線路に飛び込むつもりが、何故か釣りに行くことになった話

鯨井イルカ

第1話 線路に飛び込むつもりが、何故か釣りに行くことになった話

 ホームドアが未だに設置されていない地下鉄の駅。

 時刻は、終電間際。

 今から帰宅しても、眠る時間なんてほとんどない。

 それでも、また夜が明けたらこの場所に来なくてはいけない。

 そんな事実を思い出し、口から深いため息が漏れた。


 眠い。


 頭が痛い。


 体が重い。


 何もかもが面倒くさい。



「間もなく二番線に電車が参ります。黄色い線の内側までお下がり下さい」



 ネガティブなことを考えていると、機械的なアナウンスの声が耳に入った。


 たとえば、この電車に乗り込むのではなく、飛び込んでしまえば、面倒ごとから開放されるだろうか?


 そうだ、きっと、そうに違いない。


 上手くいけば、もう二度とこの電車に乗らなくて済む。 


 あと一歩、あと一歩だけ踏み出せば……



「こらこら、お嬢さん。何をなさっているのですか?」



「え?」


 不意にかけくられた声に振り返ると、背後にはいつの間にか見知らぬ男性が立っていた。

 

 頭には烏帽子。


 右手には釣り竿。


 左手には丸まると太ったタイ。


 派手な橙色の水干を着込んだ、肉付きのいい男性。


 ……終電間際の地下鉄の駅には、場違いすぎる人物だ。


 訳の分からない人物の登場に戸惑っていると、後頭部と背中に強い風を感じた。

 その途端に、全身から冷や汗が吹き出した。


 私、今、一体何を……

 男はガタガタと震え出した私を見て、ニコリと笑った。


「お嬢さん。ともかく、電車に乗りましょうか」


「そう、ですね……」


 私の返事を聞いた男は、笑顔のまま頷き、電車に乗り込んだ。

 私も男の後を追って、電車に乗り込む。


 車内に私達以外の乗客は見当たらなかった。

 いつもなら、終電だとしても、もっと混んでいるはずなのに。

 困惑する私をよそに、男は至極当然といった様子で座席に腰を下ろした。

 

「さあ、お嬢さん。疲れているようですから、どうぞおかけになってください」


 そして、座席をポンポンと叩きながら、私に呼びかける。


「ああ、どうも……」


 曖昧な返事をして隣に座ると、男は笑顔を浮かべて頷いた。

 わけの分からない格好をした怪しい男が自分に向かって微笑んだら、普通は恐ろしいはずだ。

 それなのに、この男からは、恐ろしさを感じない。

 むしろ、安心感さえあるように思える。

 一体、なぜだろう?


「お疲れ様です。ところで、お嬢さん、何故あんなことをしようとしていたのですか?」


 疑問に思っていると、男は微笑みながら首を傾げた。

 あんなこと、というのは、電車に飛び込もうとしたことで間違い無いのだろう。


「ちょっと、色んなことが嫌になってしまって……」


 曖昧に答えると、男は笑顔のままコクコクと頷いた。




「そうですか。それは、さぞかしお辛かったでしょうね」




 そして、穏やかな声で、そんな言葉を口にした。

 男の言葉を聞いた途端、目頭が熱くなるのを感じた。


  これくらい、できて当然だ。

  なぜ、言われたとおりにしなかった。

  なぜ、自分で判断できないんだ。

  言い訳をするな。

  やる気がないなら出ていけ。  


 不意に、いつもかけられている言葉が耳に響く。

 そうだ、私が聞きたかったのは、そんな言葉じゃなくて、さっきのように…… 




「そういうときは、釣りに限りますよ」 


「……え?」



 ……意外すぎる言葉に、センチメンタルな気分が一気に吹っ飛んでしまった。


 たしかに、見るからに古風な釣り人の格好をしているな、とは思った。

 でも、このタイミングで釣りに誘うのは、どうだろうか……


「よし!そうと決まれば、善は急げです!」


 男はそう言うや否や、席を立ってドアへ向かって歩き出した。


「あ、待ってください!」


 私も男の後を追って、ドアの前まで移動する。

 すると、ドアの窓にあり得ない光景が映っていることに気がついた。


 

 白い雲が所々に浮かぶ青空と、波一つない真っ青な海。


 一体これはどういうことなのだろう?

