第15話『大空戦・若鷹』

 空から舞い戻ってきた若鷹は、風防を開けると、主翼の上に両の足で立った。その出で立ちはまるで疲れなど感じさせないようで、眼光はカミソリのように鋭かった。


 若鷹はしっかりとした足取りでアスファルトの上に降り立つと、側にいた僚機の操縦士から水筒を受け取って格納庫の中へと向かう。


 若鷹は周りの整備士や、仲間の操縦士よりも小柄ではあったが、その立ち振る舞いに隙はなく、鋭い眼光と彼が纏っている、相手に有無を言わさない空気の外套が自然と若鷹に畏敬の念を集める。


 すれ違う者は全て、若鷹と目を合わそうとしない。その爛と光る双眸に捉えられれば、二度と逃れることはできない。そんな恐怖を全ての者にひと目で理解させる雰囲気を、若鷹は纏っていた。


 若鷹は格納庫の中の長椅子に腰掛ける。そうして、規則正しく早く繰り返す呼吸を鎮めていく。浅く早かった呼吸はやがて、深く大きいものに変わる。


 そうして、若鷹は上がり切った心拍を落ち着かせようとした。だが、思ったよりも彼の心臓は興奮を収めようとはしなかった。あの時、あの一瞬。それまで若鷹が圧倒していた相手が、ほんの一瞬だけ完璧に若鷹の動きを見切り、手にした刃の切っ先を若鷹の首元へと当てようとしていた。若鷹は偶然に救われたが、その偶然はその相手をも助け、結局その立ち会いは仕切り直しとなってしまった。


 若鷹は負けてはいない。それどころか、若鷹が圧倒していた場面のほうが多かった。だが、その一瞬だけが、若鷹の網膜に焼き付けられている。あの時、背後から感じた刀の鋭い切っ先を首に突きつけられたような冷たい感覚だけが残っている。


 あの時、あの一瞬。そこだけ、たったその時だけの負けで、もしかしたら全てが決まっていた。

 若鷹は両膝に手を付き、うなだれ、視線をアスファルトへと向ける。



「…………。」




 そして、上げた若鷹の目は妖々と輝き、口元は不気味に笑っていた。


 この胸の高鳴りは興奮からくるもの。一瞬刹那の攻防、刃の一振りだけが勝敗を決するようなそんなギリギリの戦いに身を投じた、若鷹が久々に感じる高揚だった。




「あの飛行隊は、臥軍の843飛行隊と言うそうだ。無線での呼称はロイヤル・ウィングらしい」




 細身の中身長で白髪交じりの山城帝国海軍航空隊の飛行服を着た初老の男が、若鷹の目の前に立っていた。その男は、若鷹のいる格納庫から離れたところにある格納庫の前に駐機されている異国の青い機体を眺めていた。




「あれが、ロイヤル……」




 若鷹は眼光そのままに青い機体を見つめながら、目の前の男が差し出してきた追加の水筒の中の水を呷った。




「那珂さんは、アレをどう見ましたか?」




 飛行服に付いている階級章の線は、若鷹の方が目の前の男よりも一本多かった。だが、若鷹は目の前にいる最古参の古鷹に一目置き、また師のように慕い、父のように思っていた。




「そうだな、あの内の……そうだ、最後の編隊の長機だが、中々の腕前をしている。気持ちのいい飛び方だ。機体の扱い方が上手いな」




 那珂は細く切れ長の目をさらに細め、西日を跳ね返す蒼翼を眺めながら言った。




「だが、技に関してはお前の方が上だ。それにアレも中々に屈強だが、高Gでの反応はお前に劣っていた。それに僚機との連携もまだまだ頭で考えているように思える」


「以心伝心……その極地にはまだ達していないと?」




 若鷹も多くの整備士が周りを忙しく動き回っている青い機体を眺めながら、那珂に聞き返した。




「動きを見るに、まだ僚機を完全に信頼しきれていない。どこにいるのか常に考え続けている証拠だ。常に僚機が助けに入らない場合を想定して、逃げ道を用意している。だからこそ、お前に決定的なトドメを刺すことができない」




 若鷹は、那珂の言葉を受けてしばらく黙り込んだ。確かに那珂の言うことは正しい。あのロイヤルの機体は、個の技術なら若鷹に匹敵するものがあったが、若鷹の僚機を警戒しすぎて若鷹への狙いが甘くなる時があった。


 だが、それでも最後の一瞬、あの一時。若鷹が敗北を悟ったあの瞬間だけは、あの機体は僚機のことなど放り出して、若鷹だけを見据えて、その首筋へと必殺の一振りを浴びせようとしていた。だからこそ、若鷹は那珂の言うことを素直に受け入れることができなかった。


 若鷹は、その疑問をそのまま那珂へとぶつけてみようと思った。




「でも、最後は、あの機体の操縦士は後ろのことなんて考えていませんでした。俺のことだけを見ていて、確実に殺すことだけを考えていた」




 若鷹がそう言うと、古鷹は唸り、しばらく黙り込んでしまった。恐らく、歴戦の古強者である彼でも、あの操縦士の実力は計りかねるのだろう。古鷹の細く皺だらけの双眸は蒼翼へと向けられて動かない。


 しばらくしてから、那珂がようやく口を開いた。




「思うに、あの操縦士は理論的に戦う性分だ。あらゆる状況の作り方、そこから敵機の戦技に対する返し技の知識と技術が並外れている。だからこそ、ある状況での敵機の動きに対する対処が素早くできるわけだ」




 そこまで言って、那珂は口を閉じた。そうして、細めていた目を開き、今度は鋭く獲物を見定めるかのような眼光を湛えながら青い機体を再び見る。それから、重々しく口を開いた。




「だが、戦場は論理だけが支配する場ではない。数百数千回の素振りの内の一回に宿る奇跡のような煌めき、それこそが趨勢を決することがある。理論を詰め込み、それを物とする者は強いが……それでも素人の一閃に負けることもある。論理のその先にあるものを掴み、一瞬の必殺の間を作り出す者だっている。いつの時代、どの武器を握っていようと、強者とはそういう者のことを言うのだ……」




 そう言う古鷹の言葉には、滲み出る実感がこもっていた。古鷹の表情はいつのまにか硬く険しいものになっていた。




「あの一瞬は、そんな煌めきだった。お前がミスをしたわけでもない。ただ、あの操縦士が瞬間的にこの空を支配した、それだけのことだ」




 そう言われると、若鷹の中にむくむくと芽生えるものがあった。古くから慕っていたこの古鷹にそう言わせてしまうあの操縦士が憎くも、羨ましくもあった。だが、今若鷹の心を支配しようとし始めていたのは、青く猛々しく、荒々しい炎であった。


 若鷹は情動そのままに立ち上がり那珂へと言った。




「あの機体は……俺が墜とします。俺以外に、この空を飛ばさせない」




 そう言い切り、若鷹は自機の元へと歩き始めた。その西陽が輪郭を照らし出す背中を目を細めながら見つめていた那珂は、頭をかきながら言った。




「あれは……あぁ、少し煽りすぎちまったかなァ」




 それから若鷹がさっきまで座っていた場所に腰を下ろし、本国で作戦前に下賜されたものとは違う、アウスリアの操縦士から買った煙草を一本取り出し、火をつけて一つ吸った。古鷹の吐き出した紫雲が、赤みがかった夏空へとゆらゆらと昇っていく。

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