月と狂気と

「……そうだ、龍美さん。前に来たとき、月の観測について話してあげる約束だったね」

「え。あ、はい」

「今日は生憎曇っているけれど……天文台に招待してあげよう」


 それは多分、八木さんなりの気遣いだった。

 直接的ではなく、優しく触れるような気遣い。

 虎牙だったら、くよくよすんじゃねえよとか、ストレートに言ってきそうだが。

 これはこれで、八木さんの優しさが感じられて嬉しかった。

 その厚意に甘えるとしましょう。


「えへへ。ありがとうございます」


 私は八木さんに促され、ゆっくりと立ち上がった。

 天文台は、奥にある扉の先にあり、ちょうど観測所と天文台、四角と丸の建物がくっつくような形になっているようだ。八木さんに続き、私はその扉に向かって歩いていく。

 雑多に置かれた書類や器具。いくら仕事場だからといっても、もう少し綺麗に整理した方がいいのになと感じる。仕事の邪魔をしに来ちゃってるわけだし、それくらいなら手伝ってあげようかしら。

 部屋の中の様子に目を向けながら、そんなことを思っていた私は、一つだけ研究と関係なさそうなものを発見する。

 それは、随分古くなった薬袋だった。

 満生台で使用されているものとは違うので、恐らくはこの街にくるより前に貰っているものだろう。


「八木さん、何かご病気を?」

「ん? ……ああ、それか。打ち明けてしまうと、私も以前は病気に罹っていたんだ。ここに来たおかげですっかり完治してね。今ではあの医療センターに通う必要さえないくらいだ」

「へえ……知りませんでした。でも、治ったなら良かったですけどね」

「ええ。だから満生台には感謝しているし、思い入れがあるんだよ」


 この街に移り住む人たちはみな、大なり小なり医療センターの恩恵を受けている。

 私が知らないだけで、色んな人が病や怪我を抱えていて、それを医療センターは癒しているわけだ。

 やっぱりあの病院は、この満生台に欠かせない、最も大きな構成要素。

 あれなくして、満生台は成立しないのだ。


「この街が理想郷として発展していくことを、私も願ってます」

「……そうだね。私も同じだ」


 いつかこの街が、内外から『満ち足りた暮らし』のできる街であると評価されるように。

 それが何年先かは分からないが、早くそうなればいいなと、私は願う。

 重厚な扉。こちらも入口と同じく、静脈認証で開く仕組みで、八木さんがパネルに人差し指を当てて数秒、認証成功の音が軽快に鳴って扉が開いた。


「うわあ……」


 天文台は部屋面積で言えばこじんまりとしたものだったが、中々それらしい設備は整っていた。

 入口すぐ、部屋の外周に沿うような十段ほどの階段があって、それを上ると望遠鏡や機械の置かれた場所がどんと待ち構えているのだ。

 天井は、中央に設置された望遠鏡の可動範囲内で窓が嵌め込まれ、それ以外の部分は壁面になっている。

外側から見ればツルツルの半球体だったけれど、内部はこんな感じなわけだ。


「本格的ですね……」

「こんなので本格的と言ったら、本格的な施設に怒られてしまうよ。私の主業務は地震の観測。こちらは副次的なものだ」

「うーん、とてもそうとは」


 たとえ有名な公開天文台には劣るとしても、ここだって十分にお金がかけられているはずだ。

 副次的と言えど、月の観測もやはり重要なお仕事なのだろう。


「……それにしても、八木さんの観測対象はあくまで『月』なんですね?」

「役目としてはね。これがどうして地震調査と関連するかと言うと、引力の問題ゆえなんだ」

「引力……習ったことはあります。地球には月からの引力が働いているって」


 重力における作用のことを、潮汐力といったのは記憶にある。月が引き起こす地球への潮汐は、確か潮の満ち引きにも関わっていたはずだ。


「よく覚えているね。そう、月の影響で海の水位に影響が及ぶのだけど、その影響は水に対してだけでなく、地面にも及ぶとしたら?」

「あ……地面がずれて、地震が起きる……」


 そう。海だけでなく大地までもが引っ張られるとしたら。それによってプレートがずれ、地震が起きるというメカニズムも有り得ない話ではない。

 要するに、八木さんの仕事はその関連性を調べることでもあるのか。


「月の満ち欠けで、最も引力が強くなるのは満月のときだそうだ。満月に近づけば近づくほど地震活動が活発になるのなら、潮汐影響説はかなり信頼のおけるものになる。だから私は、地震の観測と並行して月の観測も行っているんだよ」


 それが、この観測所の構造が持つ意味。

 大地と月。一見遠く、関連しなさそうな二つを、同時に観測する双眸。

 八木さんは、その主を務めているわけだ。


「地球と月と。そのどちらもを見つめ、地震のメカニズムに明確な解答が導けたなら。そのときようやく、私の役割も晴れて終わりとなるんだ」

「……その日が早く来ればいいですね。ちょっと、寂しいですけど」

「ふふ。思い入れのある街だからね。研究が終わっても、必ずまたお邪魔させてもらうよ」


 そう言ってくれるなら、寂しさも少しは薄れるかな。

 また会えると信じられること。それは、奇跡的なことだ。


「月と言えば、こういう学説もあってね」

「はい?」


 八木さんは、天体望遠鏡に手を触れながら、語り始める。


「潮汐力というものは、広く地球上のものに影響を及ぼす。ならば、海や地面だけではなく……生物すらもその範疇に含まれるのではないか、という理論だ。名称を『バイオタイド理論』という」


 聞いたことのない理論だ。しかし、月が生物に影響を与えるというのは、まるで。


「ルナティック……」

「おや。まさしく私も、その言葉を出そうとしていたところだよ」

 

 ルナティック。日本語では『狂気の』と訳される英語だが、ルナというのは月という意味だ。では何故、月を表す言葉が狂気という意味を持つのか。それは古くから、月が人間の精神異常を引き起こしてしまうからだと実しやかに伝えられていたからである。

 狼男の伝説なども、満月を目にしたら狼に変貌してしまうというものだし、月が人間を狂わせるというところから着想を得たものだと推察されていたりもする。


「月が人間に影響を与えるのでは、というのを古代の人々が既に予想していたというのは驚くべきことだよね。無論、科学的な根拠に基づくものではなかったにせよ、そういう直感めいたものは確かにあったわけだ」

「バイオタイド理論というのが本当だったとしたら、凄い話ですね」

「いずれ証明されるのかどうか。私も気になっているよ」


 八木さんは楽しげな表情で頷く。


「まあ、龍美さんが口にしたような、ルナティック……狂気的という意味までは、バイオタイド理論は持ち合わせていない。あくまでこの理論は、人間の体の水分も潮汐の影響を受けるゆえ、何らかの変化がもたらされるというだけだ。ちょっと怒りっぽくなってしまうとか、ウキウキしてしまうとか、その程度かもしれない」

「満月の夜にみんな狂っちゃったら怖いですもんね」

「暴行や殺人事件が増えると言われていたりもするんだけどね。その統計がしっかりしたものかは不明だ」


 私個人の印象としては、月の潮汐は人体に影響を与えているのだと思う。ただ、それが表層まで現れるような大きな影響かは個人差があるだろうし、九割方の人は何の変化も現れないのではなかろうか。


「……電磁波と、少し似ているね」


 そこでポツリと、八木さんは呟く。

 電磁波。この街が今抱える、重要な問題。

 論争の、火種。


「願わくば電磁波というものが、ルナティックのように人を狂わせるものではないように。私はずっと、そう思っているよ」

「……八木さん」


 自らをオブザーバーと評する一人の研究者の、ささやかな願い。

 私は彼の翳った横顔を、ただじっと見つめていることしかできなかった。

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