第13話 サラのはかりごと

 春過ぎて、夏が来た。かんかんと照る太陽がまぶしい。

 日本の夏は蒸し暑く、外国出身の人には辛いというが、ソディールの夏もまた負けず劣らずである。蝉に似た虫がやかましく鳴き続け、人よりも耳の良い獣人たちは耳を塞ぐ。そして何より、その暑さは堪えるのだ。

「あ~つ~いぃ」

 ソファーに体を沈めたサラが力なく呟く。ぐでっと背中を預けて氷のうを頭に乗せている。その隣に少し間を開けて座ったユーギが同意を示した。

「だよね~……。ぼくらみたいな獣人にはきつい」

「ほんと。これこそ狩人の思惑なんじゃないのぉ? ね、そう思うでしょ、晶穂」

 サラは目の前を通りがかった晶穂に声をかけた。いつもの元気さのないサラに苦笑しつつ、晶穂は言う。

「確かに暑いけど、こればっかりは自然のものだから」

 季節は移り変わり、晶穂の服装も薄手のものに変わっている。半袖シャツに膝下スカートを合わせ、長い髪はポニーテールにしている。彼女の手には薄橙色の扇があり、それでサラとユーギを扇いだ。二人は気持ちよさげに耳をそよがせる。

「気持ちいいね~。ありがとう、晶穂」

「ちょっと生き返ったー」

「いいえ。ならよかった」

 微笑み、晶穂は玄関ホールの天井を見上げた。少し感じる冷気が弱い気がした。

 この建物の冷暖房は、吸血鬼たちの魔力を拝借することにより賄われているとか。冷気を操る者や火を使いこなす者もいるということで、科学技術の代わりに魔力が発達してきた。しかし魔力も万能ではなく、今日のように真夏日はばててしまうのだ。

「晶穂は夏休み?」

 少し元気を取り戻したサラが、ぴょこんと耳を立てて問う。

「そうだよ。課題は多くないし、アルバイトとソディールのことを知るのに費やそうと思ってるけど」

 晶穂は胸の前で抱えているテキストとノートを見せながら言った。

「……そうなんだー」

「サラ?」

 棒読み感を拭えない声色に首を傾げた晶穂だったが、答えは聞いても貰えそうにない。サラがにやついている。意味は分からないが、晶穂は「じゃあ、またあとで」と手を振った。

 晶穂を見送り、ユーギは隣のサラに若干引いていた。「ふふふふふ」と怪しい笑い声を上げているのだから当然だが。

「サラさん……?」

「ふふっ。面白……じゃなくて、いいこと思いついちゃった」

「悪いこと考えてる顔だね」

 嘆息したユーギは、それでも面白そうだと何かを思案するサラの次の言葉を待った。彼女の目がキラリと輝く。その視線の先には、テキストを抱えて廊下を歩く少女の姿があった。


