第5話『初飛行』

 中央海歴802年4月3日。黄スイセンが風に揺れるのどかなこの日、リューケイン飛行場の滑走路で一機の単葉複座の小型機が離陸しようとしていた。

 メイルズ社製マスター練習機はこの日、前席にセシリア、後席にリュークを乗せて、滑走路手前で停止していた。


「右手に握っているのが操縦桿、左手に握っているのがスロットル、手前の計器が上段左上から速度計、姿勢指示計、傾斜計、高度計、方位磁針、航空計──」


 セシリアはリュークの指示に従って、一つ一つゆっくり計器を確認していく。まだ本調子ではないエンジンの駆動音がコックピットに鳴り響ている。リュークの指示と、セシリアの堅くて単調な返事以外に交わされる言葉はなく、コックピットには張り詰めた空気が満ちていた。


「計器は全て大丈夫です。管制塔に連絡を」

『はい……』


 セシリアが無線機のスイッチを入れ、マイクを内蔵した酸素マスクを口に当てる。


『管制、こちらルーキーフライト1。離陸許可を要求します』


 セシリアが無線を入れるとすぐに、ノイズ混じりの管制官の声が帰ってきた。


『風230度から7ノット、離陸に支障ありません。離陸を許可します、|幸運を(God speed)』


 管制官の男は緊張しているのか、ノイズ越しでも声の固さが感じられる。

 ルーケイン飛行場は今この瞬間静まり返り、滑走路の上のこのマスター練習機に全ての目が向けられていた。


「じゃあ、最後の確認。滑走している時はエンジンのトルクのせいで機首が左に行こうとするからラダーで中心軸を保つこと。フラップと主脚は十分に高度を取るまで収納しないこと。操縦桿は僅かな動きも反映するから真っ直ぐに保つこと──」


 セシリアは無言でリュークの最後の注意を聞いていた。今まではリュークがやっていた。だけど、今操縦桿を握っているのはセシリアだ。何度も視線を計器の上を滑らし、操縦桿を握る右手を、スロットルを握る左手を握り返す。頭の中でリュークから何度も聞いてきた注意事項を復唱する。

 セシリアの心臓が早鐘を打つ。ドラムを叩くかのような鼓動に、焦燥感が、緊張感がさらに増していく。手足から血が消えて、神経がなくなったかのように感覚が無くなる。

 後席に彼がいる。彼の命がセシリアの手に、足にのしかかっている。


「以上。じゃあ、好きなタイミングでスロットルを倒して。行こう」


 セシリアの様子を知ってか知らずか、リュークは淡白に告げる。


『……、行きます』


 セシリアは、フラップレバーを下ろしてフラップを開き、慎重に、ゆっくりとスロットルを握る左手を前に倒した。エンジンの駆動音が増し、ゆっくりと、緩慢な動作でマスター練習機が動き出す。

 スピードが加速度的に増していく。それと同時に、機首が左に逸れようとする。それを感じ取った瞬間、セシリアは右のフットペダルを踏んだ。機首が左に向かい、正中線に戻る。

 機首の正中線を保つことに集中しながら、操縦桿を手前に倒して十分に速度が乗るまで機体が飛び立たないように留める。

 滑走路上をマスター練習機が駆け抜ける。ルーケイン飛行場の誰もが一瞬、そのやや長すぎる助走に不安の面持ちをしたその時、マスター練習機の尾輪が地面を離れた。

 そしてすぐに主輪がアスファルトを離れた。一瞬、急に機体が持ち上がって、それからゆったりと浮き上がっていく。

 やがて十分に浮き上がったら、セシリアはフラップをしまい、主脚を主翼に収納した。

 マスター練習機は時速240キロメートルほどで滑走路から30メートルほどのところを飛翔し、ルーケイン飛行場の滑走路から新春の陽の煌めきを返す中央海の空へと飛び出した。

 セシリアは、そこでようやく風防の外に目を向けるほどの余裕を取り戻した。


『わあ……』


 風防の外には、一面の蒼い中央海が広がり、はるか先で空の紺碧と混ざり合って一つになっている。穏やかな陽の照り返しの一つ一つが宝石のように眩しい。

 巨大なサファイアの床に散りばめられた無数の宝石たち。そんな感想が出てくるような絶景だった。

 その深いサファイアブルーをもっと近く見ようと、セシリアは操縦桿を倒し、右にバンクしながら海面に近づく。手を伸ばせば届きそうなところに海がある。

 なんだか自由の身になれた気がした。それまでの、ガルガンドーラ王室の王女のセシリア・アレクサンドラ・ガルガンドーラ、私人としてのセシリアの全てから解き放たれて、人間という枠からはみ出て、鳥のような、どっちかというとこの大気の、空の一部に溶け込んだような、心地よい錯覚。

 どこへだって行けそうな気がした。どんなこともできそうな気がした。

 だが、それはただの錯覚だ。


「高度が下がりすぎてる。海面に接触するよ」


 リュークは淡白に警告した。セシリアの操縦するマスター練習機は、右に傾いたまま、海面からわずか数メートルという超低空を飛行していた。このままではふとした拍子に海面に衝突する可能性もあった。


