第3話 猫のにゃんさん
猫のにゃんさん
※
十月二十四日、月曜日。
午後四時。
(…………)
美(み)河(かわ)静(しず)流(る)、中学一年生。今日は顧問が出張であることと、中間テストが近いことで、放課後の部活動は中止となった。教室から空を見上げてみると、色濃い灰色の雲が覆っている。それは今にも落ちてきそう。部活が休みである以上、放課後は急いで帰るに限る。
(…………)
灰色の雲の下、下校路を歩いていく。愛(あい)名(な)市立東凪(とうなぎ)中学校の冬服である学らん姿で、学校指定の茶色い肩かけ鞄を右肩から斜めにかけ、帰路を急ぐ。
学校は学区の端にあり、家が反対側の端にあるため、登下校に二十五分もかかる。もちろん徒歩。生徒によっては学校近くまでこっそり自転車に乗っていき、『今日もちゃんと遠い家から歩いてきましたよ』という顔をして登校することがある。しかし、だいたい一週間に一人は見回りの教師に見つかり、自転車を没収されるという罰が与えられるため、静流はそんな危険を冒そうとは思わなかった。
学校と家の中間地点に大きな青願公園があり、そこには小高い丘がある。丘には銀杏の木がたくさん生えていて、頂上に青願神社があった。百段ある石段の上にあるせいか、普段はあまり参拝客のいない神社であるが、来月予定されている銀杏祭りには多くの人で賑わうことで有名である。静流も去年いき、屋台の輪投げで恐竜の人形を手に入れた思い出があった。瞬間は喜んだものだが、家に持ち帰って『いらないな、これ』と後悔することになったのだが。
(…………)
建ち並ぶ住宅と住宅の間に、青願神社のある小高い丘が見えてきた辺りで、なんとも奇妙なものが目の前を立ち塞がる。
それは、ある住宅の前を通りかかったときのこと。
(……はっ?)
道路の右側寄りを歩いていた静流の前に、猫がいた。ここは車も通る道路なのに、ちょこんっと座り込み、上半身を起こして静流の方を見上げてくる。
じっと、真っ直ぐに、一切顔を逸らすことなく。
(なんだ、この猫?)
猫は灰色と黒色の斑模様で、首筋から胸にかけて白い毛が覆っている。耳をぴんっと立てており、静流のことを立ち塞がっているかのごとく、弁慶のように一切微動だにすることがない。
静流は、止めていた足を踏み出して近寄ってみたが、一切逃げる素振りがなかった。目の鼻の先まで歩を進めてみたが、やはり逃げない。神経が図太いのか、はたまた鈍いだけなのか。
(変な猫)
これまでずっと、静流は猫に興味を持ったことなんてなかった。飼ったこともないし、触れたこともない。猫といえば、せいぜい外で野良猫を見かける程度である。だというのに、こうして自分の前を立ち塞がる猫に対し、強い興味が生まれた。大げさな話かもしれないが、そうすることが、本日部活動が中止になってこうして早く下校している意味であるように。
肩から斜めにかけている鞄が地面に落ちないように気をつけながら、しゃがみ込む。緊張の色を帯びながらも、恐る恐る手を伸ばしてみたが、それでも猫は逃げない。そして、伸ばした手で頭に触れることができた。撫でてみるが、気持ちよさそうに目を細めはするものの、動くことはない。
(へー、こんな猫もいるんだなー)
明日学校にいったら、この変わった猫のことをクラスメートに話そうと思った。珍しいことに直面すると、つい誰かに言いたくなる性分。それは、覚え立ての言葉を早く使いたくなる心境によく似ていた。
けれど、こんなに人懐っこい以上の無警戒な猫、どうやって説明すればいいか? はたして信じてもらえるのか? と思案していき、
『おばあちゃぁん!』
刹那、耳に飛び込んできた声に大きく瞬きをすることとなる。
(どうしたどうした……!?)
声がした。幼い女の子の声。それも鬼気迫る叫び声。
反射的に、その顔は右方にある黒い門に向けられる。
と次の瞬間、これまで自分の前にいた猫が、住宅の門の方に跳び移ると、『みあー』と鳴いた。そのまま静流の方をじっと見つめる。まるでそちらに誘っているみたいに。
(……なんだろう?)
一瞬、小学校の学芸会でやった『不思議の国のアリス』が頭を過った。時計を持った兎に不思議な国に連れていかれるアリスの心境が、置かれている現状に似ている気がする。入口に足を踏み入れることを止めることができず、猫に導かれるようにして黒い門の家を覗き込む。
(えーと……)
門の向こうには庭の大きな家があり、実をつけた柿の木や蜜柑の木が生えている。ただ、あまり手入れが行き届いていないのか、膝まである雑草が茂っていた。物干し竿には、干されているタオルや肌着といった洗濯物が小さく揺れている。
見てみると、こちらに背中を向けた猫は、門から飛び石の向こう側に移動していく。ゆっくりとした歩調で、尻尾を大きく左右に振りながら。
『おばあちゃん、しっかりしてぇ!』
また声がした。女の子の声は猫が歩いていく方から聞こえてくる。
静流はわけも分からず、猫の後ろについていくように歩を進めていって……驚愕にぶつかった。
(わわわっ……!?)
