第13話『大空戦』

「前線基地への移動?」


 ガルガンドーラ王立海軍艦隊航空隊843飛行隊の隊長の大尉が、昼前の明るい陽に影になっている連絡官の背に向かって聞き返した。


「そうだ。先日完成した前線基地の飛行場が近々運用を始められる。諸君らはその前線基地へと飛び、即日新たな任務に着任する。新天地では諸君らにより過酷なミッションが与えられるだろう」


 連絡官の男は、二本の指がついている右手で仰々しく説明をする。


「新しい連絡官は新たに派遣される。そして俺は呑気でのろまな輸送機連中の相手さ。諸君らにアグレッシブでエキサインティングなミッションを与え、血肉脇踊るレポートを読むことがなくなると思うと、寂しくなるな」


 連絡官のジョークに、843飛行隊の面々が苦笑する。


「出立は明後日、8月24日0900、北西約800キロメートル先にある前線基地への移動が任務だ。未だこの大陸の地図は未確定な部分が多い。迷うなよ?」


「王立ロイヤルの名をかけて、成功させますよ」


 大尉のジョーク交じりの返事に、連絡官がニヤリと笑う。


「よろしい。では解散だ。各々、思い残すことはないように」


 連絡官の男が高らかに宣言すると、843飛行隊の面々が一斉に軍靴を鳴らし、ピシリと揃えられた敬礼をした。連絡官の男が同じように敬礼で返すと、843飛行隊はガルガンドーラ海軍に割り当てられた連絡官執務室から退出していった。


 × × ×


「新たな任務だ……とはいえ、ただの移動だが」


 山城帝国海軍のアテーナイ基地付き連絡官は、きっちりとした丸刈りに切れ長の目、シワひとつなく伸ばされた純白の第二種軍装を着込んだいかにも謹厳実直な男だった。


「明後日0600発、方位080距離1000にある前線基地に飛び、給油の後にすぐ偵察だ。詳しくは命令書を読め。以上だ」


 連絡官はそれだけを言うと、すぐに書類の山に目を戻した。葛城と伊吹は右手できちりと敬礼し、命令書を受け取って黙ってその場を後にした。


「前線、か」


 山城の連絡官執務室から士官用の共同部屋への帰り道、東日が差すチークの床の簡素な廊下を歩いていると、伊吹がぼそりと呟いた。


「ここも遠いものだが、今度は更に遠いな」


 中央海の南端にある山城からアテーナイまでは1万キロメートルほどもある。そして更に、今度は1000キロメートルも離れることになる。


「寂しいのか?」


 葛城に負けず劣らず無口な伊吹が感傷に浸るのは珍しい。というより、葛城は見たことがなかった。だからというか、ふと、気になって聞いてしまった。


「いや、何。祖国が恋しいわけじゃない。こんなところにまで派兵して、この国はどこに向かうのか、とな。遠くまで手を伸ばして、その先に何があるのか」


 伊吹がニヒルにふっ、と笑った。この女が笑うところを葛城は見たことがなかった。この女の思想も、何もかも。葛城は知らない。ただの後席の、仕事の道具とさえも捉えていたこの女のことを。


「まあ、先に何が待ち受けていようと、私たちは命令に従うだけか」

「…………。」


 その伊吹が初めて見せる様子が意外で、葛城はしばらく言葉を失っていた。なんとなく気まずくて、窓の外に目線を逸らして黙りこくって廊下を歩いていると、外の格納庫の方から賑やかな声が聞こえてきた。それから、小型のエンジンの音がし、すぐに遠ざかって行った。


 見やると、アウスリアの戦闘機の飛行中隊が滑走路で離陸しようとしていた。


 見上げると、既に何機かが上がっていて、くるくると組んず解れつの空中機動を繰り返していた。


「もう始まっているのか」


 葛城が足を止めて窓の外を見上げていると、いつのまにか伊吹の顔が息がかかりそうなくらいの距離にあって、葛城と同じ様に窓の外を見上げていた。


「なんなんだ、あれは?」


 伊吹は訳知りのようだったが、葛城には一切分からなかった。今のアテーナイには、近日中に前線へと移動する連中しかいない。本来なら身支度などで忙しいはずだ。


「なに、こうやって同業者が一堂に集まるのは二度とないことだ。そうなれば、一度は手合わせをしたいと思うのが武者といつものだろう?」

「……なるほど」


 確かに、前大戦の怨讐を抜きにして世界各国の軍が集まるのはもう二度とないことかもしれない。次に会うとすれば、戦場で砲口を向けているかもしれない。


 となれば、今の機会を逃したくないのは兵つわものとしては当然の感性か。


「あれは……ロイヤルか」


 滑走路に、今まさに飛び立とうとしている飛行中隊がいた。機体は海のように濃い青で塗られたシーセイバー。ガルガンドーラ王立空軍最新鋭のセイバーMk.5を王立海軍艦隊航空隊用に空母への着艦装置などの改修を行った、王立海軍虎の子の最新鋭機。


 そしてこのアテーナイでシーセイバーを使う飛行中隊と言えば、"あの"843飛行隊ロイヤル・ウィングしかいない。


「今飛ぶぞ。葛城、少し見ていこう」


 伊吹は、相手を値踏みする猫のように目を光らせ、窓のサッシに両腕をついて体をもたれさせながら言った。


「珍しいな」

「戦闘機連中の動きを見ることも鍛錬の内だ。お前が相手しなけりゃならないのは龍だけじゃないだろう?」


 そう言いつつも、伊吹の声色には喜色のようなものが滲んでいた。葛城はなんとなく暇を潰そうと、その場に留まって伊吹の横で空を見上げることを選んだ。


 ロイヤルの群青のシーセイバーがゆっくりと動き出す。やがてふわりと浮き立ち、足が地を離れた。先頭のシーセイバーが翼を振りながら上昇していく。


 遠くに白亜の巨塔のように聳え立つ入道雲を見据え、翼を翻した蒼のシーセイバーが陽の光を返し、大空の紺碧へと溶けていった。


 × × ×


 843飛行隊は驚天動地の大騒ぎに包まれていた。連絡官から前線基地への異動命令を受領して、愛機が眠る格納庫へと向かった一同を待ち受けていたのは、ハンデルセンのパイロットからの模擬空戦の誘いだった。


 もちろん全員沸き立つ。ハンデルセン公国は同盟国だが、前大戦の傷跡真新しい中、そうそう演習をする機会はない。


 しかしそこにプライセン共和国空軍のパイロットが加わった。プライセン共和国が誕生する前にその土地にいた帝国の名はプライセン、前大戦で一時は海峡を超えてエリミネア大陸まで版図を伸ばし、中央海諸国の支援を受けたエリミネア大陸を中心とする連合軍に完膚なきまでに叩きのめされた前大戦の根源だ。プライセン共和国は軍の解体はされなかったものの、大幅な軍縮に兵器開発への理不尽なまでの制限、大量の賠償金を課せられた。この作戦に一個戦闘飛行中隊を派遣できただけでも驚きという有様だった。


 そして当然、前大戦の禍根は未だ消えていない。前大戦最大の交戦国の一つであったプライセン共和国に反感を持つ兵士は少なくなかった。


 もちろん険悪な空気になる。プライセン共和国の連中も煽り、火に油を注いだ。しかし、その中に躊躇なくフランチェの戦闘航空隊のパイロットが無用心に、無神経に割り込んできた。するとその場の空気が変わり、三つの国の戦闘飛行中隊が三つ巴の模擬空戦をする、という話を側で聞いていた他国の戦闘機パイロット連中がこぞってこの話に乗っかってきた。みな、それぞれの軍の中でも選りすぐりの凄腕という自負があってのことだった。自分の腕を試したい奴、前大戦の恨みを晴らしたい奴、国の威信を見せつけようと意気込む奴。いろんな奴がいた。


