列石都市の思い出

「列石都市に行ったことがあるんだ」

「れっせきとし」


列石都市は泥界化の伝説によく語られる地である。

古い伝説の生き物である羊を知っているルジャンダルが、その存在をまったく知らないとは思わなかった。


「知ってる?」

「石がいっぱいあるところ」

「そうだね。どんな石かわかる?」

「むかしのことがかいてある」


列石都市の光景は、訪れる全ての人を圧倒する。

巨大な石柱が大量に、等間隔に並んでいることのみならず、その全てに所狭しと文字が刻まれているのだ。


最初に何故列石が作られたのかは知られていない。

ずっとずっと昔の劫から、それは立ち続けていた、という言い伝えだけがある。


「石や金属は泥界化で消えないから、ずーっと残したい記録は石に刻む」

「うん」


そう、遠い昔から、石はそのままなのだ。

植物紙に書かれたものは泥界化で消失するが、石に刻まれたものは泥界化を経ても失われない。

それに気づいたある馬人(セントウル)の学者が、その一生をかけて歴史や科学史上の重要な発見、己の研究、すでに数多語られていた泥界化の伝説たち、そして泥界化が起こった世界で生き延びるための案を編纂し、石柱に刻みつけた。

学者は泥界化を経験せずに、生涯、奇人と称され続けながら死んだ。


学者の残した情報の価値は、次の劫で認められた。

その学者は、今では唯一泥界化を経験せずに世界樹存在に数えられた人となっている。


ある時、別の学者がやってきて、馬人の学者の刻んだ情報の補足として、新たな知を刻みつけた。

それが繰り返され、やがて元あった石柱に字を刻めなくなると、新たな石柱が建てられ、とりわけ重要と認定された研究が追記されていく。

あるいは地上の列石に刻まれることは叶わずとも、それらと共に保存してほしいと願った研究者たちのの手によって、研究の刻まれた小型の石版が持ち込まれるようになり、それを管理する施設が作られた。


「文(ふみ)の彫刻が集まる場所だから、文彫館って呼ばれるようになったそうだ」

「ぶんちょーかん」

「列石都市ってすごい都会なんだ。次から次へと学者がやってくるし、国の儀式も行われるし……」


集められた知を求めて、更に多くの文化人が集まってくる。そのような人々の生活用品を売る商人が集まってくる。

周囲の土地には田畑や牧場が拓かれ、列石の遺跡は都市となり、都市は、知識の集積所となった。


泥界化を経ても、そこは再び知の都市になった。

幾度泥界化を経ても。石はそこにあり続け、それゆえに列石都市は再建され続けた。


列石都市はこの世界の文化の中心地であり、そこに名前と研究が刻まれることは、全ての研究者の憧れなのだ。


「石には歴史だけじゃなくて、いろんな学者が発見したことを刻みつけてるんだ」

「それにかいてあるの? ビセイぶつ」

「うん。すごくたくさんの石にいろんなことが書いてあるから、私がそれを見たのは全く偶然なんだけど……」




メエユーシュカが列石都市を訪れたのは三年ほど前になる。

その頃の列石都市は何やら偉い人の結婚式とやらで景気がよく、巷では高級品扱いである羊人の毛織物もよく売ることができた。


得意先が紹介してくれたお金持ちと絨毯の取引をした後、食事を摂るため飲食街に向かおうとしたところ、ふわふわとした人が歩いてきた。


ふわふわというのは毛のことだ。白くて細くて長い、とても柔らかそうな毛をした人。どんな顔の形、どんな耳の形をしているのかすら、風に揺らめく毛に隠されてうかがい知ることができない。


メエユーシュカはその人に目を奪われた。

メエユーシュカが成人まで過ごした山の羊人の集落では、自分よりも白い毛を持った羊人はいなかった。

自分よりも白くてふわふわした人を初めて見たのだ。しかも、どうやら羊人ではない。


あの人はどんな種族なのだろう?

どんな仕事をしているのだろう?

どこで育って、何を食べて、何を考えて過ごしているのだろう?


