第一部 狩人編
はじまり
第1話 大学入学
入学式と関連行事を終え、晶穂は大学内を歩いてみることにした。
履修登録は明日から一週間の間に自宅のパソコンから行う。勿論、大学のパソコンを使うことも可能だ。
最後に図書館を見学しようと、二人して真新しい学生証をゲートにかざした。地下一階から地上四階まである大きな館内を上から見ていたが、緩くウェーブのかかったツインテールの美里が、晶穂の肩を叩いた。
「晶穂ちゃん、あの人」
「ん?」
晶穂が視線を巡らせると、本棚に向かって手を伸ばす一人の男子大学生がいた。藍色がかった黒髪がさらりと揺れる。興奮した様子で、美里は晶穂に囁いた。
「ね、かっこいいよね! 先輩かなあ?」
「そうかもね~」
「あっ、あんまり興味ない返事だ! ね、私、あの人狙ってみよっかな?」
「……きっと、ライバル多いよ?」
清潔感のある服装とすらっと高い背。遠めに見てもモテそうな青年だ。
「どんとこい、よ!」
美里は軽く胸を拳で叩いた。「はいはい」と苦笑する晶穂は視線を感じ、ふと振り返った。
「おい、お前ら。新入生か?」
今の今まで話題になっていた青年が、こちらに向かって歩いて来る。二人の前に立った彼の瞳は、よく見れば薄い赤色だ。
ハーフなのかな?
晶穂が内心首を傾げている間に、美里が「は、はいっ」と顔を赤くして答えていた。そんな彼女を一瞥し、青年は冷ややかに言い放つ。
「ここは図書館だ。静かに過ごせ」
「は……はい」
「すみません……」
もっともな注意に、二人はうなだれた。殊勝な態度に「よし」と頷いた青年は、それきり黙って向こうへ行ってしまった。
「……かっこいい~」
晶穂が顔を上げると、隣で美里が頬を染めて手を胸の前で組んでいた。ジト目で見てやる。
「……みーさーきーさーん」
「…………はっ。ご、ごめん」
「そろそろ出よっか」
恋する乙女だなあ、と笑う晶穂に頬を膨らませた美里は、取り繕うように駅前のカフェへ行くことを提案した。
翌日。大学のパソコンルームで美里と共に履修登録を済ませた晶穂は、用事があるという美里と別れた。そして大学書店に立ち寄り、テキストを物色する。幾つかの講義は抽選だが、必須科目にあたる一般教養で使用するテキストは既に販売されている。数冊をレジに持って行く。それから、文庫本などを見に売り場へ戻った。
晶穂と美里は文学部だ。学科は違うが、被る講義も多い。美里にはテキストを下見してほしいと頼まれていた。
ふと書棚から目を外すと、昨日図書館で出会った青年が本を選んでいた。本当に本が好きなんだな、という晶穂の心の声が聞こえたのかは定かでないが、一瞬彼と目が合った。向こうはすぐに視線を戻したが、晶穂は何となく見つめてしまった。
彼は一冊文庫本を手に取ると、レジに行ってしまった。
「……あなたもリンくんを狙ってるの?」
背後から聞こえてきた声に驚き振り返ると、長身の美女が二人立っていた。
「……狙ってるとかは、ないですけど」
「そう、ならよかった。これ以上ファンが増えては大変だもの」
「あんなにかっこいいんだから仕方がないわ。この子みたいな新入生の中にも、目の色を変えてる子がいるって話よ?」
「ファンクラブのリーダーとしては、見過ごせないわね」
「……リン、というんですね」
二人の美女が晶穂そっちのけできゃあきゃあ話し始めてしまったため、晶穂は慌てて疑問を口にした。さっさと疑問を解消し、この場を離れるのが吉である。
「そうよ。……荷物を見る限り、あなた新入生ね?」
晶穂の手に一年生用のテキストがあることを見て、美女の片方が言った。晶穂は素直に頷く。
「はい」
「いいこと?
「……わかりました、ありがとうございました。ではっ、失礼します」
聞いてもいない情報を過多に教えてくれた先輩たちに頭を下げ、晶穂は脱兎のごとく逃げ出した。
書店を出て、ベンチに腰を下ろした。晶穂は先程得た情報をあの「リン」という先輩に興味を持っている美里に教えようか、とスマートフォンを取り出した。メッセージアプリを起動させ、美里にメッセージを送る。
するとすぐに返信が来て、大学食堂に集合することが決まった。あちらも用事とやらは既に終わったらしい。「はやくはやく」とこちらに手を振る犬のスタンプが送られてきた。
「つっかれたぁ」
晶穂は自室のベッドに突っ伏し、ため息をついた。書店を出た後に向かった学食で昼食を食べながら、美里にリンのことを色々と訊かれた。あの迫力は恐ろしかった、と思い出す。ファンクラブの美女たちさながらの食いつきに、晶穂は若干引いてしまった。
明日は土曜日。まだ開けていない段ボール箱があるためそれを開けて整理しよう、と決めていた。それでも時間が余れば、土地勘のない家周辺を散策しよう。
とりあえず、今は夕食だ。晶穂は冷蔵庫から卵を取り出し、ケチャップや鶏肉、ニンジンなどを机に出した。フライパンを手に取り、オムライスを作る。
「ほんと、大学って大変だ」
野菜と鶏肉を小さめに切って、炊いたご飯と共にフライパンに投入し、ケチャップであえる。それを一度取り出して、キッチンペーパーで拭いてからかき混ぜた卵を焼く。ご飯を包んだら出来上がりだ。
施設では最年長ということもあり、幼い子たちの食事を作ることも多かった。オムライスはもう数え切れないほど作ってきた得意料理の一つである。
「……誰もいない、か」
苦笑いをしてスプーンを口に運んだ。今までならば我先にと駆け寄って来た幼子たちは、もういない。それを改めて感じる。
食器を片付け、寝る支度をする。風呂上がりにドライヤーで髪を乾かし、一箱だけ段ボール箱を開けた。お気に入りの文房具や真新しいノートが顔を出す。机の引き出しを開け、シャープペンシルや消しゴムを仕舞った。
ある程度身の回りを片付けると、晶穂は照明を消し、ベッドに倒れ込んだ。
来週から始まる本格的な新生活。一人で暮らすためのアルバイトを探さなくてはならないし、サークル活動の勧誘も始まるだろう。忙しくも充実した日々になることを願いながら、晶穂は眠りに落ちて行った。
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