第2話


 くたびれた上着を干す俺にスマホが着信を教える。彼女からだった。


「もしもし。」


「今電話大丈夫ですか?」


「ええ、平気ですよ。」


「よかった。もうお仕事終わりました?」


 その言葉がなんだか引っかかった。仕事が終わる時、それは"僕"の終わりだ。


「...はい。もう家です。」


「そうなんですね!明日のお仕事は何時に終わりますか?」


「18時までには終わると思います。」


「じゃあその後食事に行きませんか?」


 これは...デートのお誘いか?

 舞い上がる気持ちを声に乗せてしまわぬよう堪える。


「いいですね、行きたいです。」


「やった!じゃあ明日の18時にいつもの信号で待ってます。」


「わかりました。」


「それじゃあおやすみなさい。」


「おやすみなさい。」


 スマホを耳から離し彼女から貰った毛布を眺める。彼女にまた会えるのは嬉しい。それも彼女からの誘いだ。だが俺はある種の虚無感に苛まれていた。彼女に食事に誘われたのは"俺"じゃなく"僕"なのだ。

 彼女はもう俺を忘れてしまっただろうか。俺じゃダメなのだろうか。僕は俺なのに。




 今日は彼女の方が早かった。仕事が少し長引いてしまい、信号に到着したのは18:15程だった。


「すみません。待たせました。」


「待ちました。とっても長かったです。」


 彼女はいつもの眩しい笑みを浮かべる。


「どうしたら許してくれますか?」


「そうですねえ。ううん...」


 彼女はどことなく仕草が大袈裟だ。そのおかしさと可愛さについ顔が綻んでしまう。


「じゃあお互い敬語やめよう!今から!」


 これしかない。と確信したような目をしている。


「わかり...った。」


「なにそれ。」


 彼女が大きく口を開けて笑う。つられて僕も吹き出す。なんだかとてもいい感じだ。僕は付き纏う寂しさを務めて忘れるようにした。



 彼女との食事はそれはそれは美味しかった。彼女の声は、彼女笑顔は、どんな料理にでも合うスパイスだった。好きな相手との食事はこんなにも舌を喜ばせるのか。


 仲が深まるにつれ彼女の口数も増えていった。どうやら彼女はよく喋る方らしい。話しているうちに彼女自身が楽しくなって、最後は全く別のところへ着地する。そして自分が何の話をしていたか忘れてしまう。彼女は面白い。一緒にいて退屈だと思った瞬間は一度もなかった。




 店を出るとすっかり暗くなっていた。いつもならスーパーで売れ残り弁当を吟味している時間である。楽しい時間はそろそろ終わりだろうか。

 嫌だ。もう少し僕でいたい。


「まだ時間平気?」


「うん、平気だよ。」


 僕は幸せを延長することにした。並んで川沿いの道を歩く。周囲に人はいない。この川は今だけ僕たちのために流れる。


「今日は誘ってくれてありがとね。すごい楽しかった。」


「私も楽しかった。また行こうね。」


「そうだね、また行こう。またいつか。」


 そして僕たちは口を閉じた。水の走る音がよく聞こえる。それでも気まずいとは思わなかった。彼女との時間は沈黙すら愛おしい。



「どうして傘をさしてくれたの?」


 次に口を開いたのはやはり彼女だった。


「...何でだろう。自分でもよく分からないけど...」


「けど?」


「僕も見ず知らずの人に親切にされたことがあるんだ。きっとその人が僕に傘をささせたんじゃないかな。」


「そうなんだ。優しいね、その人もあなたも。」


 ああ、優しいよ。優しくて面白くて、一緒にいると嬉しくて。魅力的だよ、君は。


「私ね、今日大切なことに気づいたの。」


「大切なこと?」


「うん。聞いてくれる?」


「...うん。」


 まさか。いつかのホームレスが僕だと気づかれたか。

 不安に心臓を鷲掴みされたまま彼女の言葉を待った。



「...あなたのことが好きです。私とお付き合いしてください。」


 耳は一音も漏らさずその音を捉えたが翻訳するには数秒の猶予を要した。そして次の瞬間、衝撃が僕の頬を叩いた。もし衝撃に物理的影響力があったら僕は今頃大気圏を脱出しているだろう。


