第2話 夜の道

 大学の本格的な講義が始まって数週間。新入生である晶穂あきほたちの時間割は、一限から六限までみっちり詰まっている。最初は辟易したものだが、九十分講義というものも、慣れてくればどうということはなくなる。

三咲みさきさんは、あの先生が言ってること、わかる?」

「あー、お年を召してるから……。でもプリントにまとめてあるし、わかりやすいと思うけどな」

 同じ講義を受ける中で、少しずつ学友たちとの距離も縮まる。次の講義までの短い休憩時間にそんな雑談を交わすこともあった。きっとひと月ふた月も経てば、中には彼氏彼女ができただの、誰と誰が怪しいだのという恋バナに花を咲かせるグループも増えてくるのだろう。

「ね、晶穂は誰かいないの?」

「え?」

 構内のカフェで抹茶ラテを飲む晶穂は、テーブルにオレンジジュースを置いた美里みさとに尋ねられ、首を傾げた。

「もう。同級生や先輩の中で、晶穂は誰か気になる人はいないのかって聞いてるんだよ?」

「……ないかな」

「え~、つまんない」

 ぷうっと頬を膨らませる美里に苦笑し、晶穂は話題転換を試みた。

「そんなことより、美里はサークルとかクラブには入るの? 勧誘とかたくさんあるよね」

「ううーん。実は前からちょっと、アルバイト? みたいなのしてるから。そんな時間はないかな」

「そうなんだ。……わたし、アルバイト探してるんだよね。生活費稼がないと」

「晶穂って一人暮らしなのは知ってるけど、ご家族は?」

「ああ、うん。……ちょっと重い話かもだけど、聞いてくれる?」

「いいよ? 今日はこの後一限分時間空くし。晶穂もそうだよね」

 ラテを一口飲み、晶穂は意を決した。彼女はこの時初めて、他人に自分が施設育ちだということを明かした。小中高と晶穂は両親がいないことに引け目を感じ、クラスメイトにも話したことはなかった。先生は園長が事前に話していたために知っていたが、同級生にはない。話せばいじめの対象になる可能性があるということは、同じ施設の先輩を見て知っていた。

 そんな晶穂だが、大学生になって一人暮らしを始めるにあたり、仲良くなりたい人には自分のことを知ってほしいと思っている。そうしなければ、本当に心を開いて社会に出ることは出来ない、と施設の先生方に言われてきた。限度はあるが。

 晶穂は、自分が物心つく前に両親を亡くし、施設に引き取られて育ったことを簡単に話した。うんうんと頷きつつ聞き入っていた美里は、「ちょっと踏み込んだこと訊くけど」と前置きをした。

「……ご両親は、どうして亡くなったの? 事故とか病気で?」

「それはわからないんだ」

 晶穂はラテをテーブルに置いて首を横に振った。

「話した通り、私が物心つく前のことだし。園長先生によれば、わたしは施設の門の前に放置されてたらしいから。……だから、先生たちが親みたいなものかな」

「……それって、十八年前よね」

「え?」

 晶穂はよく聞こえずに聞き返したが、美里は笑ってごまかしてしまった。

「気にしないで。でも晶穂は凄いね。わたしに出来ることなら、何でも言ってね!」

「ありがとう」

 本当に良い友人に出会えた、と晶穂は信じて笑顔になった。それからすぐに話題は課題の話に移り、美里が改めて晶穂の過去に触れることはなかった。


 その日の夕方。晶穂は白いスプリングコートに身を包み、アルバイトの面接を受けるためにとある外食チェーン店に向かった。そこは大学から近く子ども連れが多くていつも賑やかだから、と美里が勧めてくれた。調べてみるとアルバイト代も申し分なく、晶穂はすぐに面接を希望するメールを送った。向こうも人手が必要だから、と即日の面接を許可してくれたのだった。

 面接が終わって外に出ると、もう月が出ていた。店長の女性は晶穂を気に入ってくれ、合格を貰えた。早速明日の夕方に入ってほしいとロッカーの場所や仕事内容の説明を受けていたため、遅くなってしまった。

 最初はお試し期間だそうだが、親の仕送りもない晶穂にとって、現場に出させてもらえることは有り難い。

 電灯はあったが、人通りはない。星と月の明かりが強かった。

「早く帰ろう。明日もあるし」

 晶穂は晴れた夜空を見上げた。歩き出して数分後、視界の端に何かが見えた気がして立ち止まった。

「ん?」

 蝙蝠でも飛んでいるのかな、と思ったが、ただ広い夜空が広がっているだけだ。気のせいかと首を傾げた時。

「だ……誰?」

 思わず声が震える。晶穂の前に、焦げ茶色のマントを羽織った人物が降り立った。目深に被ったフードの下には仮面をつけ、黙ったまま立っている。晶穂は気味が悪くなり、道を変えようと振り返った。