「あっ……」


 セシリアは気を取り戻し、機体を水平に戻してから操縦桿を手前に引き倒して高度を取り直す。


「楽しい? 飛ぶのは」

『ええ……なんだか、自由になれた気がして……好きに飛び回れるっていうのが嬉しくて』

「そう。それは結構。じゃあ──」


 その日、一機の練習機が、柔らかく暖かな雪解けの光の煌めきを返しながら、ひたすらに深く蒼い無限の宝物庫の上を、初めて飛んだひな鳥のように無邪気に飛び回っていた。


 × × ×


 中央海歴802年7月7日。山城では神話上での記念日であるこの日、リュークは新たに843飛行隊に支給された単座単葉単発の、スーパーオーシャン社製艦上戦闘機『シーセイバーMk.Ⅰ』に搭乗し、夏の鋭い日差しを照り返してくる中央海の上空5000メートルを東北東に向けて飛行していた。

 ガルガンドーラ海軍艦隊航空隊の最新鋭艦上戦闘機であるこの機体は、スーパーオーシャン社製の戦闘機セイバーMk.Ⅴを元に海軍仕様に改造した機体である。セイバーMk.Ⅴに着艦用フックを装備し、計器類を取り替えた上に幅が狭く着艦に適さなかった主脚の強度を補強したのみのため、機体性能はセイバーMk.Vとほとんど変わらない。

 特徴的な、薄く長い青色に塗装された楕円型の主翼と、鋭く尖った機首。搭載された優秀なアーサーエンジンと軽量な機体によって、優秀な上昇性能、加速性能、格闘性能を揃えた万能機であった。そしてセイバーMk.Vは、高高度でのエンジン性能が向上した機体のため、シーセイバーMk.Ⅰも高高度での優秀な運動性能を引き継いでいた。武装は薄い主翼内に20mm機関砲が2門、7.7mm機関銃が4丁収められており、それぞれの装弾数は多く、威力も非常に高い。

 まさに、ガルガンドーラ海軍の虎の子であったこの機体を支給されて初めて乗った時、リュークはこの機体の持つポテンシャルの高さに驚かされた。ツバメのように軽々と昇り、スロットルを開けばすぐに加速し、素直に曲がる。リュークは、思い描く動きにピッタリと追従してくるこの機体をすぐに気に入った。

 そして、習熟飛行に3ヶ月ほどを費やし、その間はまるではしゃぐ子供のようにこの機体に付きっ切りだった。

 龍が大移動を終えて、全ての群れが各々の島に戻ったのを確認して1週間が経ったこの日、843飛行隊はアルゴーを目指して飛行していた。

 ガルガンドーラ海軍艦隊航空隊では、2機で1個編隊を構成するロッテ戦術を編成に採用しており、そして2個編隊で1個小隊となり、843飛行隊はその小隊が4つ組み合わさって編成されていた。リュークは第1小隊の第2編隊の長機を務めていた。

 そして今、それぞれの編隊は長機を右前に、2番機が長機の左後ろにつき、小隊の第1編隊を前にして、先頭から左回りに第1小隊、第2小隊、第3小隊、第4小隊の順でひし形の陣形を取っていた。

 深く澄み切った、高高度から見渡した空のような群青に身を包んだシーセイバーMk.Ⅰ 16機のひし形の陣形の真ん中に、他のどのシーセイバーよりも深く、海のように鮮やかで純粋な青に近い塗装の機体が一機いる。

 鮮烈なロイヤルブルーに塗られ、胴体のガルガンドーラ王立海軍のラウンデルとは別に、垂直尾翼にガルガンドーラ王室の紋章が描かれた、優美なシーセイバーがいた。

 843飛行隊の既に使い古された、洗練された造形美とは別に荒々しさを内包するシーセイバーとは違い、まるで製造された工場から出たてのように、もしかしたらそれ以上に磨き上げられ、一切の塗装のムラも、剥がれ落ちもなく、まるで芸術品かあるいは宝物庫に収められたサファイアかと思うような一機であった。

 どうやらエンジンも相当念入りに手入れされているらしく、843飛行隊の面々の機体よりも駆動音がやや軽快でなめらかに聞こえる。

 そのシーセイバーは、基本的には843飛行隊の囲いの中心に綺麗に収まっているのだが、時折正面を飛行している編隊の長機の真横に並び出たり、やたらとその機体に対していたずらをしかける子供のような無邪気な動きをする。

 リュークは、その芸術品のようなシーセイバーが自機の真横に躍り出て、操縦者の顔が風防越しに見えるようになる度にため息をついていた。ゴーグルの奥に無邪気な光を湛えた、白く透き通ったような顔でリュークを見る度に、手信号で陣形に戻れと伝える。その度に、そのシーセイバーのパイロットは、口元はマスクのせいで見えないが確実に笑うと、時折リュークをおちょくるようにリュークを中心にしてバレルロールをしながら陣形の真ん中に戻る。

 あの観賞用のシーセイバーの操縦桿を握っているのは、セシリア・アレキサンドラ・ガルガンドーラだった。

 セシリアが小型機を操縦できるというのは、ガルガンドーラ国内でも有名な話であった。たった一度の王立海軍の飛行場視察の後に、唐突に航空機の操縦に熱意を示し始め、しかもその飛行場にわざわざ足を運んで操縦を学んでいたことは、王室最大のミステリーとして、王室だけではなく海軍、政府、果ては国民の間でも持ちきりの話題であった。

