5話 13歳・2

 夏休みはあっという間に過ぎた。

 何事もなさ過ぎて拍子抜けするくらいに。

 あの日感じた違和感、そこからしばらく続いた不安は本当に杞憂で、死神はずっと相変わらずいつもの死神のままだった。

 暑くて、夏バテはしてたが。

 食欲がないとぼやく姿に、これ以上痩せたらペラペラになるんじゃないかと、不安と冗談の綯い交ぜな会話をした記憶がある。

 そんな風に、常に調子の悪そうな死神も、9月の半ばを過ぎる頃には幾分涼しくなってきたおかげか、口数も多くなってきていた。

 いや、違うのか。

 これは単に、お互いの距離感が縮まったせいかもしれない。

 ぼくは薄々この人が駄目な大人だと気付き始めていて、故に目上と言うより対等な相手なのだと錯覚し始めていた。クラスの友人と同じとまではいかなくても、それに類する存在。死神という認識はそのままに、ぼくは彼を少し年上の世話の焼ける友人なのだと感じるようになっていた。

 そんな頃に、初めての文化祭があった。

 正確には文化祭の準備だ。

 中学1年の文化祭なんて派手なことはできないから、結局は地味な展示をするくらいで終わってしまう。美術部の方も最初の顧問の宣言通りに参加を強制させられることはなかったから、そもそも何もする気のなかったぼくは数えるくらいしか美術室に顔は出さなかった。

 こう言うだけなら、こんなにも楽しくなさそうな文化祭だったが、それでも準備期間はそれなりに楽しかった。

 放課後に皆と残ってなにかしらの共同作業をするのは普通に楽しい。たかが展示だとしても。文化祭は準備が本番だって言うのは振り返ってみても間違いではないと思う。

 そんな風に行事が忙しい期間は死神屋敷を訪れることはなかった。

 行かなかったからって当然何も問題なく、その間は屋敷のことなんて忘れていたのだけれど、イベントが終わってしまえば暇にもなるし必然日常に戻るのだから足はそこへ向いてしまう。

 連日行ってたぶん、訪問に唐突に間をあけてしまうと少し顔を出しづらかった。

 それでも、常に顔色の悪い死神が見ない間に死んでたらどうしよう、なんて字面としては矛盾する不安がぼくにはあって、気まずいながらも屋敷を訪れるのだけれど────そんなぼくの決意とは裏腹に、彼はいつもの顔で「おかえり」と出迎えてくれた。

 だから、「ただいま」と応えて敷居をまたいだ。

 何も変わらない風景に安堵して。

 ぼくはそうやって、順調に屋敷へ囚われ続けている。

 その日は、それが決定的となった日だった。


 いつもの小道を早足で抜けた。

 冬になり、下草は少なくなって歩きやすい。

 期末テストの期間もぼくは普通に屋敷に入り浸っている。遊んでるわけじゃなく、その方が勉強もはかどるのだと気付いたからだ。例えば図書館のような、塾の自習室のような、そんな感覚だったんだろう。

 気が向けば死神自ら勉強を教えてくれたりもしたから、どちらかと言えば塾みたいなものかもしれなかった。

 翌日の試験科目を考えながら道を抜け、小道の行き着く先、大きな門構えが見えたところでぼくは足を止めた。

 知らない男が一人、こちらを背に門を閉めているのが見えた。

 スーツの上にダウンコートを羽織った、死神と同じくらいの年齢で、でも死神とは違ってとても普通の大人で普通の会社員に見える普通の人だった。

 なんだかわからないが、普通の人がいる。

 宅配の人とかでなく、それは本当に普通の人だった。

 でも横からうかがえたその顔は、あまり普通ではなかった。眉間に皺を深く刻み、何かに怒るような悔いるような複雑な表情を浮かべている。知り合いだったとしても話しかけるのを憚られるような顔で、しかもぼくはその時その人とは初対面だ。

 ────そこをどいてほしい。中に入りたいから。

 門に手をかけたままのその人に、ぼくはそのくらいのことも言えずに立ち尽くすしかなかった。

 そのまま数秒、しかし体感としてはとても長い時間の後、男は長く深い溜息をついて振り返った。

 「あれ」

 そして、ぼくに気付く。

 その眉間にもう皺はない。

 背が高めで、すっと背筋が通ってて────軽薄そうな笑顔を浮かべる人だった。

 真ん中で分けられた髪をかきあげながら門の前からすっと一歩引く。

 「ごめんごめん。どうぞ」

 「あの」

 「俺の用事はすんだから。失礼しました」

 浅く頭を下げ、男はぼくをうながす。

 入れ替わるようにぼくは門の前に立ち、男は笑顔で手を振って小道の向こうへ消えて行った。

 誰だったのか、なんだったのか、これは彼に聞いてみるべきなのか?

