第9話『早朝』
中央海歴802年8月17日午前6時半ほど。早朝の青い明かりが大地を薄く染め上げているのを、葛城は高度8000メートルの高みから見下ろしていた。葛城は今、伊吹を後席に乗せて前線のその先へと機首を向けていた。
未踏域は未だに測量が終わっていない。地図の形はあやふやで、前線のその先は載っていない。また、それぞれの国軍がそれぞれの部隊から寄せられた情報を好き勝手にそれぞれの言語で常に絶え間なく更新するせいで、同じ言語でも地図の形や森林などの位置が異なることがある。他言語ともなればなおさらで、大量の情報を翻訳したり、他国軍から最新の地図を入手している間に大きく変更されることもあった。そうした苦労も、未だに未踏域が人類未踏の地であるからである。
故に、この作戦に派遣された大型偵察機の任務は主に、測量と人類未踏の前線のはるか先への単独での威力偵察であった。
そして今、葛城と伊吹と零式司令部偵察機はアテーナイから1500キロメートル以上離れた、地上部隊が前進する前線より遥か前方の、人類が未だ目にしたことがない地へと向かおうとしていた。
この任務につく偵察機は大抵、視程を確保するために高高度を飛翔するのだが、それにしても8000もの高みにいる必要はなかった。
しかし、この時の葛城は同じ高度に他の人間が居るのが何だか気に食わなかった。だから、誰も届かない高みへと、何者もいない頂へと昇った。そうして、遥かな頂から地上を睥睨し、無感動に日が遥か彼方の地平から昇る瞬間を眺めていた。
何の面白みもない。ただの朝焼けだ。この星が生まれてから何兆回と繰り返されてきた自然現象。どこかの誰かにとっては喉から手が出るほどの光景なのだろうが、この空にいたものはこの光景を飽きるほどに見てきたはずだ。そう考えれば、今更感動も何もない。
ただの、自然現象だ。
葛城がつまらなさそうにため息をつき、ふと目を地上に向けると、16機の単発機が高度5000程を飛び過ぐのが見えた。薄暗い青の中でもよく見える群青の洋上迷彩を特徴的な楕円翼に施されたあの機体は、ガルガンドーラ海軍艦隊航空隊のシーセイバーMk.1だ。前線の近接航空支援に駆り出されたのだろう。
この間までは攻撃機や爆撃機の編隊を見下ろすことが多かったが、戦闘機まで出ることになるとは、前線が攻撃機や爆撃機連中では対処しきれないほど広大になったということで、いよいよ本格的に未踏域の攻略が始まったということだ。あと一週間もしないうちに前線基地の建設が前線の各所で始められ、アテーナイとは別の飛行場も完成するだろう。
そんな軽い推測をしながらシーセイバーの飛行隊を見下ろしていると、葛城は脳裏にふと、圧を感じた。今まで幾度となく死地から逃れている時に感じた圧。細く、しかし眼光鋭く向けられた龍の黄金の双眼から放たれる圧倒的な威圧。それに近いものを、あの中から感じる。
しかし、16機全てからではない。何か、一機だけ特別なのが混じっている。そんな気がした。
シーセイバーの飛行隊はこちらに気づくことなく離れていく。それと同じく圧も遠のいていった。
葛城が、あの圧は何だったのだろうと考えていると、ふと、自分がスロットルと操縦桿を握る手に力を込めていたことに気づいた。
葛城は、変にこびりついて離れないあの圧の感触を振り払おうと、ため息をついて空を見上げた。
あのシーセイバーでも届かない。どこの国のどの機体も届かない超高高度から見上げる空は、青いがしかし、黒檀でもあった。
× × ×
ふと、何か変な気がした。自分の頭上から見下ろされている感覚。見られているという緊張感。
しかし、空を見回しても何も見つけられなかった。
リュークは、気のせいだと割り切り、視線を正面へと戻した。周りには15機のシーセイバー。この機体と同じエンジン音で、同じ迷彩を施されている。その16機のシーセイバーがまだ夜明けぬ青く冷える空を飛んでいる。
しかし、緊張感は、違和感は消え去らない。それどころか、むしろ何かを直感が囁いてくる。指先がいらいらしてくる。どこかへと逃げなくては。身を隠せ、かわせ。そう、何者かが囁いてくる。直感でもわかる。
でも、実際は何もいない。リュークは、戦場で陥りがちな幻想だと決めつけることにし、必死に声に抗った。
すると、いつのまにか違和感は消えていて、東の彼方には赤々と燃える日が顔をのぞかせていた。
計器盤の時計を見やると、いつの間にか短針が7を過ぎていた。現在時刻午前7時14分。冷たく薄暗い青に満たされていた地上は、いつの間にか東に顔を出した太陽が燦々と投げかけるオレンジに染め上げられていた。
