多面体
コスギサン
第1話
結び目を確認する。ここが緩んでいると天井が崩れ落ちてしまう。天井、そう表現するには随分青く柔らかすぎるが。
スーパーの半額になった売れ残り弁当を開封する。飲み物は空のペットボトルに公園で汲んできた水だ。ボロボロの毛布の上でいただきますと手を合わせる。俺はホームレスだ。
三年あれば人間は過酷な環境にも慣れる。俺もホームレスが板についてきたかな...どうだろう、そのうちホームレスとして生活したのは1年くらいだからな。
「さぶ...」
近頃随分冷えるようになった。季節は冬になろうとしている。ホームレスにとって越冬は文字通り命がけである。今すぐドアのついた部屋で暖房に当たりたい。足に穴の開いた寝袋に入る。こんな夜はさっさと寝てしまうのがいい。風の音を子守唄に、俺は瞼を閉じた。
「じゃあ③を...出席番号21番。前来て書いて。」
僕は教師でもある。中学生というのは世界一厄介な連中だ。自分達はもう大人、なんて勘違いをして大人に噛み付いてくる。きっと僕にもこんな時期があっただろう。
生徒が黒と白で奏でる心地よいリズムを聞きながら窓の外に目をやる。
これが終われば学校だ。
俺には定時制高校の生徒という面もある。俺は教師であり生徒であるのだ。ついでに言うとアーティストでもあるし探偵なんかもやっていたりする。他にもいくつかの面を持っているが割愛しよう。
顔、背丈、果てには年齢に至るまで自由自在にだ。そして俺はそれを完璧に演じ分けている。
めちゃくちゃだって?
かもな。少なくとも俺以外には不可能だろう、こんな多面体は。
教師として家に帰る。白い天井の家にはドアがついている。壁があるという当たり前に安心感を覚える。ベッドに飛び込みたい気分だがすぐに"正装"に着替える。このボロ具合が一番落ち着く。自分に戻った気がする。元々はただのホームレスだった。これが本当の俺だ。俺はもう一つの家に向け出発する。
「あの〜。」
家に入ろうした俺に女が話しかけてきた。驚いた、"俺"に話しかける人間がいるとは。
「これ...よかったらどうぞ。」
女は厚めの毛布をこちらに差し出した。なんだ、こいつは。
初対面、それもホームレスの俺になぜこんなに親切にするのか。何かの撮影だろうか。受け取った瞬間木の陰からカメラマンが出てくるのだろうか。まあ、なんでもいいか。俺は手を伸ばしてそれを受け取る。カメラマンは出てこなかった。
「あの...どうして...」
「これから冬ですから。どうぞ使ってください。」
聖人っていうのはこういう人のことを言うんだろうな。
「あ...ありがとうございます...」
「どういたしまして!それでは。」
「あ、あの! 名前を...教えてくれませんか。」
「...シオリです。」
「シオリさん...本当にありがとう、いつかきっと恩返しします。」
「楽しみにしてます!さようなら。」
シオリ...綺麗な名前だ。俺は家の真ん中に置いたランタンを見ながら彼女を思い出した。俺に関わろうとする人間は初めてだった。だがもう会いに来ることはないだろう。久々に向けられた優しさに嬉しさと少しの寂しさを感じつつ貰った毛布を寝袋の足に被せる。その日の夜は身も心もあたたかかった。
僕はいつも通り機械的に授業をこなす。だが今日は頭の容量の空きが少なかった。彼女に何割かを占拠されていたのだ。
綺麗な人だった。容姿もそうだがそれ以上に心が。"俺"に優しくしてくれるのは今までもこれからも彼女だけだろう。
チャイム通りに授業を終えて教室を後にする。これからいつものように残業だ。もうすっかり慣れて憤りも感じなくなった。
第二ラウンドもそこそこに学校を出る。時計の針は18時を指していた。
「雨...」
急な雨だ、天気予報にはなかったのに。僕は鞄から折り畳み傘を取り出す。こういう時に備えて常備している。
信号待ちの間にそれを開く。頭上に掲げた時、同じく青を待っている人影が視界の端に映った。傘はさしてないみたいだ。急な雨だ、傘を持って来なかったのだろう。
その時僕はいつか差し出された毛布を思い出した。彼女もこういう気持ちだったのだろうか。そう思いながらその人影に傘をさした。
「どうぞ、使ってください。」
「...いえ、悪いですよ。」
「あ...」
世間は案外狭いものだ。申し訳なさそうな表情を浮かべるその人は、紛れもない彼女だった。
「すぐそこなので。僕は平気ですから。」
シオリさん、そう呼びたくなる気持ちを抑えて、平静を装う。だって彼女は"僕"を知らないのだから。
「じゃあ、ありがたく使わせてもらおうかな。ありがとうございます。」
「いえいえ、さあ、青ですよ。」
彼女と並んで横断歩道を渡る。このまま向こう側に着かなければいいのに。
「それでは、僕はこっちですので。」
「あ、傘をお返ししたいので連絡先、教えていただけますか?」
「ああ、確かにそうですね。もちろん。」
思わぬ収穫だ。彼女と連絡先を交換できるなんて。早速何か送ってみようか。でも何を?
