第6話『空を見上げる者』

 中央海暦802年7月8日。夏の暑く鋭い日差しが青い海原に煌めき、アルゴーの飛行甲板を照りつけている。今、アルゴーの飛行甲板には、世界中の多種多様な大型偵察機が集結しており、その全てがこれからの飛び立ちに向けて最後の点検の最中だった。


 葛城と伊吹の零式司偵もその中におり、前席の葛城がガルガンドーラ人の整備士から機体のコンディションを聞きながら、三舵を動かして伊吹が異常がないことを伝声管越しに葛城に伝えた。


 それからクランクを持った整備士たちが来て、零式を点検し、右発動機にクランクを接続した。そのクランクが勢いよく回され、整備士の号令直下、葛城が点火開閉器の操作スイッチを切る。すると、右翼の方から重い振動と共にいつもの聞き慣れた駆動音が伝わってくる。整備士たちは急いで左発動機へと回り、同様の手順を踏んで左発動機も始動させた。


 しばらく待つと、多様な発動機の駆動音が響いてくる。発動機は国によって千差万別であり、その駆動音も同様だ。


 しばらくアルゴーの飛行甲板はすさまじい爆音の嵐に包まれる。その爆音に耳が慣れてきた頃、航空指揮所から無線が入り、一番機に発艦許可が下った。即座に先頭のロッシャ帝国の大型偵察機がゆっくりと動き出し、長い滑走距離を経て浮き上がった。続けて二番機に発艦許可が下る。


 それから3機が飛び立ち、ようやく葛城たちの番になった。葛城は、甲板作業員の手信号に合わせてプロペラピッチを上げて、ある程度スロットルを開き、フラップを下げた。


 零式がのそり、と動き出す。葛城は操縦桿を引きながら、スロットルを開いていく。二頭の発動機の獰猛な唸り声が大きくなり、やがて咆哮となり、振動が激しくなる。零式は助走を付けるように徐々に加速し出す。それと同時に機首がわずかに左へそれ始めた。葛城は左右の発動機の回転数を駆動音と振動で判別しながら二つのスロットルを調整し、フットペダルで機首を飛行甲板の木目の上の白線と平行に保つ。


 大きな主翼で生み出される揚力が機尾を持ち上げようとする。それを、水平尾翼を下げて無理やり尾輪を飛行甲板に押さえつける。機尾を持ち上げようとする力と、それを押さえつける力が対立し、拮抗してその余波が機体を揺らし、操縦席を揺さぶり、機体の各部が軋んで喧しい音をがなりたてる。


 両翼のエンジンから伝わってくる轟音と機体が上げる悲鳴にも似た軋み以外の音が無くなる。航空指揮所からの通信も伊吹の声も、葛城自身の呼吸と心拍の音も聞こえない。ガタガタという操縦席を揺さぶる音とエンジンの轟々という音以外に聞こえない。


 零式の機体が上げる悲鳴は一層甲高く、大きくなる。既に機速は200キロメートル毎時近くあった。


 重巡洋艦の艦橋くらいの高さの山城の城のような姿で重々しく構えている、航空指揮所兼管制所と航海艦橋を複合させた構造物は遥か後方で発艦許可を熱気と共に待ち続けている他国の大型偵察機や、その周りで忙しなく動く整備士どもとともに小さな影になっている。


 夏のぎらりとした白光を切り返して白波を上げる海原わだつみを遠景に置いて、アルゴーの飛行甲板の木目と塗装が機首下を通り抜けていく。飛行甲板の脇に立つ甲板作業員が凄まじい速度で遥か後方へと過ぎ去っていく。最後に飛行甲板に塗装された、巨大な王立ガルガンドーラ軍のラウンデルを踏み越えたところで葛城は操縦桿をゆっくりと戻し、溜めてきた揚力を解放する。徐々に尾輪が浮き上がり、やがて前輪が離れた。


