幸運だけが人を生かす

ルジャンダルの里を旅立って三日目、空腹がつらいと感じられてきた頃である。


地面の起伏はややあるが、木の根や落ち葉に覆われた窪みに脚を取られることがない分、歩きやすいように思えた。

とうに樹海であった領域は抜けているはずだし、山脈を見ると、確実に近づいている。


ここが踏ん張りどころだ。


天の光が頂点に達する頃、なだらかな土地に差し掛かった。

前の街で見たうろ覚えの地図によれば、この辺りは、鉱山街へ食料を供給する酪農家たちの牧場だったはず。

この周辺に関するより詳しい知識を思い出そうとあたまをひねっていたところ、ルジャンダルが声を上げた。


「なんかある」

「……どこ?」


ルジャンダルの向いている方角を見ても、メエユーシュカにはよくわからなかった。


「あそこ」


分かったのは、ルジャンダルが爪を差す方向は周囲よりも高くなっている場所だろう、という程度のことだ。

その先をじっと見ながら歩いていると、何となく人工物のようなシルエットが見えてきた。


「すごい。目がいいな、ルジャンダル」

「うん」


あとはひたすら歩くだけである。

近づくにつれて、牧場の厩舎だったであろうその建物の様相が見えるようになってくる。


無機の人工物の瓦礫の中では、金属の柱のようなものが目立つ。


「鉄の使われた建物だったのか。珍しいな」

「こわれてる」

「確かに鉄の建物が泥界化で崩れるのはおかしい」


散らばった建材は相当年季が入っている。

古い建物を木材で補修して使っていたものが、木材の消失でバランスを崩して倒壊した、とでも考えるのが妥当だろう。


高台の上に登ると、周囲の景気がよく見える。

在りし日には、ここから牛の様子を確認していたということだろう。

そこからは、山の麓に街らしき姿も確認することができた。

嬉しいことに、暗くなる前に余裕を持って到達できそうだ。


けれど、まずはこの牧場厩舎の探索である。


「何か残っていないか、探してみよう」

「あっちさがす」

「足下に気をつけてね」

「うん」


慎重に瓦礫の間を縫って様子を伺う。

牧場の厩舎というのは、そこかしこに飼葉やら寝藁のくずがくっついているものだが、泥界化で失われた今ではきれいなものだ。

石の飼葉桶が残っている。片方は空っぽ、片方には水が溜まったまま。

飼葉桶は相当な数並んでいる。広さからしても、相当数の牛を養っていたはず。ならば、井戸が近くにあるはずだ。

今は水の心配はあまりない。街にも井戸はあるはずだからだ。

そんなことを考えながら、瓦礫が比較的高く積み上がった一角を回る。


すると、牛が一頭いた。


死んでいた。


それは、肉を得られるということだ。

メエユーシュカは興奮で体が熱くなるのを感じた。


近づいて、屈んで様子を見る。

牛の首の上には鉄の梁が横たわっている。落ちてきた鉄の梁が頸に当たって命を落としたようだった。


体は完全に冷えている。牛の死は泥界化の直後、建物の倒壊によって引き起こされたと思っていいだろう。

泥界化の消失をまぬかれたにも関わらず、不幸としか言いようのない理由で命を落とした牛。メエユーシュカは少しだけ牛に同情した。

しかし、仮にこの牛が鉄の梁で死ななかったとして、それをメエユーシュカ達が見つけたならば、食糧のために屠殺しなければならなくなっていただろう。

牛が痩せ細りもせず死んでいたのも、メエユーシュカ達にとっては、途方もない幸運でしかない。

しかもこの肉の厚さ、肉食用の牛で間違いない。


食料が手に入る。想定よりも、かなり上等な肉がこんなに!

