蝶の死骸

「では、出発しようか」


天の光は既に頂点を過ぎているけれど、食料が掛かっている。出発はすぐにでもするべきだ。


メエユーシュカが念のため方角を確認しようとコンパスを取り出すと、おかしなことに気づいた。

針がくるくる回り続けている。


「どうしたんだろう。泥界化で中の部品が消えちゃったとか?」

「なに?」

「方角を確認する道具さ、一定の方向を指すはずなんだけど、壊れちゃったのかな。磁場の歪んだ土地でも使える魔法の品だからって、高かったんだけど……」

「里からはなれたらなおる。たぶん」

「そうなのかい?」

「ん……」


「だったら早いところ出ようか。目標はあっちに見えるひときわ高い山のふもとだ」

「うん」


そうして二人は一緒に足を踏み出した。


「足が速いな、ルジャンダル」


ルジャンダルの足取りは軽やかだ。

メエユーシュカが声を掛けると、ぴょこんと跳ねながら回転して、メエユーシュカへ向き直った。


「うん。はやいよ」

「私が普段旅しているときは、これくらいの速さで歩いているんだ。ルジャンダルはこのくらいの速さで大丈夫?」

「へーき」


ルジャンダルは身体は小さいので心配したが、どうやらメエユーシュカが普段歩いている速さでも問題なく付いてくることができる。

むしろ、走ったり段差を跳ねたりする余裕さえある。

竜人とは商売で付き合ったことはあるが、その身体能力の高さを目にするのは初めてかもしれない。


「この速さで大丈夫なら、とても助かるよ」

「ん?」

「歩く速さを調節するなんて、意識したことがなかったからね」

「なんで?」

「いつもひとり旅だったからね」

「ひつじはなかまといっしょじゃない?」


羊のことを語るルジャンダルの知識は少しいびつに感じられる。羊の伝説なんて、知るものはそれこそ羊人の口伝えでしか残っていないと思っていた。


「私たちのオリジン……羊が群れの動物だなんてよく知っているな。何劫も前に絶滅した奴らだよ。でも、羊人は羊じゃないし、竜人は……竜?じゃないだろう?」

「そう?」


曖昧な返事をのこして、ルジャンダルとの会話は終わった。


水を水筒の半分ほど飲んだ頃、蝶の死骸を見つけた。

この蝶も泥界化による消失をまぬかれながら、飢えか、あるいは寿命かで命を落としたのだった。


ルジャンダルはその翅をつまみ上げ、歩きながらもしげしげと眺めている。

さすがに食べ物にはならないだろう。食べたとしても、メエユーシュカは何も言うつもりはなかったけれど。


またしばらく歩いていくと、先を行っていたルジャンダルが「あっ……」と声を上げて、メエユーシュカのもとへ反転してきた。


「うごいてるのがいた……」


生き物がいたという。それにしては元気のない声だ。それを見つけた地点へ近づくと、足のたくさんある虫が動いていた。うぞうぞ。


「お、生きてる」

「むしこわい」


ルジャンダルは素早くメエユーシュカの背に隠れた。

相当怖がっている。


「そうなのか……蝶は平気なのに……?」

「蝶はきれいだからへーき」


気持ちは分かる。メエユーシュカも蝶は眺める分には好きだし、ほかの虫はあまり得意ではない。ただ、鱗の者は虫は平気なのだろうと勝手に思い込んでいたので、ルジャンダルの様子は少し意外だった。


虫は相変わらずうぞうぞしている。

べつに触れなければ害はないし、ほんの数歩迂回すれば大丈夫だとなだめる。

それから、ふと思い立って言った。


「……その蝶の翅、この虫の食糧になるかもな」


「えーっ」

「ルジャンダル、蝶は食べないだろう。だったら食べて生き永らえられるやつに譲ってやるべきだ」

「ゆずってどうなるの?」

「今飢えている虫が生き永らえて、もしかしたら子をつくる。そいつらがいずれ鳥とかに喰われて、そうしたら鳥が生き永らえられる。もっと大きな鳥がその鳥を食べて、いずれその鳥を人が食べるかもしれない」

「ずっとさきのはなし?」

「そうだよ。でも、先のことを考えないと面白くないだろう? 食べられない蝶が、食べられる鳥になるかもしれない。そうなる前に私たちが飢えて倒れるかもしれないけどね」

「とりはたべたい」

「だろう?」


実際のところ、メエユーシュカは肉はさほど食べない。旅路の食料はほとんど草だった。

けれど、この状況では草を十分な量食べられる見込みよりは、残された動物を見つけて、その肉をいただく方が見込みがありそうに思える。


ルジャンダルは怖い虫に食料を与えるのが嫌らしく、少しの間のうーんうーんと唸っていたが、やがて観念したのか、恐る恐るといった様子で蝶の死骸を多足の虫の近くへ落とした。

