天野蒼空

 人は儚いものを好きになるらしい。例えば、降るけどすぐに消えてしまう初雪、灯っては消えていく命、咲いては散りゆく桜の花。

君が見せる笑顔も儚いものだ。ふっと笑うその一瞬は、どんなに暖かい春の日差しも暗く見えてしまうほどに。



空がとても綺麗な雲一つない快晴、そんなある日のことだった。暦の上ではもう春なのだが、まだまだ冷たい北風が僕の皮膚を刺す。少しぶかぶかな黒いコートを着て、しっかりマフラーを巻いてから僕は出掛けた。家を出たものの行く宛も特になく、いつもの散歩道をのんびりと歩いていた。

公園の横を通り、猫が沢山いる裏路地に入る。古い家の湿った匂いと、じんわりとした皮膚では感じ取れない温もり。そんなものが混じりあってできているから、暗くて細い道だけど僕のお気に入りだ。

裏路地を三回曲がると畑の裏に出る。その畑の向こうは梅林がある。ちょうど梅の花は見頃で、白い小さな花が枝という枝にくっついている。そして、優雅な梅の香りは僕のところまで届いた。

僕は畑を迂回して梅林に足を踏み入れた。梅は目で楽しむものではない。古くから「花の香」といえば「梅の香り」のことを指す。だから、梅は香りを楽しむ花だと僕はいつも思っている。


梅の木と木の間、誰かいる。白いコートと長い茶髪──多分女。誰かがここに来ることはとても珍しいから、僕はその人がどんな人なのか気になった。しばらくその人を見ていたが、梅に夢中なのだろうか、一歩も動かないから僕も梅を見ることにした。

手前の梅の木は白い花を付けているが、奥の梅の木は濃いピンク色の花をつけている。木によっては八重咲きのものもある。細くゴツゴツとした幹と可憐な小さな花はなんとなく対照的に思える。

「見事な梅ですね。」

不意に後ろから声をかけられた。大人しめの女性の声。振り返ると、さっき夢中で梅を見ていた女が立っていた。

「そうですね。」

「こんな男前な木から可憐な小さな花が咲くんですね。花はとても可愛らしくて…儚げです。」

「確かにそうですね。花も美しい。梅は花の形だけを愛でるものではないと思いますよ。」

そう言って、僕は梅の楽しみ方についての持論を話した。その人は真面目すぎず、微笑みすぎず、口元に微かな笑みを残して僕の話を聞いてくれた。


「素敵ですね。」

話を全て聞き終えてから彼女は言った。

「そんなふうに思えるなんて素晴らしいと思います。」

お世辞ではないと願いたいものだ。

「そうですか?いつもは変わってるね、と言われるのですよ。」

苦笑いして僕は言った。

「梅がお好きなのですか?」

「いや、儚いものが好きでしてね。」

理由はちょっと話せないけど、と、心の中で付け足した。

「そうですか。儚いといえば……」

彼女は少し考えてこんでから、ふっと笑って言った。

「桜。桜なんてどうですか?桜吹雪、私好きなんです。綺麗だけど切なくて。」

「ああ、わかります。儚くて美しいですよね。桜の季節には河川敷によく見に行くものです。」

「私もですよ。」

彼女は嬉しそうに答えた。

春風のような微笑みは、太陽のような笑顔となっていた。

「あら、いけない。もう行かなくっちゃ。」

「どこか行かれるのですか?」

「ええ、仕事に。勤務時間が不規則なもので。」

「それは大変ですね。僕も夜勤なのでその大変さが少しわかりますよ。」

お互い顔を見合わせて笑った。

「ではまた。」

「ええ。今度は桜吹雪を一緒に見ましょう。」


最後の言葉は自分でもびっくりするほどすらすらと出てきた。一緒に見ましょう、だなんて僕らしくないな。



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天野蒼空 @soranoiro-777

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