 そして今年の春、セシリアが初飛行に成功すると、そのニュースはセシリアが首都の居城に戻るよりも早くガルガンドーラの地を駆け巡り、それから1週間後に、セシリアはガルガンドーラ王立海軍艦隊航空隊のパイロット訓練生の肩書を与えられ、いわば広告塔のような役割であるものの、セシリアは正式に王立海軍に籍を置くことになった。

 セシリアはそれからも小型機、とりわけ戦闘機操縦の訓練を受け続け、今では彼女一人だけで機体の整備から着陸までこなせるようになっていた。そうして、今度は王立海軍艦隊航空隊の正規戦闘機パイロットとしての身分を与えられた彼女は、今回の未踏域開拓に際してガルガンドーラ共和国、そして王立海軍を代表した演説を行うために、彼女自ら専用のシーセイバーでアルゴーに向けて飛行していた。

 しばらく、セシリアのいたずらをあしらいながらもひたすらに直進を続けていると、地平の彼方に巨大な影が見えた。

 移動型巨大洋上フロート、アルゴー型一番艦『アルゴー』。そしてそのすぐ近くに見える、アルゴーと同じくらい巨大な影。一瞬、蜃気楼でアルゴーが2隻に増えたように見えているのかと疑ってしまうが、あれは先月ユーレイン大陸の造船所で完成したアルゴー型二番艦『スキーズブラズニル』である。アルゴーと基本的な船体の設計は同じながらも、航空機の収容能力、整備能力、巨大船艇の停泊能力、その他交易設備や居住設備などの能力向上が図られており、また、アルゴーよりも高馬力な機関を搭載したために速力も向上している。

 今回、アルゴー型2隻が作戦の初期の宿泊地となる。また、前線に飛行場や基地の建設が進めば、アルゴーは中継基地となり、スキーズブラズニルは中央海の交易の中継地点としての役割に戻る。

 今頃、アルゴー型2隻には中央海を囲む各国から飛来してきた陸軍機や海軍機、空軍機の収容に大忙しになっているところだろう。アルゴー型2隻を合わせた収容能力は大型機330機、小型機2500機程度となっている。これを満載し、そして係留された飛行艇と、入り切らずに各国の空母に積載された艦上機を合わせた総勢7000もの航空機が、今回の前哨戦に参加する機体である。

 アルゴー型2隻との総体距離が短くなっていくにつれて、上空に旋回しながら待機している大量の航空機の群れが見えた。まるで魚の群れのように密集し、大小様々な機体が入り乱れて着艦の許可が出るのを待っている。時折、着艦許可が出たのか、十数機の機体がまとまって綺麗な陣形を保ちながら旋回しながら降下していき、何機かまとめて着艦している。

 遠目から見ても、群れの数は遅々として減っていない。それどころか、色んな方角から次々と新たな群れが混じり、その規模はただただ巨大になっていくだけであった。

 正直、あの中に混ざるのは辟易とする。何時間も着艦許可を待ち続けて眼下にアルゴーを据えながら、機体を傾けてグルグルと旋回し続けるのは、海の上を真っ直ぐ水平に飛ぶことよりも辛い。

 アルゴー型2隻の上空の巨大な群れを見つめながらアルゴーに近づいていると、隊長機から無線が入った。


『アルゴー、こちらガルガンドーラ王立海軍第1遠征航空団所属、第2飛行群。コールサインはロイヤルウィング。相対距離は目測で40、相対方位280。着艦許可を求む』


 隊長はかなり早く、まだアルゴーが遠方に見えるのに着艦許可をアルゴーの管制に求めた。あの空の魚群に焦ったのだろう、早々に着艦許可を得て維持旋回を行わずに着艦に入りたいという腹づもりのはずだ。


『ロイヤルウィング、こちらアルゴー。貴隊の到着を心待ちにしていた。降下に入るタイミングで再度通信を求める。貴隊を誘導する』


 アルゴーからの通信チャンネルから帰ってきた答えに、リュークは目を開く。843飛行隊が着艦のために降下するタイミングでまた通信を入れればアルゴーからの着艦の誘導を受けられるということは、こちらの好きなタイミングで着艦できるということだ。

 上空を飛び回る大量の軍用機を差し置いてこの843飛行隊だけを優先して着艦させるという連絡に、リュークは驚いていた。しかし、すぐにリュークは納得する。今、この843飛行隊は通常の定員より一人、一機多い。そして、王立飛行群(ロイヤルウィング)というコールサインを与えられている。

 だが、この通信は同じチャンネルを受信している全ての通信機に届いている。そして、その大部分はあの2つの巨影の上を旋回している航空機の群れの中のそれぞれの機体に搭載されている。

 つまり、このガルガンドーラ王立海軍第1遠征航空団所属第2飛行群、コールサインはロイヤルウィングで17機の青いシーセイバーMk.Ⅰで構成された843飛行隊が、遠方からはるばるやって来た彼らを差し置いて先に着艦できるということを、この作戦に参加する全ての軍の全員に聞かれた。