飛び込んできた眼前の世界に、目を見開く。驚愕の光景に、一瞬頭が真っ白となり、放心状態に陥った。自分がこうして知らない家の庭で立っていることすらまともに認識できなくなった頭では、赤信号を通過していくパトカーか救急車のように、赤ランプが激しく点滅している。
直面した異常さに我を忘れ、暫く呆然と立ち尽くす……耳には、女の子の泣きじゃくる声。それが無自覚にでも鼓膜を振動させていき、混乱を極めて黒く細かいものが飛び交っていた頭は、すーっと波が引くように落ち着きを取り戻していった。
「…………」
飛び石の先に老婆が倒れている。茶色のシャツが少し捲れ上がっており、身動きすることがない。この家の人間なのだろうか? 苦しむように強く閉じている双眸は、異常事態に直面しているのは明らかだった。
「ど、どうしたんだよ!?」
倒れている老婆の傍らで泣きじゃくっている女の子は、涙と鼻水にまみれて、顔がぐちゃぐちゃ。状況を尋ねようにも、顔を真っ赤にして嗚咽している現状では、どうすることもできない。
(…………)
老婆が倒れている緊急事態で、泣きじゃくる女の子を頼ることもできず、周囲には誰もない。状況を突き動かすことができるのは静流だけ。そう認識した瞬間、静流の頭にあるランプは点滅の間隔を狭め、激しいサイレンが全身を駆け抜けていく。なんといっても、人が目の前の地面に倒れているのである、全身から発熱していくような不安と大量の汗を得ていた。
「す、すみません。誰かいませんかぁ」
本音としては、面倒なことは面倒だし、責任を背負うようなことはしたくない。だから、こんな異常事態に関わりたくないが……だからといって、泣きじゃくる女の子をそのままにして逃げ出すわけにはいかない。
玄関の引き戸を開けて家の人間に助けを求めようとするが、静まり返った木造の家から返答はなかった。インターホンを押しても木造の壁に電子音が虚しく響くのみ。
(どうしよう?)
ごくりっ! 大きく喉が鳴る。
「誰かぁ。誰かいませんかぁ」
部活のときはあれほど大きな声が出るのに、肝心なときにうまく声が出てくれない。それでも強く訴えるように呼びかけるも……変化が訪れることはなかった。気配も感じないので、留守のようである。
その間も、背後からは女の子の泣き声は響いてくる。今は過呼吸になっているみたいに、荒い息が悲鳴を上げている。それが余計に静流を急かせる。気がつくと手が震えていて、視線が定まらない。
(わわわっ!?)
黒い霧のようなものが脳裏を覆い尽くし、静流はおろおろと意味のない足踏みをしてしまう。
自身の奥底から突き上げてくる居ても経ってもいられない感覚に、上半身を伸ばして玄関左にある居間を覗き込むと、電話らしきものを発見。一刻を争う緊急事態である、主に断りなく勝手に家に上がっていくことに。その際、履いていたスニーカーを脱ぐことができたのは、この状況でも冷静さが残されていたからか、はたまた普段からの習慣だったかは……そんなこと、この緊迫した場面ではどうでもよかった。
今は一刻も早く、自分が履いている下駄を誰かに預けなければならない。静流では手に負える状況でないから。
(えーと……)
電話は古いダイヤル式のもので、プッシュボタンの静流の家のものとは違う。父親の実家にも母親の実家にも、さらには親戚の家にもないタイプ。初見。ただ、なんとなくやり方は分かるが、慌てているせいか、どこにかければいいか分からない。その辺りが、現状の心情が混迷を極めていることを示していた。パニック。
(わわわっ)
家にかけても母親は留守だろうし、父親の会社の番号も分からなければ、通っている中学校の番号も分からない。調べるためには、一旦家に帰って電話帳を確認しなければならない。けれど、そんな時間はない。一刻を争うのである。
(わわわっ!)
どうにかしたいのにどうにもうまくいかない混乱極まる頭は……常識的な可能性により、見事に一刀両断された。なんでその刀が今まで出なかったのか不思議なぐらい、今では進むべき道は明確となる。
(……って、救急車だろうがぁ!)
これまでずっと誰かに助けを求めようとしていた。経験からすると、困ったときは両親や教師に縋っている。慌てていたせいか、今回もそうするものだと思い込んでいた……そんな自分が馬鹿のように思えてしまう。救急車を要請するという、こんな当たり前のことに気づけないなんて。
大きく吐息。
(早くしないと)
急く気持ちが色濃く出つつ、震える人差し指を伸ばしていく。ダイヤル式の電話で、『1』と『1』と『9』を回していく際、ダイヤルが戻ってくる動きが緩慢に思えて仕方がない。『ダイヤル式はこんなに焦れるものなのか!』と受話器を叩きつけそうになりながらも、ようやく消防情報センターにつながった。
「あ、すいません、えーと……」
せっかくつながったというのに、口がうまく動いてくれずに、しどろもどろになってしまう。情けない。
※
愛名市立大学付属病院。愛名市北区にある大きな病院で、この辺りでは一番背の高い十階建ての建物。北側には東から西に庄乃(しょうの)川が流れており、敷地の西側には片側三車線ある国道が南北に走っている。『愛名市立大学付属病院前』という市バスの停留所があった。
そんな交通の便がいい愛名市立大学付属病院に、静流はいる。それも救急車に乗って。こんなの生まれて初めてのこと。戸惑いと緊張と重圧と居心地の悪さが、自身の内側でぐちゃぐちゃに混ざり合って、落ち着きをなくしていた。革張りのソファーに腰かけていても、膝が震えて仕方がない。
