第11話 引っ越し

 朝方にリドアスへ戻って来て、睡眠をとって遅い朝食。流石にまだ疲れが取り切れたとは言い難く、晶穂は玄関ホールに設置されたソファーに座りあくびをした。

「ふふっ、眠たそうだね」

「睡眠時間数時間だもん。それに、一日以上まともに眠れなかったから」

 隣に腰を下ろしたサラが微笑む。今日は午前中の講義を欠席し、午後から行くことになった。体調を鑑み、そうするのが良いだろうとジェイスにアドバイスされたのだ。リンは時間になるまで部屋で寝ると言っていたが、晶穂はサラと話したくて彼女を誘った。

「そういえば、晶穂は『アレス』っていう雑貨店に行ったことあるでしょ?」

「? うん、ある。……え、何で知ってるの?」

「しかもそこで、リスのノートとシャープペンシル、あとは黒いノートとペンも買ったよね?」

「……サラ、あそこにいたの?」

 あの場にサラはいなかったはずだ。一緒に行ったのは美里――アイナ――のはずだから。晶穂が若干引き気味に尋ねると、サラは胸を張った。

「だってあの店は、銀の華の一部だもん。それに、店主はあたしの彼だし!」

「え……。ええっ!」

 驚きだ。眠気が吹っ飛んでしまった。

 サラによれば、店主の名はエルハ・ノイル。彼は調査員として日本に潜入しているのだという。あののほほんとした雰囲気の男性が、銀の華の構成員だったとは。

「ふふ、驚いた?」

「驚いた。……じゃあ、前に話してくれたあれこれは、エルハさんとの?」

「うん! ノロケならいくらでもしてあげるよ?」

「ははは……」

 乾いた笑いを浮かべ、晶穂はサラのキラキラした瞳から少し目線を逸らした。

 何てことはない雑談を続けてしばらく後、晶穂の背後から影が差した。振り返って見れば、リンが黒いパーカー姿で立っている。

「おい、そろそろ行くぞ」

「あ、もうそんな時間なんですか?」

 玄関にある掛け時計を見れば、あと三十分ほどで午後の講義の開始時間だ。晶穂は慌てて自宅の鍵が入ったボストンバッグを手に持った。

 誘拐されてリドアスに戻った後、晶穂は自宅に戻っていない。今日は一旦自宅から必要なテキストなどを持ち出し、講義終了後にリドアスの何人かが荷運びをしてくれる手はずになっている。アルバイト終了後、最終確認を晶穂がする予定だ。そのメンバーの一人であるサラは、二人をにこにこと見送った。

 今日は講義後、引っ越し手続きをしなくてはならない。次の住所設定をリドアスにするわけにもいくまい。どうしたらいいのかリンに尋ねると、「俺と同じでいいんじゃないか」と事も無げに言われた。

(それって、はたから見たら同居……っ)

 そう突っ込みたいのは山々だったが、事実なのだから仕方がない。同じ屋根の下で暮らすのだから。後日、施設にも住所を変更した旨を伝えなくてはならない。

 リンと晶穂は一緒にリドアスを出て、晶穂の自宅マンション傍の路地に転移した。

「じゃ、見張ってるから荷物持って来てくれ」

「あ……はい」

 素直に頷き、晶穂は既に懐かしい感じのする自室に入り、急いでテキストなどを鞄に押し込んだ。それから駆け足でマンションを出て、待っていたリンの横に並んで大学を目指す。

「……」

「……」

 沈黙が続く。けれどそれは嫌な沈黙ではなかった。

 大学の建物が視界の端に見えて来る。ここまで来れば大学生も少しずつ増えてくる。何度か好奇の眼差しを感じていたリンは、そろそろ晶穂と別れなければいけないなと感じていた。

「……講義の後は、バイトだったな?」

「はい、そうですけど?」

 全くこちらを見ないリンを不思議に思いながら、晶穂は首を傾げつつ答えた。するとリンは、そのまま晶穂だけに聞こえる音量で言った。

「……バイトが終わったら、店の前で待っててくれ。迎えに行く」

「!」

 晶穂の返答を待たず、リンはさっさと大学へ向かって歩いて行ってしまった。晶穂は自分の耳が熱を持っていることに気付き、手でそれを覆いながら人目も気にする余裕もなくしゃがみ込んだ。

(な……何なんですかぁ……)

 リンの低く心地良い声が、晶穂の耳に何故か残る。それを何とか消そうと思うのだが、そう思えば思うほど、色は濃くなる。これまで全く意識していなかったのに、そうではなくなりそうで怖かった。

 リンゴーン

「まずいっ」

 大学から予鈴が聞こえてきた。午後一番の講義担当者は、時間通りに来ないことで有名な教授だ。しかし今日もそうとは限らないし、そもそも遅刻していいという理由でもない。晶穂は立ち上がり、急ぐ学生たちに混じって走り出した。