 なんて迂闊なことをするんだ、とリュークは落胆と憂鬱混じりに思った。着艦と収容作業でてんやわんやの甲板の上をさらに混乱させて、参加するガルガンドーラ以外の軍に自国の部隊より優先度が低いと宣言する。これは、作戦前に他国軍に無用な不快感を与える行為に他ならず、余計な摩擦を生み、最悪の場合は作戦行動に支障を来す可能性もある。

 リュークは、一つため息をついた。生暖かい吐息が、くぐもった音を立てながら密閉されたマスクの中に充満し、唇が僅かに湿った。

 アルゴーに着いて他の兵士と出会った時に向けられるのが敵意だとは、ツイていない。


 × × ×


 葛城は、ぽつぽつと等間隔に白熱灯が点いた広大な格納庫の中に駐機されている、零式司令部偵察機の前席コックピットの中で、両足を計器盤の上に乗せながら、山城の小説を読んでいた。

 今、アルゴーの巨大な広間を4つほど使って、未踏域開拓前哨作戦、名をギガントマキアー作戦とする、長期に渡る未踏域への大遠征の前夜祭が執り行われていた。

 その宴会では、連合軍として合同の作戦を行う遠征軍と一緒に来た各国軍の調理師たちが作った各国の料理や酒などが振舞われ、士官は他国の士官との交流を、下士官や一兵卒は寝床や作戦行動を共にする異郷の仲間たちと親睦を深める場となっていた。

 しかし、葛城は他国の士官との交流を伊吹に全て投げて、一通り腹を満たしてからここに来ていた。

 今の格納庫は、昼間の驚天動地の喧騒とは打って変わって、しんと静まり返っている。着艦の誘導と格納作業で疲れ果てた整備員達は早々に乗員区画に篭った。ここには黙りこくった大小様々、十人十色の所狭しと並べられた幾百もの航空機と、整備員たちが放置していった道具や機材と葛城以外には誰もいない。

 葛城は、乗員区画にまで響いてくる前夜祭の喧騒から逃れてこの格納庫に来ていた。葛城という男にとって、不必要な喧騒と士官同士の世間話は毛嫌いしていたものであった。

 しばらく、葛城が心地よい静寂と無関心を満喫していると、微動だにしなかった静寂を破る、等間隔のカツカツという足音が聞こえて来た。

 誰か、革靴を履いた者が近くを歩いている。等間隔で聞こえる足音から、厳格に訓練された軍人だろう。そして、革靴を履いているということは、正装をした士官の可能性がある。今日は特に服装は指定されていないため、作業服のままでも良いのだが、士官連中は暗黙の了解として全員正装で宴会に参加していた。葛城も、伊吹に強制的に夏季用の真っ白な二種軍衣を着させられていたが、今の葛城は正装の士官としてあるまじき体制でいる。

 足音が近づいてくる。葛城はその足音が耳障りで、小説に集中できず、ぱたりと小説を閉じて計器盤の上に放り投げ、手を後ろ手に組んで目を閉じた。

 しばらくすると、革靴が鉄板の床を叩く音が止まり、どこかのタラップを踏みしめる、ギシギシと言った音が聞こえて来た。

 葛城は、おおよそ彼のように宴会場から静寂を求めて逃げて来た同類かと思っていた。それならば、これ以上うるさくはならないだろうし、しばらくすればまた静かになるだろうと思っていた。

 静かになって少ししたら、目を開けて風防と計器盤の間に挟まっている小説の続きを読もうと思っていた。


『やあ、少尉(スー・リュトナン)。君も涼みに来たのかい?』


 葛城はいきなり、顔の真上からガルガンドーラ語で話しかけられた。葛城が面倒くさそうに右目を薄っすらと開けると、風防の開いた零式のコックピット端に寄りかかりながら葛城を見下ろしてくる男がいた。

 はっきりとした金髪に、堀が深く鼻が高いが草食動物的な顔立ち、紺の背広のような服装、訛りの強いガルガンドーラ語と少尉の発音から、目の前の男の所属はフランチェ共和国空軍だと分かる。