歓喜で爆発しそうな心の臓を落ち着けるように呼吸を整える。


「おまえの命は無駄にはしないよ……」


牛の角を撫でて立ち上がる。どうにか鉄骨をどかして、肉を手に入れなければならない。


「ルジャンダル、こちらに来てくれ。牛を見つけた。もう死んでるけど、肉を食べられるかもしれない。」

「うし?」


近づいてきたルジャンダルはしげしげと牛の死体を眺めている。


「はじめてみた」

「そうなのか。まあ、家畜の牛はあの樹海の中では見る機会はないか」


鉄の梁は牛の首を押さえつけたままだ。

メエユーシュカは浮いている端を持ち上げようとしたが、重くて動かせなかった。


どうすべきか。

ひとまず、背中の重荷下ろしてから再挑戦すべく、少し離れて背嚢を下ろす。

このまま解体して持っていくのも手だが、部位によっては鉄の梁が邪魔して解体が難しくなる。貴重な食料、できるだけロスしたくない。

そもそも、こんなに大きな動物を解体できる刃物は持っていないし、メエユーシュカも家畜の解体など全く経験がない。

料理の経験も、せいぜいウサギや川魚を調理するくらいのもので。それは同行者がいるときのことだ。

意外と課題が多い。

メエユーシュカがそんなことを考えていると、ルジャンダルから声がかかった。


「これどかすんだよね」


見れば鉄の梁の端に手をかけている。


「危ないから待って……」


メエユーシュカは静止しようと声を上げたが、遅かった。


「よいしょー!」


牛の首の上に鎮座していた鉄の梁が蹄一個分ほどの高さ浮いたかと思うと、地面についている方を支点にして弧を描くようにずらされる。

手を傷つけないように、落ちていた別の梁に交差させるように静かに下ろすまで、十数えるほどもたたずに済ませてしまった。


「できた!」

「ええ……ええ?」


自分より頭二つ分も小さな幼子が、自分では少しも動かせなかった鉄の梁を事もなげにおろすという、常識では信じられない出来事を前に、メエユーシュカはうろたえるしかできない。

竜人の身体能力を甘く見ていた。足が早いどころの話ではなかった。


「できたよ?」


ルジャンダルはメエユーシュカに寄ってきて、訴えるように言った。

障害物をどかせたことを主張している、というよりは、褒められることを期待しているような口ぶりだ。こういうところは幼子なのが、余計にメエユーシュカの困惑を誘った。


「う、うん。……ありがとう、ルジャンダル。すごいな。本当に……」


ともあれ、梁はどかせた。

次はどうやって解体するかである。


「ルジャンダルが力持ちなのは分かったけど、さすがにこの牛をまるごとは持っていけないと思うんだ」

「うん……ずっとはむり」

「食べるのはもう少しだけ我慢して、この場で一部を解体して、あっちの町まで無理なく持てる分だけ持って行こう」

「うん」

「街の料理屋に行けば石炭とかまどがあるはず。そこなら火を使えるから、肉を焼いて食べられるし、スープも作れるだろう」


あの近辺の鉱山からは石炭もよく出ると聞いている。ならば、料理屋でも木材の燃料よりは石炭やコークスを使っている、はず、という予測だ。


「それで、問題は解体の方法なんだ」

「ん?」

「ナイフがこれしかなくてさ」


缶の物入れからナイフを取り出して見せる。元は革のシースがついていたが、それは消えてしまったので染料を持ち運んでいた缶——これまた中身はなくなっている——の中にあわてて突っ込んでいたのだ。

付けられた刃はルジャンダルの手よりも短いし、商売道具の櫛や編み鉤と違って大した手入れもしていないので切れ味も期待するべくもない。


「これ一本だと時間がかかるかもしれない」


時間がかかる、どころか、刃が折れて使い物にならなくなる可能性すら考えられる。


「だから、先に一旦街まで行って、刃物や一度にたくさん運ぶための道具を持ってくるべきか、っていうのを考えたいんだ」


そこまで行ってルジャンダルを見ると、鞄を下ろしてメエユーシュカの広げた荷物の中に置くところであった。

そして次に、服のボタンを外している。


「何してるの!?」

「かいたいするんでしょ?」

「したいけども!」


何故服を脱ぐのかと問うと、「汚れないように」ということだった。

この子は街へ道具をとりに行くよりも、すぐに牛を解体してしまうつもりらしい。

どうにも先走っている様子だ。

ひもじい思いをしながら歩き続けて、ついに食料が手に入るというところだから興奮するのも無理はない。

メエユーシュカは、ルジャンダルが自分の与えた服を汚さないようにと考えてくれたことは嬉しかった。けれど、ナイフを握るのは成人している自分であるべきだと思っていたから、缶の中にナイフを仕舞って、会話を試みた。


それは失敗した。


ルジャンダルは自分の爪を使って牛の解体を始めたのである。

竜人の爪は硬く鋭い。しかも、それは己の体の、最も器用に動かせる手の先にある。

メエユーシュカは思い出した。竜人の里では、金属の刃物を見かけなかったのだ。その理由は、これか。

メエユーシュカはその手際にも驚いた。


「牛を見るのは初めてじゃなかったのか?」

「シカとおなじやり方でできる」


その言の意味するところは、シカならば解体したことがあるというものだ。

メエユーシュカにそんな経験はない。今まで毛産業一筋であった。多くの土地への旅を経て作られた、博識な部類だという自認は、泥界化後の世界で、幼い竜人が目の前で牛を解体するという……実に奇妙な光景によって打ち砕かれたのだった。