6時頃に出立してから今まで、アテーナイから速度400キロメートルほどで巡航してきた。つまり、今は大体アテーナイから400キロメートルほど離れた位置を飛行していると考えられる。事前に配布された作戦命令書には、目標の部隊と最後の交信を行った場所がアテーナイから200キロメートルほどの位置で、そこから平野部を時速20キロメートルほどで前進しているとのことであった。最後の通信から15時間ほどが経過している。彼らは今、アテーナイから500キロメートルほどの位置にいると予想される。
また、偵察機が事前に偵察を行った情報によると、その部隊の前進する先に3箇所の巨人の住処があるという。しかし、そのうちの2つは後方に位置する砲兵陣地からの砲撃の射程内に存在し、昨日の時点で撃破されたとのことであった。
これから843飛行隊が向かうのは、その内でも最もアテーナイから離れた一箇所である。アテーナイ自体からは700キロメートルほど離れており、元々燃費が悪く航続距離の短いシーセイバーでは落下式のタンクを装備しなければ燃料が保たない。
しかし、今この大陸には空に手を伸ばせるものはいない。2時間程度の、緩やかで快適な空の旅だった。
既に日は登り、その身の輝きを煌々と緑多く広い大地に落としている。高度4000、鳥でさえ見かけることの少なくなるほどの高みから見る大地は、日の光を青々とした葉に着いた朝霜が煌き返し、きらきらと輝いていた。
雄大な自然、そして朝霜という自然現象が織りなす神秘。全ては空を翔ける者にだけに用意された景色だった。
しかし、クレーター・デイチダとは似て非なる光景だと思う。あっちはまさに死した世界だ。周りに一切の生命は無く、大地そのものが死んだかのような世界。そんな死んだ世界の中で誰も見ることのない、ひっそりとした神秘だ。
だが、この地は生きている。生命の営みと、この自然が織りなす神秘は静かだけれども、生命のささやきが聞こえてくるような、そんな暖かい静けさだ。
俺たちはこれからこの大地に入植し、街を作り、ここにいる生物を殺しつくし、工場を建てて空を汚す。
この光景が、神秘が見られるのは今のうち。
そんな感傷に浸りながら、リュークは操縦桿を指先で触るように操作し、背もたれに背中を預けて気だるげに力を抜いた。そうして、リュークは目的地までの束の間の空の旅を、ぼうっと大地を見下ろすことに費やした。
『前方11時の方向。車列を確認』
しばらくすると、無線にノイズ混じりの飛行中隊長の声が流れた。言われた方角を見やると、確かに木のない草原の上を走るトラックと戦車数量の車列が見えた。
ということは、目的地である巨人の住処まであと200キロメートルかそこらということになる。
「…………。」
いよいよ。いよいよ始まる。この作戦で初めて、俺は右親指に触れるトリガーを引く。
今さら感傷はない。罪悪感も、原罪意識も、恐怖も、全てこの仕事に就いた瞬間から捨て去った。俺はリューク・イリューシン。ガルガンドーラ王立海軍艦隊航空隊843飛行隊の曹長、いや少尉の男。
今までに、50を超える龍を屠ってきた男。今さらどうということもない。ただ、機械的に、殺し尽くすだけだ。
気配がする。粗野で、おおよそ理性とはかけ離れた二流以下の猛々しいだけのパイロットと同じ気配。大したことはない。ただ、神代とすら呼ばれるほどの原初の世界から生き残った図体のデカイだけの動物だ。
俺の足元に手が届くことはない。
「前方1時の方向、距離30ほど。目標発見」
短く報告をすると、無線が一瞬どよめいた。当然だ。到底見えるはずのない距離のことなのだから。だけどそれでも、感じる。それが正しいと分かる。今まで何度も、龍と遭遇する前に感じたのと同じ感覚。そして今までそれが外れたことは一度もない。
しばらく飛ぶと、言った方角の大地に小さな点が見えた。
『全機、巨人だ。頭数は……20…2といったところか。確かにリュークの言ったとおりだ』
隊長の声が無線機から聞こえてきた。途端に無線が少し騒がしくなる。それも当然だ。これは戦争ではない、地を這う動物の駆除だ。後を気にする必要がなければ気も楽なもんで、戦士ならば自然と猛るものだ。
『よし、各編隊ごとに散開、各自で目標を決めろ。早いものがちだ!』
隊長の命令一下、男たちの雄叫びで無線が割れる。そして、周りにいるすべてのシーセイバーがほぼ同時にカウルフラップを一斉に閉じて増速を始めた。アーサーエンジンが一際高い声で鳴き、周りのシーセイバーがぐいぐいと前に進みだした。
