第3話 ソディール

 外は闇の中だ。遠くには家々の明かりが仄かに光る。

 リンは水を一口飲んだ。質問は全て最後に受け付ける。そう前置きをした。

「まず、ここは日本じゃない。勿論、中国もアメリカもない。地球があるのとは別の次元にある異世界・ソディールという名で呼ばれている。これを見てほしい」

 そう言ってリンが本棚から抜き取ったのは、古く黄ばみが目立つ地図だ。テーブルの上に広げると、東北地方を反対向きにしたような大陸が描かれている。これがソディールの世界だ。

 リンはその中央海岸線寄りを指し、アラストだと言った。この建物がある街だと言う。

「この場所が、俺たち『銀の華』の拠点だ。で、この世界には人間の他に、ユーギのような獣人と、俺のような吸血鬼と呼ばれる種族が暮らしている」

 ユーギは犬ではなく、狼人おおかみびとだとリンは言った。

犬人いぬびともいれば猫人ねこびともいる。大昔には鳥人とりひともいたらしいけどな。そんな獣人は、先祖の何処かで獣と混じった人間のことだ。獣の耳と尻尾を持つことがその証。そして吸血鬼だが、物語にあるように血を吸う魔物と一緒にしてもらっては困る。俺たちは魔力を持っている。それから黒い翼もな。それらが人間と獣人とも違う特徴だから、昔の人が恐ろしがって名付けたんだと聞いている」

 黒い翼は晶穂あきほを救い出す際に使っている。けれど魔力を持つ存在がこの世にいたなんて、と晶穂は改めて驚いていた。

「そして俺たち『銀の華』のことだが……。晶穂、これだけ色んな種族が暮らしていたら、何が起こると思う?」

 突然先生のようにあてられ、晶穂は言葉に詰まった。

「え……? えっと、争い、とか?」

「そうだな。地球の同族の中でだって現に起こってる。それがソディールでも当然起こるわけだ。色んな種族が常に仲良く暮らせればいいが、そういうわけにもいかない。……さっきユーギが言ってた『狩人』は、俺たちみたいな純粋な人間以外の存在を認めない人間たちの組織だ。俺の父親が、あいつら狩人から吸血鬼や獣人を守り戦うために作ったのが、銀の華なんだ」

 自警団みたいなものだ、とリンは言う。

「狩人のやり方は行き過ぎだって考える人間も勿論いて、そんな人たちは俺たちに協力してくれている。この組織の純粋な構成員は少ないけど、外にも味方はいるってことだ」

 これで大まかな説明は終わった、とリンは水で口の中を湿らせる。「わかったか?」とリンは晶穂に尋ねるが、全てを受け入れるには時間を要した。なんとか自分の中で整理をつけて頷くと、リンは少し目を細めた。

「そうか……」

(あ……ちょっと笑った?)

 それまで仏頂面というか、怖い印象が強かったリンの微笑は、晶穂に強い印象を残した。少し緊張感が抜け、晶穂はコップを口に運んだ。地下水だというそれは、軟水よりの水だった。

「さて、次はお前に関してだが……。晶穂は、自分が何故狩人に狙われたかわかるか?」

「いえ……わかりません。それを、一番訊きたかったんです」

 コップを持つ手に力が入る。あの時の何とも言い難い恐ろしさを思い出し、震える手に力を入れたのだ。

 するとリンは身を乗り出し、晶穂の瞳を間近で見つめた。その真剣な目に吸い込まれる思いがして、晶穂は息を呑む。彼の瞳は、昼間大学で見る時よりも鮮やかな紅色をしていた。

「……お前の親は、日本人か?」

「へ?」

 リンの言葉に、晶穂は思わず聞き返した。彼は体を椅子の上に戻して言葉を続ける。

「その黒い瞳は良いとして、灰色の髪は日本人離れしてる。俺は紅い目の言い訳をクォーターとしているが、晶穂のそれは地毛だろう?」

「はい……でも」

「でも?」

「わたし、自分の親を知らないんです」

「親を知らない? どういうことだ」

「それは……」

 晶穂は迷った。初めて出会ってから数度しか言葉を交わしていないリンに、自分のことを何処まで話したら良いのかわからない。逡巡する晶穂に、リンは再び催促した。

「教えてくれ。お前が自分について知っていることを全て。お前が何で襲われたのか、俺も考えて答えるから」

「……わかりました」

 晶穂は覚悟を決めた。何故自分が狩人などに襲われなければならなかったのか、ヒントも何もないまま帰るのは、後味が悪い。それに、いつまた彼らが現れるとも知れない。

「わたしは、物心つく前に親を亡くし、施設で育ちました。園長先生によれば、わたしは施設の前に置き去りにされていたそうです」

 園長先生も晶穂の両親については知らないと言っていた。親戚がいるのかもわからない。施設の先生たちは晶穂を引き取った後も親を探したらしいが、何の手掛かりもつかめずに終わったと聞いている。名前は、一緒に置かれていた便箋に書かれていたのだという。

 しばし考えるそぶりをしていたリンは、ゆっくりと口を開いた。

「……灰色の髪を持つ子どもは、後天性吸血鬼の親から生まれると聞いたことがある」

「『後天性』……。それって、生まれてから吸血鬼になったってことですか?」

「そうだ。この世界の何処かに、俺たちとは別の、本物の吸血鬼がいるという話がある。彼らは人の血を吸って生きているらしい。それに血を吸われた者は、血を吸う吸血鬼の性質を受け継ぐ」