 葛城はその男を無視してまた目を閉じた。しかし、男がここを離れる気配が伝わってこなかった。葛城は折れて、目を開けて足を下ろし、男を怪訝そうな顔をしながら見上げた。


「何の用だ、少尉」


 紺色に黄色の一本線と一対の翼。目の前の男の肩についていた階級章は、空軍少尉のそれだった。

 少尉の男は、にこりと人懐こそうに微笑むと、爽やかに言ってのけた。


「僕もあのパーティーの熱にやられてしまってね。涼みに来たら先客がいたもんだから、挨拶しに来たのさ」

「ふん、涼むなら甲板にでも出ろ」


 葛城は、少尉の男の微笑みを撥ねのけた。


「そうしようと思っていたのだけれどね、どうだい? 君も一緒に来ないか?丁度、同じ歳くらいの山城人と話をしてみたかったんだ」


 眉をしかめる葛城に、少尉の男は構わず続ける。


「甲板の方が涼しいし静かだ。君もそんなところでそんな姿勢のままじゃ疲れるだけじゃないか」

「一人で行け。俺はここでいい」

「そんなこと言わずに、さあ。作戦が始まる前に他の国の士官と交流をしておきたいんだ。信頼関係と情報交換は作戦で役に立つかもしれないからね」

「…………。」


 最後は、葛城が根負けして少尉の男と共に甲板に出ることになった。


「僕はフランチェ空軍第3航空団第5戦闘飛行隊『アルエット』所属のユリス・エーメ少尉だ。君は?」

「……山城帝国海軍第153海軍航空隊、トウヤ・カツラギ少尉」


 葛城は、ユリスに吐き捨てるように自分の所属と名前を明ける。


「トウヤか。よし、覚えた。君の名前は山城人にしては随分と短くて覚えやすいね」


 ユリスは甲板へと通じる隔壁を開ける扉のハンドルを回しながら、背後の葛城に言う。


「君の乗っていた、あの双発機は君の搭乗機かい?」

「ああ……」

「そうか、あれは美しかった。一目見て思った。あれこそ洗練された、完成された飛行機だ」

「…………。」

「とすると、153飛行隊は爆撃隊なのか?」

「いや、零式は司令部偵察機だ」

「タイプ0か。良い響きだ。気に入ったよ。 と、いうことは、君は明日から任務だね」


 未踏域開拓前哨戦の先駆けとして、事前に策定された上陸地点周辺半径10キロメートルを戦艦巡洋艦の混成艦隊の砲火力をもって制圧する。そしてその砲撃目標の選定のために各国の偵察隊が明日から未踏域に先行し、原生生物の種類と座標を偵察することになっている。


「僕は戦闘飛行隊だから実戦は4日後からだ。もしかしたら直掩で一緒になるかもしれないけど……あの機体ならあまり無いかなぁ」


 零式司偵は高速偵察機である。この間は黒龍にやられはしたものの、水平飛行ではほとんどの国の単発戦闘機を振り切り、黒龍のような巨大で速力のある龍でなければ凌駕できるほどの性能を持っている。その上今は大移動の後であるため、空の脅威は少なく、ユリスが直掩として葛城の零式を護衛するということは来年の大移動までは無いだろう。それどころか、単独行動の多い司令部偵察機にとって直掩や護衛が付くということ自体が非常に稀である。


「結局、今限りになるかもしれないけど、君が僕の顔を覚えていてくれるとうれしいな。そして、この作戦が終わってまたこのアルゴーで会えたのなら……と」


 ユリスがハンドルを回すために屈めていた体を起こし、隔壁扉に左肩を当てながら押し開いた。その瞬間、外から冷たく潮の匂いがする夜風が吹き込んできた。夜は中央海の冷え切らない空気が未踏域の地との温度差によって上昇気流を生み、北西からの陸風がアルゴーの現在位置を通り抜けていく。

 若干強めな陸風を左手で避けながら、葛城はユリスに続いてアルゴーの飛行甲板へと出た。

 ユリスは、航空機管制と航空機運用の指揮所が併設された天守閣のような構造をした飛行管制指揮所の麓で腰を下ろし、葛城を見上げてその隣を指し示した。

 葛城はため息をつきながらゆっくりとユリスの隣に腰を下ろす。木製の飛行甲板は、さっき押し開いた隔壁扉よりも冷たくはないが、それでもひんやりとする感覚が、地面と接した正装の白い木綿の生地越しに伝わってくる。


「やっぱり、綺麗だ」


 ユリスは夜空を見上げながら呟く。葛城は、ユリスに倣って空を見上げた。

 藍色の濃い空に巨大な満月が浮いている。満月の周りには、大量の星々が宙を舞う金砂のように輝いていた。


「パリアはね、街並みは美しいんだけど、空はそこまで綺麗じゃないんだ」


 ユリスは、星空を見上げたまま、思い出話をするかのように語り始めた。


「パリアは首都だし、人は沢山いる。だから栄えているし、凱旋門とか美術品とかは飽きるほどある。だけど、空はここまで綺麗なわけじゃないんだ」


 フランチェの首都パリアは、人口150万人ほどの大都市である。歴史も古く、徹底的に整理された街並みは美しく、町中のいたるところに共和制への革命前の貴族諸侯の豪邸などが立ち並び、噴水や凱旋門のような芸術品が都市景観に溶け込み、非常に文化的な雰囲気を感じる。

 しかし、蒸気機関発明後の爆発的な工業規模の拡大により、パリアとその周辺の街に工場が建ち始め、自動車が御者業を路地裏に追いやってからはパリアの空はかすみ、市民の中で気管系の疾患が流行っているらしい。


「ここは海の上だ。何もない。だけど、だからこそ……空を遮るものはない」


 強い潮風がごう、と吹き付けた。


「海の上に雲があって、その上に星があって、月があって、太陽があって、その向こうに蒼い空がある。ここだと、その全部を見渡すことができる」


 ユリスは上半身を倒して冷たい木製甲板に寝転ぶ。


「邪魔な煙もここにはない。……僕にとっては、ここが一番自由になれる場所だと思う」


 ユリスの一人語りは続く。その目は、星を見ているのか、その向こうの空を見ているのかわからない。


「僕はね、空が好きなんだ。いつか、雲の上を超えて、果てなく上方にいる月に、太陽に、星々に、その先の蒼い世界を、空の果てにまで行ってみたいんだ」

「……果てないぞ、あの空は」


 視線の先に輝いている巨大な月は高度1万メートルをゆうに超えて遥か彼方に、月の周りで小さく輝いている無数の星々は月よりも遠く、キロメートルなどという手頃な基準を捨てて、誰も追いすがることのできない光ですら数万年もかかるという。