(…………)
老婆が倒れていた家で救急車を呼び、サイレンを鳴らしてやって来る救急車を道路に出て誘導した。駆けつけた灰色の服装にヘルメットを被った救急隊員に事情を説明しようにも、うまくいかない。なぜなら、静流は老婆が倒れていた経緯を知らないし、近くにいた女の子は泣きじゃくるばかりで、二進(にっち)も三進(さっち)もいかないから。ただ、老婆が倒れていることは現実で、救急車に搬送されていくのを固唾を呑んで見守るのみ。家の前には、いつの間にか野次馬を集まっていたが、誰も静流に声をかけてくることもなかったし、どうやら老婆の家族もいないみたいである。
そんなことが影響してか、または家族と間違えられたのか、静流は女の子とともに救急車に乗る羽目になった。状況が理解できないまま病院まで同行し、今は待合室のソファーに座っている、という現実がある。
(…………)
救急車は病院裏側にある専用の地下入口に入っていき、待ち構えていた看護師によって、老婆はストレッチャーで緊急治療室へ運ばれていった。静流は治療室の正面にある待合室のソファーに座り、暫く待たされることに。何を待つのかはよく分からないが、とにかく待つように言われた。
(…………)
本人としてはただの下校だったのに、救急車に乗って病院の待合室に座っているという、とんでもない状況に身を置いていること、戸惑いを通り越した放心状態で、おろおろしてしまう。横を見てみると、女の子は泣き疲れたのか、ソファーで眠っていた。呑気なものである。
ソファーに座って三十分ぐらい経過したとき、制服警官がやって来たので、事情を説明する。といっても、静流に説明できたことといえば二つのみ。『自分があの老婆の家族ではなく、たまたま通りかかっただけ』と、『悪いとは思いつつ、家にお邪魔して救急車を呼んだ』というもの。勝手に家に入ったことを『不法侵入だ! 逮捕する!』と咎められるのではないかとびくびくしたが、緊急時のことを考慮されたのか、そんなことにはならなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
女の子の話も聞いていると、なんと女の子もあの家の人間ではないという。老婆とは知り合いというだけで、倒れていたのを見つけたのは『たまたま』らしい。なんでも猫を追いかけていったら、倒れている老婆を見つけたとか。猫には変な名前がつけられているそうだが、記憶には残らなかった。
(…………)
こうして慣れない病院のソファーに腰かけて、治療室に運ばれていった老婆のことを考えると、感慨深いものがある。もしあの女の子がいなかったら、老婆は倒れたままになっていただろうし、女の子の声が道路にいる静流まで届かなかったら、救急車を呼ぶことはなかった。そもそも、猫が静流を立ち塞がるようにいなかったら、きっと素通りしていたから女の子の声だって聞こえなかっただろう。それ以前に、もし今日部活顧問の古枝(ふるえだ)が出張でなかったら、グラウンドで部活動をしていたのであの時間に下校することもなかった。
多くの偶然が重なり合い、老婆はこの病院に運ばれ、静流がこうして待合室のソファーに腰かけている。運命の巡り合わせを感じた。
(…………)
ただ今は、警察官に名前を教えてもらった『木村世志乃』という老婆の安否を祈るのみ。こうして関わっているのだから、無事であってほしい。そう切に願う。でないと、心配で寝つきが悪くなってしまう。この件に関し、できることがあるなら協力するが、願う以上に静流にできることがないこと、ただ待合室で小さくなる。
(…………)
病院に着いて一時間ぐらい経過すると、女の子の母親が迎えにきた。病院の関係者に静流も帰っていいと言われ、住所と電話番号を伝えてから帰路につく。
老婆はまだ治療室から出てこないため、安否が確認できないことは心残りだが、座っていてもできることはない。
これまでいた待合室は三階にあった。エレベーターを使わずに、クリーム色の壁に囲まれた階段を下って一階に到着すると、ガラス越しに建物東側にある小さな広場を見ることができる。芝生のある広場にはいくつかのベンチと花壇があり、樹木も植わっていた。入院患者であろうパジャマ姿の人間を三、四人見ることができ、付き添う看護師の姿もある。
そんな広場を横目に通り抜けようとして……引っかかりがあった。そちらに引っ張られるように視線を外に戻す。
(……あれ?)
眉を寄せるように、よーく目を凝らしてみると、そこにいた人物にますます目が離せなくなってしまう。
(……川(かわ)名(な)?)
広場に見知った女子を見つけた。静流と同学年であり、今は違うが、昨年の小学六年生ではクラスメートであった。水玉のパジャマに茶色のカーディガンを羽織っており、敷地内の北側のベンチにいる。前屈みに座っているせいか、背中まである髪の毛は、前に大きく流れていた。
(……どうしたんだろう?)
これが学校なら見かけることぐらい当たり前。けれど、ここは病院である。しかも、ああしてパジャマ姿でいること、巨大な違和となる。
(…………)
静流は今年、中学校に入学し、急に男女の間に溝のようなものを感じている。去年までは同じ『子供』だったのに、今は着ている制服によってはっきり『男女』が分かれ、これまでみたいに女子に気安く話しかけることができなくなった。
ただ、ここは学校ではなく、ましてや今は救急時に直面した興奮状態にある。普段ではない環境で普段ではない自分だからこそ、普段ではない行動にだって出てしまう。
(どうしたんだろ……?)