 セールスの人・・・にしても雰囲気が違う。

 考えてもわかるわけもなく、既にいなくなった相手に疑問をぶつけることもできない。

 仕方ないから気にしないことにして────いや、気にはなるし尋ねたい気持ちは計り知れなかったが、それはしてはいけないような気がして、何事もなかった体で屋敷の引き戸を開けた。

 中はいつも通りだ。

 耳が痛いほど静まり返っている。

 「お邪魔します」

 いつもは言わないようなことを口にして中に入った。

 虚空へ響く言葉に返事はない。障子が締まり薄暗い座敷には誰もいなかった。

 部屋の隅に鞄を置き、エアコンがついてるのを確認した。エアコンはついてるのに電気はついてない。明かりをつけようとして、自然に部屋の中心にある卓袱台が視界に入る。

 湯呑が二つ。

 やはり、あの人は客だったのか。

 座敷にあげるくらいの。しかも温かい方のお茶を出すくらいの。

 なんだかもやもやしたものが感情に混ざる。

 よくわからないが、この湯呑は不快だ。

 ここで勉強するのにこれらは邪魔だ────そんな理由をつけて乱暴に湯呑をつかんで台所の流しへ転がす。代わりに自分用にと麦茶をいれようとしたところで、何か物音が聞こえた。

 冷蔵庫から手を放し、コップを置く。

 音は遠かった。少なくともこちら側ではない。

 廊下に顔を出し音のした方をのぞいた。洋館側だ。音は断続的に聞こえている。

 どうしてか聞き流すことのできない音だった。

 今まで洋館側から物音が聞こえてくることなんてなかった。いるのは知ってても本当にいるのを疑うほどに常に静かな屋敷だ。そもそもちょっとぐらい音をたてたところでこちら側に何か聞こえるほど狭い屋敷でもない。

 広いのだ、死神屋敷は。

 音のなる方、洋館側へとそろそろと進んだ。

 不審な訪問者のこともあったせいだろうが、とにかくその音は気になった。それでもどうしてもおそるおそるになってしまうのは、ここと向こうの境目を未だ越えたことがないからだ。

 まだぼくは、あちら側に行くことが怖かった。

 勝手に入ったところで、多分死神は怒らない。

 気にしているのはぼくだ。死神の領域としての認識が抜けてない。彼を死神だとはもう思ってないけれど、奥底にある畏怖みたいなものが、洋館を不可侵領域として扱わせる。「なんとなく遠慮して入れない」以上の抵抗感だ。

 どうにしても境を越えたことがないのは事実であり、そこを踏み越えることは禁忌を侵すような罪悪感を伴った。

 入ってもいいのか。

 向こう側は入っても大丈夫なところなのか。

 そんなバカみたいなことを考える間も、回数は減りつつあったが音は聞こえていた。

 そうして。

 聞こえなくなりつつあるそれに境を踏み越えない言い訳を求めようとしていたその時に。

 どん!

 と、一際大きな音が響き、続いて物が崩れるようなガラスが割れたような、とにかく派手な音が耳に刺さった。

 「え」

 何の音だ。

 無意識に足は境界を越えた。

 ぼくの長い長い逡巡は、そんな簡単なことで解決した。いや、解決したことにすら気付かずに、ぼくは次の一歩を踏み出していた。

 廊下を進み目についた階段へ向かう。

 外観からは考えられないくらい、洋館は日当たりもよく小綺麗な内装をしていた。どう言えばいいのか、映画なんかで見る、昭和前半の金持ちの建物みたいだ。ただその感想は後日感じたことで、今はそこまで気が回らなかった。

 ただ目的地を目指す。

 彼は2階にいる。

 怪談でもこう言ってたじゃないか。

 たまに、2階の窓に誰かが立ってこちらを見ている、と。

 死神は午後は洋館側にいて、外から見える位置なら2階しかない。

 そう考えて階段を上がったものの、上がりきる頃にはいくらか冷静になっていたのもあって、境界を踏み越えたときの勢いは萎えていた。

 そろりと2階の床を踏んだ。

 廊下が左右にのびていて、目の前は大きな窓だった。

 そこからは屋敷の庭と林が見える。窓に寄って下を見渡せば、肝試しの場所がそこだとわかる。死神はやはりここの廊下で目撃されていたんだ。

 推測を確認できたことで何かを達成したような気分になって、窓にはりつくようにして林を眺めた。子供たちの声がかすかに聞こえる。帰りの早い低学年の子が、年上の子たちが来る前に秘密基地を堪能してるのだろうか。