 そんなこんなで、みなが前線基地へと散り散りになる前に、一生に一度も体験することのできないような大空戦をしようという話になった。


 しかし843飛行隊はここでお預けを食うことになってしまう。隊長が言った。明後日の移動の準備が終わらない内は飛ばさせない、と。


 それに呼応するように、各国の戦闘飛行中隊の隊長がまず先に準備を終わらせろと部下に命令し始めた。


 目の前に特大級のエサを垂らされてお預けを食らった843飛行隊の面々は、それからいつもの3倍もの速さで荷物の整理と共同部屋の清掃を始めた。その目は血走っていたという。


 それから843飛行隊の面々は、定期的に行われる士官による点検の時よりも丁寧に、手早く、集中を極めてこれまでになく清潔で整った部屋を最短の時間で仕上げた。


 その隊員の熱意に隊長は呆れながらも、自らも心のうちから湧き上がってくる熱いものを自覚しながら、格納庫へと隊員と共に向かった。


 格納庫では、リンダをはじめとするガルガンドーラ海軍の整備士たちが怒号を飛び交わせながら、油まみれになって機体をいじっている最中だった。


「ああ、来たか。丁度いい。そこのボルトを取ってくれないか?」


 リンダの第一声はそれだった。リュークはそばに転がっていたボルトをリンダに手渡すと、近くに転がっていた一斗缶を逆さに立てて座った。


「随分と騒々しいな。どうしたんだ?」


 リュークが、シーセイバーの左翼の下で屈んでナットを締めているリンダの背中を見ながら聞くと、リンダは息を漏らしながら言った。


「んっ……ああ。お前らが最後に大空戦をするって聞いてな。こりゃ見てるだけじゃいけねえって他のモンが言い出したんだよ。まったく、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。空のことしか見えてねえ」


 そう愚痴りながらも、リンダの顔には熱く滾るものが宿っているように見えた。


「ま、空戦ってのはパイロットの技術だけで決まるわけじゃない。そのことを教えてやるさ……この、最高の機体でな」


 そう言って、リンダは左翼の下から這い出て立ち上がると、黒くなった軍手で頰を拭った。


「さあ、行ってこい。みんなお前らが飛ぶのを待っているんだ」


 リンダは、昼下がりの暖かい陽が差し込む格納庫の中でそう言って微笑んだ。その顔には伸びた油の黒い汚れがいくつも付いている。


「ああ、行ってくるよ。勝利を持って帰るさ」


 リュークは立ち上がって言い、シーセイバーの左翼に飛び乗り、コックピットへと飛び込んだ。リンダが左翼から少し離れたところまで下がる。


 飛行帽を被ったリュークが、スイッチを切ってエンジンに点火する。アーサーエンジンが一度身震いし、すぐに小気味よい回転音がし始めた。


 リュークは、操縦桿に添えた右手をそのまま、左手でリンダに敬礼をする。リンダはそれに左手を振ることで応えた。


 スロットルに左手を添える。スロットルを押し、エンジンの回転数を上げる。エンジンが一層吠えた。いい音だ、本当に最高の状態に仕上がっている。


 プロペラピッチを上げると、のっそりと機体が前に進み始めた。リュークは機体を蛇行させながら滑走路まで移動する。


 滑走路手前まで来た時、リュークの頭上をハンデルセン公国陸軍航空隊のP41戦闘機が軽快なエンジン音を撒き散らしながら飛び去っていった。


 それを見送り、リュークは滑走路まで進む。そして管制塔から離陸許可が出たと同時にリュークはスロットルを押しこんだ。


 機体がのっそりと動き始める。あっという間にシーセイバーは加速していき、風防の外の景色がリュークの背後に向かって渓流のように流れていく。


 体がぐっと座席に押し付けられる感覚。爽快な加速度がリュークの心を掻き立てる。


 誰よりも上へ、誰よりも早く、あの青の下へ。


 リュークは迅はやる気持ちそのままに地から脚を離し、大空を駆け上がっていった。




 わずか2分ほどで、843飛行隊は高度5000メートルの高みにまで登っていた。アテーナイが小さく見える。参加国全ての人員と機体を受け入れるだけの広さと大きさを持つあの基地が、まるでミニチュアのようなスケールにまで縮んでいる。


 今、空に上がっているのはハンデルセン公国陸軍航空隊のP41戦闘機の航空隊と、ロッシャ帝国軍のウリヤノフスク設計局製Uly1戦闘機の航空隊だけであり、今まさにアウスリア空軍のブラスカ戦闘機の航空隊が上がろうとしているところだった。


 位置関係としては、3キロメートルほど先、高度6000ほどにP41が、6キロメートル後方高度3000ほどにUly1がいる。


 そして、P41は真っ直ぐこちらに向かって反航するように緩降下しながら向かってきており、Uly1は状況を静視している。


 始まった。今まさに、この大空戦の火蓋は切って落とされた。P41たちと843飛行隊は高度差があり、機体性能的にも速度で負けている。P41たちがその高度から843飛行隊に向かって降下すれば、シーセイバーではどうあがいても追いつくことはできない。


 と、すれば。速度以外の要素で打ち勝つしかない。シーセイバーの旋回性能と上昇力が並外れていることは、長きに渡る習熟飛行と、このアテーナイで日々飛び立つ他の飛行隊の機体を見てきたことで把握していた。


 ならば。P41が降下し、こちらに向けて射撃を始めたタイミングで回避し、その旋回性能を以ってカウンターを狙う。


 P41は、その速度性能と今の高度差にものを言わせて降下して一撃を入れては上昇して離脱することを繰り返す一撃離脱ヒットアンドアウェイを狙っているのだろう。高度有利からの一撃離脱は、相手が反撃をしづらいために、安全に戦える最も基本的な戦術だ。レシプロエンジン程度の力では、機体を上昇させようとすると速度を大きく失ってしまう。しかし、相手より速度があれば、相手よりも高く上昇することができる。それを利用して、相手に手を出させないまま、自分は有利な位置から安全に攻撃を繰り返すことがこの戦術の真髄だ。


 だが、それが効くのは高度不利にいる遅い機体か、鈍重な機体か、新兵だけだ。ここにいるのはガルガンドーラ王立海軍艦隊航空隊第843飛行隊。激しい龍との戦闘の数々を物ともせず、一機たりとも損失を出したことのない最強の空の騎士団である。


 単純な一撃離脱では、843飛行隊に傷一つ付けることはできない。


 P41が迫ってくる。距離はもう2キロメートルというところだろうか。時速400から600キロメートルで水平飛行する戦闘機同士では、2キロメートルの距離を詰めることなど1分もかからない。


 瞬く間にP41の機影が大きくなっていく。リュークは、風防越しに降下してくるP41を見据え、操縦桿を握る右手に力を込め、右親指をトリガースイッチに添えた。


 P41との距離が1キロメートルを切る。リュークたちの上に広がるP41たちの両翼から火が吹き出てきた。同時に、リュークは操縦桿を右手前に思い切り引く。シーセイバーの翼が陽光を切り替えして煌めき、リュークの体に巨人が腰掛けたかのような猛烈な重みがのしかかり、機体がわなわなと震える。リュークはそれに歯を食いしばって耐えた。


 シーセイバーが右に傾いた円の機動を描き、その円環の内を、P41がバラまいた機銃弾が通り過ぎていく。降下してスピードの乗っていたP41は、そのシーセイバーの動きに付いていけずにオーバーシュートしてしまった。


 オーバーシュートしたハンデルセン人のP41のパイロットが、後ろを振り返る。風防越しに、一回転して背面を地面に向けたシーセイバーの両翼から飛び出した二門の機関砲の黒い砲口に目が吸い寄せられる。


 シーセイバーは縦旋回をしながら一閃、空を切った。シーセイバーの両翼の機関銃から弾丸が放たれる。曳光弾も混じったその機銃弾の雨は、まるで剣を縦に振り下ろしたかのように散らばった。


 P41のコックピットが着弾の衝撃で振動する。P41のパイロットが翼を見ると、茶色だった翼は見事な青色に染まっていた。訓練用のペイント弾が、綺麗に翼に当たっていた。


 すぐに、戦果確認機として飛んでいた観測機から、ハンデルセン公国陸軍航空隊に三機分の撃墜判定が下された。


 一撃離脱を見事に避けられ、華麗な一閃と共にあっという間に屠られたことに、P41のパイロットは嘆息する。そして翼を振りながら、味方に撃墜されたことを告げてその空域から去っていった。