そして山の方へ二十歩ほど進んで、メエユーシュカを待っている。

朝に出会ったばかりのはずなのに、ずいぶんと気を許してくれている。


水筒一本分の水がなくなった頃、同時に日も落ちた。

二人はできるだけ平らな乾いた地面を探して、寝床作りにはいった。

メエユーシュカの商品のなかで最も大きい、絨毯のロールを解いて敷いた。

自慢の目玉商品であったはずの絨毯を地べたに敷くのはいささか抵抗があったが、幼子を土の上に横たわらせるよりはよほどいい。

それから背嚢がわりにしていたマントの包みを解いて、じゅうたんの隅に輪を描くように荷物を並べる。


「ルジャンダル、きみの鞄はこの中に置くといい」

「うん!」


ルジャンダルが『おとうと』と呼んで大切にする、たまごのようなもの。それを入れて背負われている鞄は、たまご型に膨らんでいて、目を離したすきに転がりやしないかと心配になるのだ。

他の荷で囲むように置いておけば、二人とも安心して眠ることができるだろう。


メエユーシュカは先程まで荷を包んでいたマントを毛布がわりにと広げた。

目いっぱい広げるとじゅうたんよりも大きいほどのマントに、ルジャンダルが目を丸くした。


「おおきい」

「だろう? 羊人は一生をかけて一枚のマントを作るんだ。綺麗で丈夫なマントを持っているほど尊敬される」

「へえー」


ルジャンダルはつめカバーを付けた両手でマントの端を摘んで伸ばしたり重ねたりしている。

もしかすると、羊人の毛の織物を見たのも今日が初めてかもしれなかった。


「さ、明日に備えて眠ろうか」

「ん……」


メエユーシュカは目を閉じて眠りの世界に入ろうとした。

しかし、体を動かすのをやめてじっとしていると、いろいろなことを考えてしまう。

もしも食べ物が見つからなくて、二人して飢え死にしそうになったら、自分の体を食べるようにルジャンダルに伝えなければならないかも。とか、愛用していた象牙のくしがなくなって、寝る前の日課のコーミングができなかった。とか。深刻なことも、大した問題ではないことも、たくさん。


ふと気づくと、毛布がわりのマントが引っ張られている感覚がある。


見ると、ルジャンダルが丸くなって、小さく震えていた。

不安で泣いている。

無理もない。

里の見知ったひとたちはみな居なくなってしまい、食べ物を得るあてもない。

そんな状況で、全く知らない世界に旅立たなければならなくなったのだ。

話し相手は頼りない羊人ひとり。

悪い夢なら覚めてほしい。


メエユーシュカはルジャンダルの角を撫でようと手を出して、やっぱりやめた。

無責任に大丈夫とは言えない。

自分だって不安でいっぱいだ。


「ルジャンダル、起きてるかい?」

「……ん」

「少し寒いんだ。寄ってもいいかい?」

「うん」

「ありがとう」


寒いというのは嘘だ。ふかふかな毛のある羊人は、寒さには強い。

朝に出会ったときも、寒がっているのは鱗の者であるルジャンダルの方だった。


「昔のことを思い出したよ」

「…………む……?」

「泥界化の話を聞いてから数日は、夜、毛布の中で泣いてた。あとかたもなく消えてしまうのが怖かったんだ」

「……ん」


ルジャンダルはくっついてきて、メエユーシュカの服の端を握った。


「同じ年頃の周りの子達は、自分が残されたらどんな風に活躍して世界樹存在みたいになるかって言い合って、消えてしまうことが怖くないみたいに振る舞ってた。私は世界樹存在なんて大それたものになれるとか、なりたいとか、とても思えなくて……不思議だったけれど」

「ん」


相槌の声がはっきりしてきた。少しずつ気が紛れてきただろうか。


「今は思うんだ。世界のどこかで残された人たちが、服も柔らかい寝床も失って震えながら過ごしているなら、私の毛を分けてあげたい」

「……うん。あったかいとうれしい」

「過去の世界樹存在たちも、きっと歴史に名を残すとか、世界樹存在になりたいとかじゃなくて、自分の力で、残された人たちにできることをしてきただけだったんだろうな」

「ん」

「毛を伸ばすには、たくさん食事ができないといけない。どうにかして食料を確保するためにがんばらないとね」

「がんばる……」

「……ありがとう、一緒に来てくれて」

「ううん。あったかいと、うれしい……」


ルジャンダルは服の端を握ったまま、静かな寝息を立て始めた。

虫の声はない。

星はまたたいている。




次の朝を迎えたら、メエユーシュカとルジャンダルは、また歩くだけになる。

歩いている間の娯楽はおしゃべりくらいだ。


「ルジャンダルは里から離れたことがないんだったね」

「ん」

「何か遠くの国の話でもしようか。もうどこも人はほとんど残っていないだろうけど、残された人たちが集まって一緒に頑張れば、今までにあった諸国の文化のいくつかは取り戻すことができると思うんだ」