 懐かしくその声を聞いた。ほんの一年前ぼくはそこにいたはずなのに、なんだかすごく懐かしい。

 と。

 がたん。

 思考を遮るように一際大きく物音が聞こえた。

 我に返って音がした方を見る。廊下の右手の突き当りに薄く開いたドアがある。目的地だ。そこまではほんの数歩。なのに、ひどく時間をかけてたどりついた。

 ノブに手をかけ、今更に少し悩む。ノックをするべきなのか?しなくてもいいのだろうか。

 ────しない方が、いいのだろうか。

 無言で戸を開けた。

 ゆっくり、けれど大きく。


 そうして見えた光景に、ぼくは魂を奪われた。



 広い部屋だ。

 物は多いから狭く見えるが、基本的にはすごく広い部屋だ。

 だからなのか、暖房の利きが微妙で中は少し寒かった。

 奥の壁に作り棚がある。遠目でよくわからないが、大きめの本が並び、その横には美術室でよく見るような道具や置物があった。仮にも部員だから美術室にありがちなものには見覚えがある。多分間違いないだろう。

 翻って、床は画材や割れたガラスが散乱していた。何に使っていたのかわからない、物ではなく残骸となってしまった何かだ。

 部屋の中ほどにいくほどその有様はひどく、大きいものだと三段ボックスが二つくらい倒れていて、そこに入っていたであろう物も派手に床に散らばっていた。

 そんな部屋の真ん中に、死神が立っている。

 幽鬼のようだった。今まで見た中で一番顔色が悪い。死神の方がきっともっとやる気ありそうな顔色をしてる。

 そんな彼が、一回死んだじゃないかってくらい呆けた顔でぼくを見ていた。

 その原因をこの光景だけで推し量れるわけはなく、ただ漠然と、何があったのか?体調が悪いのか?その、白いシャツの袖が赤く汚れているのは血なのか?ならばあの大きい物音のときに怪我でもしたのか?────彼を見た瞬間はそんなことを考えていた。

 2歩ほど中に入って、声をかけようとした。

 何があったのか。

 大丈夫なのか。

 怪我をしたなら手当てしないと。

 かける言葉は多分無数にあった。考えたことのなんでも口にのせればいい。この状況ならどんなことだって話題になる。

 でも、ぼくが口に出したのはそういうことではなくて。

 「────すげえ・・・・」

 中に入ると、部屋の景色が一変した。

 もちろんさっきまで見た光景はそのままだ。死神は立ち尽くしているし、びっくりするほど何もかもが散乱している。掃除をするのが大変だ。でもそういうことは今はどうでもよくて。

 中に入ると、左右の壁に無造作に置かれたものがよく見えた。

 そこには色があった。

 色だ。

 多くの色がぼくの目を灼いた。そう言うしかないほどの色がある。

 驚いて目をしばたたかせると、それは色ではなく絵だと認識できた。それはそうだ。大小さまざまなカンバスが置かれ、普通の風景画からよくわからない抽象画みたいなもの、様々なものがあった。臭いがそんなにしなかったから、油彩ではなく水彩なのかもしれない。とにかくそこには絵があった。一面に。部屋の惨状も何もかもを無視して見入るくらいに多くの絵が。

 彼ではなく壁を見て、多分ぼくはずっと「すごい」とだけ言っていた。

 いい加減言うのにも飽きて振り返り、未だ立ち尽くす彼に改めて感想を伝える。ただ、「すごい」と。

 それらは本当に、少なくともぼくの心を揺さぶる作品だった。何の衒いもなくぼくは感動していた。相手の気持ちなど考えずに。それはそうだ、ぼくに死神の気持ちなんて今だってわかるはずもない。

 「そんな、すごくは・・・」

 「すげえよ!これ全部猪ノ立さんが描いたんだよな?!」

 「・・・・・・まあ、それは───そうと言えば、まあ」

 もごもごと呟きながら、自分の袖をつかんでいる。止血していたのだろうが、その時のぼくにはそこまで気が回ってない。

 もう一度並べられた絵を見た。一枚一枚を。そして唐突に衝動が起きた。


 描きたい。


 技術も才能もぼくにはない。だからやらない、というのは簡単だ。

 でも、この色の群れを前にして、やらないという選択肢はなかった。

 それを伝えるためにぼくは彼を振り返る。

 描きたい。だから、教えて欲しい。どうしたらこうなれるのか。いや、これに近づくには何が必要なのか。

 けど、今はそんな場合ではなかった。

 そこにいたのは崩れるように座り込んでる死神で────ぼくはやっと我に返って彼に駆け寄った。

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死神とぼく 桜小路トム @stom

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