 少し前にポルシチの学者が発表した理論では、光は何者にも越えることができないという。

 葛城は、夜の暗い帳の中で遥か彼方から途方も無い時間をかけて降り注ぐ星々の無数の煌めきを見上げて、そっと右手を伸ばしてみた。

 僅か70センチほどのこの腕は、あの星々の光に触れるには足りないを通り越して、無限小にも等しい。

 いつか、それも届く日が来るのだろうか。


「…………。」


 ユリスの一人語りに乗せられて、いつのまにか夢想にふけってしまっていた。いつも一人でいる葛城にとって、夢想は癖のようなものだった。それは何もない空の中で正気を保つに身につけたようなものだった。


「空が、好きかい?」


 いつの間にか、ユリスが葛城に頭を向けて微笑んでいた。


「……、あそこには何もない」


 空が好きか。そう聞かれて、葛城はそう答えるしかなかった。葛城にとって空は、仕事のために飛ぶだけの世界であり、空に関する知識は豊富であっても、空を飛んでて楽しい思い出はなく、命からがら生還した記憶は多い。

 だから、この空に向ける思いは何もない。好きか嫌いか言われてもなんとも言えない。


「何もなくはないさ。確かに空気があって、その先に宙があって、そして星がある。僕はそこにたどり着けないかもしれないけれど、いつかはあそこに誰かが立っているかもしれない」


 そう言って、ユリスは空を指差す。


「僕は空が好きだ。君も……本当は空が好きなはずだよ」


 ユリスが立ち上がり、礼装の尻を払う。


「じゃあね。阿修羅(アズラ)カツラギと話すことができて嬉しかったよ」


 ユリスはそのまま立ち去り、先程通った隔壁扉から格納庫に消えた。

 ふと、退役した後のことを葛城は思った。海軍航空隊を辞めたところでやりたいこともない。全く手をつけていない給金は溜まりに溜まっているが、それを使うあてもない。

 あの男なら、どうするのだろうか。故郷に帰り、自分で航空機を買い、この空のどこかを自由に飛び回るのだろうか。

 あの男はこの空が好きだと言った。やりたいこともあると。

 なら、葛城という男はどうなのだろう。幼い頃からほとんどの事に熱中する事なく、ただ勉学と合気道ができただけで中学教師に軍学校を勧められ、倍率の高い予科練に受かったからこの道に進んできた。


「アイツ、俺を知ってたんじゃねえか」


 葛城は、なんの感情もわかない星空を見上げながら、絡まった思考を全て断ち切るように、関係のないことを吐き捨てた。

 そして、一つ息を吐いて上半身を倒して横になり、しばらく煌めく夜空を見つめていた。

 せめて、あの男のように、今はただの仕事の場でしかない空を好きになれば、何か見つかるかもしれない。

 とりあえずの目標を決めた葛城は、黒檀の空の上で煌々と輝く月と無数の星々の海に背を向けて、開けっ放しの隔壁扉へと踵を返していった。


 × × ×


 非常に気まずい時間が、長く粘着性を持っているかのようにゆっくりと流れていた。そのきまずさの沼から抜け出してきたリュークは、1週間ほどのみ与えられた乗員区画の一室に向かう。

 このアルゴー型2隻ですら、今回の作戦に参加する人間に比して収容能力が不足気味であり、士官クラスですら個室を与えられず、佐官は佐官同士の相部屋、尉官ともなると最悪下士官以下との相部屋となり、将官ですらアルゴー内にある、各国の大使館として使われている区画の中の仮眠室などを使わされているらしく、王(ロイヤル)の名を関する843飛行隊ですら16名の隊員を3部屋ほどに分けられている。しかも、その全てが他国の兵士との相部屋である。

 ロイヤル・ウィングというコールサインと、この飛行団が上空で着艦許可の待機をしていた無数の航空機を差し置いて優先的に着艦したことがこのアルゴー内に知れ渡っているのは、先ほどのパーティーで十分に思い知った。

 まず下士官以下向けのホールで所属部隊を明かした瞬間に相手の表情が軒並み凍りつき、セシリアに強引に引っ張り回された士官向けのホールでは階級章で冷たい目を向けられ、所属を知られて軽い皮肉を吐かれ、セシリアにホール内を連れまわされている時には背後から大量の排他的な視線が突き刺さってくるのを感じた。

 そのため、せっかくの大きなパーティーも、飛行隊の仲間とはぐれた上に精神的な疲労感が凄まじく、とても楽しめるような状況ではなかった。

 ようやくセシリアとの挨拶回りなどから解放され、すぐさまにホールを抜け出してきて今に至る。

 時刻は未だ9時ほど。いつもであれば入浴を終えて仲間たちと談話室で会話でもしている時間だが、今はそんな余裕がない。真っ先に自分のベッドに行き、息を吐きたかった。

 割り当てられた部屋は、予想通り狭く、その中に三段のベッドが四つ詰め込まれていた。アルゴーに着いた時、この部屋に来て荷物を置いていたため、奥のベッドの一番下に小ぶりな荷物袋が放置されていた。