「ぶんか」


「歌を歌ったり、絵を描いたり、料理を作ったり、その土地、その種族の特徴的な行動や、それによって作られたものを文化って言うんだ」

「んー」

「ルジャンダルは里にいた時は何を食べていた?」

「肉、きのこ、山菜を煮込んだもの」

「どんな動物の肉?」

「イノシシ、シカ、クマ」

「クマまで狩って食べるのか……すごいな。それがルジャンダルの育った里の文化で、他の土地では違うものを食べているんだ」

「ふーん?」

「私などは各地を旅しているから、決まった料理を食べるわけじゃないし、大抵の時は草を食べてた」

「草はおいしいの?」

「ものによるかな。毒のない草なら大体食べられるけど、味は人里で栽培されてる野菜の方が美味しいよ」


「草……」

「どうしたの?」


ルジャンダルが早足で針路を逸れて行く。

追いかけると、ルジャンダルは小さな薄青色の花に手を掛けるところであった。


「草があった」

「摘まないでいいよ。それだけじゃあほんのちょっぴりだから、お腹の足しにはならない」

「ん……」


ルジャンダルはしゅんとした。


「もらってばかり」


ルジャンダルはどうやら、メエユーシュカが服や水筒を与え、また寝床の用意をしてやったことに対して、十分な対価を返せていないことを気にしていた。


「気にすることはない。きみに会えただけで、どれほど勇気付けられたことか」


その言葉がどれだけルジャンダルに響いたかは分からない。だが、メエユーシュカにとっては真実だ。


「その草も、いずれ種をつくって増えるだろう。草がどんどん増えたら草を食べる兎や馬が生きられる環境になる」

「むぅ」

「草が地面を覆うほど増えてくれれば、私たちのような蹄の者も食に困らなくなる。昨日の虫と同じだよ。今はそっとしておくのがいい」

「……わかった」

「でも、よくこんな小さな草を見つけたな。すごいよ。川とか、何か変わったものを見つけたらまた教えてくれ」

「うん」


可愛い小さな花に、枯れずに育ってくれよ、と願いを掛けてまた歩き出す。


「見たことあるような、ないような花だったなあ」

「どっち?」

「それがわからないんだよ」


羊人を含め、草をよく食べる蹄の者は食べられる草と食べられない草の判別には詳しい。

そのメエユーシュカが見たことがあるような気がするのに判別できない花というのは、少し不思議な存在だった。


「まあ、この辺はあまり来たことがない地域だから、固有種なのかも」

「こゆーしゅ」

「その土地にしかいない動物とか植物とかのこと。じゃあ、旅先で見た変わった植物の話でもしようか」


・・・


そうして進んでいくと、天の光が空を赤くする頃、ルジャンダルが小さな沢を見つけて水を補充することができた。

水筒はすでに空になっていた。


「水を見つけられて助かった。ありがとう、ルジャンダル」

「ん」

「もう少し水を持ち歩くべきかなあ……荷物が重くなるけど……」

「もっと持つ?」

「無理はしなくていい。街に着いてから考えよう。明日にはたどり着けるはずなんだ」



また岩陰に絨毯を敷いて寝床を作りながら、雑多な話をする。


「街、里とちがうの?」

「だいぶ違う。私も故郷から貿易都市に出たときは面食らったものだ。でもそれは見た方が早いな」

「ふーん。たべものあるといいねえ」

「そうだね」


当初の予定ルートから大きく外れていなければ、街まではあと一日ほど歩けば着くはず。

大きな街のはずだから、残っている中に役立つ道具もあるだろう。

メエユーシュカは、街にあるだろう設備と道具を想像して、なんとか効率的に動く計画を頭の中に描く。

まずは、食べ物の貯蔵されていそうな場所を探すだろう。

泥界化の消失は、『個体ごと』だ。バラバラの個体から採られた素材を混ぜて作られるチーズやパン、腸詰めの肉が残っていることは期待できない。

形が残っていそうなのは、ベーコンとか卵とか、丸ごとの果実だ。肉屋、料理屋、氷室……?

そこを探す過程で、水筒に使える容器は拝借できるだろう。あとは何があるといいか。

少しばかり背中が痛い。……荷車を失ってしまったので、荷物を無理やり背負っているせいだ。

食べ物のあてはまだない。疲れてきたのも事実だ。


けれど、まだ諦めるわけにはいかない。

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