 アルバイトに勤しみながら、晶穂は今日一日を振り返っていた。一日と言っても、大学での半日のことだが。

 講義自体はいつもと変わらずといった様子であったが、そこに高崎美里ことアイナの姿はなかった。もしかしたらいるのではないか、という期待もあったが、いなくてもそれはそれでよかったのだろう。

(もし会えても、敵同士ってはっきりしてるしね)

 分かり合えることはもうないかもしれない。それを残念に思い、晶穂は無意識に軽く息をついた。

「お疲れ様です」

「お疲れ様~」

 店長や社員、アルバイト仲間と挨拶を交わしてレストランの裏口を出た晶穂の目の前に、背中を壁に預けた青年が待っていた。

「……帰ろう」

「……はい」

「もうサラたちが荷作りを始めてる。お前がいないと終わらないからな」

 暗くなり、頭上は星空が支配権を獲得している。リンはそれ以上言葉を発さず、晶穂のマンションへ向かって歩いて行く。言葉から察するに、ここに来る前にサラたちの様子を見てきたのかもしれない。管理人には事情を説明してあるから、怪しまれはしなかっただろうが。

 もう数分で目的地だ。そして、すぐにマンションの敷地に足を踏み入れる。入り口のドアに手をかけたリンに、晶穂は声をかけた。

「あのっ……ちょっと待ってください」

「どうした?」

 くるりと振り返ったリンの胸に、紙袋を押し付ける。

「え……」

「これ、あげます。お礼です!」

「……開けても良いのか?」

「はい」

 目を見開いたリンが、水色の紙袋の中に入っていたビニール製の袋を開ける。そこには黒が貴重のシンプルなノートとペンが入っていた。キャップを取ると、ペン先は万年筆のようになっており、書きやすそうだ。ノートも鴉色の下線が引かれた触り心地の好い紙が使われている。

「これ、どうしたんだ?」

 困惑気味のリンが問うと、晶穂は頬を赤らめ下を向いてしまった。しかしぼそぼそと話してくれる。

「……アレスで見つけたんです。使いやすそうだったので、よかったら」

 それだけ言うと、晶穂はリンより先にマンションの中へと入ってしまう。その場に残されたリンはどんな顔をしたらいいのかわからず、紙袋に丁寧にペンとノートを収めた。そして速足で少女の後を追ったのだった。


 リンは自室に戻るとそのままベッドに突っ伏した。大学の課題は晶穂を迎えに行くまでに済ませてしまったし、会議もない。読まなければならない報告書も特にない。あとは食事くらいのものだ。

 ふと、机の上に置いた紙袋に目をやった。鮮やかな水色に染められた袋の中央に『アレス』の店名が白抜きになっている。リンは、その店が銀の華直営であることはよく知っている。日本に部署を置こうと言い出したのが、そもそもリンなのである。形態はエルハに任せた。まさか雑貨店を経営するとは思っていなかったが。

「……そこにあいつが行くなんて、知るかよ」

 しかも、リンへ贈るために物を買って来るとは想定外だった。女子の好みに合った雑貨を中心に仕入れていると聞いている。サラに尋ねてみたところ、エルハは晶穂に「男性への贈り物」としてそれらを薦めたのだという。――何と返せばいいかわからなくなった。サラのにやけ顔が気に入らなかったが仕方がない。

「お、これ俺の会社の商品じゃないか。悩めるお年頃は辛いなあ」

「……克臣さん」

 いつの間に入って来ていたのか、部屋の中に克臣とジェイスがいた。にやにやと緩む口元を抑えきれていない克臣に対し、ジェイスの顔は複雑だ。困ったような笑いだしたいような、微妙な表情をしている。

 ギシッとベッドをきしませてベッドに腰掛けると、リンは渋面を作った。

「二人して何の用ですか?」

「そう怒るなって。女子にモテねえぞ」

「……別段、モテたいとは思ってないので」

「まじか~。俺は女子にモテたいけどな」

「それ、奥さんに言ってやろうか」

「それだけはやめてくれ、ジェイス! ただでは済まないから」

「……で、用件はなんです?」

 いつまでも続きそうな漫才を強制的に止め、リンは再度催促した。こほん、と咳払いをして気を取り直した克臣は、数枚の紙の束を差し出す。

「昼間、ジースさんが報告書をくれた。南の大陸は異常なしだとよ」

 ジースはリドアスによく食事をしに来る商人の男性だ。猫人の奥さんを持つ人間で、時折行商に行った先のことを知らせてくれる。

「そうですか、よかった。ジースさんはもう自宅に?」

「ああ。奥さんが腕によりをかけて料理を作ってくれるって自慢されたよ」

 くすくすと笑って答えるジェイスの言葉に安堵し、リンは報告書に目を落とした。何か重要な事項があるような場合、報告書は辞書のような厚さになることもあるから、数枚はとても読みやすい。