 リュークは、一度機体を立て直して周囲の様子を確認した。P41たちは既に上空へと離脱している。数えてみると三機ほど足りない。風防のへりから下を覗くと、三機のP41が降下していくのが見えた。その全ての翼が青く塗られている。どうやら他にもカウンターに成功した味方がいるらしい。


 今度は周りに飛ぶシーセイバーの方を数えてみる。十六機いた。全機揃っている。落とされた機体はいないようだ。


『今のは危なかった!』

『おい、今墜としたのは誰だ?』

『リュークと俺と隊長だ』

『さすがは隊長と騎士どのだな』


 空の熱にやられた野郎どもが無線でやいのやいのと騒いでいる。


『おい、俺だって堕としたぞ!』

『馬鹿野郎、お前のはまぐれで翼端に当たっただけだろ』

『なんだと? なんなら俺が全部墜としてみせたっていいだぜ?』

『馬鹿野郎、そんなことはまずリュークを墜としてから言え』

『あんなのを墜とせるわけないだろ⁉︎』


 調子者のジョージとその僚機のデイヴィッドの無線に、843飛行隊の面々が笑う。そこに、苦笑気味の隊長の声が混ざった。


『おい、連中が引き返してくるぞ。用意しろ』

『アイ・サー!』


 P41が上空で反転し、再びこちらに向かって降下してくる。リュークは極めて冷静に、冷徹な目でその編隊を見据える。


 距離が詰まってくる。さすがは速度性能に秀でた機体だ。その勢いは圧倒的で、予想していたよりも遥かに早く詰めてくる。


 だが、どうであろうとあれは墜とす。誰一人手を触れさせやしない。この空に最後に残るのは俺だ。


 操縦桿を押し倒し、緩降下で機速をできるところまでP41と揃える。P41たちは頭数がこちらより少ない。よって、この降下で狙われる機体とそうでない機体が出てくる。それを見定め、味方の数的有利と連携を以って相手を圧倒すれば連中を与くみすることができる。


 ぐんぐんとP41が迫ってくる。今、P41はこちらの背後から追うような形で、距離2キロメートルほどのところにいる。P41は高度有利から降下してきたとはいえ、緩降下でスピードを付けているシーセイバーに苦もなく追いすがり、眼を見張る速度で距離を詰めてきている。


 さあ、来い。何機で来ようとも全て避け切ってみせる。


 バックミラーに映るP41がついに限界まで大きくなった。リュークが操縦桿を左手前に引き倒したのと、P41の両翼から火が吹いたのは完全に同時だった。P41はおよそ700メートルの距離から射撃を開始したが、シーセイバーは同時に左上方へと身をひねり、その射弾の全てが空を切った。


 シーセイバーは銃のライフリングをなぞるかのような螺旋の軌道を描く。風防の景色がぐるりと回るが、リュークの頭上には必ずP41がいた。


 シーセイバーは旋回をしたことで僅かに機速を失った。P41は減速できずにシーセイバーの前方へと押し出されてしまう。シーセイバーが機位を戻してブーストをかけ、P41に追いすがる。P41は、セオリー通りに上昇して離脱を狙おうとした。しかし、シーセイバーとP41では最高速度で買っていても、上昇力で圧倒的に負けている。シーセイバーの優秀な上昇力に、P41の上昇力では打ち勝つことができない。ぐいぐいと、今度はシーセイバーが上昇するP41を追い詰めていく。


 リュークが光学照準器の円の中心にP41を捉えた。機速の差はほとんどなく、P41は上昇することに専念していて回避機動を取っていない。距離も近く、機銃弾の落下を考慮する必要はないだろう。


 百発百中、必中の絶対のタイミングだ。リュークが操縦桿のトリガースイッチにかけた右親指を押し込もうとする。


 しかし次の瞬間、リュークはトリガースイッチから手を離した。ふと、このままこの敵を撃っていいのか、という疑問が湧いた。そして、考える前に体が動いた。腕が操縦桿を右手前に引く。天に向けて機首を突き上げていたシーセイバーは、後方宙返りをするかのように急旋回した。その瞬間、シーセイバーがいた位置をP41二機の射弾が通り過ぎていった。


 P41たちは、1度目の降下で、843飛行隊の練度と一撃離脱への理解が並外れていることを察知していた。そして、リュークの技量が一番であると理解していた。


 そのため、まず1度目の降下で僚機を失った一機がリュークに仕掛け、リュークがカウンターを狙ってその機の背後に付いた瞬間を二機で狙う作戦に切り替えていた。


 まずはエースを数と高度有利で絡めとり、その後はセオリー通りの一撃離脱を繰り返して安全に数を減らしていく。定石中の定石だ。


 射弾を回避したリュークを二機のP41の編隊が追う。リュークは降下して仕掛けてきた機体を追っていたせいで速度を失っている。一方で、二機のP41はリュークが初めに降下したP41を追うのを上空で待ち、機を見計らって降下してきたために速度が乗っている。リュークと二機のP41との距離は圧倒的な早さで縮まっていき、そしてP41の照準器にリュークのシーセイバーが入った。P41のパイロットがスロットル横のトリガーを押そうとした瞬間、P41の背後から風防の上を射弾が掠めていった。P41は慌てて下向きに180度のループ機動をし、降下して増速しながらその場を離れる。


『よう、騎士どの。生きてるか?』


 無線からスカしたような声が聞こえる。


「ああ、メイナード……助かったよ」

『今度は全方位に神経を張り巡らすことだな』

「そうしているつもり、なんだけどね。……そのための編隊僚機さ」


 一機のシーセイバーが、リュークのシーセイバーの右隣に降りてきた。


『はん、言いやがる』


 リュークの編隊僚機のパイロットはメイナード・F・ハーキュリーズという飛行軍曹の男だった。長身で、鍛えてはいるが軍人にしては細い体つきに、飄々とした物言いの食えない男だった。


『しかし厄介だな』


 無線を通して、隊長のボヤきが聞こえてくる。


『奴らは絶対に一撃離脱を崩さない。そして、狡猾に、合理的に狙ってきている。セオリー通りだが、それだけに手強いぞ』


 隊長の独り言に、無線は沈黙する。誰もが分かっていた。このP41の飛行中隊は、初めこそ3機も墜とされたが、冷静になれば恐ろしい手練れであることを。


 一撃離脱のルール、セオリーをキチンと守り、お手本のような戦い方をしてくる。だが、それだけに隙がない。そして、敵は全機が一斉に降下を始めるのではなく、味方の一部が仕掛けて、それが失敗したらその味方が引きつけてきた敵機を上空で待機していた味方が降下して攻撃をするという、見事な連携を見せている。複数の敵機に囲まれた、エネルギーを失った機体の運命は悲惨だ。一撃離脱を繰り返す敵機に弄ばれ続け、エネルギーを使い果たし、フラフラになったところをハイエナの如き敵機に食われる。まさに狡猾で定石通りの戦術だ。


 リュークは周囲を見回してみた。辺りには、15機のシーセイバー、上空に離脱していく13機のP41、そしてところどころに発生している夏の大きな積雲。


「大尉、少し持ちこたえていてください」

『リューク?』


 隊長が怪訝な声を返す。しかし、リュークは続けた。


「この場から動かないように、回避に専念していてください」

『……分かった。お前ら、いいか、回避だ。回避だけしていろ』

『アイ・サー』


 隊長はしばらく黙った上で了承し、隊員たちは訳がわからないまま、しかしリュークの言うことに納得した。


「俺はしばらく離れます。5分後に……全てを決めます」

『言うじゃねえか。やってみせろ』

「アイ・サー! メイナード、付いて来い」

『あいよ』


 リュークは、メイナードを連れてその場から離れる。二機は一つの巨大な白亜の積雲を目指していた。


 定石を常に守り、ぴったりと逸脱しない敵にはどうすればいいのか。それは、定石外の行動からの奇襲しかあり得ない。


 隙がないのなら、本来は隙になり得ないところから襲うのだ。幸い、この場にはそれができる環境がある。


 リュークとメイナードは積雲に迷わず飛び込んだ。これで、P41からも、843飛行隊からも、リュークとメイナードの居場所が分からなくなった。


『引き返した、また来るぞッ!』


 無線から隊長の声が聞こえる。それからしばらくして、騒がしかった無線からノイズが流れ始め、やがてそれさえもぷつりと消えてしまった。


『で、隊長たちを残して何か方策はあるのか? 騎士様』


 亜麻色の中を上昇しながらメイナードが聞いてくる。リュークとメイナードの機体の周りは陽を受けて亜麻色になった雲に囲まれ、視界はない。リュークの左後ろを飛ぶメイナードからは、リュークの機体の影が薄っすら見える程度だった。