その毛の美しさは一瞬にしてメエユーシュカの心を、知りたいという欲求でいっぱいにした。

どうしてそれほどまでに心を奪われたのか。毛を売り物にする羊人としての探究心が最も大きい。美しい毛を育てるための努力を惜しむ羊人はいない。

興味を惹かれた理由は他にもある。その人はどうやら列石都市周辺の居住区に住んでいるわけではない、旅人の風体をしていた。かと言って、自分のような行商というわけではない。

その人が向かっているのは、列石と文彫館のある方向のようだった。


メエユーシュカは空腹も忘れて、その人を追いかけて、声を掛けた。


「もし、そこの方。急ぎの道行きでしょうか」


行商の者が道すがら人々に声を掛けることは珍しくはなかった。

高級品を扱う羊人にしては、少しばかり似つかわしくない行動でもあったが、メエユーシュカにそれを気にする余裕はなかった。


「行商の方ですか? 銭は持ち合わせがないので、買うことはできません」


その人は細い、しかし芯のある声で応えた。


「いいえ、私はあなたに品を売りたいわけではないのです」

「では、何でしょうか」

「見ての通り私は羊人で、毛で商売をしています。あなたは見たところ羊人ではありませんが、とても美しい毛をしていたので……」


見る人が見ていれば、それは『なんぱ』と称されたであろう行為だった。


「もしあなたが毛の商売をしているのでなければ、どういった食事や手入れをしているのか、教えていただきたいのです。手入れの参考にしたいのです!」


ふわふわした人はメエユーシュカの語気に驚いた様子でいたが、羊人が自分の毛を非常に大切にするのは有名な話である。やがて納得した様子で言った。


「わたしの用事を手伝っていただければ、毛の手入れの話をしてもいいですよ」

「手伝います!」


その人は羊人は本当に自分の毛が大切なんですね、と笑って、ついてくるよう促した。

行き先は列石群と文彫館のある方角である。


ふわふわした人は兎人のエレアノールと名乗った。

兎人。確かに兎人は柔らかい毛の種族である。しかし、毛が長く伸びる者を見るのは、メエユーシュカにとっては初めてのことだ。


「なるほど。兎人にも長い毛の一族がいるのですね」

「里でも数は多くはありません。一族の中には、街の職人と協力して、毛を売って生活する者もいますけれど、わたしは野菜を育てて生活しています」


エレアノールは穏やかな里に棲む農民のようであった。それでいて、言葉の端々に知性がある。


「なぜ列石都市へ?」

「里の者に相次いで病がありました」

「おや、それは……」

「流行り病であれば大変だと騒ぎになりました。けれど、兎人以外の里の人々にはそういった病は見られませんでした。兎人だけが倒れるのです……」


列石都市からは歩いて二日ほどだというエレアノールの里は、複数の種族が集まって、協力して畑と商業を拓いているらしい。

高い山の、羊人ばかりの里で育ったメエユーシュカの目線から見れば、この世界においては比較的都会の部類だ。


「近くの街の薬師に相談しましたが、解決しませんでした」

「……それで、人を呼びに?」

「都市の優れた医師を呼べればよいと思って来たのですが、わたしの持ち合わせでは里へ招くことはできませんでした」

「難儀ですね」

「とは言え、わたしの里が貧しいのは分かっていましたから、医師を招くためだけに出て来たわけではないのです」

「文彫館ですか?」

「ええ。里の健康な若者の中で最も賢い者をやって、兎人の病について調べてくるようにと決まったのです」

「それがあなたというわけですか」

「はい。ですから、病について調べるのを手伝っていただきたい」

「もちろん。文彫館に入るのは初めてですが、できる限りは力になりますよ」

「ありがとうございます……」


文彫館は全ての人に解放されているが、きわめて広大である。

専門の案内士が各所の保管室入り口に待機しており、来訪者の用件を訊いて、それに該当する文彫の収蔵された保管室へ導いてくれる。


「人の体と病については三番の保管室へ。詳しい保管場所は、三番担当の案内士にお尋ねください」


入り口は各保管室、一つしかない。

文彫は腐食しづらい希少な金属に刻まれたものもあり、それを持ち出そうとする不届き者を抑える必要があるためだ。


三番の保管室に入ると、思ったよりもずっと乾燥した空気、コンクリートの保管棚が立ち並んでいる。

脇には鱗の者の案内士がようこそ、と頭を下げて、閲覧許可の札を渡してきた。保管室内では携帯しておいて、退出する時に返すようにとのことだった。