 リュークは三段ベッドと奥の壁の間にあるロッカーを開き、その中のハンガーに着ていた正装を手早く脱いでかける。そして荷物袋からジャージを取り出して着ると、そのままベッドに入り、綺麗に畳んであるリネンを避けて足を伸ばした。

 リュークは、すぐ目の前にある二段目の底を見上げながら、息をついた。誰もいないこの部屋では、やることもなく、ただリュークは二段目の底を見上げたまま、ぼうっとしていた。

 しばらくしたころ、重い鉄製の部屋の扉が開く、軋むような音がした。誰かがこの部屋に入ってきたことに気づいたリュークは、ゆっくりと上体を起こした。

 部屋に入ってきた誰かは規則正しく奥まで歩いてきて、リュークのベッドと通路を挟んだ反対のベッドと壁の間のロッカーの前で立ち止まった。

 足しか見えないが、着ている服からして正装をした士官であることが分かった。恐らく運悪く下士官以下と相部屋になったどこかの国の尉官だろう。リュークとは階級が離れすぎている人であり、着艦の件も含めて印象を改善するためにリュークは挨拶をしておこうと思った。

 挨拶をするためにベッドから這い出て立ち上がったリュークの目の前に立っていたのは、綺麗で真っ直ぐな黒髪を短く、軍人にしては長く切りそろえた、リュークより頭一つ分背の小さい中尉だった。後ろ姿しか見えないため、どこの国の士官かは分からないが、平均身長の低い南方の辺りだろう。


「初めまして。ガルガンドーラ海軍艦隊航空隊所属、リューク・イリューシン少尉です」


 リュークは、右手で海軍式の肘を前に出した敬礼をしながら、直立の姿勢で目の前の中尉の背中に向かって言った。

 リュークの目の前に立っていた中尉は、リュークがいることに気づいていたなかったのか、華奢な肩をはね上がらせて、ゆっくりとリュークの方を振り向いた。


「…………。」


 リュークの目の前に立っている中尉は、女だった。リュークの目を突き刺す氷のような目、端麗な鼻梁、きっちりと結ばれた口元。美しいが、あまりにも凛と、あるいは士官らしい冷徹さを持った山城人の女だった。

 しばらく、リュークは目を見開いたまま、その山城その山城人の女中尉を見下ろしていた。その女中尉は今まさに真っ白でシワひとつ無い正装のジャケットのボタンを全て外し、その胸元に手をかけて脱ごうとしている最中であった。

 そして自然、リュークの目は氷のように凍てついた黒色の目から、浮き出た鎖骨から、それなりに山を描いて白色の下着を押し上げる胸へと吸い寄せられる。

 リュークと女中尉はしばらくの間、そのまま固まっていた。


「貴様は……臥軍(がぐん)の下士官か」


 はじめに動いたのは、女中尉の方だった。目を動かさず、無表情を貫いたまま、口元だけを動かす。


「ふん、気にするな。こんな状況だ、上に配慮なんてものはかけらも無いのだろう」


 そう言いつつ、女中尉はジャケットを肩から外し、女であることを考慮しても軍人としては細い上半身からそっと取り去り、ロッカーのハンガーにかけた。

 綿でできた真っ白な下着に浮き出る背骨のラインから伸びるうなじを、リュークはぼおっと眺めていた。


「し、失礼しましたっ!」


 それからリュークは、自分が何に立ち会い、何を見ているのかを理解して思い切り後ろを向き、直立不動の姿勢で固まる。


「こんな程度の上層部のこんな程度の組織だ。気にすることはないだろう」


 女中尉はこうは言っているが、その言葉の無機質さと冷たさは一層増している。女中尉はリュークに同情するような口ぶりをするが、その口調は氷のように抑制されており、その奥に烈火のような怒りが揺らめいているのは明白だった。


「フン、貴様、上官の目にそのケツを入れて鉄扉に語りかけるのが臥軍の礼儀か」


 リュークの背後から冷気が忍び込んでくる。それと同時に、背中に槍で刺されたかのような痛みを感じた。


「し、しかしッ──!」

「いいからこっちを向け」


 女中尉は冷たく言い放ち、リュークの肩にその雪のように白くて人形のような右手をかけ、おおよそその体躯からは想像もつかないような怪力で、まるで立てかけられた木の板を引き倒すかのように軽々とリュークを振り向かせた。

 女中尉の黒い、絶対零度の瞳がリュークの茶色い瞳を見上げる。その視線に貫かれたリュークは体が凍りついたかのように動けなくなってしまった。


「しかし、どうした」

「中尉殿は……今」


 その先を言おうとして、リュークの目は女中尉の黒い瞳から鼻梁を通り、細く白い首筋から鎖骨へと移り、その下にあるはずのそれなりの大きさを誇る丘陵に行こうとして、真っ白な木綿の生地に当たった。