 リドアスの長い廊下を歩き、晶穂は最奥の部屋の前で立ち止まった。コンコンと戸を叩く。

「……氷山先輩、いますか?」

「入りなよ、晶穂だろ」

「はい。お邪魔します」

 晶穂が部屋を覗くと、リンは窓辺に置いた椅子に座って本を読んでいた。傍の机には大学のテキストが数冊置かれ、ノートが広げられている。どうやら勉強中だったようだ。

「何か用か?」

 そう尋ねながら、リンは晶穂にベッドに腰掛けるよう促した。そこが一番座り心地が良いから、という理由で。素直に従い、晶穂はリンの前にテキストとノートを差し出した。

「……何だこれ?」

「実は、教養科目で基礎経済学っていうのを取ったんですけど、わかんなくて。試験はないんですけど、課題に詰まってしまいまして……」

「それで、俺のところに来た、と」

 晶穂は申し訳なさそうに肯定した。

 リンは大学で経済学部に所属し、しかも学年トップクラスの成績を出し続けている。晶穂は彼に教えてもらうのが良いと考え、やって来たのだ。

「あっ、でも。先輩も勉強中でしたよね。邪魔したらいけないので後日……」

「いい。見せてみろ」

 晶穂からテキストをひったくるようにして、リンはそれをぱらぱらとめくった。そして課題個所を聞き、「ノート開け」と教える体勢に入る。

 それを見て、晶穂は少し驚いた。

「え……いいんですか?」

 まさかすぐに了承されると思っておらず、晶穂は目を丸くした。断るとでも思っていたのか、とリンは息を吐く。

「直談判されちゃ、わかったと言うしかないだろ。俺も人に教える方が頭に入るしな」

「はいっ。ありがとうございます」

 嬉々として机に向かった晶穂の横顔を、リンは何となく見つめていた。


 数時間後。パタンとテキストを閉じた晶穂は、ふうっと安堵の息を吐いた。

「終わったあ……」

「頑張ったな。ほら」

「あ、ありがとうございます」

 液体の入ったコップを手渡され、晶穂は軽く頭を下げた。中身は冷えた麦茶だ。冷蔵庫から出したばかりだというそれを、晶穂は一口飲んだ。その冷たさがのどを潤す。

「これで終わりました。わからない言葉も多かったので……氷山先輩のお蔭です」

「これくらい構わない。得意分野だしな。……わからないことがあったら、いつでも聞いてくれていい」

「はい。……お邪魔しまし……ん?」

 ガタリ。廊下から物音がする。リンも聞こえたらしく晶穂と顔を見合わせ、それから静かに立ち上がった。足音を立てずにドアに近付き、一気に開ける。

「わぁっ!」

「……何やってんだ? サラ、ユーギ」

 内側に開かれたドアと共に、二人が将棋倒しになった。いつからそこにいたのかはわからないが、サラとユーギは苦笑いしつつ起き上がる。

「えへへ、ばれましたね」

「そりゃ、音させるからだろ」

「まあまあ。リン団長に、渡してくれって頼まれました」

「……俺に?」

 サラに差し出されたのは小さな紙片。メモ帳の一枚だ。受け取ったリンはそれに目を走らせ、渋面を作る。

「……これは?」

「買い物メモだよ」

 リンの呆れ顔を見、ユーギはくすくすと笑いを噛み殺した。

 メモにはインクや紙といった消耗品の名が連ねてある。文字の綺麗さから考えて、これはジェイスが書いたものだ。

「ユーギ。ジェイスさんが買って来いって?」

「うん」

「……あの人は」

 リンは額に手を当てた。ジェイスのすました笑顔が浮かんだが、「わかった」と部屋に回れ右して財布と肩掛け鞄を手に取る。

「ジェイスさんに行きますって言っておいてくれ」

「はい! あ、晶穂も一緒にね」

「へ!?」

「えっ!?」

 見事にユニゾンで叫んだリンと晶穂に、サラはニヤニヤ顔を向けた。

「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか~。それとも……何か不都合でも?」

「いや……。もういい、わかった」

 仕組まれた感は強いな。そう呟くと、リンは目を瞬かせる晶穂の肩を軽く叩いた。半ばヤケである。

「行くぞ、晶穂」

「え? あ、はいっ」

「いってらっしゃい。ゆっくりね~」

 晶穂はユーギと意味深にウインクするサラとに見送られ、リンを追った。

 玄関から出て行った二人を確認し、サラとユーギは再びソファーに腰を下ろした。彼女らの前に、背の高い影が立つ。

「全く、何を言い出すのかと思って驚いたよ、サラ」

「だってジェイスさん、二人とも全然進まないんですもん! あたしの方が焦っちゃって」

「まあ、わたしも思ってはいたけどね」

 他人事ながらやきもきするとぼやくサラに同意を示しながら、ジェイスは彼女をなだめた。ユーギは成り行きを見守っている。

 晶穂がリンのもとへと向かった後、サラはユーギを連れてジェイスの部屋を訪れた。彼は仕事をしていたが、二人を快く招き入れた。そんなジェイスに、サラはこう提案したのだ。

「ジェイスさん。あの人たちを二人っきりにしたいんですけど、何か良い案はありませんか?」

直截ちょくせつだね……」

 苦笑いを浮かべたジェイスだったが、彼自身にも思うところはあったらしく、「減ってきたから」と先程の買い物メモを作ってくれたのだ。地球のようにコンピューターなどないこの世界では、紙とインクは必需品だ。

「そろそろ買わないとと思ってたから、丁度良かったよ」

 そう言いながら書いた量は、業務用である。何気に鬼だ。

 冷えた紅茶とジュースをサラとユーギに渡してやり、向かいの一人用ソファーに座ったジェイスは自分も紅茶を飲んだ。

「わたしが思うに、あの二人は放っておいても遅かれ早かれだったんじゃないかな?」

「そうですけどっ。あたし、人の恋路の手伝いってしてみたかったんです! ねっ、ユーギもそうじゃない!?」

「――かはっ。ぼく!?」

 突然話を振られ、ユーギはふさふさの尻尾をぴょこんと立てた。彼自身初恋もまだで、その感覚もわからない。別段、あの二人に対してどう思うなどということはなかった。ただ、大好きな兄や姉のように思っていただけで。ユーギはまだ、十歳だ。

 吐き出しかけたジュースをなんとか飲み下し、ユーギは精一杯の答えを口にした。

「……ぼくは、みんなが幸せであればいいのにって思うよ」

「それが一番だよ、ユーギ。大正解だ」

 ジェイスは柔らかく微笑み、ユーギの頭を撫でた。


「ったく、あの人は……」

「どっちかというと、サラの思惑な気も……」

 リンと晶穂はリドアスを出て、真っ直ぐアラスト中心部に向かった。中央通りには大抵の物が揃うという市場と商店街がある。しかも夏休み期間ということもあり、人では普段より多かった。