「……外から見た閲覧室入り口の間隔より広くないですか?」

「そう思います」


メエユーシュカが思わず声を上げると、エレアノールも同意した。

その疑問には、案内士が応えてくれた。


「古い劫、空間に関する技術を持った人々が、その技を使って保管室を拡張したそうです」


今では失われた技術で、おとぎ話の『シェルター』と同根のものであろうと考えられています。そう話す鱗の者の案内士。

知を重んじる列石都市の案内士は、知を愛する人の職業である。

嬉々として話すその表情を微笑ましく思った二人は、顔を見合わせて笑った。


「兎人の病について調べたいのですけれど、どこの棚を見れば?」

「特定の病ですか? 調べたい病について、今知っていることはどれくらいでしょうか」

「白い丘の里で、兎人が二月の間に六名ほど相次いで倒れました。熱はありませんが、体を動かそうとすると筋が痛いと言うのです」

「倒れた者に血縁関係はありますか?」

「同じ里の兎人ですから、家系図を辿れば同じ血にゆきつきますけど、さほど近しい関係ではない者が多いと思います」

「家の近さは?」

「ばらばらです」


案内士は、少し考えてから答えた。


「でしたら、食べ物の毒を疑うのがよいかもしれません」

「食べ物に毒だなんて……」


エレアノールの声がいっそう細くなった。顔の色はふわふわとした毛のため窺い知れなかったが、血の気が引いていたかもしれない。

案内士は続けた。


「なにも誰かが毒を盛ったという話ではありません。例えば、植物も病気になります。病気になった植物を食べた人々が、同じ症状を呈するというようなことがあるのです」

「では、食べ物が関係する病のことを調べるには……」

「七番の棚に病についての文献があります。わからなかったら、また訊いてください」

「ありがとうございます」


七番の棚に進む。

他の棚と代わり映えはしない。どれも石か金属の板が差し込んであるだけだ。

小さなプレートで、段ごとに収められた文献の大まかな内容が示されている。

エレアノールはその一つを指して言った。


「ここが、兎人の病に関する文献のようです。メエユーシュカさんはそちらの端から見ていただけますか?」

「はい。先ほど言っていた病状に似た記述があれば知らせます」


メエユーシュカは、端の石版を手に取った。

古い石版は、重い割に刻める内容は多くない。手に取ったこれも、研究内容というよりは、医者に対して診断の指針を示すような内容らしかった。


曰く、病の種類はいくつかに分けられる。

小さな生き物であるビセイぶつが体の中に入って悪さする「かんせんしょう」。流行り病のように人同士でうつるものと、そうでないものがある。キセイ虫の害もこの類。

毒のある物を食べるなどして体の中に入れてしまい、体の機能が狂ってしまう「ちゅうどく」。

ビセイぶつそのものが悪さをしなくても、ビセイぶつが食べ物を食べて増えようとする活動のうちに毒を生み出すことがある。……食べ物が腐るのは、ビセイぶつの仕業だったのか。知らなかった。

……対処法は? と先の文字を辿ると、薬草で退治できる種類のビセイぶつもいるが、この世界ではビセイぶつの種類を特定することが難しいだろうから、食事をしっかりとらせて休ませるくらいしか現実的な対処法はないのだと、恨めしげな筆致で書かれている。

他には、食べ物のもたらす栄養の多寡によって引き起こされる、「けつぼうしょう・かじょうしょう」……。

これらの原因は概ねどの種族にも共通するということも付け加えられている。いずれも、メエユーシュカには初めて知ることだった。

詳しい症状は書いていなかったので、その板は棚に戻した。

次の金属板の綴を手にとりながら、エレアノールに尋ねた。


「案内士も毒と言っていましたね。里で最近、変わったものを食べたりはしなかったのですか?」

「そうですね……魚をとったものがおりました」


エレアノールによると、兎人は普段は葉と根の野菜を食べて過ごしている。ただ、今年は川魚がよく増えていたので、それをたくさん採って燻製にし、分け合ったという。

熱と薬木の煙を使った燻製ならば、キセイ虫やかんせんしょうは考えにくいだろうか。


「川魚に毒があるだろうか……」

「変わったことと言えばそれくらいで……兎人もそれ以外の人も、多くのものが魚を口にしましたけど、倒れたのは兎人ばかりでしたから、魚が原因だとしてももう少し条件があるはず」

