第3話


 あの雨の日から何年が経っただろう。昨日のことのように鮮明に覚えている。彼女の声の色も、雨の冷たさも。それは感情の起伏のない、平坦な生活を送っているからかもしれない。


 今はホームレスとして目覚め、ホームレスとして眠る。彼女の毛布には今でも世話になっている。

 手紙の返事は来なかった。それでもいい。"僕"の気持ちは全部伝えられたから。



 煩わしく思っていた子供達にも、別れる時には寂しさを感じた。隣のおしゃべり女教師は抑揚のない声で残念です、と言っていた。まあそんなものだろう。所詮は職場だけの付き合いだ。



 一番手前の売れ残りを手に取る。もうこの味にも随分前に飽きてしまった。それでも贅沢をするわけにはいかない。ホームレスの俺には金銭的余裕はない。




 ロープの結び目を確認する。定期的に確認しなければ気づかぬうちに緩んでいることも稀にある。

 そこに長方形の紙が挟まっているのを見つけた。封筒だった。



 ランタンに光を灯す。折り目をつけぬよう慎重に便箋を取り出す。そして優しく、開く。




 返事が随分遅くなりましたことをお詫び

 いたします。


 私の中で気持ちの整理がつかず、いつか

 いつかと先延ばしにしてしまっていまし

 た。


 あなたからの手紙、何度も読み返しまし

 ました。にわかには信じられぬ内容でし

 たがあなたは人を傷つける嘘は言わない

 人だと思っています。私はあの手紙に

 書かれていたこと、全てを信じています。


 あの雨の日、あなたは私に傘をさして

 くれました。それからあなたにどんどん

 惹かれていった。


 そして同じ雨の日。私たちは別々の道へ

 進んでいった。


 あの信号で別れを告げてから9年が経とう

 としています。私は今も当時と同じ書店で

 働いています。そしてそこで素敵な男性と

 出会い、恋愛関係となりました。


 この度その男性と結ばれることとなりまし

 たのでそれを伝えると共に、整理した思い

 を言葉にするため筆を執りました。


 あなたもあなたの道を歩んでください。

 あなたの幸せを願っています。


 私が恋した教師、

 そして私に恋したホームレスのあなたへ


 シオリより。



 そして一番下に住所が記されていた。昔と変わっている。きっと彼と同棲しているのだろう。

 紙はもう一枚入っていた。結婚式への招待状。俺は毛布を眺めた。

 もう九年か。今も彼女は眩しい笑顔で誰かに幸せを与えているのだろう。彼女はもう幸せになれたんだ。




 三日経っても俺は返事を決めかねていた。九年間止まっていた自分の中の時計が、彼女の手紙という電池で再び動きだした。俺が殺してきた"僕"としての思いが再び俺を呼んだ。

 俺も整理をつけなければならない。




 その日の夜、俺は彼女からの手紙を燃やした。

 九年ぶりに動きだした時計は彼女への未練を俺に知らせた。彼女の自分の道を進めという言葉は、細く細く繋がっていた"僕"の呪縛から俺を引き離す推進力となった。


 彼女の言葉は俺に新たな一歩を踏み出させた。だからこそ手紙を燃やす。手元に置いていたら名残惜しくて振り返ってしまいそうだから。



 親指でライターのホイールを弾く。静かな暗に小さな橙が揺れる。その橙が白に、触れた。




 郵便局に来たのは何年ぶりだろう。彼女、そして"僕"と決別してから一週間が経った。結婚式への招待状の返事を郵送しに来たのだ。

 俺は欠席することにした。



 帰りは少し寄り道をして帰った。

"僕"が勤めていた中学を通って。

"僕たち"が出会い別れた信号で青を待って。

"僕たち"が歩いた川沿いの道で水の声を聴いて。

 九年前の"僕たち"に手を振った。




 九年目の春が来た。暖かくなって寝袋は必要なくなった。こいつと共に夢を見るのはまた半年後だ。当然彼女の毛布もしばらくお役御免である。


「今年も死なずに冬を超えられたよ、ありがとう。」


 少し色の薄くなったそれに礼を言う。人は長く声を発さないと出し方を忘れる。だから俺は一日一度、独り言でも言葉を発することにしている。




 青い天井を眺める。毛布をしまってから彼女のことを考えない日が増えた。それでも今日だけは一瞬たりとも彼女を忘れられなかった。

 明日は彼女の結婚式だ。


 手紙を燃やしたあの日に欠席することは決めた。今も後悔はしていない。ただ彼女が幸せになれればそれでいい。なのになかなか眠れない理由を探す。

 ああ、そうか。俺は奥にしまった彼女の毛布を取り出した。独りが寒かったのだ。

 少し暑いのを我慢して、俺は瞼を閉じる。




 列席者に向けて開式の辞を宣言する。彼らは立ち上がり主役の入場を見守る。



 新郎が入場する。

 彼女が選んだ相手だ。それはそれは魅力的な男性なのだろう。彼は聖壇前で新婦を待った。そして、



 彼女が入場してきた。


 純白に身を包む彼女は光を発しているように見えるほど美しかった。

 耳が痛いほどの拍手に包まれ、彼女が笑顔になる。ベールの向こうに見えるその笑顔は昔より眩しさを増している気がした。最もいい場所で彼女の姿を捉える。



 新郎は新婦父から新婦の手を受け取って腕を組み、並んでこちらへ歩を進める。慣れないドレスを装い歩きづらいであろう彼女に、彼が歩幅を合わせる。



 こころの嘆きを包まず述べて、

 などかは下さぬ、負える重荷を



 一同は賛美歌を奏でた。

 そして私は聖書を朗読する。


わたしがあなたがたを愛したように、

あなた方が互いに愛し合うこと、

これがわたしの掟である。

友のために命を捨てること、

これ以上の愛を人は持ちえない。

わたしの命じることを行うなら、

あなた方はわたしの友である。

もう、わたしはあなた方を僕とは呼ばない。

僕は主人が何をしているか、

知らないからである。

わたしはあなた方を友と呼ぶ。

わたしは、父から聞いたことはすべて、

あなたがたに知らせたからである。

あなた方が互いに愛し合うこと、

これをわたしはあなた方に命じる。



 二人は永遠に愛し合うことを誓い、指輪を交換する。

 私は静かにそれを見ていた。静かに慈しんでいた。



「それでは、誓いのキスを。」


 新郎が優しくベールを上げる。



 さようなら、シオリさん。

 さようなら、僕。




 そして二人は、唇を重ねる。




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多面体 コスギサン @kosugisan

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