗り出した。
「あたしは、たぶん晶穂と同じことは出来ない。だけど、こうやって一緒に過ごすことは出来るから。……いつでも呼んで? 駆けつけるよ」
「サラ……。ありがとう」
異人種の少女は、「どういたしまして」と歌うように言う。茜色の艶やかな髪が、かくっと首を傾げた拍子にさらりと揺れた。
文里に鍛錬の師を願い出て数日後。午前のレッスンを終えて、晶穂は一人で棒を振っていた。長い髪をシュシュでまとめてポニーテールにしている。
初日に比べ、動きはスムーズになってきた。足さばきと棒を振る腕の動きが合う。最初はつんのめってこける事もあったが、今ではしっかりと地に足をつけて振ることが出来る。先程、文里にも褒められた。
「これなら、明日には本物を使って鍛錬出来そうだ」
その言葉は嬉しかったが、本物を扱うという緊張感が自分の体の自由を奪いそうで怖かった。
「てやっ」
晶穂は棒を前へと突き出す。そしてくるりと棒を回転させ、体ごと後ろに反転する。そこに再び棒を突き出しかけて、そこにいた人物に気付いた。
「――ったっと。大丈夫? ごめんね」
「いえ、おれも急に来たので。すみません」
寸止めで棒を収め、晶穂は少年に謝った。彼も首を振ってくれ、二人してほっと息をつく。
「唯文くん、だよね? 文里さんの息子さんの。どうしたの?」
唯文は文里の一人息子。時折リドアスにやって来ては、図書館や食堂にいるのを見かける。晶穂とも何度か会話したことがあった。
「ちょっと、思い立ったことがあって……」
そう言うと、唯文は背中に隠していた木刀を取り出した。それは長さ百センチほどのもの。使い古されているのか、ところどころに傷がある。
「それは?」
「おれが幼い頃から使っている木刀です。父がああなので、ずっと鍛錬はしてたんですけど……。最近は学校の方が忙しくて、つい手を抜いてサボってて」
「唯文くんは日本の学校に通ってるんだもんね」
唯文はリンを真似、
唯文は頷くと、「だから」と晶穂の顔を見つめた。白い犬耳がピンっと立つ。
「おれも、晶穂さんの鍛錬に参加させてもらえませんか?」
「へっ!?」
予想外の申し出だ。目を瞬かせる晶穂に、唯文は食い下がる。
「勿論、隣で。邪魔はしません。ただ、相手がいた方が実践形式の鍛錬も出来るかなって。……いつか、団長と一緒にみんなを守りたいんです」
最後に小さな声で発せられたのは、唯文の願い。少し照れたように見えるのは、彼がリンに憧れていると正直に言ってしまったことによるのだろう。その気持ちはよくわかる。晶穂は笑顔で、その申し出を受けることにした。
「勿論、いいよ。一緒に頑張って、帰って来たリンさんたちを驚かそう!」
「――はい。よろしくお願いします」
柴犬のようなくるんと巻いた尻尾が揺れる。唯文はそれに気付かず、不器用に笑った。
「じゃあ早速、始めようか。自主練」
「はい」
二人は並んで、前へと得物を繰り出した。
その様子を建物の中から見ていた文里は、一体何を思っただろうか。
「……あの人見知りが、自分から頭を下げに行くなんてな」
昔から一人でいることを好み、親しい友人を持ってこなかった息子。そんな彼が変わり始めたのは、いつからだっただろう。確か、団長が日本の大学に通うと決まった頃だったか。
自分で日本の学校を受けると言った時の唯文の顔が、忘れられない。
「……午後からは、二人分のメニューを考えなくてはな。団長、あなたの周りには、頼もしい若者が集まるようだね」
今は北の大陸で苦境にいるであろう、若いリーダーへ呟いた。
文里がそんなことを考えているとはつゆ知らず、晶穂はちらりと隣で木刀を振る少年を見た。
(わたしも、負けない。必ず、リンさんを支えられるようになる)
リンたちが無事に帰って来るように。もう一度、笑顔を見られるように。そう願うことしか出来ない自分を変えるため、晶穂は棒を一閃させた。
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