静流はガラス張りの扉を開けて、建物東側にある芝生の敷かれた広場へ足を進める。すぐ北側が雑草の茂る斜面の堤防で、それを越えたら東から西へ流れる庄乃川。河口が近いため、川幅が五十メートルほどある大きな川。小学生の頃、たまに鮒を釣りにいった。
(うーん……)
病院の広場、花壇横のベンチ、そこにいる人物に近づいていくと、相手は気配を感じたようにこちらを振り向く。そして目を大きく開いた。
驚かせてしまったことに、静流は少しだけ縮こまってしまう。
「……えーと」
同じ中学校に通っているが、対面するのは小学校の卒業式以来。声をかけるにはどうすればいいか? 一瞬の躊躇が生まれたが、すぐ傍まできてしまっている以上、戸惑いを呑み込んで声をかけていく。
まずは右手を小さく振った。
「よっ、なんか久し振りだな」
「……ひやー、静流くんだー」
「『ひやー』ってなんだよ?」
「ぎゃっはー」
妙な奇声を作る少女、川名みえ。
「どうしたの?」
「うん、まあ、結構に大変があってさ、ここにいるわけ」
視線を宙に彷徨わせ、現状をどう説明したものかと思案する。『下校時に変な猫を見たと思ったら、近くの家に倒れている老婆がいて、救急車を呼んだら身内と勘違いされて一緒に病院にきて、警察に事情を説明して、たった今解放されたばかり』ということは、なかなか説明するのが難しく、あまりに突飛なことで信じてもらえないかもしれない。下手をすれば変なことを口走る同級生という図になってしまう。それはまずい。
五秒間という青春の貴重な時間を費やして、静流が口にする現状の説明としては、
「まあ、いろいろあってな」
になっていた。
「なことより、お前こそどうしたんだよ? そんな格好で。まるで入院してるみたいじゃないか?」
「ひはははっ……なかなか鋭いな、静流くんは。さすがはあたしの元クラスメートだけのことはあるね」
「へっ……」
パジャマ姿なので、自然と口から『入院患者みたいだ』という言葉が出てきたのもの、まさかそのものずばりだとは思っていなかった。なんといっても入院である、尋常ではない。静流にとって病院が無縁な生活を送っている以上、同い年の人間がそのような状態にあるなんて想像もできないし、したこともない。
自分が指摘しておいて、その的中にびっくり。
「川名、どっか悪いのか?」
「うーんとね、ちょっとだけね。その、体調を崩しちゃって……ひはははっ。今はね、検査しているところ、なのです。そうです。その通りです」
「敬語?」
「献身的に治療をしているところであります」
「ありますぅ!?」
「そうざんすー」
にっこり。
「話には聞いてたけど、病室って本当に窮屈だから、外の空気が吸いたくなってね。ついでににゃんさんにもご飯をあげようと思って」
みえは、ベンチの下に手を伸ばし、巨大な毛玉のような物体を抱えていく。
「静流くん静流くん、ご機嫌ようだにゃあ」
胸に抱えた毛で覆われた物体の、前足部分を前後に上下に動かしていく。腹話術の要領でありながら、口を動かすことに一切の躊躇のないみえ。
「おいら、にゃんさんだにゃあ。よろしくにゃあ。にゃあにゃあにゃあにゃあ。にゃあ!」
「なんか、最後にいらない気合いが入ってた気がするけど。しかも声に反して、当人は眠そうな顔してるし……って、あれ、その猫ってぇ!?」
静流は目を瞬かせた。ベンチに座るみえの膝の上には毛で覆われた一匹の猫がいる。灰色と黒色の斑模様で、首から腹にかけて白い毛に覆われていた。
頭上に浮かぶ疑問符によって上から押し潰されていくみたいに、首を横に傾けていく。
「この猫、さっきのやつなんじゃ……」
下校途中で静流の前に立ち塞がった猫、それが目の前にいる、気がする。あれ以降が大変なことの連続だったため、記憶はかなり薄く、そもそも猫に関して見分けられるような自信もない……けれど、今の静流にはどこか確信を得るように、目の前にいるやつに間違いないと思えた。
ただ、冷静に考えてみると、あの下校路からこの病院まで静流でも歩いて十五分かかる。果たして野良猫の行動範囲がそれほど広いものなのか? 疑問である。猫の生態について詳しくないが、そこまでテリトリーがあるとは思えない……謎であった。
「どうしたんだよ、その猫……にゃんさん?」
「病室にいても息が詰まっちゃうから、前にここで休憩してたらね、どっかからやって来たの。真っ直ぐやって来て、さも当然のようにあたしの膝の上に載ってきたのよ。我が家に帰ってきたみたいに。凄いでしょ?」
「凄い、図々しいな」
「レーズンパンが好きでね、よく一緒にここで食べてるんだー」
ベンチの横には、空になったパンのビニール袋がA4サイズの本に押さえられていた。
「今では誰よりも強い絆で結ばれています。にゃんさんとあたし、血のつながりも凌駕するね。うんうん」
「……その発言、泣くぞ、親が聞いたら」
「いやだな、例えよ。あたしたちの絆は『それぐらい強い!』ってこと。実際は親の方が大事なんだし……ってなことを言っちゃうと、にゃんさんがいじけちゃうといけないから、内緒だよ」
「……いじけるってより、まったくもって関心がないっていうか、ただただ眠そうにしてるけど」
にゃんさんは二人のやり取りを横目にすることすらなく、のんびりと大きく欠伸していた。話題の中心にいるというのに、我関せずといった態度で、みえの膝の上で丸くなっていく。実に気持ちよさそう。
(うー……)
理由はよく分からないが、平和そうなにゃんさんのことが、羨ましく思えてきた。自分もできることなら、ああして幸せそうに横たわりたい。そんな気分である。
(あれ……?)