 最後、一瞬だけ、飛行甲板の端で零式が作り出す強い風が吹きすさぶにも関わらず、すくと立っていた男を目の端に捉えたような気がする。青色の飛行服を着て、両手を腰に付けて眩い金髪を風になびかせながら、葛城の零式を見送っていたような気がした。


 葛城は、それを気に留めるようなことでもないと、頭の端から振り落とし、視線を機首へと戻した。


 零式は今、時速280キロメートルほどで海上70メートルほどを高度と速度を上げながら、北北西に向かって真っ直ぐ飛んでいる。上昇するにつれて、遠景にあった海原が更に遠くなり、白波がどんどん小さくなっていく。


 離昇したと同時に葛城は前輪と尾輪を格納し、フラップを元の位置に戻した。そして少し上昇してから操縦桿をゆっくり押し倒して機首と海面との角度を緩やかにする。すると機速の上昇率が上がり、高度の上昇率が下がった。


 そうして、時速400キロメートルまで機速を稼いだら、操縦桿を引き倒して機首を青々とした空へと向け、上昇に転じた。


 零式は、14分ほどで高度6000メートルにまで昇った。既に遠景にある空は濃い青で、白い水平線までのコントラストはまるで、白いパレットに青の絵の具を垂らしたら、重力に逆らって上の方に溜まったかのようだった。


 葛城は操縦桿を再びゆっくりと押し倒し、機位を水平にすると、スロットルを引いてエンジンの出力を絞り、ゆるゆると巡航速度にまで加速するのを待った。機速が400キロメートル毎時ほどにまで戻ると、葛城は目を計基盤から風防の外へと向けた。


 一面の青だった。濃くて、混じりけがなくて、のっぺりと無限の奥行きを以って延々と広がる蒼穹。


 しかし、葛城には何の感慨をも抱くことはできなかった。


 しばらく、葛城は操縦桿とスロットルを握る手とフットペダルに置いた両足をそのままに、無言で空を見上げていた。


 やがて、葛城は顔を正面に戻し、周辺の空域の監視に戻った。とはいえ、先ほどアルゴーの飛行甲板上に大量にいた大型偵察機たちはそれぞれがてんでばらばらの方角へと飛び立ち、広大で全容が未だ掴めていない未踏域の偵察へと向かってしまっており、龍も大移動後で零式の周囲の空域には何者もいなかった。


 葛城は、このだだっ広くて何もない、孤独な空間にいる瞬間だけ、どこか肩の力を抜いていられる気がした。




 × × ×




 耳の中に、強力な大型機用のエンジン二基分の唸りが未だ耳の中で反響している。主翼が生み出していった乱気流がまだ飛行甲板の上に残り、強烈な風が前髪を揺らしていた。


 その中で、僕は両足を開いて、両手を腰に当てて今飛び去っていった一機の双発単葉の大型機を見送っていた。


 奇妙な機体だった。前席の風防が機首と一体化しており、機首から前席の風防をなぞって後席の風防までを通る線は緩やかな一本の弧を描いていた。エンジンカウルも前端から後端までを一本の曲線でなぞることができ、あの機体のありとあらゆるパーツが綺麗な曲線で、継ぎ目がなかった。それを初めて見た時、どこか芸術品であるかのような印象を抱いた。


 タイプゼロ偵察機。キ100の機体番号を割り当てられた山城帝国陸軍の双発高速偵察機。山城帝国海軍第153海軍航空隊は山城帝国海軍の偵察機部隊である。山城帝国海軍の主力偵察機は98式艦上偵察機であるが、陸上基地から島しょ部にある敵地への強行偵察を行うことを目的に、153航空隊では陸軍のタイプゼロを借り受けて運用している。


 タイプゼロは山城の稲丸財閥傘下の稲丸飛行機によって開発された高速偵察機である。今から4年前に稲丸飛行機に提出された山城帝国陸軍からの性能要求は高度4000で最高速度600キロメートル毎時以上、高度5000ほどで巡航速度400キロメートル毎時、航続距離は高度5000で8時間。