「まあね」

『そりゃあ是非とも聞いてみたいもんだね』

「もう、分かってるんだろ? ここまで来りゃわからない方が不自然だ」


 一撃離脱を繰り返す敵、発達した積雲、こっそりと別行動を取るリューク、これだけの要素が揃えば、大抵のパイロットならリュークが何をしようとしているのか理解できるだろう。しかし、積雲の中では視界が全くなく、編隊で飛ぼうものなら衝突や僚機を見失う可能性があり、更に地平線などの水平を確認する目印が無く平衡感覚を失ってしまう水平失調症を引き起こす危険がある。そのため、雲の中を編隊で飛行するのは大きな危険を伴う上、それを抜けたところで普通は二機程度が飛行隊の上空を取ったところで絡め取られてしまう。だからこそ、敵はその手をあり得ないと断じてしまう。


 セオリー通りに戦うのなら、セオリーを破り捨ててその外から殴れば良い。そしてリュークとメイナードはそれが可能な、843飛行隊の精鋭だった。


 今更お互いを雲程度で見失うことなどない。たかだか十数機程度の敵に負けはしない。いつも最後に皆んなの頭上で翼を煌めかせていたのは843のリュークとメイナードだった。


 山のようにそびえる巨大な積雲の真っ白ででこぼことした険しい尾根が裂け、弾け、中から弾丸のように海のような青色のシーセイバーが天へと鏃のような頭を突き立てて飛び出してきた。続いてもう一機のシーセイバーが、僚機が開けた塞がりかけていた穴を再び突き破って飛び出してきた。


 風防の目の前を流れていく亜麻色が消え去り、眩しく輝く青が視界を満たす。リュークは、軽く辺りを見回してみた。どうやら、今抜けたのが一番大きい積雲だったらしい。頭上には一面の青が広がり、まばらに散る積雲たちが全て眼下に見えた。


 計器盤を見ると、高度は7500メートル、機速は毎時260キロメートルだった。操縦桿をゆっくりと前に押し倒し、機位を水平に戻した。


 しばらく右回りに緩旋回をしていると、グルグルと取っ組み合う機影たちを遠目に見つけた。距離は5キロメートルといったところか。


「見つけた」


 リュークは機首をその集団のやや南側に向けた。ちょうど今は昼時である。ならば天頂付近にある太陽を利用して、敵から見たときに逆光となるように位置どりたい。


 黒く小さな影たちはいくつかが上昇と降下を繰り返し、もう一方は回避に専念している。時々、下の方にいる影の何機かが上にいる影に追いすがるが、上にいた別の影に追い払われている。


 ああ、早く。早くあそこへ。リュークの中の何かが彼を急かす。それはこの青の頂きの中でむくむくと膨らみ、果てしない高揚感を掻き立てていく。


 リュークとメイナードのシーセイバーは、昼下がりの眩い陽を翼いっぱいに受けながら、白亜の巨雲を見下ろしながら空を翔けていく。彼らより上にいる者は誰一人としていない。


 遥か彼方の、濃い大きな空の蒼と、煌めく広い海の青のグラデーション同士が混じり合う水平線を背景に、843飛行隊とP41がぶつかり合っていた。もう、互いの機体の迷彩がはっきりと見えるほどに近づいている。


 あと少し。あともう少し。そうしたら、全てが始まる。リュークの心は迅る。


 やがて、リュークとメイナードは、843飛行隊の面々に夢中になるP41たちを、見下ろしていた。


「行くよ、メイナード」

『狩りの時間だな』


 二機のシーセイバーが身をひねり、その両翼が陽光を受けて鋭く煌めく。そして二機は水面下の獲物を狙う海鳥のように急降下を始めた。


 P41たちはそれに気づいていなかった。彼らは自らの下にいる843飛行隊の連中に夢中になっていて、上の方への警戒はゼロだった。


 だからこそ、その瞬間はあっという間だった。無防備に、下から這い上ってくるシーセイバーを待ち受けていたP41二機が、気づいた時には両翼を真っ青に染め上げられていた。


 誰もが理解する間も無く、戦果確認機から二機のP41に撃墜判定が下る。


 二機のシーセイバーは、その場を悠々と飛び去り、高速のまま空を駆け上る。そして、また身をひねって急降下をしながら、次の獲物を見定めた。


 次もあっという間だった。今度は一機の左翼に、そしてもう一機が両翼にペイント弾を受けて撃墜判定を下される。


 P41の編隊は混乱の渦に巻き込まれた。どこからかも分からない攻撃に、為すすべもなく味方が墜とされていく。空を見上げれば、鋭く眩しい陽光が彼らの目を刺すだけで、何も見えない。


 三回目の急降下で、ようやくP41の編隊はその正体に気づいた。目にも止まらない高速で突っ込んできては、僚機の翼を青く塗り上げていく二つの黒い影。


 P41の連携が乱れていく。編隊同士はお互いのことを気にかけている暇などなくなり、ただ上から襲いかかってくる二機に対して回避機動を取ることだけしかできなくなっていた。


 P41たちは、高みにいる二機から逃れようと、下へ下へと、犬に追い立てられる羊のように追い落とされていく。


 だが、その先に待ち受けていたのは、彼らが先ほどまで見下ろしていた十四機のシーセイバーたちだった。またしても、彼らがその存在に気づいたのは、味方が墜とされてからだった。


 僅か数分の間に、P41たちは狩る側から、狩られる羊へと変わっていた。そこからはもう、一方的な狩りの始まりである。旋回性能において圧倒的な優位を誇るシーセイバーは、速度がなければただの鈍重な鉄の塊でしかないP41相手に同位高度での巴戦で負けることなどあり得ない。


 そうして、5分もしないうちに十六機のシーセイバーたちはその空を制していた。彼らの遥か下方を、青くなったP41たちがアテーナイの滑走路へと向かって降下していっている。


 一方で、843飛行隊の無線は騒がしかった。


『やったな、リューク!』

『流石だなぁ、騎士どのは』


 無傷でハンデルセン陸軍の戦闘飛行中隊を丸々潰したこともあり、843飛行隊の面々は有頂天になっていた。中でも、相手を混乱の渦に叩き込んだリュークとメイナードに対する喝采が大きい。


『おい、俺のことを忘れるなよ!俺も三機墜としてるんだぜ⁉︎エース並みだろうが!』

『おい、忘れたかジョージ?この飛行隊ではそんな程度じゃ誰も驚かねえよ』

『勘弁してくれよ』


 ジョージとデイヴィッドのいつものやり取りが始まる。リュークは、それに小さく苦笑いを漏らした。


 しかし、確かにジョージの戦果は眼を見張るものではある。エースの基準とは、空の上で五機墜としてもなお飛び続けた者のことであるが、一度の戦闘で三機もの敵機を墜とすのは、大金星であると言ってもいい。だが、この飛行隊には怪物がいる。リュークという怪物は、この戦闘だけで五機もの敵機を墜としていた。たった一日だけでエースとなる、ワンデイエースである。


 そして、もう一人、この飛行隊の中隊長のエイベル・アルビオンは一人で四機を墜としていた。そして、メイナードもジョージと同じ三機を墜としている。


 ジョージの腕も相当だが、843飛行隊のツートップであるリュークとエイベルに比べれば、それも霞むというものだ。そして、ツートップが群を抜いてはいるが、その他の隊員も歴戦を生き抜いたエースである。ジョージが三機も墜とせたのは、ほとんど運といっても差し支えはないだろう。