 それが後天性吸血鬼だ。彼らは先天性の吸血鬼のように血を欲することはないが、魔力を持つようになるらしい。それが晶穂の親だろうというのだ。確かめる術はない。

「それから晶穂、今年大学一年ってことは年齢は?」

「十八です」

 晶穂の答えを聞き、リンは再び考え込んだ。それから苦痛に耐えるように眉間にしわを寄せ、言葉を紡ぐ。

「……十八年前、ソディールと地球で狩人による大規模な吸血鬼狩りが行われたと聞く。俺も生まれて間もない頃だから、詳しくは改めて文献を読まないとわからない。……もしかしたら」

「――ッ」

 そこで言葉に詰まったリンを見て、晶穂はその後の言葉に察しがついてしまった。過去とはいえ、その事実を受け入れられず、晶穂は自分自身を抱き締めた。リンは痛ましげに晶穂を見やり、頷いた。

「……狩人にとって、先天性も後天性も関係なかったということだろう。お前が、晶穂が生き延びられたのは、奇跡的だ」

 それが、狩人に狙われた理由。何故今になってと疑問は尽きないが、晶穂の心は限界を訴えていた。

「後天性でも、狩人には関係なかったんですね……。わたしの両親もきっと……」

 殺されたのだ。

「――晶穂ッ!」

 事実の大きさに耐え切れず、晶穂は意識を手放した。




 晶穂は、夢を見ていた。いつも見る、あの夢。急に両親がいなくなり、一人ぼっちになる。

 ようやく、夢の意味がわかった。あれは、両親が狩人に殺されたことを示していたのだ。しかしその事実を認めたくなくて、物心つく前の晶穂は記憶を改ざんした。理由はわからないがいなくなってしまった、と。

「……ほさん、あきほさんっ」

(誰か、呼んでる?)

 夢から現実に引き戻され、晶穂は薄っすらと目を開けた。すると目の前に柔らかそうな獣耳の少年の顔が覗いていることに気付く。大きな狼耳をそよがせ、晶穂が目覚めたことに気付くとにっこり微笑んだ。ティーポットから紅茶を注ぎ、体を起こした晶穂にカップを手渡してくれる。

「よかった。気が付いたんですね」

「……ここ」

 リンに通された部屋ではない。白を基調とした落ち着いた雰囲気の部屋だ。

「ここは、銀の華の拠点・リドアスの客間です。団長にあなたを寝かせるよう言われた時は驚きましたよ。気を失ってるんだもん」

「そっか。わたし、倒れて……」

 甘い匂いに誘われ、晶穂は紅茶を一口飲んだ。果物のフレーバーティーらしく、気持ちを落ち着かせてくれる。

 気を失う前の出来事を思い出し、晶穂はため息をついた。全てが突然で現実味を欠いているのに、全部が本当なのだ。

「……ほんと、大変なことになっちゃったな」

 ぼそり、と晶穂は呟いた。たった数週間前までは、施設を出て一人暮らしが出来るのかという不安だけだったのに、今やそんな心配が小さく思えるほどの大問題がのしかかって来た気分だ。

「あきほさん?」

 心配そうな顔でこちらを覗き込むユーギに心配しないでと笑顔を返し、晶穂は話題を変えた。

「そういえば、氷山せん……団長さんは?」

「いません。ぼくにあきほさんを預けた後、何処かに行っちゃいました」

「……そうなんだ」

 本当はこれからのことを色々と相談しなければと思っていたのだが、いないのでは仕方がない。また大学で会えるだろう。

 体は問題なく動くようだ。これ以上お世話になるわけにはいかない。机の上に置いてあった鞄を手に取り、晶穂は帰宅する旨をユーギに伝えた。するとその言葉は予期していなかったようで、ユーギは目を見張る。

「えっ、帰るんですか? 元の世界に?」

「そうだけど……何かまずいかな?」

「あきほさんは狩人に狙われてるんでしょ? 無防備なままあっちに帰ったら、狩人の思う壺ですよ。次は助けられる保証もないし……。ここにいた方が安全だと思いますけど」

「でも……。大学もアルバイトもあるし。お世話になるのは申し訳ないよ」

 困り顔でそう固辞する晶穂に、ユーギは首を傾げて見せた。

「団長は、ここから大学に通ってますよ、毎日」

「……毎日?」

「はい。わざわざ別の世界の学校に行かなくてもいいんじゃないかってみんな言うんですけど、聞かなくて」

 目に見えるようだ。大学のリンのファンがクールで頭脳明晰だと言っていたが、そこに自分の意志を絶対に曲げないという性格も加えた方がいいだろう。くすりと笑った晶穂に、ユーギも笑いかけた。

「とにかく、今日はもう遅いですから、泊っていってください。部屋はここを使ってもらえればいいので!」

 部屋の掛け時計を見れば、夜中の十一時を回っている。

「そっか……。じゃあ、お世話になります」

 晶穂が鞄を机に置き直して頭を下げると、ユーギは満足げに「はい!」と笑った。そして必要なものがあればまた朝に言ってもらえれば持って来ると言い置き、部屋を出て行った。

 一人残され、晶穂はベッドに腰を下ろした。本当にこれが一日の出来事かと疑いたくなるような、盛沢山の一日だった。

「ねむ……」

 大きなあくびをし、晶穂はベッドに倒れ込んだ。これからのことが不安でないわけでは決してないが、それ以上に体が休眠を欲していた。本当なら部屋着に着替えたかったが、その元気もない。

 晶穂は目を閉じると、夢も見ない眠りへと誘われた。

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