 798年の時点ではこのスペックは未だ達成した機体がなく、特に最高速度600キロメートル毎時越えは至難の業だと考えられた。しかし、稲丸飛行機は前衛的な設計を行い、試作1号機、タイプゼロ1型では高度4000で時速560キロメートルを記録し、改良型の2型で時速604キロメートルを記録した。そうして運用を続ける後に1000馬力のハ110から1600馬力もの高出力を誇るハ122へ換装し、それに伴う前席風防と機首の一体化などの機体設計の改良を加えられ、今飛び立っていった3型は時速660キロメートルを記録している。上昇力は高度8000までを18分ほどで駆け上がる。


 機動性、速度、上昇限度、航続距離で他の双発機やほとんどの単発機を圧倒しているタイプゼロは、3型の前衛的なデザインと相まっておよそ5年後から来た未来の新鋭機であるかのように思える。


 強力な相手だ。並の単発戦闘機では水平飛行で悠々と引き離せてしまうほどのスペックを持っている。相手にするとなると、優位高度からの奇襲の他にない。武装は後部機銃一丁だけで単体の脅威度は低いものの、タイプゼロによる偵察活動を許せば、後続の攻撃隊に万全の態勢を作らせることを許してしまう。その後に待つものは、こちらの対空砲陣地、戦術目標、航空基地の座標と配備されている機種と防空隊の規模を把握しつくした、精鋭無比の戦闘機隊に護衛された爆撃機や攻撃機の群れの来襲である。こちらの防空体制を完全に把握した彼らは、狡猾に、効率的に、理知的に手早く防空体制を無力化してなすすべない目標を火の海へと変えるだろう。


 情報というのは戦局を一変させることもできる重要なファクターだ。情報の透明性、情報量と質の優位は圧倒的な数的戦力比に対しても勝る。


 そして、情報というものには鮮度がある。古い情報は当然のことながら、刻々と変わる状況から乖離していく。情報の伝達速度は、戦場では何よりもの鍵だ。


 その点では、タイプゼロほど理想的な偵察機はない。恐らく、世界中の佐官、将官が欲しがるのではないだろうか。素早く現場に到着し、確実に帰還でき、素早く情報を持ち帰ることができる。


 千の戦闘機、攻撃機、爆撃機を並べても、あの機体一機には代え難い魅力がある。


 昨日1日で、あの機体はどれくらいの他国の軍人や、その中に紛れた情報機関のエージェントの好奇の目に晒されただろうか。各国が、未だ破れない双発機最速の秘密を探ろうとしている。


 情報外務局作戦局第3課戦闘航空隊『リ・ジョンヌ』の部隊長としてこの船に来て、実際にあの機体を間近で見ても、身の内から溢れ出る好奇心を抑えることができなかった。


 彼があそこにいたのは偶然であるし、予期せぬ事態でもあった。それでも、それはそれで好都合でもあった。あの機体のことを観察するのも一つ大きな任務ではあるが、それとは別にあの機体に乗り、駆っているパイロットのことも知りたかった。パイロットの話の中から、あの機体の未知の性能を聞き出すことができるかもしれなかった。


 この一世一代文字通り国家の滅亡を賭けた大博打の未踏域開拓をガルガンドーラ共和国政府に決断させた、前回の未踏域探索での大成果の多くを、一機の命知らずな双発偵察機がその機体と後席の偵察員の命と引き換えにもたらしたということは、各国の情報機関だけでなく航空軍幹部に機体名とそのパイロットの名と共に広く知れ渡っていた。


 タイプゼロの高速性と高高度性能と航続距離は、無数の龍の群れに追われながらの偵察活動を可能とした。最終的に右翼端を龍に折られて速度が低下していたところを、龍によって後席の風防を割られ、偵察員の下士官一名が死んだものの、そのタイプゼロはどの偵察機よりも奥深く突き進み、どの軍よりも大量の情報を持ち帰って来た。