 だからこそ、この賑やかな無線には精強無比な古強者の余裕と震えるほどの闘志が流れていた。


 『上がってくるぞ、次だ!』


 エイベルが叫ぶ。そして、真っ先にリュークがダイブした。それに遅れまじと、843の面々が鋭く目を輝かせて続いていった。




 それから何度かの補給をしながら、843飛行隊は昼下がりの空を舞い続けた。やがて、眩しく蒼かった天弓が地平の向こうで燃え盛る火種に黒い灰を覆い被せ始めた頃、風防から見下ろす景色は影を落とし、彼方の積乱雲は赤色味がかっていた。


 今、この空でまだ飛んでいるのは、ガルガンドーラ王立海軍艦隊飛行隊第843飛行隊のシーセイバーMk.1が四機と、プライセン共和国空軍のフォルスター社製FF120戦闘機が五機と、山城海軍航空隊の百式艦上戦闘機『蒼鷹そうよう』が二機だけだった。


 FF120はプライセン共和国空軍最新鋭の単発小型戦闘機である。機首に7.9mm機関銃を二挺、プロペラ軸内と両翼に20mm機関砲を合計三門装備している。リンダの話では、格納庫内へのプライセン人以外の立ち入りが許されておらず、整備の様子は分からないらしいが、整備士もエンジンも選りすぐりの最精鋭だと推測される。飛び立つ瞬間の音を聞いた感じでは、あの小さい機首に収まっている割には強力なエンジンだと感じた。そして、今日の様子を見ている限りでは、それなりの機動性、良好な上昇性能、そこそこの水平速度と優秀な加速性能を持ち合わせているように見えた。つまるところ、空戦に特化した機体である。強力な武装と併せて、戦場で合間見えたのなら厄介な機体である。


 一方、山城海軍航空隊の蒼鷹は、武装は機首の7.7mm機関銃二挺と主翼の20mm機関砲二門と、プライセン空軍のFF120に匹敵するものの、速度性能において大きな差があった。そして、見たところ、水平飛行では他国の機体に引き離されることが多いように見えた。ただし、異常なまでの機動性と良好な上昇力を兼ね備えており、この大空戦の中でも並み居る敵機をドッグファイトやカウンターで仕留めて、そのパイロットの練度の高さと共に、その精強さを遺憾なく発揮していた。


 そして今、高度3000ほどにいるFF120と蒼鷹が同高度での格闘戦を始めている。843飛行隊は今、高度4000のところを大きな円環を描きながらその戦況を見据えていた。


 蒼鷹は編隊一つ分、たった二機しか残っていない。対してFF120はまだ五機も残っており、蒼鷹はかなり苦戦しているようだった。


 FF120と蒼鷹が互いに機首を向けあって反航し、二機が交差する直前にFF120が射撃を始める。しかし、蒼鷹は同時に身を翻し、左斜め下から旋回して反転した。躱されたことに気づいたFF120はそのまま縦方向の旋回へと移る。蒼鷹がそれに付いていこうとするが、射弾を躱した際に大きく速度を失っており、追いついていくことはできなかった。


 それを見計らって、一機のFF120が蒼鷹に向かって飛び込んでくる。蒼鷹はそれに気づいていないのか、縦方向の旋回をやめない。やがて、蒼鷹が円の頂点に達した時、飛び込んできたFF120が蒼鷹を捉えた。蒼鷹は速度を失い切っており、ほとんど空中に留まっているかのように見える。


 しかし次の瞬間、蒼鷹の機首がガクンとほとんど直角に下がった。突然のことに、飛び込んできたFF120は対応できず、そのままオーバーシュートしていった。蒼鷹は、オーバーシュートしたFF120を無視して、一緒に縦旋回をしていたFF120を追いかける。円の頂点から降下して速度を稼いだ蒼鷹は、楽々とFF120を追い詰めてあっという間にFF120の主翼を黄色に染め上げてしまった。


『あれは……』

『騎士サマが姫サマと一緒にやってた奴か』


 今、蒼鷹がやった機動は、ギガント・マキアー作戦が始まる前にリュークとセシリアが空に巨大なライオンを描いた時に用いた失速機動だった。


『あんなもん、実戦で使える奴がいたのか……』


 デイヴィッドが唸る。あの機動自体は、どのパイロットでも十分な高度があれば行うこと自体は難しくない。ただし、実戦で使うとなると、失速直前は全く身動きが取れなくなって無防備になること、完全に失速するためには半端に速度を落とすだけではいけないこと、失速した後のリカバリーが難しいことから、実戦では困難を極める機動になる。


 しかし、あの蒼鷹のパイロットはそれを二体一の状況下で、タイミングも完璧に繰り出してしかも、その後に一機のFF120を撃墜している。状況と敵の位置を完璧に把握できる神のような視点と、狙った位置に射撃できる腕に高G機動に耐えられる鋼の肉体が無ければなし得ない業だ。間違いなく撃墜王、空の王となり得るほどのトップエースだ。


『あれはただモンじゃない。連携を乱すな。編隊全機でかかるぞ』


 すっかり黙り込んでしまった無線に、エイベルが発破をかける。エイベルの声で我に帰った843の生き残りどもが、遅れ気味の応を返した。


 843飛行隊は、エイベル機を先頭にしてFF120と蒼鷹の元へと向かう。そうしている間にも、蒼鷹はまた一機のFF120の翼を黄色く染めていた。


 最初、圧倒的な趨勢だと思われていたのが、刻一刻と変わっている。始め、二倍以上の数的優勢を誇っていたFF120たちは、今やその数をほぼ蒼鷹と同数まで減らしてしまっていた。


 FF120がダイブする度に蒼鷹が身を捩り、FF120の放った曳光弾は空を切る。そして、FF120が少しでも好きを見せれば、蒼鷹は鷹の如き鋭さでそれを見逃さず、その度にFF120が墜ちている。


 空を恐怖が支配していた。眼光鋭い鷹に睨みつけられているかのような感覚が、遠くにいる843のところにも届いていた。


『捕食者だ……』


 誰かが呟いた。その瞬間、リュークは唾を飲んだ。空の頂点に君臨するモノ、それは鷹だ。その鋭い眼まなこで捉えられたのなら、何者もその爪から逃れることはできない。いくら逃げようと、追いつかれ、組み伏せられ、翼をもがれて地へと墜とされる。


 その恐怖に囚われたのだろうか、FF120たちの動きが鈍くなってきた。蒼鷹を墜とすことから、生き延びることに行動がシフトしている。それまで積極的にダイブをしていたのに、今や上の方から蒼鷹を眺めては中々動かない。


 FF120たちは完全に戦意を失していた。それを見上げる蒼鷹が、のっそりと、獲物を前に歩み寄る猛獣のように上昇し始めた。


『プライセンには悪いが、動けなくなっているところを退場してもらう。俺とデイヴィッドはFF120、リュークとメイナードは蒼鷹を抑えていろ。すぐに混ざる』

『アイ・サー!』


 応を返す843の男たちの声は、固く張り詰めていた。


 すぐに、エイベル機とデイヴィッド機がダイブを始める。FF120たちは蒼鷹にばかり注目していて、こちらには気づいていそうにない。あの分なら、すぐに片がつくだろう。


 メイナードの方をちらと振り返ってから、リュークは操縦桿を押し倒した。風防の前の光景が上へと流れていき、自由落下による加速度が地面の方から体を押してくる。


 円と十字が組み合わさったレティクルが浮かぶ光学照準器越しに見る蒼鷹が、どんどんと大きくなっていく。高度計の針が反時計回りに動く。


 いつもよりも遠いところから、リュークはトリガーを押し込んだ。同時に、操縦桿を思い切り引いた。巨人の手が押し込んでいるのかと思うほどの猛烈な加速度がリュークを上から押さえつけてきた。それに抗いながら、横目で下方の蒼鷹を見据える。さっき放った曳光弾が蒼鷹の編隊へと向かって飛んでいく。しかし、蒼鷹は着弾の直前でその全てを躱し切ってみせた。