静流の目は、丸くなった猫からベンチ横に置かれている本に向かう。そこには『スコアブックのつけ方』とあった。静流の頭に小さな疑問符が浮かぶ。
「なんだよ、川名は野球に興味あるのか?」
野球部員である静流には気になる話題である。といっても、補欠ですらない球拾いではあるが。
「しかもスコアブックって、やる方じゃないんだ。へー、へー」
「あーあーあーあー……うーんとね……そうか、見られちゃったか。油断したなー」
みえは、隣に置いていた本を慌てて胸に抱え、目の下まで顔を半分隠す。照れるように少し顔を紅色に染め、視線を横にずらしながら口を開ける。
「うーんとねうーんとね、あたしね、野球部のマネージャーになりたかったんだー」
みえは相手ではなく堤防のある河原の方に目を向けた。斜面になっており、多くの雑草が生えている。緑のものもあるが、大半が茶色く変色していた。中学一年生のみえの身長と同じぐらい長いやつもあるが、そろそろ愛名市職員によって伐採される頃合いである。
みえは視線を上げ、堤防の上を走る乗用車を目にした。
「小さい頃の話だけど、夏休みにね、よくお父さんと弟と一緒に甲子園を観てたわけ。テレビのお兄ちゃんたちはさ、夏の太陽に照らされながら、精一杯白球を追いかけてるの。汗をいっぱい掻いてさ、生きてる意味をそこにぶつけるみたいに、みんな真剣なの。それ観てたら、なんかこう居ても経ってもいられなくなってね、お父さんと弟と一緒に近くの公園いって野球やったんだ。全然下手っぴだけど、でも、楽しかったなー」
「うーん、テレビに感化されたわけか。気持ちは分からなくはないな」
「でしょでしょ? でね、テレビのお兄ちゃんたちみたいに、あたしもいつか甲子園にいくんだって思ってて、それから弟と一緒にね、毎日プラスチックのバットを素振りしてたんだ。だけど……」
当時のみえは、その夢に向かって真剣に取り組んでいたが、夢は叶わなかった。『女の子は甲子園にいけない』と、父親に告げられたから。
いくら本人にやる気があったところで、性別という直面した巨大な壁はどうすることもできない。
「ショックだったなー。毎日あんなに頑張ってたのに、叶わないどころか、挑戦することすらできないなんて……でもでも、野球はできないけど、マネージャーならできるよね。みんなの近くで一緒に甲子園目指すことならできる。だから、そうしようって決めたの」
高校野球のマネージャーをやること、同じ野球部員として一緒に甲子園を目指すこと、そして叶うなら、テレビで観ていた高校球児と同じ輝くような青春を抱くこと、それが夢であり目標となっていた。
みえは、夢見る少女のように目を輝かせ、頬を緩めていく。
「静流くん、想像してみてよ。夏の暑い日にね、かわいい女子高生が、ホース持ってグラウンドに水撒いてる姿、なんか素敵じゃない? 麦わら帽子、被っちゃおうかなー」
「ドラマだったら絵になるだろうけど、実際は暑くてしんどうだろうし、きっと毎日のことだろうから、日常化した作業になると思うけど」
静流も水撒きをしたことがあるので、現実がよく分かる。暑さに朦朧とする頭で、『撒いている水を頭から浴びたらどれだけ気持ちいいだろうか?』と思っては、実践する勇気のない静流である。顧問に怒られるのもおもしろくないし。
「実際は、そんなにいいもんじゃないと思うけどな」
「……あのね、あたしの夢のきらめきに、そんな冷めたこと言わないでくれるかな!?」
苦情をぶつけるように裏返る声。唇を尖らせていって……吐息と同時に張っていた肩を落としていき、みえは膝の上にいるにゃんさんの背中を撫でる。
「だからね、こうして今から勉強しているところなの。いつでもマネージャーができるように。みんなと一緒に甲子園を目指したいじゃん」
「ふーん……」
静流には、何かを目指して頑張っているみえの姿が、なんとなく羨ましく見えた。憧れにも似た感情が芽生えていたのである。
(凄いな)
静流には目指すものがないから。
野球部に入っているからといって、目標があるわけではない。ただ毎日淡々と練習しているだけで、それほど楽しいものでもない。球拾いだし。
そもそも、野球部に入った理由も志があるわけではない。小学四年生となって部活に入れるようになり、運動部に入るなら野球だったというだけで、甲子園を目指そうなんて大それたことはなかった。その惰性が今であり、部活動に何も希望すら持てないでいる。
甲子園を目指す人は、本当に選ばれた一握りのセンスのある人で、自分はそこに入っていないということ、ちゃんと自覚していた。現に、まだ中学校に入学して試合にも出たことがない。甲子園に出る人間は、一年生のときからレギュラーで活躍しているはずだから。漫画の主人公みたいに。
だからこそ、こうして目標を持って頑張っていることがあるみえに、どこか惹かれていた。
「あのさ、お前は、甲子園を目指すってよりも、まずは野球部のマネージャーになりたいんだろう? だったら、高校じゃなくても、今なればいいんじゃない? そうやって経験を積めば、高校では即戦力になるじゃんか。その、今は……入院してるから駄目だろうけどさ、そこはしっかり体治してさ」
「そう、そこなのよね。いいところに気づいたわね、静流くん」
うんうんと首肯する。
「そうなのよね、あたし、マネージャーに、なりたかったのよねー。あー、なりたかったねー、マネージャー」
胸の前に出した掌を、ゆっくり指を折るようにして握りしめていく。溢れようとする激情が暴走しないように、自身の内側に封じ込めるようにして。
「マネージャーになりたかったなー。あー、マネージャーになりたかったなー。でもでも、ひげ枝がさ、『マネージャーなんて募集してない』って言うんだもんなー」
みえの言う『ひげ枝』とは、愛名市立東凪中学校の体育教師、古枝のことである。口髭が濃いために生徒の間で密かに『ひげ枝』というあだ名で呼ばれていた。静流が所属する一年一組の担任であり、野球部の顧問でもある。