メエユーシュカは牛が切り開かれていく様を見ることしか出来ない。


「うーん。うーん……すごいな……私の立つ瀬がないよ」


そう漏らすと、視線を上げたルジャンダルがおもむろに言った。


「きにすることはない」


容姿に似つかわしくないその語彙は、昨日メエユーシュカが掛けた言葉だった。

メエユーシュカは笑った。その通りだ。気にすることはない。


「お互い様ってことかい? ありがとう」

「ん」

「ルジャンダル、相当慣れてるな……」

「うん。食べる分、自分で切る」

「おお……里の人たち、みんな自分の爪で自分の分をとるんだ」


メエユーシュカが未知の文化に想いを馳せて、ルジャンダルの手際に納得していると、ルジャンダルからは意外な返事が返ってきた。


「ううん」

「あれ、どこか間違ってた?」

「おとな、食べない」

「ええ……」


大人が食べないとは、どういうことか。

メエユーシュカはすっかり竜人の文化に翻弄されている。


「大人は肉を食べないの?」

「全部食べない」

「ええ。普通の生き物だったら飢えて死んでしまうよ」

「魔力のじゅんかんで、食べなくてもへーき」

「すごい。かすみを食べる仙人って、竜人のことだったのかな」


ルジャンダルは話の間にも、切り出した肉を里からかぶってきた鍋に入れていく。

鍋がいっぱいになると、作業の手を止めた。


「もっていくの、これくらいでいい? もっと?」


これだけあれば向こう三日分は平気そうだ。

ルジャンダルはもっと持っていきたいような様子に見えるが、生肉の運搬に使える器が他にはないことから手を止めたようだった。

肉を捌けない以上、決定権は無いも同然なメエユーシュカは、自分に訊かれてもなあとは思いつつ、見解を伝えた。


「いいと思うよ。街に行って、一泊して、運ぶ道具を探して戻ってきても残りは大丈夫だろう。肉食動物が来る心配もほとんどいらない」

「ん……」

「一気に切ってしまいたいならそれでもいいと思うけど……あっちに水の桶があったから、血を洗ってきたら?」

「うん」


ルジャンダルは渋々といった様子で、手と体についた血を流しに行った。

その間に、メエユーシュカは広げた荷物をまとめる。

肉の入った鍋を見て、喜びが込み上げてくる。

やっと食事ができる。

戻ってきたルジャンダルに服を着せて、たまごの入った鞄を背負わせる。手には肉の入った鍋だ。

そうしたら早速、街へ向かって出発だ。


「鍋を持ってきたのは正解だったな」

「うん」

「今日は焼いて食べて、保存用に干し肉も作りたいな」


ルジャンダルはしきりに鍋の中の肉を眺めたりにおいを嗅いでいる。

メエユーシュカには、血の匂いはするが、それ以外に不思議なことは感じられない。ルジャンダルに、牛の肉に何か懸念があるのか訊いてみた。


「くさらない?」


どうやら、ルジャンダルが気にしているのは、肉の腐敗のことだった。

泥界化が起こった日に牛が死んだのなら、今日は三日目。

内臓は死んですぐに処理しないと悪くなりはじめるから、匂いがしないのは不思議だということだ。

せっかく見つけた食料、一刻も早く食べ物を長持ちさせるという氷室に運びたいという気持ちが強かったのだ。

メエユーシュカは、これは心配していなかった。


「まだ大丈夫だろう」

「どうして?」


ルジャンダルは不思議そうにしている。

今日は竜人の予想を超えたありように驚かされてばかりだが、メエユーシュカにもまだ提供できる知識はある。

聞きかじりの知識だったけれど、ルジャンダルを安心させられるだろうか。


「肉とか果物はひとりでに腐るんじゃないんだ」

「えー」

「小さな生き物が、肉にくっついて食べてしまうから腐るんだって」

「小さな生き物? むし?」

「虫よりもっと小さい。ビセイぶつって言って、目に見えないくらい小さいんだってさ」

「えー」


ルジャンダルは納得していない様子だったが、話を続ける。


「そのビセイぶつたちも、おそらく泥界化で消滅している。全部じゃないだろうけど、ものすごく少なくなってる」


食べ物が腐るには、相当たくさんのビセイぶつたちが食べ物にくっついていなければならない。

もちろん少しは残っていて、今も肉の一部を食べて数を増やしている途中だろう。けれど、肉を腐らせるほど増えるにはまだ時間が掛かる。

メエユーシュカが、街に行って一泊して、それから運び方を考えるくらいでも、肉が食べられなくなる心配はないと考えた理由だった。

そのように説明してはみたが、やはりルジャンダルは釈然としない様子だった。


「ビセイぶつ?みたことない?」

「ないよ」

「ないのにどうして知ってるの?」


もっともな疑問だ、とメエユーシュカは思った。

自分にとっても、きっかけが無ければ一生知らなかったかもしれない知識だ。


「列石都市に行ったことがあるんだ」


おしゃべりはまだ続く。

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