 晶穂は向かいや後ろから来る人の波に押し流されそうになりながら、懸命にリンの背中を追った。何度目か見失いそうになった時、リンがこちらを振り返る。

「晶穂、手貸せ」

「えっ」

「……はぐれたら面倒だろうが。さっさと済ませて帰るぞ」

「……はいっ」

 わずかに染まった頬を見ないふりをして、晶穂はうつむきがちになりながらもその手を取った。

 二人が入ったのは、アラストでも一、二を争う品揃えの事務用品専門店『文月堂ふみつきどう』。そこの店主は年老いた犬人の男性である、なんと唯文の祖父でもあるのだとか。銀の華にゆかりのある人々もここで働いている。

 不自然でなく互いの手をほどいたリンたちが暖簾のれんをくぐると、店主がこちらに気付いて微笑んだ。

「いらっしゃい、団長。買い物かい?」

「お久し振りです。はい、ジェイスさんに頼まれて……。えっと、黒のインク一箱と、紙束二箱お願いします」

「はいよ。そちらは彼女さんかい?」

「――かっ……違いますよっ」

「はっはっは。若いってのはいいねえ。少し待っておいてくれ」

「ちょ……はぁ」

 店主はリンの反論を笑って流し、店の奥に入って行ってしまった。

 がしがしと頭をかき、リンは店内を物珍しそうに見学する晶穂に目を移した。木造建築の店内は和風で占められ、一昔前の町屋のような雰囲気だ。

「そんなに物珍しいか?」

「いえ。昔施設の近くにあった駄菓子屋さんに雰囲気が似てるので、懐かしくて」

「そうか」

 その時、丁度注文した箱が運ばれてきた。一抱えある箱三つが目の前に積まれる。

「流石にこれを持って帰るのは大変だ。店のもんに届けさせるよ」

「お願いします、助かります」

 店員が荷台に箱を積むのを見届け、リンは晶穂を振り返った。

「帰るか」

「はい」

「またいらっしゃい」

 店主ののんびりとした声に見送られ、二人は少し人通りの減った中央通りを歩き出した。


「晶穂。ちょっと付き合え」

 一言だけ言うと、リンは道を真っ直ぐ行くべきところを右に曲がった。どうしたのかと晶穂はその後を追う。

 しばらく行くと、民家や店舗がまばらに少なくなっていく。道の向こうからは潮の香りが漂い始め、海に向かっているのだと気付かされた。

「海――」

「こっちで海、見たことなかったよな」

 笑うリンに頷き、晶穂は白い砂浜に立った。沈みつつある太陽に照らされ、海の波がきらきらと輝く。二人の他には誰もおらず、貸し切り状態だ。

 リンと晶穂は、海が一望出来る堤防に並んで腰を下ろした。「俺さ」とリンが呟く。

「お前に色々聞いといて、自分のことはあまり話してなかったよな。だから……聞いてくれるか?」

「……はい。わたしも聞きたいです。わたしだけなんて不公平ですから」

 そうだな、と苦笑し、リンは海に視線を移した。

「……前にも言ったかどうかはわからないが、俺の父親は、銀の華の創設者だ。狩人の組織はその前からあったらしいが、対抗するための自警団を作ったのが始まりだと後で聞いた。何故かって、父さんは行方不明になった時、俺はまだ七歳だったからな。一年以上帰らなくて、死んでしまったんだろうってことで葬式をした。その後の出来事があって、ジェイスさんと克臣さんが教えてくれたんだ。俺が継ぐと言った時に」

 海の上を鳥が飛んでいく。ねぐらに帰るのだろう。

「母親も……弟のユキもいたけど、次の年の夏、俺が外出している間に消えた」

「消えた?」

「そう。何処に行ったのかもわからないし、今も行方はつかめない。恐らく、父さんと同じように狩人に始末されたんだろう。……でももしかしたら何処かで生きているかもしれない。俺は家族を探すために、そして狩人を壊滅させるために銀の華を継いだ」

 幻滅したか? リンは晶穂を見つめて言った。その深紅に近い瞳は、夕焼けに染まる空に負けない程美しい。それに吸い込まれそうになりながら、晶穂は首を左右に振る。

 ふっと目を細め、リンは「ありがとう」と切なげに言った。

「お前が狩人の目的のために狙われているのはわかってる。お前を守ることは、俺の目的を果たすことにもつながる。そんな不純な動機を含んではいるが……。晶穂、俺たちは必ずお前を守り切ってみせる」

「……はい、信じてます」

 晶穂が微笑を浮かべたのに対し、リンはそっと視線を外した。

 こほん。咳ばらいを一つして、リンは「もう一つ」と言った。

「氷山先輩?」

「そろそろ、その『氷山先輩』ってのやめないか? 晶穂は銀の華の仲間だ。『リン』でいい」

「あ……いや、流石に呼び捨ては……」

 晶穂は顔を真っ赤にして考え込み、妥協案を絞り出した。

「じゃ……じゃあ、『リンさん』で。もうこれ以上は……」

「ふっ。わかった」

 微苦笑を浮かべ、リンは再び海を見つめる。晶穂も潮風を感じて海を見た。髪がなびき、遊ばれる。

 いつの間にか空と海との境界線は闇に染まり、夜のとばりが下りていた。

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