「なんかね、『中学生なんだから、他人の応援をする前に、まず自分が応援される側にいるべきだ』とかなんとか、わけの分からない熱いこと言っちゃってさ、マネージャーにしてくれなかったんだから。あー、今思い出しても納得いかないなー」
「確かに、ひげ枝ならそう言いかねないな。この前も練習でさ、『中学生はいるだけで親や教師に迷惑をかけるもんだ。だから練習は思い切ってやれ』って、とても理解できんこと言われた気がする」
『練習着が汚れることは臆することなくプレーしろ』という意味合いであったが。
「あの熱さが、邪魔だよな」
「『思い切ってやれ』って言うなら、それこそあたしをマネージャーにしてくれてもいいようなものを……そのせいで、パソコン同好会なんて変なのに入る羽目になったんだから。パソコンなんて全然興味ないのにさ」
「へー、そんなのあるんだー。知らなかった」
「そりゃ、そうだよ、滅茶苦茶マイナーだからね。しかも同好会だし。『エクセル』ってのをちょっとだけ教えてもらったけど、さっぱり。ただね、コンピューター室が南校舎の三階にある、ってのが魅力なわけよ」
校舎は北校舎と南校舎があり、南校舎の南側にグラウンドはある。
「ふふーんだ、あたしの部活動といえば、パソコンをがちゃがちゃっ打つことじゃなくて、窓から野球部の練習を見学することなんだから」
キーボードの『かちゃかちゃかちゃかちゃっ』という音を耳に、窓側の席に座ってグラウンドで練習している野球部を見学する。それも自分が野球部のマネージャーになった気持ちで。そのために入ったのが、パソコン同好会であった。
「それはそうと、どうなの、静流くんは? そろそろ試合に出られそう?」
「……出れるわけないじゃん」
静流の内側に鈍い痛みが走る。連動するように苦笑い。
夏休みの大会敗戦で三年生が引退した。新チームは一年生と二年生の二十五名である。しかし、一年生の静流はまだレギュラーの練習に参加させてもらうことができない。全体練習後は、だいたい球拾いをやるか、よくても筋力トレーニングである。
「やっぱりさ、上級生がいる間はちょっと厳しいな」
だからといって、来年になったら試合に出られるかというと、疑問である。同級生と比べても自分が格段にうまいわけではないし、どちらかといえば体も小さく、運動能力も高くない。
「まあ、せっかくやってるんだから、頑張ってみるよ。希望はかなり薄いけどね」
「うん。『継続は力なり』だよ。どんなことでも毎日やることがいいよ。って、前に読んだ元プロ野球選手の本に書いてあった。例えば……静流くん、これできる?」
みえは、左腕を下から、右腕を上から背中に回して、後ろでがっちり手を組んだ。そのラインは、背中を右斜め上から左下に横断している。
「これ、凄いでしょ? 最初は指が触れる程度だったけど、毎日朝と夜にやるようになって、いつしか組めるようになったんだ」
「そうか? それぐらい誰だってできるんじゃ……あれー、できないな」
見ている分には簡単そうだが、実際にやってみると、僅かに人差し指同士が触れる程度で、手を組むなんてとんでもなかった。
「難しい……」
「野球の上達だって、これと一緒よ。どんなことでも、毎日やることで身になるの。毎日背中に腕を回すことで、少しずつ体がその動きに適応していって、背中で組めるようになる。だからね、腕立て伏せをたまに百回やるよりは、一日二十回を毎日やる方が効果的ってことらしい。『継続力』が大事なのよ」
と、その時、建物の方から『みえー』と声がした。振り返ってみると、前ボタンのシャツを着たみえの母親が口に手を当てて呼んでいる。
みえは手を振り、膝の上のにゃんさんを地面に下ろし、本とパンの袋を持って建物へと向かう。
「じゃあね、静流くん。また学校でねー」
「ああ……」
ゆっくりと歩いていき、一度振り返ってから静流の方に手を振ってきたみえの姿を見送って……喋っている間ずっと立っていたことに気づき、猫が丸まっているベンチの横に腰かけていく。
「……なんか、悔しいな」
背中で手が組めなかったこと、納得いかずに再び背中に腕を回すも、やはり指が触れる程度で組むことはできなかった。
「……継続は力、ね」
そういった『継続』という意味で、静流が毎日やっていることといえば……思い当たるものがないことに愕然となる。
いったい何のために生活を送っているのか? 急に不安なものに。だからこそ、目標を持って生きているみえのことが羨ましく思えた。
(よし、おれも頑張ってみるか)
ストレッチぐらいだったら自分にもできるだろうと。
見てみると、にゃんさんがベンチで背伸びをして、堤防の方に駆けていった。とっとっとっとっ。一度も振り返ることはなく、雑草に紛れて見えなくなった。
(変な猫)
あの猫が本当にあのときの猫かどうか定かでないが……振り返ってみると、ただの下校が怒濤の展開になってしまった。部活が中止になっていつもの通学路を帰っていただけなのに、猫が道を通せん坊するように現れ、老婆が倒れていて、救急車に一緒に乗って、病院で元クラスメートと再会して……非日常的なことに直面し、ここに存在する。見上げてみると、もう空の茜色が徐々に暗闇に呑み込まれつつあった。
(大丈夫だといいけど)
それは救急車に一緒に乗ってここまできた世志乃のことでもあり、今まで一緒にいたみえのことでもある。
(…………)
肩にかけている学校指定の鞄を意識して、ゆっくりと立ち上がった。家までは徒歩十五分の距離。なんとなく晩ご飯はカレーな気がした。無性に母親のカレーが食べたくなったから。口がもうそうなっている。進路を南方に向けて早足で歩いていく……十五分後、帰宅して、台所を覗いた際、完成しつつある親子丼に、がっくりと肩を落とす静流であった。
※
十月二十九日、土曜日。
今日は午後から野球部の練習だった。練習後半の球拾いで、『駐車している車に当たりそうになった打球を、寸前でキャッチする』なんてことで口元が緩んでしまう静流は、つくづく選手に向いていないのかもしれない。