 ぞわり、と操縦桿とスロットルを握る両手に悪寒が走る。その瞬間に、鷹の目はリュークとメイナードを捉えていた。


 リュークは操縦桿を左手前に引き倒し、宙返りをして再び蒼鷹にダイブをしかける。蒼鷹はリュークより低いところを左に緩旋回しながらリュークの動きを見ていた。


 リュークのシーセイバーが蒼鷹に近づく。やがて、リュークの目の前の光学照準器の中のレティクルにぴったり重なるくらいまで近づいても、蒼鷹は動かなかった。光学照準器に浮かぶレティクルの中心に蒼鷹の右翼を捉え、リュークがトリガーを押そうとした瞬間、蒼鷹がいきなり左上に機首を向けたかと思うと、リュークの視界から消え去った。


 リュークが背後の首のあたりにチリチリと火花が散るような感覚を覚えた瞬間、その腕は本能的に操縦桿を引き倒していた。リュークの視界の端を曳光弾の軌跡が過ぎていく。


 リュークが射撃を始めた時、蒼鷹は左上に躱していた。蒼鷹の異常な機動性は、リュークの視界から一瞬で消え去り、まるで消えたかのようだった。そして、蒼鷹がリュークの射撃を躱した後にリュークの背後を取り、その背中へと向けて射撃をしていたのであった。


 リュークのシーセイバーの背後を蒼鷹が追う形で二機は上昇していく。リュークは、蒼鷹の射線に入らないように機体を蛇行させる。


 リュークが昇っていると、メイナードが横やりを刺しに来た。メイナード機が蒼鷹に向かって機銃を放つ。しかし、蒼鷹はその鋭い嗅覚とカンでメイナードのことを察知して、機銃弾のことごとくを躱してしまった。


 蒼鷹は転じて急降下を始める。メイナードがそれを追う。地上から3000メートル、急降下をすれば1分もしないうちに地面へと突き刺さるようなところを、メイナードのシーセイバーと蒼鷹が高速でもつれ合う。高度、速度、機首の向き、エンジンの状態といった要素を感覚で感じ取りながら、閃光疾風せんこうしっぷうの機動戦を繰り広げる。一瞬刹那の操作でさえも致命的となる緊張、電光のような状況の変遷。それはまるで、古代アウスリアのコロッセオで行われていた、強者同士の決闘のようだった。


 蒼鷹がバレルロールと横旋回を組み合わせてメイナードを前に押し出そうとしている。しかし、メイナードは押し出されそうになった瞬間に僅かに上昇して速度を落とし、蒼鷹の背中に食らいついていっている。


 一進一退、押しも押されもしない攻防戦だが、両機ともに降下した時の勢いを失っている。恐らくは300キロメートル台まで下がっているのではないだろうか。


 メイナードが蒼鷹の相手をしている間に高度と速度を回復させていたリュークは、鋭く光る両目を蒼鷹へと向ける。そして、スロットルを押し込んでブーストをかけながら操縦桿を押し倒した。


 シーセイバーと蒼鷹がもつれ合っているところへ、リュークのシーセイバーが突進する。それに気づいたメイナードは、蒼鷹の機動に従って、蒼鷹の前へと躍り出る。そうして、誘うように尻を振り始めた。


 蒼鷹はそれに食いついた。わざと鈍い機動を繰り返していたメイナードに、蒼鷹が食らいつこうとする。そうして僅かに機動を止めて直進した瞬間、リュークは操縦桿のトリガースイッチを押し込んだ。


 曳光弾の軌跡が、蒼鷹の鼻つらへと尾を描いていく。そうしてタカの翼を穿とうとした時、蒼鷹が左に急旋回をした。リュークの機銃弾は全て空を切り、地に向かって落下していく。


『クソ、またか!』


 呼吸の荒いメイナードが無線越しに悪態を吐く。彼の機体は今、リューク機に気づいてその場から離れようとする蒼鷹を追うような形で高度を取り直しているところだった。


『野郎、こっちのことを全て分かっているような動きをしやがる。ああ、まるでカミサマだね。ありゃ。全てお見通し、ってワケかよ』


 機嫌の悪い時にはいつもに増して饒舌になるのは、メイナードの癖である。


「あれは相当な手練れだけど、もう一機がどこにいるのかが気になる。一機だけでこれだ、もう一機増えるとなると、隊長たちが加わっても怪しい」

『上だよ。悠々と見下ろしてやがる。ハン、嫌になるね……そういや、あっちはどうなってる?』


 メイナードに聞かれて、FF120とエイベル機たちがいたはずの方角を見やると、二つの影がこちらへと向かってきていた。


『すまない、遅れてしまった。やはりここまで生き残るだけはあった』


 エイベルの落ち着いた声が無線に流れてくる。彼を手こずらせたその相手は、ウェヌスビーチ側、傾き始めた西陽を背にして降下しているところだった。


『状況は……芳しくないようだな』

『二体一で大苦戦、おまけに一機が上から様子を伺っているか……これはもはや不気味だな』


 エイベルとデイヴィッドが一瞬で状況を理解して唸る。


『上の奴が降りてこないのなら、とりあえずは無視していいだろう。まずはあのバケモノからだ。上のが降ってきたのなら、その時に対処すればいい。まずは四機で決めにかかるぞ!』

『アイ・サー!』


 雄叫びのような応と共に、エイベルとデイヴィッドが下を飛ぶ蒼鷹に仕掛けに行った。まずエイベルが仕掛けるが、蒼鷹はそれを簡単に躱してしまう。間髪入れず、回避機動の隙を狙ってデイヴィッドが仕掛けるも、蒼鷹はまたしてもくるりと身をよじって躱してしまう。


 次に、そこに向かってリュークが飛び込んでいく。蒼鷹が速度を失っているところをリュークが撃つ。蒼鷹はそれすらも躱してしまう。メイナードが撃った。だけれども当たらない。


 843の生き残り達は、ダイブしては蒼鷹を撃って上昇することを繰り返し始めた。蒼鷹も同じく、愚直に、ひたすらに同じ回避機動を繰り返す。


 何度も何度も、撃っては当たらない機銃弾に悶々としつつも、ただひたすら。一撃離脱を崩さないようにずっと。


 リュークにはそれができた。敵機に上方を取られているという緊張と機銃弾が当たらないストレスを感じながらも集中力を保ち続けることが。だが、843の中で最も多く龍を屠ってきたリュークだからこそできることであり、最古参のエイベルと、リュークと一緒に多くの場数を踏んできたメイナードならともかく、この四人の中では最も経験の浅いデイヴィッドにとってはそうでもなかった。


 連続する空戦で体力の限界の近かったデイヴィッドは、一瞬だけ集中を途切らせてしまい、上昇するタイミングを逃して蒼鷹を深く追いすぎてしまった。先ほどまでと寸分違わず同じ回避機動をした蒼鷹は、デイヴィッド機の背後に付く。


『あっ……』


 デイヴィッドが気づいた時には、鷹が彼の背中を狩人の目で睨んでいた。デイヴィッドは慌ててロールで蒼鷹を剥がそうとする。しかし、速度の乗りすぎたシーセイバーは、低速域とは違って重く、舵が効かない。


『クソ、デイヴィッド!』


 エイベル機が援護のために蒼鷹へとダイブする。リュークもそれに続いて降下しようとした時だった。


『リューク、上だ!』


 メイナードが叫んだ瞬間、後頭部を電流が走る。腕が目一杯の力で操縦桿を引き起こす。猛烈な重力加速度がリュークの体を押し潰そうとし、機体を軋ませる。苦痛にもがく中で、リュークは高速で左翼の向こうを突き抜ける一機の蒼鷹の姿を認めた。


「こんな時に……ッ!」


 どうやら援護には行かせないつもりらしい。上の方を飛んでいたはずの蒼鷹は、リュークとメイナードに対して一撃離脱を繰り返す。リュークがダイブをしようとすると間髪入れずに襲いかかり、その間にメイナードがダイブしようとしても阻止されてしまう。