 未踏域にはエリミネア創世神話に登場するような巨大生物が群雄割拠していること、その一部は巨人で、集落のようなものを形成していること、巨大生物たちは種族あるいは群れ同士で対立しており、群れと群れが遭遇すればほぼ確実に闘争が始まるということ、巨大生物の一部、とりわけ巨人は原始的な道具のようなものと火を使うということ。


 これらの情報は巨大生物を駆逐しながら進軍するという、今回の作戦の骨子を構成する重要なものとなっている。


 この功績は、作戦立案の大きな助けとなると共に、タイプゼロという、南方の急進的な発展を遂げ続けている小国の双発偵察機に集められた技術力の高さを各国軍に知らしめ、その驚異的な性能に各国軍幹部の目を剥かせた。


 そのタイプゼロと、それを操る剛勇蛮傑の、南方の闘神アズラのあだ名を持つ男、トウヤ・カツラギという山城のパイロット。この山城の海軍少尉と双発偵察機は、今や各国の興味の的であるが、山城はこの機体に関してテスト飛行時の情報しか公開していない。しかし、その限られた情報だけでも、世界のどの双発機をも凌駕していた。


 この、世界の航空軍を震撼させ、衝撃させた機体を乗りこなすパイロットであれば、その性能の真の限界を知っているかもしれない。


 だから、彼に声をかけた。彼がちょうど休憩所のように扱っていたタイプゼロの情報を引き出すために。未踏域開拓なんていう馬鹿げたお祭り騒ぎに隠蔽した本当の目的のために、彼と接触した。


 かと言って、彼に語ったことがまるきり嘘という訳ではない。僕は、彼に対して真実の想いを語った。そうすることで、彼の心を開かせることができるかもしれないと思った。


 だけれども、彼は迷っていた。少なくとも、僕にはそう思えた。どうしてあの機体に乗っているのか、なぜ戦っているのか、空を飛ぶ理由の全てを、迷っていた。


 その迷う姿が、僕の夢物語を聞いて、宇宙を見上げて思いはせるその姿が、救いを求めて教会に集う信者のようにか弱く見えた。


 少しのきっかけでその翼が折れてしまいそうな、そんな弱々しさ、あるいは不安定さを、外面からは見えない位置に抱えていた。それは、言い換えてみれば、彼の中には何もなかったということになる。


 まだ、何もなかった。どんな感情も持たず、空を飛ぶ意味、理由だけじゃない、人生の中の楽しみといったあらゆるものの意味を、見いだすことができていなかったように思えた。


 あの孤立的な性格は、他人という存在の意味を見出すことができなかった裏返しだろう。乱暴な口調は、他人と関わるということの意味を見出すことのできなかった反発であろう。他人を突き刺し、見定めるような野獣の目は、他人に心を許すということの意味を見出せなかった反逆であろう。


 まるで子供だ。それら全ての反動でただがむしゃらに、意味もわからないまま、たった一つ仕事として空を飛び続ける。あの命すらも省みない無茶苦茶な戦い方は、守るべきものというものが欠けているからだろう。その何も無い心の中で、何も分からずにただただ飛んでいる。この空の下で生きている。


 そんな真実を見てしまったら、なんだか仮初めの目的に隠した卑しい思惑など消え去ってしまい、本来しようと思っていたよりも多く、自分の思いを語ってしまった。あの後、僕は何をやっているのだろうと思い直し、その場を去ってしまった。


 彼は少ししてから格納庫を後にして乗員区画へと向かっていった。その後、彼のいないところでじっくりとタイプゼロを観察した。


 今さっき、その彼は流麗で最高峰の性能を誇るタイプゼロで飛び立っていった。何も分からず、何も見出せず、ただ分からないまま、あの空の中で迷い続けるのだろう。


 タイプゼロが飛び立った直後の乱気流が吹きすさぶ。願わくば、この風が彼をあの空の青に導いてくれることを。


 たった一時とはいえ、彼と言葉を交わし、僕の思いを晒した友が、あの空の中で何かを見出してほしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る