 彼女は僕の顔を真っ直ぐ見つめて返事を待っている。彼女からしてみれば永遠にも等しい沈黙だろう。早く返事をしなくては...答えなど決まっている。


「...っ。」


 頭に浮かべた言葉を音にしようと口を開いた瞬間、喉はそれを拒否した。今まで遠くに追いやっていたアイツが、言いようのない違和感が、"俺"を呼んできた。



「...考えさせてほしい。少しだけ時間が欲しい。」


 俺はそう答えた。

 彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻した。


「...わかった。次に会う時、ちゃんと聞かせてね。」


「うん...ごめん。」


「いいよ。じゃあ、帰ろっか。」


 そう言った彼女の笑顔には、いつもの眩しさはなかった。




 約四畳の青いドームで毛布を眺める。家に帰ってきたのにそんな感じがしない。"僕"が悩みを抱えているからだろう。

 彼女の声を頭のプレイヤーがリピート再生する。


 あなたのことが好きです。私とお付き合いしてください。


 "僕"なら自分も同じ気持ちだと彼女を抱きしめたところだろう。だがとうせんぼうする"俺"に僕の足は地面に縫い付けられ、喉は石にされてしまった。そして俺は彼女への返事を保留にした。ひとおもいに断らなかったのは"僕"の抵抗だろうか。

 それから脳内のリングで"俺"と"僕"の殴り合いが始まった。




 心を負傷していても仕事には行かねばならない。他人は目に見えない怪我には冷たい。丸一日傷口に絆創膏を貼って考えをまとめたかったが誰も理解してはくれないだろう。私情で投げ出せるほど僕の仕事は軽いものではない。生徒達の道標となる責任がある。

 頭を教師に切り替える。悩むのは後回しだ。



 授業はルーチンのようにこなした。いつものように第二ラウンドを戦い抜き、今日の仕事を無事KOした。荷物をまとめて退場する。時間は17:55。ノルマ達成だ。

 だが今日は更なる強敵を相手にしなくてはならない。これ以上返事を待たせるのは彼女に悪い。今日決めるんだ。




 話したいことがある。信号で待ってる。


 彼女に短い文を送った。これで充分だろう。




「今日は冷えるね。」


 赤と青を何度数えた時だろうか。彼女の音色が僕の鼓膜を打った。


「そうだね。今日は暖かくして寝ないとな。」


 彼女からの返答はない。ただ静かに、僕の隣で信号を眺めているようだった。

 このまま二人で色を数えるのも悪くないな。"僕"と彼女が出会った時も、並んで信号を待っていた。今のように。

 随分昔の出来事のような記憶を思い出しながら、僕はその時を待つ。

 そして、信号が青になった。


「この前の返事を伝えようと思って。」


「...うん。」


 彼女は今どんな顔をしているだろう。僕は斜め下に顔を向けた。

 彼女は真っ直ぐ僕を見つめていた。眉を落とすわけでもなく、口角を上げるわけでもなく、ただ僕を見ていた。その深すぎる表情に、俺は返事を差し出した。


「ごめん。シオリさんの気持ちには答えられない。」


 詳しい理由など蛇足だろう。だから言わない。言えない。

 彼女は再び信号へ顔を向けた。



「そっか...分かった。聞かせてくれてありがとう。」


 その時、頭の天辺をつつかれた気がした。空を見上げる。


「...雨だ。」


「ごめん、今日は傘持ってない。」


「風邪ひいちゃうね、帰ろうか。」


 帰ろうか。その五文字は言葉以上の意味を孕んでいる気がした。


「そう...だね。」


 信号を渡る。いつもより白線が短い気がした。そして雨は強くなりはじめる。僕らの別れを促すように。


「それじゃあ、バイバイ。」


「うん。バイバイ。」


 彼女が手を振り僕が応える。僕たちはそれぞれの道へ歩きはじめた。



 その日はなかなか寝付けなかった。足に当たる毛布の感触が妙に気になって。




「はあ...」


「おや、ため息ですか。幸せに逃げられますよ?」


「はは。気をつけます。」


 無事冬を超えられた僕は相変わらず第二ラウンドの真っ只中だった。学年が変わり席替えで隣になった英語教師は社交的なよく喋る女性だった。よく喋る女性、そんな特徴が彼女を連想させる。



 18:02に学校を出て帰路につく。いつも信号で青を待つ。あれから彼女とは連絡を取っていない。もうこの場所もすっかり過去のものとなってしまった。




 鞄を置いてジャケットとネクタイを掛ける。そしてワイシャツのままデスクの椅子に腰かける。今日は大事な仕事があった。



 "俺"の正装へ身を包み、スーパーへ向かう。スマホの代わりに手紙を持って。そして道中それをポストへ投函した。

 手紙は彼女に向けてのものだ。

本当は自分も好きだったこと。

彼女に隠していたことがあること。

自分を偽って彼女と交際することができなかったこと。

そして、本当の自分はいつか毛布を受け取ったホームレスであること。

全てを彼女に伝えることにした。


 今まで誰にだって話したことがなかった。他人に話すと今まで積み上げてきた完璧なバランスが崩れてしまうと危惧したから。

 それでも彼女には話さなければならないと思った。それは"僕"との決別のためでもあった。


 俺は"俺"以外の面を捨てた。


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