少し涼しくなってきた空気には、冬の気配を感じられるようになっていた。
昼からの練習は午後四時で終了。一年生全員でグラウンドを整備して、先に着替えた二年生を見送ってから、下校する。静流の家は学校から西方へ直進するもので、かつ、遠方であるために、下校していると次々と仲間が離脱していき、中間地点でもう一人になる。今日も学らんの制服にスポーツバッグを斜めにかけ、見慣れた下校路を通っていくが……家まであと五分というタイミングで、くるっと進路を変更した。するとその目に、十階建ての壁のような建物が映ることとなる。
愛名市立大学付属総合病院。
昨日病院から電話があった。月曜日に緊急入院した『木村世志乃』の体調が良好となり、面会するまで回復したという。倒れていた詳しい事情は知らないが、静流はあの件に関わっているだけに、自分の家族のことみたいにほっとした。
そうして今、静流は病院に足を向けている。家に帰らなかったのは、このまま制服でいく方が正しいと踏んだから。なんといっても、中学生にとっては制服こそが正装であり、葬式にだってこれで参列するのだから。
病院にいくのに『葬式』という発想したら、急に苦々しい思いが込み上げてきて、首を大きく横に振る。
苦笑。
月曜日に救急車で運ばれたのである、回復したとはいえ、てっきり病室のベッドにぐったり横たわっていると思っていたが、世志乃は上半身を起こして、とても元気そうだった。病室には同世代の入院患者がいるらしく、『うふうふ。退院したら一緒に舞台にいく約束をしたんですよ。今からとても楽しみです』そう嬉しそうに目を細めている姿に、命がある喜びを実感することができた。あの時、やっかいな状況から逃げ出すことなく救急車を呼んで本当によかった。自分という存在が初めて役立つことができた気がして。
その後、最初に倒れている世志乃を発見した『如月こずえ』という女の子と再会し、世志乃と楽しそうに喋っている姿を微笑ましく思いながら、病室を後にする。
実をいうと、病院にいく前はあまり気乗りしていなかった。家族でもない自分が世志乃の病室を訪れていいのかと不安視したが……世志乃にはたくさんの感謝の気持ちを伝えられ、とても温かなものをもらえた気がする。だからこそ、今はとてもご機嫌で帰路につくことができている。歩いていると口笛を吹きそうだった。
(……おっ)
病院の東側階段を下っていき、一階で玄関ロビーに向かおうとして……ガラス窓越しの光景に、足を止めた。と同時に、少し心が浮き足立っていく。
ガラス張りの扉から外に出て、北側にある堤防に一番近いベンチ、そこに腰かけている少女に声をかけていく。
「なかなか学校では会えないみたいだな」
「……うーんとね、あたしは不登校児だからね、そうはいかないだろうね。残念ざんす」
「確かに、不登校ではあるな。これはもう残念ざんす。うん、『ざんす』の使い方が理解できないよ」
入院しているから、登校できていないのは仕方のないこと。そもそも、入院していなくても一組と七組では離れているため、学校にいてもなかなか顔を合わすことはないが。
「入院している割には随分と元気そうだから、すぐ戻ってこれるんだろう? って、そうしたら、その猫とも会えなくなっちまうんだろうけど」
「それは寂しいよ。そうか、退院すると会えなくなっちゃうのか。寂しいな。にゃんさんだってそう思うよね? うんうん。そうだよね、悲しくて泣けちゃうよね。もう号泣だよね。分かるよ、その気持ち。あたしだって一緒よ」
みえの声に対して、にゃんさんは顔を上げることすらなく、膝の上で丸まったまま微動だにしない。
「ねっ? こういうつれない(ヽヽヽヽ)ところも、にゃんさんの魅力なのよね。もうあたしなんかめろめろだもん。にゃんさんなしじゃ、生きていけないわ」
ぎゅっと抱きしめた。ぬいぐるみのように。浮かべる至福の笑みとともに。だというのに、にゃんさんは逃げることなく、されるがまま。野良猫とは思えない人懐っこさが、みえの心をぎゅっと掴んで放さないポイントであった。
「なことより、静流くんこそどうしたの? 学校帰りに……もしかして、怪我でもしちゃったとか? 野球って怪我がつきものだもんね」
「ああ、いや、怪我じゃなくて、今日は、その、月曜日の人の見舞いにきたとこだけど」
「月曜日の人……?」
それからみえは、月曜日に起きた下校時の静流の体験談を聞き、目を大きく丸めていた。
「えっ!? えっ!? えっ!? えっ!? 月曜日にそんなことがあったの!? この前会ったときだよね!? そ、そんな大変なことが!? 静流くん、そんなこと言ってなかったじゃん!? きゅ、救急車に乗ってきただなんて、なんてファンタジーな体験してるんでしょ、この人?」
「……いや、ファンタジーって、救急車は現実的なものだと思うけど。ただ、確かに、非現実的な乗り物ではあるな」
「でも、よかったね、その人が無事で。もし死んじゃってたら、静流くん、寝覚めが悪いもんね。ってことは、その人にとって静流くんは命の恩人ってことになるんだ。あー、ありがたやありがたや」
「……いや、拝まれても」
静流の額に大粒の汗。
「そっちこそどうなの? まだ退院できないの?」
「うーんとね、まあ、その、えーと、えーとねー……どうでしょう?」
「あれ、他人事?」
「静流くんが野球部の試合に出られるようになる頃には、なんとかしたいと思うであります」
「おれが試合に出る頃って……お前、めちゃめちゃ重病じゃないか? そんなんじゃ一生退院できないぞ」
試合に出るなど、補欠ですらない静流には夢のまた夢。
「めげることなく、希望を持って生きるんだぞ」
「そっちこそ、もっと頑張って。頑張ってレギュラーになって。あたしに試合を応援させてよ。すぐ退院して、かわいい麦わら帽子被っていくから」
はっと何かに気がついたように、みえは横に置いていた本を手にする。表紙にあるタイトルは『野球におけるメンタルトレーニング』であった。ページを捲る。