急な雨で驚きましたね
イヤイヤイヤ、そんなことで連絡してくるなって思われるかも。
傘、いつ返していただけます?
これもダメだ。高圧的で怒っているように感じる。
結局彼女からの連絡を待つのだった。
傘ありがとうございます!
あの道は通勤ルートなんです
か?
それは唐突に来た。堅すぎず、けれども馴れ馴れしくならないよう文を推敲する。
いえいえ!
はい。すぐそこの中学校で数学
を教えています。
こんな短い文を考えるのに13分かかった。職業まで言う必要はなかっただろうか。
そうなんですね!
明日も出勤なされますか?
はい、しますよ。
じゃあ明日の18:00、
今日の信号で待ってますね!
わかりました!
ヤバイ、楽しい。ほんの少し、それもスマホを介して話しただけなのに。永遠に話していたかった。もう認めざるを得ない。
どうやら俺は恋に落ちたようだった。
恋は人生に彩りを与える。僕は数年ぶりに出勤するのが楽しかった。自分がどのように仕事をこなしたかよく覚えていない。17:40には学校を出ていた。学校からあの信号までは10分も歩けば充分。喜びと緊張が入り混じった不思議な気持ちだった。
さすがに早すぎたか。彼女はまだ来ていないようだ。腕時計を確認すると17:48。あと12分。信号が変わった数でも数えて待とうかと考えたその時。探していた姿を捉える。彼女だ。小走りで近づいてくる。些細な仕草に可愛さを感じてしまう。
「早いですね...待たせちゃいましたか...?」
「僕も今来たところですよ。」
少し息を切らす彼女に、僕はお決まりの台詞を返す。まるでデートだ。
「はい、傘です。おかげで濡れずに済みました!ありがとうございました。」
「気にしないでください、このくらい。」
「いつか恩返ししますね!」
もう貰ってるんですよ、恩。
「楽しみにしてます。それと...」
「よかったら、少し話しませんか?」
「へ〜、シオリさん本屋で働いてるんですか。」
「そうなんです!ちょっと頭良さそうじゃないですか?」
「知的なイメージはありますね。本好きなんですか?」
「いえ、そういうわけではないんです。」
「え?」
「その、名前がシオリだから...」
彼女は恥ずかしそうに視線だけをこちらに向ける。なんだこの可愛い生き物は。
「いいんじゃないですかね。ピッタリだと思いますよ。」
僕がそう言うと今度は顔ごとこちらを向けた。笑顔が眩しい。直視できない。
「ですよね!きっと親も本屋で働いてほしくてこの名前をつけたと思うんです!」
そんなことがあるだろうか。
「そう...なんですかね...?」
「きっとそうです!」
本人が確信しているならきっとそうなのだろう...。
「今日はありがとうございました。いきなり誘ったのに。」
「いえ!私も楽しかったです。」
「それなら良かったです。ぜひまたお話ししましょう。」
「はい!それではまた。」
彼女が見えなくなるまでその後ろ姿を見送る。幸せな時間だった。さて、今日の"僕"はもう終わりだ。俺は"俺"に戻るため帰路についた。
いつも通りスーパーの半額売れ残り弁当を食べる。ただ一ついつも通りじゃないのは、"僕"のスマホを持ってきたことだった。多面体として生きていく中で面と面は完全に分ける。というマイルールがある。問題が起きるかもしれないから。そう決めていたはずなのに。
無事に帰れましたか?
返信が待ち遠しい。彼女は今何をしているだろうか。
返信が来ていないか何度も確認してしまう。いかんいかん。ここでは電気が通っていないから充電できない。バッテリーが切れて返信できなくなるのは一番まずい。
20分くらい経った時だろうか。小さなポストが震えた。返信が来たようだ。スマホに手をかける。
...いや、待てよ?毎回返信が早かったら気持ち悪くないか?少し間隔を開けよう。いやでも内容が気になる。見たら俺は返信してしまうだろう。
返信が来るたびそんな葛藤を繰り返しながら日付が変わるまで彼女と話した。打ち解けてきたことが目に見えて確認できて嬉しくなってしまう。
恋愛は数学と似ている。相手と結ばれるというゴールを目指してそこに辿り着くにはどうすればいいかを考える。様々なアプローチの仕方の中から最適なものを選ぶ。それが間違っているかどうかは試してみなければ分からない。
そして数学と違うところは、解き直しができないことだ。彼女の心の解は俺に分かるだろうか。
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