「やはり手がかりは病状ですね」

「ええ」


メエユーシュカの見た限り、かんせんしょうでは熱が出たりお腹が悪くなったりする症状の記述が多く、体の筋が痛くなるというのは毒草や毒きのこの害に近いように思えた。


「参考になりそうな記述があった文献はこれくらいです」

「ありがとうございます。目を通すので、少し待ってください」

「ええ」


エレアノールは石版をめくりながら言った。


「……ご期待の、毛の手入れについてはあまり実のある話はできないかもしれません」


毛を売り物にしているわけでもあるまいし、特別な手入れはほとんどしないのです、とエレアノールは言った。


「構いません。文彫館に入って病について調べるなど、考えてもみなかったことです。貴重な経験をしました」


メエユーシュカは言葉通り、すでに満足していた。とは言え、エレアノールのふわふわの毛については何でも知りたいとも思っている。そういう性分なのである。

加えて、エレアノールが非常に自分にとって好ましい人格であることも感じていた。


「里の病は、解決できそうですか」

「わかりませんが、手がかりは得られたように思います」

「快方を祈っています」

「ええ、ありがとうございます」


エレアノールが文献に目を通し終えて棚へ戻す。

案内士に閲覧許可の札を返し、二人で商業区画への道を歩いた。

天の光が建物に隠れるほどに傾いていた。


「何を話せばよいでしょうか」

「食べ物……については先ほど聞きましたね。普段の手入れ、眠るときや絡まりの対処はどのようにしているか、櫛の素材や形、洗うときの方法など……」

「それでは一つずつ訊いていただいて……、一つずつ答えますね」

「ああ、すみません……」


メエユーシュカは道の脇に目をやった。何か甘い匂いを感じ取ったのだ。

そこにあったのは、菓子の屋台だった。


「せっかくですから、何か食べながら話しましょう」

「……持ち合わせが」


エレアノールは俯いたけれど、メエユーシュカは自分の胸を叩いて言った。


「こう見えて実入りはいいのです」


ただその人の気を惹きたいだけだという自覚はあった。

半ば押し付けるようにふわふわの手に木皿を渡して、屋台の近く、道の脇の長椅子に並んで掛けた。


「……文彫館で手伝っていただいたのに」

「いいえ、大変な用事の最中なのに話をきいていただいて感謝しているのです。遠慮しないでください」

「では……お言葉に甘えさせていただきます。このお菓子は初めてです……パンの一種?」

「小麦粉と卵と砂糖を混ぜて焼いたようですね」


エレアノールは、砂糖のまぶされた菓子をひとかけら串でとって口に運んだ。

わずかに見える口元がもごもごと動くさまを、メエユーシュカは満ち足りた気持ちで眺めていた。

菓子を嚥下したエレアノールは声を弾ませた。


「おいしい!」

「それはよかった」

「メエユーシュカさんも、食べてください」


メエユーシュカは一皿分全てをエレアノールに譲るつもりだったが、エレアノールは退かなかった。


「食べ物を分け合うのは、尊いことだと思うのです」

「どういうことでしょう」

「わたしの里の病は、あるいは食べ物によってもたらされたものかもしれません。それでも、物を食べないわけにはいきません。食べることで、人は生きます。そんな食べ物を、人と分け合うということは、その人と同じ世界を共に生きたいという気持ちの証明なのだと、わたしは思います」


照れているのか、だんだんと小さくなる声で、それでもエレアノールは伝えてくれた。

その内容に、メエユーシュカは一瞬、呆気にとられた。

考えたこともなかった。難しいことを言う人だ。けれど、悪い気はしない。


「あなたは、とても賢くて、その上優しい。あなたの里も、きっと素敵なところだ」

「……ありがとうございます……」


表情は毛に隠れて見えないけれど、きっと微笑んでくれたその人との出会いを、その日二人で食べた菓子の味を、メエユーシュカは生涯忘れないだろう。




「ということがあったんだ」

「ふーん」


幼子は冷淡だ。メエユーシュカも、まあ子供の反応はそんなものだろうと思っていたから、この話に付け加えることはもうない。

それよりも大切なことがある。


いよいよ鉱山街へ到着するのだ。

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