 女中尉は、リュークが後ろを向いている間に、寝巻きに着替えていたらしい。


「しかし、なんなんだ?」

「い……いえ、なんでも、ありません」

「フン、まあいい。さっきのことは不問に付そう。長時間の飛行に大宴会と、疲れがたまっていたのだろう?」


 女中尉は、まるでさっきは何もなかったかのような空気を出しながら、リュークのベッドと通路を挟んで真向かいのベッドに腰を下ろした。


「ああ、私は山城帝国海軍航空隊153飛行隊の伊吹優里香だ」

「ガルガンドーラ王立海軍艦隊航空隊843飛行隊、リューク・イリューシン少尉です」


 さっきとは打って変わって、鋼のように硬くこれ以上伸ばしようのないくらいに完璧な直立不動の姿勢をとり、真っ直ぐな敬礼をしながら伊吹に向かって名乗った。


「ほう……ロイヤル・ウィングか」

「うっ……」


 ガルガンドーラ王立海軍艦隊航空隊の843飛行隊が、多くの今作戦参加国軍機がアルゴーへの着艦許可を待っていたところを優先的に着艦した悪名高きロイヤル・ウィングだという話は、このアルゴー型2隻の中にいる全ての者に伝わっているということを忘れていた。


「なに、私は気にしてはいない。この舟はこんな上が運用している。それに共和国の王女のいる飛行隊だ、優遇されるのは当然だろう」


 イブキという女中尉は、こんな上という言葉を気に入ったのだろうか。ともあれ、その響きから苛立ちが抜けていない。


「わざわざ王立飛行隊と名付けるんだ、相応の腕前なのだろう。その力量を見る時を楽しみにしているよ」

「恐悦です」


 リュークは、文字通り、そっくりそのまま恐悦していた。いや、恐悦という言葉は相応しくない。リュークは、恐々としていた。慎んで喜ぶのではなく、ただただ恐れ、畏れ、怖れていた。


「力を抜きたまえ。実のところを言うと、153飛行隊は零式司偵の飛行隊なのだが、私の相方、私の零式の前席の男なのだが、これが実に小生意気で粋がっていて、自惚れていて、自尊心が強く、協調性と気配りといったものとは無縁な男でな、そいつのせいでこのような事態には慣れている」

「は、はぁ……」

「腰を下ろせ。立ったままでは辛いだろう。私も、王立海軍の精鋭飛行隊についての話が聞きたい」


 そう言われて、あるいは命じられて、リュークは自分のベッドに腰を下ろし、通路を挟んで正面に座るイブキに顔を向けた。

 それから、リュークと伊吹は話し始めた。その内容は一貫して空戦やドクトリンなどに関することだった。伊吹は、リュークから見知らぬ空戦時の機動や、編隊飛行などについて。リュークは、伊吹から単独で強行偵察を断行し、安全に離脱する術、大型機で多数の戦闘機を相手取る術などの自分の知らぬ技能についての話を交わした。

 お互い、戦闘機と大型偵察機という違いもあり、お互いに未知の部分が多く、その会話は大いに盛り上がった。夜も更け、お互いに話し尽くしてからは、お互いの戦場での経験談に移り、それは日付をまたいで酔いつぶれて立てなくなった仲間を引きずってきた843飛行隊の面子が鉄扉を開けるまで続いた。

 それから、リュークは843飛行隊の面子が伊吹に冷やかしをして、素面(しらふ)の伊吹と一触即発の事態となったのを必死に仲裁しながら全員をそれぞれのベッドに寝かしつけ、シワが付くことも厭わず正装のまま豪快にいびきをかき立てて眠る843飛行隊の面子に対して伊吹が眉をしかめて睨みつける中、憔悴しきったその体をベッドへと倒した。

 消灯時間を過ぎ、赤く薄暗い非常灯のみになった部屋の中で、リュークは騒音とまで言えるいびきの混声合唱に耐えながら、二段目のベッドの底を見上げながら伊吹との会話を思い出していた。

 異国の零式司令部偵察機と、伊吹自身の体験談に戦闘機とは全く異なる戦術の数々。特に、積乱雲に飛び込んで黒龍の群れを振り切ったという話が、リュークにとって印象的であった。

 黒龍は随一の高速を誇る零式にすら追従し、長命で高度な知能を持ち合わせ、良く統制され、イブキとその相方の、アズラという南方の闘神のあだ名を持つカツラギという少尉を追い詰めたという。

 その黒龍に右翼の翼端をもがれ、燃料が漏れ続ける中で、カツラギは積乱雲の中へ飛び込むことを決断したという。積乱雲の中にリュークは飛び込んだことはない。訓練学校ではひたすらに積乱雲は避けろと教え込まれ、これまで幾度か積乱雲を目撃した時も、その時の飛行隊長は毎回積乱雲を避け、積乱雲に飛び込んだ航空機がどのような末路を辿ったのかは、怪談話のような類としてパイロットの間で広がっていた。

 その積乱雲の中に右翼端を失った状態で飛び込み、見事に生還したカツラギという山城のパイロットは、只者じゃない。まさに、闘神と呼ぶべき度胸と腕前だ。

 この世界、この空には、リュークを遥かに超える強者が沢山いる。その事実が、リュークに高揚感を与えた。その興奮で、リュークは疲れ切っていたというのに、しばらく寝付くことができなかった。

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