リュークも、左後ろを飛ぶ僚機に乗っているメイナードを見やると、スロットルを押し込んみ、僅かに機首を下げた。すると速度計の針がゆっくりと回り始めた。
『やっぱりあいつが一番速いか……』
『いつもいつも、どうなってんだあいつは』
『やめとけ、あいつには女王の加護が付いてるんだ』
気づけば、リュークは僚機たちを引き離して一番先頭にいた。エンジンの声を聞いてスロットルや燃料混合比を調節する。
リュークは僚機をどんどん引き離していく。同じ機体に乗っているのが不思議なくらい、リュークのシーセイバーは加速していった。それでいて、リュークの乗るシーセイバーのアーサーエンジンは加熱していなかった。
かつて、843飛行隊の誰かがリュークに聞いたことがあった。なぜエンジンを完全にコントロールすることができるのかと。しかし、リュークはその質問への明確な答えを持ち合わせていなかった。長い時を空で過ごし、飛行機に乗るということに人一倍長けたリュークには、エンジンの調子は聴覚と、直感で把握することができた。
それはいわば天賦の才能とでも言うべきもので、説明しようとしてできるものではない。
「お先に行かせてもらうよ」
『ちくしょう、リューク!少しは残しておけよ!』
『あんまり意地汚く食い散らかすんじゃねえぞ、ナイト様!』
気づけば大きく引き離していた僚機を駆るパイロットたちの野次に、機体を左右にフラフラと傾かせて応えた。そして、もうほとんど眼下に見える巨人の群れに向かってダイブした。
瞬時に狙えそうな一体を見定め、三舵を使って進路の直線上に見据える。降下角30度、速度計の針は凄まじい勢いで回り、高度計も勢いよく反時計回りに針が動いている。速度はとっくに時速600キロメートルを超え、高度は2000を切った。
操縦桿をもう少し押し倒し、機首を大地へと向ける。そして、巨人が光学照準器に浮かんだ円の中心に入ったところで操縦桿を戻した。
機体の枠が震えだす。主翼が発生させる強大な揚力を、操縦桿で押さえつける。
そして、右親指に触れるトリガーを押した。20ミリメートル機関砲と7,7ミリメートル機銃のくぐもった発射音がコックピットで反響する。
六筋の曳光弾の火線が断続的に両翼から吐き出され、大地へ向かって雨のように落ちていく。
20ミリメートル曳光弾の弾道が狙い違わず巨人の固く厚い胸板に突き刺さり、榴弾が炸裂して巨人の血肉が弾け、空を肉塊が飛び、青い大地を赤く染め上げた。
巨人の上半身が派手に爆散するのを見届け、高速域で重く固まった水平尾翼を膂力いっぱいに操縦桿を引きつけて無理やり動かす。
機首を天へと突き立て、スロットルを最大まで押し込んだ。速度計がさっきとは逆方向に回り、高度計の針が右回りに回る。
体を押し付ける重力加速度が消え、機体を水平に戻したところで、僚機たちが追いついてきた。彼らはリュークに向かって翼を振ってから大地へと向かって次々にダイブしていく。
地上の巨人が怒り狂ったように拳を突き上げ、咆哮を上げているように見える。到底、生物が出しうるとは思えないほどの音量で叫んでいるのだろうが、2000メートルもの距離とアーサーエンジンの爆音が阻んでこのコックピットまでは届かない。
高みから地上を見下ろす。僚機に蹂躙され、怒り狂い、だけれども何もできず地上からこちらを見上げることしかできない。
僅かな優越感と高揚。それは戦士として、猛々しく屈強な兵士として当然の感情だった。
自分がこの空を支配している。リュークはその愉悦に溺れる。
そして、もう一度その翼を翻して、地に縛られた哀れな巨人へとダイブを始める。その姿はさながら獲物を追うタカのようで、地上では比類ない力を振るう巨人がまるでリスのように狩りたてられていった。
アテーナイに帰ってコックピットから降りた時、リンダが話しかけてきた。
「よお、今日は随分と雑じゃないか? 少しエンジンが焦げ臭いぞ」
「ここに来て初めての実戦だからね。ちょっと浮かれて」
「ま、お前らしくないというか、らしいというか」
やれやれ、とでも言うようにリンダは首を振った。
「これからは自分を抑えてもっと丁寧に扱えよ。何度もこんなことされちゃ、最高の状態に仕上げてやんねえからな?」
「分かってるよ、リンダ」
口端を上げながら愚痴を言うリンダに手を振りながら、リュークは格納庫を後にした。
今日はもう仕事はない。報告を済ませて、とっとと休もう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます