アストロターフィング(人工芝運動)

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2001年、元米国大統領のビル・クリントンは、現役引退とともに、妻ヒラリーたちと気候変動やヘルスケアへの出資を目的とする財団を立ち上げた。


その後、英ガーディアン紙をはじめとする複数のメディアが「クリントン財団は、香港や上海の金融システムを経由して、各国の資産家から膨大な額の寄付金を受け取っている」と報じた。

HSBC香港上海銀行のスイス部門は、米国人の顧客の脱税を幇助していたという罪を認めている。


このようなマネーロンダリングは、その原資が英国人や米国人のものであっても、彼らに手を貸したのが特別行政区の機関であっても、その多くが便宜上「中国」のものとして表記されている。

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「彼女は中国人民解放軍のサイバーハッカーだぞ!その前はたしか五毛党50 Cent Partyでたらふく稼いでいたんだ。もしかしたらCovid-19を開発したのも彼女かもしれない。まぁ、とにかく、気をつけろ!」


ファーガスはニヤニヤしながらそう言うと、空になったコーヒーカップを手に席を立って居なくなった。

入れ替わるように「はいはい、社内フェイク・ニュース止めてもらえますか。」と声を発したのが子轩ズーシェンだった。

遠くの方でファーガスが笑いながら謝罪する声が聞こえた。


「ええと、こんにちは。私は正直ファーガスさんのように訳あって参画したという感じでもないんです。なんというか、色々と勉強をしつつ、そのスキルをいことに使っていきたいという気持ちで、ここに来たという感じです。」


子轩ズーシェンは、20代前半か、ひょっとするともっと若いのではないかというようにも見えた。

部屋の隅に映る本棚には、「オライリー」シリーズといわれる技術書をはじめ、「ファクト・フルネス」「サピエンス全史」「経済学入門」「天気の子」の美術画集などが並んでいた。

僕とは英語で話しているが、本棚には日本語のものもいくつか見受けられた。


「やっていることとしては、主にSNSリサーチです。例えば以前にはQAnonというムーブメントが最初にどこから出てきたのかを調べたりしました。公式WebAPIを地道にCLIで叩いていくこともあれば、ヘッドレスブラウザを操作することもあります。」


彼女の言っていることはエンジニアではない僕にはサッパリだった。

日本のエンジニアの友達に教えてもらいながら、なんとか記憶の残滓とともに発言を再構築した。


この日の子轩とのやりとりは主に技術的なものや自己の役割についてのものが多かった。それが普通のアジア人同士の顔合わせなのかもしれない。


彼女はあまり政治的な言動をするほうではなかった。ここに書いていることは、しばらく後になってから徐々に知ったことだ。


 ◆


子轩は、中国深圳市の急速なハイテク産業の発展とともに育った。10代にして高級車に乗って三ツ星レストランへと赴く同級生や、高額な融資を受ける形で急速に成長したITベンチャーの創業者たちが当然のように周りに居た世代だった。


彼らは「勉強をして、シリコンバレー顔負けなオシャレなオフィスで懸命に働いて誰よりもスキルを身につける。いつか自分の事業を立ち上げるか、新しい技術やプロセスを公開して評価されるか、あるいはそのような成功者の異性とお近づきにならなければ」というような焦りの中で切磋琢磨しあっていた。

ネットリテラシーの高い都市部の若者なら、誰もがこのチャンスが永遠に続かないものだと悟っていたようだ。


そんな中、子轩が最初に選んだのは、Liverという道だった。

オシャレで可愛いものを日々紹介し、投げ銭アプリでコスプレ配信し、WeiboやInstagramでは一定の人気を誇るインフルエンサーとして認知されていた。


子轩のフォロワーは日に日に増えていったが、同世代の成功話を聞かされる度に「もっと上を目指さなければ」と焦っていたようだ。

そこで彼女がとった戦術は、その盛り上がりと過激さを増していた"米中経済戦争"や"香港民主化運動"への言及である。


最初は、みんなを元気づけるような明るいコメントをただ残したに過ぎなかった。

しかし、翌週には、主要メディアのニュース記事を引用リツイートして、つたない言葉で他国の言語に翻訳しはじめていた。


「どうかこの記事を拡散してください。人種差別主義者に負けてはいけません!」


「香港市民の発言を中国政府は否定しました。皆さんどう思いますか。リツイートして広めてください。」


"勉強不足"


その果てに得た教訓とは一言でいえばそのようなものだったという。

微増するフォロワーや信者と、急増するアンチコメント。最終的に通報爆撃を受けてアカウントが二週間凍結するという形で、子轩は政治的発言を止め、"ついでに"インフルエンサーを止めた。


「普通の女の子だったら、あのときに折れてると思いますよ。絶対。」

後に彼女の過去の経緯を知って、ふと質問した僕に子轩はそう返した。


その後、彼女は、自分が一体何が間違っていて、どんなスキルが足りないのかを即座に勉強しはじめた。

手始めに、アンチからきていた「お前、"五毛党"だろ」というリプライの意味を調べるところから始めた。

ファーガスの50 Cent Partyという冗談は、子轩のこの話を通して覚えたようだ。


最初はWikipediaを漁り、次に政治や経済の本を読み、やがてその学習と調査そのものをより効率化するためにプログラミングを学び、自らコードを書いた。


それが執念なのか憎悪なのか楽しいのかもわからないほど、没頭していた。

そして、気づけば目的と手段は華麗に逆転した。


 ◆


マルチリンガルのITエンジニアで、政治経済への造詣もそれなりという、誰もが欲しがる人材となった子轩は、

かつて憧れたGAFAやBATHへの就職が手が届く距離にあることを知ると同時に、そういったITハイテク産業が"政治的に中立ではない"ことも同時に知ってしまった。


やがて知識の波に身を任せるように日々を過ごす中で、気がつけば謎の無名中小ベンチャーで、イギリス人とリモートで冗談を言い合う日々を送っていた、というわけだ。


人は何を知っていればいいのか、何を成せばいいのか、それに伴う責任とはなにか。


彼女の身に起こった一連の出来事は、ある意味でそのあとに起きる"変革"を体現していたと言っても過言ではない。



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學好千日不足 學壞一時有余

(好いことを学ぶには千日あっても足りないが、良くないことを学ぶのは容易い)


(中国を起源とすることわざ)

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