立ち昇る黒煙

「……はは、少しばかり感傷的な台詞だったかな。龍美さんを気遣っていたつもりが、私の愚痴みたいになっていた。申し訳ない」

「い、いやいや。そんなの気にしないでくださいよ」


 私の負担の方が、随分軽くしてもらったのだから、私も八木さんから、幾らかくらいは負担を取り除いてあげたい。

 この程度で、八木さんの負担など減りはしないだろうけど。


「八木さん――」


 ありがとうございます。私が感謝の気持ちを伝えようとした、そのとき。

 ふと、視界の端におかしなものを捉えた気がした。


「……え……?」


 縦長に嵌め込まれた窓ガラス。

 外の景色はほとんど見えなくなっているのだが、僅かに見える向こう側。

 木々と曇天の中に、細く昇っていく異常なもの。

 それは……。


「八木さん、あれ煙じゃないですか!?」

「あ、ああ……私にもそう見える」


 方角的には街の方。明確な位置までは掴めないが、黒煙が立ち昇っている。

 そこから推測できるのは一つしかない――火事だ。


「見晴らしのいい場所ってあります……!?」

「そうだね、観測所の屋根に上れるようになっているから、そこからなら街がある程度は見下ろせる」


 私たちは急いで観測所の方へ戻ると、メンテナンス用の梯子から天井のハッチを開いて、屋根に上った。

 傘をするのを忘れていたが、そんなことを気にしている余裕もなかった。火事の火元は一体どこなのか――。


「……あそこだ」


 八木さんが真っ直ぐに指を差す。その先にあったのは……永射邸。


「そんな……!」


 主が水死体となって発見された、その翌日に。

 主を失った邸宅は、どういうわけか火に包まれた……。


「あれはまずい。もうかなり勢いが強くなっている。全焼は免れないだろう」

「一体どうして。この雨だし、永射さんはもういないんだから、出火する原因が……」


 そうだ、出火する原因などない。

 自然には。

 だとすれば、この火事は――。


「まさか、放火……!?」

「結論を急くのは良くないが、可能性は高そうだ。……すぐに牛牧さんへ連絡を入れよう」


 言うが早いか、八木さんは梯子を軽快に下りていき、机に置かれていたスマホを手に取り牛牧さんへ電話をかけた。私が危なっかしく梯子を下りている間に何度かやり取りをして、そばまで寄っていったところで電話は切られた。


「ふう。……牛牧さんのところへは、もう住民から連絡があったらしい。ただ、街に消防設備はないし、雨が鎮火してくれるのを待つしかないようだ」

「そっか……街には消防車も何もないんですもんね……」


 あんなに激しく燃えているのに、それを止めることができないなんて。

 屋根の上から見ている間にも、野次馬の姿は十人以上窺えた。

 誰もが燃え猛る火に見惚れながら、しかし何も手は出せず。

 永射邸が失われていくのを、待っているしかないのだ……。


「……どうして……」


 答えなんて、返ってこようはずもない。

 私たちもまた、多くの野次馬たちと同じように、混乱の中沈黙するしかないのだった。





 その後、雨の勢いも弱まることなく、私は結局数十分ほど滞在させてもらってから、観測所を離れた。

 八木さんの、気を付けてねという言葉を背にして山を下りた私は、木々の生い茂る道を抜けたすぐ先で、燃え尽きた永射邸を目にした。

 その頃にはもう、野次馬の数は二、三人ほどになっていたが、あれほど美しかった邸宅は見事に焼け、黒くなった骨組みが露出していた。労力をかけ、資金をかけて造られたものが、燃え散るときは一瞬なのだなと、炎の力にただ驚くばかりだった。

 帰宅するや否や、両親からも永射邸の火事について伝えられた。私が現場を見てきたというと、両親は目を丸くして、今度はどんな状況だったか教えてほしいとせがまれた。仕方がないので私は、八木さんと観測所で黒煙を目にしたところから簡潔に、一部始終を語ってあげた。

 人々に恐怖を与えた火事だったが、その原因についてはさっぱり分からないまま。最初のうちは前日から火の不始末があり、今になって火の手が上がったのではと言っていた人も、果たして本当にそんな時間差で火が起こるのだろうかと懐疑的になり、そこからは誰も仮定を披露する者は現れなかった。

 ただ一人、違う意味での『原因』を訴える者はいたが。

 ……これもまた、鬼の祟り。

 瓶井史さんは、説明会でも口にしたように、住民たちへそう語っていた。

 連日の事件でショックを受けている住民たちに、その言葉はとても重く響いた。特に、犠牲となったのが電波塔計画を推し進めていた永射さんだ。話を聞いた人々が、これは本当に鬼の祟りかもしれないと囁き合うのに、さほど時間は要しなかった。


 ――鬼の祟り。


 そんなものが、真実存在するというのだろうか。

 それは、ある種都合の良い免罪符に似たものではないのか。

 悪しき者――少なくともそう思われてしまった者――に対して、罰が下されたときの言い訳。

 詮索しなくていいじゃないかという、目隠し。

 ああ……私も八木さんのように。

 こう願わずにはいられない。

 鬼の祟りというものが、電磁波のように。

 人々の心を蝕んで、狂信されたりしないことを、どうか。


 そう、願っていた。

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