「えっ」

 背後にも同じような格好の人物がいた。挟まれる形になり、晶穂はごくんとのどを鳴らした。

「……わ、わたしに、何か御用ですか?」

「……」

「……」

「……」

 しかし二人は動きもせず、黙ったままだ。晶穂も動くに動けず、黙りこくってしまう。

 時間が経った。五分のような気もするし、それ以上だったのかもしれない。ようやく二人のうち小柄な方がくぐもった声を発した。

「……間違い、ないですよね?」

「そうだな。……連れて行くぞ」

 一瞬、晶穂は小柄な方の声に聞き覚えがある気がした。しかし何処で聞いたのかは、咄嗟に思い出せない。

 少しずつ距離を詰めてくる前後の人物からどうやって逃げようかと右往左往したが、晶穂と彼ら以外に人影はない。それでも、叫ぶしかなかった。

「だ……誰かぁ!」

 誰でもいい、誰かに届けと晶穂は声を張り上げる。近所迷惑など考える余裕はない。誰かもわからない謎の人たちに連れ去られるなんて、まっぴらだった。

 その時、晶穂の目の前を黒い羽根が舞った。

「……うっさいな」

「え……?」

 晶穂が声のした上空を見上げた。すると信じられないことに、夜空から人が降って来る。彼女が常識を逸した光景に目を疑って硬直している間に、その人が晶穂を振り返った。

 藍色がかった黒い髪が夜風に揺れ、ルビーのような紅い瞳が暗闇に映える。闇色のパーカーに黒いズボンといういで立ちの青年だった。

「……氷山ひやまリン、先輩?」

「……お前、図書館で会った片割れか」

 そんな覚え方をされていたのか、と晶穂は頭を抱えたくなったが、今はそんなことを考えている場合ではない。

 晶穂を捉えようと近付いていた仮面の者たちも、リンの出現に少なからず動揺したのか、動きを止めている。それを確認し、リンは晶穂を抱え上げた。

「うえっ!?」

「……行くぞ」

 変な声を出してしまい口を押える晶穂を無視し、リンはそのまま跳躍した。背中から鴉羽色の翼が出現する。

「ひ、氷山先輩! せ、背中に!?」

「黙ってろ。……えーっと?」

「……晶穂です。三咲晶穂」

「じゃ、晶穂。着くまで静かにしてろよ」

「はい……」

 これ以上悪いことは起こるまい、と高をくくり、晶穂はリンの言うことを守った。だが上空の風を感じて目を閉じる。

 何処へ連れていかれるのか、リンは何者なのか。疑問は尽きないが、今は考えられる余裕がないというのもまた、事実だった。


「着いたぞ」

「ここは……?」

 地面の感触を確かめ、晶穂は自分の目を疑った。

(何処!?)

 そこにあったのは、中世ヨーロッパに存在していただろうな、と想像する洋館。蔦が建物を覆い、大きな樹がそれを囲んでいる。暗闇で見えなかったが、小高い丘の上のようだ。しかし、どう考えても晶穂の知る日本ではない。

「……何処?」

「『ソディール』」

 ぽつりと零れた晶穂の疑問に、リンは一言で答えた。

「そ、でぃーる?」

 晶穂の疑問形には耳を貸さず、リンは真っ直ぐに歩き、洋館の扉を開けた。ギギギという古めかしい音はせず、すんなりと開く。あごで入るよう促され、晶穂は急いでその指示に従った。扉には『銀の華』と書かれた表札めいたものがかけられていたが、それが何を示すものなのかはわからない。

 玄関を入ると、そこは広くホールのようになっていた。両端にある階段が二階へと続いている。奥もまだ深そうで、一階にも二階にも幾つもの扉が連なっている。

 晶穂があっけにとられる中、階段の上から少年が顔を出した。

「あ、団長! お帰りなさい」

「ユーギか」

 ぱたぱたと十歳くらいの少年が駆け下りてくる。彼の姿を見て、晶穂は声をかろうじて抑え込んだ。

(い……犬の耳と尻尾?)

 リンに頭を撫でられて機嫌よく茶色の尻尾を振る姿は、小型犬のそれだ。かわいらしいのだが、現実感がない。そのユーギと呼ばれた少年が、晶穂を見上げて首を傾げた。

「団長。……この人、誰?」

「三咲晶穂。狩人に追われていたから保護した」

「狩人に、このお姉ちゃんが?」

「かりゅうど?」

「あ、お姉ちゃんは狩人を知らないんだね。えっと、狩人っていうのはね?」

「ユーギ、俺が話す。だからお前は克臣かつおみさんたちのところに」

「はーい」

 リンの指示を受け、ユーギは晶穂に手を振って廊下の奥へと姿を消した。

「ついて来い」

 急展開について行けずに突っ立っていた晶穂を先導し、リンはそのまま一階の廊下を進む。途中何人かとすれ違ったが、その中だけでもユーギのように獣の特徴を持つ人とリンのような容姿の人とが入り混じっており、ここが晶穂の知らない世界だということを痛感させられる。

 リンは廊下の突きあたりにある扉のドアノブを回し、晶穂を部屋に招き入れた。部屋の中央には藍色のカーペットが敷かれ、その上には大きなテーブルと四脚の椅子が置かれている。木の壁際には本棚があり、隅にはベッドが備えられている。リンはベッド脇の机に自分の鞄を置くと、晶穂を椅子に座らせた。

「三咲晶穂、といったか。何処から説明しようか? お前を狙った連中のことか、この世界のことか。あとは……おれのこともか」

 水差しからコップに水を注ぎ、リンは晶穂の前に置いた。もう一つを自分にも用意し、彼女の向かい側に座る。

「……全部、最初から、お願いします」

 晶穂は素直に頭を下げた。リンがどういう理由で自分をここに連れてきたのか皆目見当もつかないが、状況を整理する情報が欲しかった。その態度が落ち着いて見えたのか、リンは軽く目を見張った。それから一呼吸おいて、話し出す。

 この世界・ソディールのことを。

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