 リュークとメイナードは、完全にその場に釘付けにされてしまった。


『クソッ、コイツ!』


 メイナードの悪態が、単純なものに代わる。


『あっ……アアッ⁉︎』


 デイヴィッドが苦しげなうめき声を上げている。


『デイヴィッド、待て!』


 エイベルの声に焦りが滲み出す。デイヴィッドは冷静さを欠き、もう誰の声も耳に入っていないようだった。


 たった一機に身動きが取れなくなり、たった一機に一つの編隊が食われようとしている。もはやこれは悪夢のようだった。何かの悪い冗談だと思いたかった。


 たった一機、本当にたった一機。それに翻弄され、もう一機が加わっただけで編隊同士が分断されてしまった。


 戦場に、恐怖が満ち始める。強者の顔を、焦燥が焦がし、戦慄が冷たい炎で撫でていく。デイヴィッドが狩人に追い詰められるウサギのように狩り立てられていく。


『食われる……ッ‼︎』


 デイヴィッドが裏返った声で叫ぶ。その瞬間、視界の端に曳光弾の軌跡が見えた。その軌跡が見えた時間は刹那で、軌跡自体も短かった。


『ガルガンドーラ海軍……一機撃墜』


 戦果観測機の声も震えていた。


『クソ、俺だけか』


 普段は冷静沈着、どんな場面でも焦りを見せたことのなかったエイベルの声が荒だたしい。


 エイベル機を援護に行きたいが、そうしようとする度に蒼鷹が上から降ってくる。状況は何も変わらず変えられず、ただただ追い詰められていく。


『ああ……ダメか』


 それがエイベルの発した、最後の言葉だった。その空戦の様子を見てはいない。だが、843飛行隊最古参でリュークに次ぐエースのエイベルが墜とされた。それは相手の蒼鷹が隔絶した腕前を持つことの証左に過ぎない。もうなんども見せつけられた、飽きるほどの強さだった。


『ガルガンドーラ海軍、一機撃墜……あとは二機だけだ』


 下にいる蒼鷹が高度を取り始めた。あれがこっちにやってくれば、状況はさらにマズイことになる。だが、ここで釘付けになっていては、何も変わらない。


「メイナード、ダイブする。付いて来い」

『はいよ』


 短く言い、リュークは蒼鷹がこちらにダイブした後に離脱する瞬間を見計らって、操縦桿を限界まで押し倒した。


 機首が地面に垂直に向く。機体が自由落下を始め、高度計の針が目まぐるしく反時計回りに回り、速度計の針は時計回りに目にも止まらない速さで回り始める。体が浮遊し、上の方から背もたれに地面へ向かって押し付けられるような感覚がする。


 リュークは、胃を持ち上げるかのような不快な浮遊感に耐えながら、高度1000まで降下し、両腕で操縦桿を握って膂力を込めて引いた。あまりの重力加速度に、機体が高音で鳴き、首が押しつぶされそうになる。


 しかし、リュークがバックミラーを見ると、上にいた蒼鷹が遥か後方に見えた。メイナードはリュークの左後ろにいる。なんとかあの蒼鷹から逃れることができた。そしてリューク機は、機首をデイヴィッドとエイベルを墜とした蒼鷹へと突き上げる。降下の勢いが乗っているリュークとメイナードのシーセイバーは、先ほどの降下に迫る勢いで上昇する。


 蒼鷹は逃げなかった。まるで気づいていないかのように、ただまっすぐ。わざとらしいまでに真っ直ぐ水平に飛んでいた。


 リュークとメイナードが蒼鷹へと迫る。上にいた蒼鷹が降ってくる前に決着をつける。その緊張感が、リュークの顔を硬いものにさせていた。目は細められ、瞳孔は開き、ただ一羽の鷹だけを睨みつける。


 蒼鷹は、843飛行隊を追い詰めていた時とは打って変わって、全くもって気迫のようなものが感じられなかった。リュークとメイナードがあともう少しで必中の距離に着くというのにもかかわらず、蒼鷹は動きを見せない。


 光学照準器の中に捉える蒼鷹の灰白色の腹が大きくなっていく。リュークは、操縦桿を握りしめ、蒼鷹の腹の中心が照準器の中心に来るように微調整をする。だが、まだ時ではない。蒼鷹の姿は照準器に浮かぶ幾重もの円環の中心近くの円に収まっている。この距離で撃ったとしても、命中弾を与えられるかは怪しい。


 もっと、まだまだ、もう少し、更に引きつける。空駆ける騎士と鷹の目鼻が触れ合うまで、右手の親指は動かさない。


 ジリジリと距離が縮まる中、リュークの心臓の鼓動は早鐘のように鳴る。これを外せば、もう一機の蒼鷹が降ってくる。そうすれば、リュークとメイナードは圧倒的なエースと、エネルギー有利の手練れを相手にしなければならなくなる。そして、それは同高度での格闘戦になる。単純な旋回であれば蒼鷹が上。そして目の前の蒼鷹は古株のエイベルでさえも敵わなかった相手だ、正直『その先』など考えたくもない。


 だからこそ、失敗できない。あの蒼鷹がどのような動きをしようと、確実に仕留める。


 大きく呼吸を繰り返しながら、蒼鷹を睨み続ける。シーセイバーと蒼鷹の距離は凄まじい勢いで縮まっていく。


 そして、ついに蒼鷹の両翼がリュークの眼前の光学照準器の円環の全てからはみ出した。リュークはすかさずトリガースイッチを押し込んだ。


 その瞬間、目の前にいた蒼鷹のエルロンとラダーが動き始めるのが見えた。リュークの腕が操縦桿を引き倒し、左足でフットペダルを蹴る。


 蒼鷹が斜め上に避けるのと、リュークのシーセイバーが機首を天へと突き上げたのは、全くもって同時だった。


 蒼鷹の腹の下を曳光弾が過ぎていく。しかし、リュークは縦に旋回をする蒼鷹の尾をしっかりと照準器の中心に見据えていた。リュークがまたトリガースイッチを押す。蒼鷹は縦の単純旋回でそれを避ける。単なる旋回性能であれば、蒼鷹がシーセイバーを凌駕する。地を頭上に据えて旋回するうちに、蒼鷹の姿は照準器の中から消え、リュークの頭上へと動いていく。


 だが、リュークは縦旋回をやめなかった。単純な旋回であれば、蒼鷹に軍配が上がる。しかし、これは縦方向への旋回だ。この場合は単純な旋回性能に加えて、上昇力が大事な要素となる。このまま縦旋回を繰り返せば、上昇力で勝るシーセイバーが蒼鷹を捉える。その時には蒼鷹は大きく速度を失い、回避機動を取れなくなっているはずだ。


 そのことは蒼鷹も分かっているのか、二回ほど旋回を続けたところで蒼鷹は下方へと降下して逃げ始めた。リュークとメイナードはそれを追って共に降下に転じる。


 元々、速度的に有利だったリュークとメイナードのシーセイバーは、降下して加速する蒼鷹に悠々と追いすがる。そして、再びリュークのシーセイバーの照準器が蒼鷹を捉えた。


 しかし、その瞬間にリュークは右へ、メイナードは左へと急旋回をした。分散ブレイクしたリュークとメイナードの間を、もう一機の蒼鷹が通り抜けていく。


 ブレイクしてメイナードと離れたリュークを、下に逃げた蒼鷹が突き上げてくる。それを上方へと回避したリュークに、離脱して上昇していた蒼鷹が襲いかかる。その蒼鷹がリュークを撃とうとした時、メイナードが射撃してそれをけん制した。


 そこから、エイベルとデイヴィッドを墜とした蒼鷹、リュークのシーセイバー、もう一機の蒼鷹、メイナードの順で縦に並ぶ。リュークは先頭の蒼鷹を狙い、それをけん制するようにリュークの背後からもう一機の蒼鷹がリュークを狙ってくる。メイナードはリュークが墜とされないように、もう一機の蒼鷹がリュークを狙った瞬間に機銃を撃っていた。


