優しい嘘≒悲しい嘘
秋寺緋色(空衒ヒイロ)
「ねぇ、あたしは生きていますか?」
「もちろん、君は生きているとも!」
「そう。ああ、よかった……本当に……」
☆
あたしは全身麻酔の必要のある手術を受けた。
『扁桃腺切除手術』――ヘントウセンセツジョシュジュツ――早口言葉で使えそうな手術名。
最近ささいな風邪を引いても、すぐに扁桃腺が
幼いころはよく学校を休んでいたが、大人になり、責任ある仕事を任されていては、おいそれと休めない。
一大決心で「人生で初めて手術台で切り刻まれる」ことを選択。
そのとき
ひとことで言うと「私は手術にともなう全身麻酔によって万が一、帰らぬ人となっても文句言いません」――という書類。
署名をし、印鑑を
医師
「まぁ、一応いただくことになっていますー 大丈夫ですー 麻酔から覚めずにそのまま亡くなるってことは、まずあり得ませんからー」
ならば、なぜ書かせる? それと、そのヘンな「のばし語尾」はやめて欲しい。
「ただねー」
「?」
「確率を申しあげると、非生還率は宝くじで一等が当たるよりは高いんですよー」
宝くじ?……一等?……
「形式ですー そうお気になさらずにー 大丈夫ですー」
一緒に医師からの説明を受けていた夫も不安げな顔をこちらに向けてきた。
☆
その夜の食卓――
あたしたち夫婦は話し合った。
『宝くじで一等当たることなんかあり得ないくらい低い確率だ』
『手術の麻酔で生還できない確率もそれに近い確率なのだろう』
『超極低の確率だから、そこまで考えこまないでもいいだろう』
それは世の人々がくだす、当たり前で一般的な判断だったろう。
低確率をいたずらに悩んだってしょうがない。それよりも目の前にある高確率の障害を除くべきだ。
☆
翌日、あたしは手術台のうえに載った。
「そろそろ眠くなりますよ。血管に麻酔いれますからね」
麻酔担当の医師がそういうのと同時に、あたしの意識は遠のいていった……
『宝くじで一等より少しだけ確率の高い当たりって何だろう?』『一等の前後賞かな?』『なるほど』『明日は前後賞取らないようにがんばります』『がんばる? 手術中は前後不覚になるのに?』『ふふっ!』……
そんな夫との他愛もないやり取りを思い返しながら――
☆
「そろそろ患者さんの意識が戻りますよ」
きびきびとした声が聞こえた。
あたしが目を開けると、手術帽とマスクをした男の人がこちらを覗きこんでいる。
あれ? あたしは……?
そうだ。そう……あたしは扁桃腺の手術をしていたのではなかったっけ?
ぼんやりした意識が少しずつ現実感を取り戻してゆく。
ストレッチャーだかベッドだかに載せられ、あたしは運ばれている。
手術室を出たときから、ときおり付き添っている夫の姿が視界にはいる。心配してくれている表情。
ごめんなさい……でもなんとか一等前後賞は引かずに済んだようです……
あれっ?
夫を見て、何か違和感がした。
メガネ、かけてない?……休みの日はコンタクト面倒くさいから、いつだってメガネかけているのに……
あたしは手術前、夫に見送られたときに彼がメガネをかけていたかどうかを思い出そうとしたが、どうにも思い出せない。
個人病室に到着すると看護師さんが、
「ノドの奥を切ってますから、しばらくはしゃべれませんよ。でも意識はしっかりしてらっしゃるようですね」
あたしはうなずいた。
「ぼくが……ぼくのこと、わかるよね?」
あたしに夫がきいてきた。うなずく。
看護師さんが出ていった。
うれしさがこみあげてくる。
良かった。手術は成功したんだ、問題なく……
やったぁ! 一等前後賞、ちゃんとハズしたぁ~~っ!!
ノドを刺激しないよう、心で叫んだ。
☆
そうしたわけで、あたしは入院生活を送っている。
本日で十日目。あと四日もすれば退院。
術後の経過は順調だった。午前中の点滴が終われば、お昼ごはんが楽しみでしょうがない。
今日は中華春雨と白身魚のタルタルソースがけ……美味しそう……
――けれど、あたしにはひとつ気がかりがあった。
何かが違う気がする。そこはかとない差異を感じる。
何と何に――!?
手術前と、手術後に、だ。
何かが違う。
大きな、決定的な差ではない。だが、日常を送ってゆくといくつかの違いに気づく。それは手術前にはあって、手術後にはなくなったり変わったりしている。
あたしの記憶違い?――そうも思った。でもそうではないと考えなおす。
あまりに数が多すぎる!
医師の喋り方、語尾が変わった。
夫がいっさいメガネをかけなくなった。
そのほかにもいろいろな変化がある。
規模が大きいところだと、いつの間にか病室が変わっている――階すらも変わっている気がする。
――まさかあたし、……じゃないかな?……
あたしは唐突に浮かんだキテレツ極まりない考えを即否定した。
そんなことありえない、わよね……
夫を見る。彼は昼ごはんの配膳車がくるまでの暇つぶしに、小説の文庫本を読んでいた。
夫の名を呼んだ。
「何? どうかした?」
あたしは小説をかたわらに置く、彼の手の動きを目で追いながら、
「ヘンなこときくんだけど……」
「?」
あたしは大きくひと呼吸して息をはいた。
「ねぇ、あたしは生きていますか?」
「もちろん、君は生きているとも!」
「そう。ああ、よかった……本当に……」
夫はあたしを静かに見つめている。
「――でも、わかったわ……」
質問を予見したかのような、間髪入れない返答。こちらの疑念を払うような強い口調も作為に過ぎている気がした。それに普段の彼はもっと落ち着いたしゃべり方だった――少なくとも手術前は。
「何が?」
「それは優しい嘘――でも、悲しい嘘……ねぇ、あたしは目を覚ますことができなかったんでしょう? 麻酔で目を閉じたまま、そのまま――」
「なにバカなことを言ってんだよ!」
瞬間、目の前の夫と病室の光景がぐにゃ~んと微かに旋廻しはじめた。
「ごめんね。一等前後賞に当たっちゃって……」
虚構の世界が歪み、ねじけてゆく。
「ありがとう……さようなら……」
最期にはねじ切れて消えてしまった。
すべて――
〈了〉
優しい嘘≒悲しい嘘 秋寺緋色(空衒ヒイロ) @yasunisiyama9999
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