 さっきまでは、確かに地下鉄の線路を進んでいたはずなのに。


「次は、大海原、大海原ー」


 呆然としていると、車内アナウンスが聞いたことのない駅名を告げた。

 そして、電車は徐々にスピードを落とし、動きを止めた。

 ドアが開くと、男はこちらに顔を向けてニコリと笑った。


「さあ、お嬢さん、降りましょうか」


「あ、はい」


 男に促されながら電車を降りると、そこはなんとも風光明媚な駅だった。

 

 ところどころ錆びた駅名標と、三人掛のベンチの他には何もない。

 改札らしき場所も見当たらず、駅と言うよりもコンクリート製の浮島のようだ。


 辺りを見回していると、電車はいつのまにか消えてしまっていた。

 帰るときはどうすればいいのだろうか……


「さあ、お嬢さんこれを」


 帰り道の心配をしていると、男がにこやかに釣り竿を差し出した。


「あ、ありがとう、ございます」


「いえいえ、どういたしまして」


 戸惑いながら釣り竿をうけとると、男は笑顔のままそう言った。

 それから、男はベンチに腰掛け、タイを膝に置くと、釣り糸を海に投げ入れた。

 ……どうせ他にすることもないのだから、私も参加することにしよう。

 私も見よう見まねで釣り糸を海に投げ入れ、ベンチに腰をかけた。

 

 

 それから、私は青い空と海を眺めながら、釣り糸を垂らし続けた。

 ずいぶんと長い時間が経った気がするが、釣り竿には何の反応もない。

 隣の男に目をやってみても、私と何ら変わらない状況のようだ。

 それなのに、楽しそうにニコニコと笑っている。

 どうやら、男は待ち時間も楽しめるらしい。

 私の方は早くも退屈してきた。

 それでも、たまにはこんなふうに、退屈を持て余すのも良いのかもしれない。


 そう思った矢先、釣り糸がものすごく強い力で引かれた。


「わぁ!?」


「お嬢さん!落ち着いて!私が合図をするので、それに合わせてください!」


「は、はい!」


 男に合図されるまま、私はリールを巻いたり釣り竿を引いたりを繰り返した。

 そして……


「おめでとうございます、お嬢さん」


「はあ、それはどうも……」


 男は私の釣果に拍手を送っているが、どうにも素直に喜べない。


「おや?浮かない顔をなさっていますね」


「それはそうですよ、だって魚ですらないじゃないですか」


 釣り針にかかっていたのは、ワカメの塊だった。


「良いじゃないですか。味噌汁にしても酢の物にしても美味しいし、炊き込みご飯にするなんて手もありますよ」


「それは、そうですけれど……」


 釈然としない気持ちでいると、男はニコリと笑った。



「それでも、何もせずに捨ててしまうなんて、もったいないですよ」



 ……男が言っているのは、ワカメのことのはずだ。

 それなのに、地下鉄のホームでのことを、やんわりと注意されている気になった。



「……うまく、いきますかね?」


「それは、お嬢さん次第ですよ。でも、捨ててしまったら、どうにもなりません」


 ……たしかに、男の言うとおりだ。

 私は、少なくとも、地下鉄の線路に飛び込むために、生きてきたわけではないはずだ。


「それも、そうですね。どうするかは、帰ってゆっくり考えます」


「それが良いです。では、そろそろ帰りましょうか」


 男の言葉と共に、辺りは眩しい光に包まれ、私は思わず目を閉じた。


 

 目を開くと、そこは地下鉄の駅のホームだった。

 青い空も、青い海も、不思議な男の姿もない。

 一体、何が起きたのだろうか……



「間もなく二番線に電車が参ります。黄色い線の内側までお下がり下さい」



 戸惑っていると、電車の到着を告げるアナウンスの声が耳に入った。

 ……きっと、疲れて夢をみていたんだろう。

 そう思った途端、つま先に何かが触れた。

 一体何だろう?

 そう思ってかがみ込むと、そこには小さな人形が落ちていた。

 

 

 その人形は、木彫りのえびす像だった。


 えびす像を拾い上げると、自然と笑みがこぼれるのを感じた。


「さっきはありがとうございました。ちゃんと、帰ってゆっくり考えるので、大丈夫ですよ」


 そう声をかけると、えびす像の笑顔が更に深くなったように感じた。

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線路に飛び込むつもりが、何故か釣りに行くことになった話 鯨井イルカ @TanakaYoshio

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