 リュークの眼前にいる蒼鷹が右に、左に、時にはバレルロールや、上昇して速度を落とすハイ・ヨー・ヨーなどを組み合わせてリュークを押し出そうとしてくる。リュークはそれに食らいつくために、同じく機体を右に、左に振り、色んな手管で速度を落としたりしてチャンスを作ろうとしていた。しかし、せっかく射撃位置についたとしても、後ろから曳光弾が飛んできてまともに射撃ができない。


 照準器の中に収まっては頭上に、はたまた視界の右端に、一瞬で左端へと動き回る蒼鷹を、Gに耐えながら首を動かして見据え、次の一手を頭で考えながら無意識で腕と足を動かす。


 チャンスを見つけてはトリガースイッチを押して空を切り、その度に回避機動を取る。電光石火、嵐の中を切り裂き合う電雷のような大立ち回りを何度繰り返しただろう。


 刹那だった。真っ暗闇の部屋の中でただほんの少しだけ見えた光のようなその『間』。僅かだけれども、それが眩しいからこそハッキリと分かった。ここだ。


 蒼鷹は思っていた通りの機動をする。背後の蒼鷹も同じだ。そして今、メイナードに追われていてその蒼鷹は手出しができない。ほんの僅かな間、偶然と遥かな試行の末に見つけ出した砂金のようなその一瞬。ここだった。これ以外に無かった。


 蒼鷹が、照準器に吸い寄せられていく。分かっていたのだから、どこにいれば良いのかは明確だった。背後も大丈夫だ、感覚で分かる。今後ろにいる鷹の目はこちらを刺してはいない。


 その時が来た。蒼鷹は照準器の中心にいる。その姿は照準器のガラスの枠を大きくはみ出し、風防一杯に広がっている。


 リュークは、右親指でそっとトリガースイッチを押し込んだ。


 しかし、予想していた振動と、くぐもった発砲音はいつまで経っても聞こえなかった。驚いたリュークは、一瞬、目の前で起きたことが理解できず、固まってしまった。


 その瞬間を蒼鷹は見逃さなかった。リュークの目の前を飛んでいた蒼鷹が左上に急旋回し、リュークの視界から消える。


 リュークのシーセイバーが回避をしようとしたが、遅かった。鷹は確実に騎士の背後を取り、細く鋭い刀のような眼光でその首筋を見据えていた。


 蒼鷹のパイロットが左手でスロットルのトリガーを握りしめた。が、しかし、またしても何も起こらなかった。


 慌てたリュークと、蒼鷹のパイロットは、互いに反対方向にブレイクする。メイナードともう一機の蒼鷹が、それについて行った。


 シーセイバーと蒼鷹は、互いに背を向ける形でその場を離脱していく。リュークは、その間に乱れた呼吸と、氷水を猛烈な速度で流し続ける心臓を鎮めようとした。


 リュークが左に緩旋回して蒼鷹の動きを伺っていると、地上から無線が入ってきた。


『リューク、メイナード。そこの山城海軍のパイロットもだ。そろそろ燃料と弾薬が心許ないんじゃないか? 一回地上に戻って仕切り直し、ってのはどうだ?』


 通信機を取っているのは、リンダのようだった。言われて時計を見てみれば、最後に補給してからかなりの時間が経っていた。燃料は持ってあと十分もないだろう。弾薬も切れてしまった。ここは戻るしかない。


「メイナード、仕切り直しだ。戻るぞ」

『はいよ……機体も体もしっかりと整え直さないとな』


 リュークは操縦桿を緩く押し倒し、滑走路に向かって大回りに旋回しながら高度を下げ始めた。蒼鷹の方を見やると、上空で大回りに旋回している。どうやら、こちらの後から着陸するつもりらしい。


 蒼鷹に見下ろされながら、リュークとメイナードは滑走路へと降り立った。


 リュークは機体を格納庫前に付けて風防を乱暴に開くと、よろめきながら翼に右足をかけてそのまま飛ぶようにしてアスファルトに足をつけた。それまで同じ姿勢のまま大きな負荷がかかっていたせいか、両足はガクガクと震えて言うことを聞かない。リュークは、這うようにしてなんとか格納庫の中のベンチへと転がり込んで天井を仰ぐ。視界の中央にある電灯に焦点が合わない。いくつかに分身しては、輪になって広がったり狭まったりを繰り返している。


 酷く荒い呼吸を整えようとしていると、そばに誰かが歩み寄ってくる気配がした。


「──、──っ」


 その姿を認めて言葉を出そうとしたところ、声を出そうとしたところでどうしても喉の奥から空気が漏れ出てしまい、何も発することができなかった。その様子を見下ろしている男は、片手の平を向けるようにしてリュークを制した。


「いい、今は呼吸を整えることだけに集中しろ。他のことはその後からでいい」


 短い白髪混じりの黒髪に、年齢を感じさせるシワが少し入った精悍な顔つき、落ち着いた声色のその男はエイベル・アルビオンだった。


 エイベルはリュークの隣に静かに座り、それから黙り込んでリュークが落ち着くのを待ち始めた。


 リュークはエイベルをちらと横目で見やると、頭をだらりと後ろに垂らして口を開けながら天井を見上げて大きく深呼吸を繰り返した。


 やがて呼吸が落ち着き、ようやく声が出せるようになると、リュークは上半身を起こし、両膝に両肘をついて俯きながら話し始めた。


「アイツ……とんでもないですよ。化け物だ。どんなに減速しても前に出てこなかった」


 エイベルは眉間を寄せながら、リュークの言葉を聞いていた。そして、リュークが全てを吐き終わったところで、口を開いた。


「アレは、機体によるところもあるが……低速域での安定性と機動性において規格外の力を持っている。どんなに減速しようと、アレに勝てる方法はない。それは俺がもう試し尽くした」


 リュークは、エイベルが蒼鷹に墜とされた瞬間に発した言葉を思い出した。


 『ああ、ダメか……』


 この時の声には、真の諦観が込められていたように思える。持てる全ての技を試し尽くして、そしてそのことごとくであの蒼鷹は上回った。分かっていたことだが、改めてリュークはあの蒼鷹のパイロットの恐ろしさを体感した。


「だが……一度だけ、ロールを使った動きには追従を遅れていた。まあ、俺はその時機速が足りなすぎて続けられなかったが……恐らく、ロールがアイツの弱点だ。あのずば抜けた機動性を実現するには、機体の軽量化もそうだが、主翼面積を機体に対して異様に大きくしている。セイバーシリーズもそうだが、主翼面積が大きくなるとロールが遅くなる」


 機体の機動性を決定づける要素は多くあれども、最も分かりやすいのは主翼面積あたりの機体重量の比だ。これが小さいほど抵抗は大きくなるが主翼が発生させる揚力が大きくなる。しかし、主翼面積が広くなると言うことは、抵抗が大きくなることも意味する。それは、結果的にロール性能を低下させることに繋がる。


「セイバーは元々ロールが速い機体ではないが……それでも蒼鷹よりは十分に速い。恐らく、そこに漬け込む隙がある」


 エイベルがそこまで言って、リュークの脳裏に一筋の電光が走った。あの眼光鋭い鷹を圧倒し、その尾を掴む策が。


 その瞬間、リュークは立ち上がろうとした。が、足に力が入らず、思わずよろけて転んでしまう。咄嗟に手を出したエイベルに支えられて、リュークはベンチに座りなおす。


「まだ休んでおけ。息が落ち着いたのなら水だ。ほら、飲め」


 そう言って、エイベルは水筒を取り出し、リュークへと差し出した。リュークはそれを受け取り、蓋を開けてほとんど喉に直接流し込むように飲み込んだ。


「ありがとうございます……分かりましたよ。アイツを墜とす術が」


 そう言って、リュークは立ち上がった。今度は、しっかりと二本の足で地面を踏みしめて立っていた。


「行ってきます。必ず、アレを墜として戻ってきますよ」

「ああ、行ってこい」


 沈み始めた西陽が輪郭を浮かび上げる中、エイベルはシワの寄った眉間を更に寄せて眩しそうにリュークを見上げながら言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る