「ああ、そういやユーギが晶穂に関して知らせたいことがあるとか言ってたぞ」

「ユーギが? 何でしょう……」

「さあな。でも明日、あいつが学校から帰って来たら聞いてみたらいい」

「そうします。ありがとございます、克臣さん」

 日本と同じうように、ソディールにも学校がある。幼稚園、小中高にあたる施設が存在し、たくさんの生徒がそこで学んでいる。ユーギも今は小学校高学年だ。

「それじゃ、邪魔したな」

「ゆっくり休むと良い」

「ありがとうございます。克臣さん、ジェイスさん」

 二人を見送り、リンは再びベッドに仰向けに転がった。目を閉じて、ユーギが伝えたいという内容を考える。彼は、晶穂について何を掴んだ? 些細なことでも、何かにつながるかもしれない。

「……ん? ……うわぁ!?」

「あ、起こしたか」

 気配を感じて跳び起きると、ドアを半分ほど開けてジェイスがこちらを覗いていた。心なしか笑っている。

「びっくりした……。どうしたんですか?」

「いや、百面相してるから面白くて。リンが学生らしくて嬉しいだけだ」

「やめてください。俺、そんなんじゃないです」

「そんなんって、どんなだい?」

「……何でもありません」

 何故か旗色が悪いと感じ、リンは後頭部をかいた。そんな弟分の反応に笑いを噛み殺し、ジェイスは一言置いて出て行ってしまう。

「ま、青春てことかな」

 反撃のチャンスを失い、リンはタオルケットを被った。

「そんなんじゃない……」

 自分の頬が熱い理由は、きっとタオルケットを被ったせいだ。




 月さえ地平線に隠れた時間。この世の別の場所で、闇がうごめく。

 周りは暗黒だ。建物だらけの都会の真ん中だが、夜ともなれば昼間の賑わいは掻き消える。それでも、目は慣れているから問題ない。

 アイナは目的地へ向けて歩いていた。ここは狩人の拠点がある街。何時に外にいようと咎められることはないが、少女の一人歩きは奨励されない。

 それでもアイナが歩いているのには訳があった。上司に呼び出されたのである。

「全く、何時だと思ってるんだ」

 そう愚痴りながらも歩みは止めない。

 しばらく行くと、見慣れた岩色の建物が見えてきた。それは昔のヨーロッパの城のようで、圧迫感がある。

 アイナはその城の扉を開け、真っ直ぐに歩いて行く。しばらく行くと、謁見の間のように広々とした空間があり、お国は玉座を模した椅子が一脚置かれている。

「……お呼びですか?」

 膝をついてそう尋ねれば、何もいなかったはずの椅子に人影が生じた。

「アイナ、生き残りを取り逃がしたそうだな。しかもその者は『銀の華』に匿われたとか」

「……申し開きも出来ません」

 椅子の横に立った男が、アイナを静かに罵った。事実である以上、アイナに反論の余地はない。男はソイルの上に立つ者であり、ザードという名を持つ。

 ザードは気が済んだのか息をつき、椅子に座る人物に顔を近付けた。それからアイナを再び見下ろす。

「アイナ。お前の上司、ソイルに既に命じてある。やつのもとで働け」

「承知いたしました」

「忘れるなよ。お前の家族は……」

「忘れたことなど、ありません」

 表情を消したアイナは、一礼すると城を後にした。

 人のいなくなった広間で、ザードの言葉が響く。

「もうしばらく、お待ちくださいませ。必ず、あなたさまの願いを叶えましょう」

 椅子に座る人物は、わずかに首肯した。


 外ではソイルがアイナを待っていた。

「あのお方は、どうだった?」

「相変わらず、何も言ってはくださいませんでした」

「喋るのは我が上司のみ、か。くくくっ」

 引きつるような声で笑い、ソイルは暗闇の先を見つめた。

「……北へ行く」

「承知」

 二人は一度も目を合わさずにその場を同時に発った。

 風のように夜の街を駆けながら、ソイルが問う。

「アイナ、しばらく大学には行けなくなるぞ」

「そうだと思い、休学届は出してあります」

「流石だな。……あの晶穂という友人には何か言ったのか?」

「……初めから、友人などではありませんから」

 淡々と返してくるアイナに「そうか」と忍び笑いで応じたソイルは、それ以上問わなかった。無言のままトップスピードで走り続け、息を乱さず始発の汽車に飛び乗る。

『アルジャ行き』と書かれた白いプレートが、黒い車体に映えている。

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