「うーんとねうーんとね、今の静流くんのためになるようなことが書いてあった気がするけど……ああ、ここだ。うーんとね、静流くんは、どうして野球やってるの?」
「……さあ?」
唐突だから質問に答えられないこともあるが、それ以前にそんなこと考えたこともなかった。小学校の頃にみんなが野球部に入るから入っただけで、今はその惰性に過ぎない。
「考えたこともないけど」
「呆れた……うーんとね、イメージするって大事なことよ、ってこの本に書いてある。具体的な目標が頑張る力になるのよ。『甲子園に出る』なんて大きな目標だと、あまりにも遠くて目指すこともできないからね、まず目先の一歩目を意識するといいらしいよ」
「……この前は『継続することが大事』って言ってなかったか?」
「それも大事。ってより、その積み重ねが目標につながるわけ。ストレッチができるようになることが目標とすると、毎日二回ずつやることを継続することでいつか目標が叶うように。ねっ? 背中で手を組むのだって、ずっとやってれば体が柔らかくなって、いつかできるようになるものよ」
事実、みえは背中で手を組めるようになった。
「目標を達成したら、次の目標を見つけるの。ストレッチができるようになったら、ベースランニングを一秒短縮させる、って感じで。もし漠然とキャッチボールしているなら、キャッチボールの正しいフォームを勉強して、きれいな投げ方ができるようになることを目指すとか」
目標を見つけて、それを目指して毎日の取り組みを継続することで上達していき、目標を達成することができるようになる、とみえは本で得た知識を披露した。まるで野球部のマネージャーとして部員にアドバイスしているみたいに。マネージャーとして認められているわけではないが。
「キャッチボールってね、ただボールを受け取って、投げ返すんじゃなくて、受け取り方を意識して、投げ方を意識することで、一つ一つの動きの意味を確立することができるようになるの。まずは自分の動きを言語化しないといけないけど、そうすることで意味になって、身になるわけ」
「って、その本には書いてあったってわけか? イメージっていうか、考えてやることが大事ってことなんだろうけど……うん、なんとなく分かる気は、するな」
これまで練習の意味なんか考えたことなかった。素振りのときはただバットを振って、キャッチボールのときはただボールを投げて、ランニングのときはただ走って……けれど、本を書くような人はきっと野球がうまくて、それぞれに意味を見出しているのだろう。成功している人の助言だけに、考慮する余地はある。反対に考えてみると、それができていないから、静流は補欠にすらなれないのだろう。
(そういえば……)
先日のテレビ番組を思い出した。短距離走の人が語っていた話。百メートルを十秒台で走る人が、百メートル走るのをイメージしてストップウォッチを押すと、ゴールするまでに二十五秒かかったという。百メートルを走っている間の確認事項が多いから、イメージするのに時間がかかり、実際に走るものの二倍以上の時間を要したのである。
陸上の話が、みえが言っていた話とつながった。つまり、走ることだって漠然と体を動かすのではなく、それぞれの動きに意味を見出すこと、一つ一つ確認していくことが大切である。野球ならもっと動きが多く、意識することが多いに違いない。きっとうまい人はそうやって練習しているのだろう。
とはいえ、そう言われても、すぐできるかどうかは疑問である。やったことがないからやれる自信はないし、仮にそれができたからといって才能のない静流が上達するかも分からない。分からないが……どうせ練習するなら、目標を持って、それぞれに意味を見出せればこれまでとは違う野球ができそう。そう思った。
少なくとも、小学校からやっているのに、公式試合には一度も出たことがない実力である。である以上、同じようにやっていても試合に出ることはできないし、レギュラーとの距離が開いていく一方。
ならば、変わらなければならない。
今こそ、契機である。
「まあ、ちょっとは工夫した方がいいのかもしれないな」
「うん、頑張ろうよ。けど、ただ『頑張ろう』ってのも、あんまり長続きしないだろうから、うーんとね……そうだ、あたしと勝負しない?」
口元を緩めた意味深長な笑み。
「目先じゃなくて、ちょっとだけ大きな目標をどっちが早く達成するか、勝負しようよ。うーんとね、静流くんは『試合に出る』ってことにしよう。ちゃんとユニホームをもらってね」
「試合出場か、大きいっていえば大きいけど、『甲子園出場』に比べれば現実的ではあるな」
ただ、それでも静流には達成できる気配がないが。
「で、そうするために、まず目先に小さな目標を作って、練習を継続的に行って一個ずつクリアーしていくってわけか……うん、なんとなくそれならできそうな……できるかな?」
自分が試合に出ている想像が、まったくもってできなかったが、『まずはストレッチをして体を柔らかくする』であれば、容易に想像できた。そうして一つずつ、着実にステップアップしていければ、試合に出ることだって手の届かない場所ではない、はず。そう信じたい。
「じゃあ、おれは『試合に出場』でいいとして、お前はどうするんだよ?」
「さっき言ったじゃん。静流くんが試合に出ることと同等なのは、あたしがこの病院を退院すること。どっちが早く達成するか、勝負ね」
「……なんか、おれの方が不利な気もするけど」
目の前にいるみえは、入院しているものの、どう見ても病人には見えず、元気そうである。下手すると来週にも退院するのではないかと勘繰りたくなるほどに……それはそれでいいことであり、祝福すればいいことであるが。
「うん、まあ、それでいこう。お前との勝負を励みに頑張ってみるよ」
「じゃあ、指切りしよ。ねっ? ほらほら、早く、恥ずかしがらないの。男と女の真剣勝負なんだから」
いやがる相手に、みえは無理矢理にでも小指を絡ませ、指切りを完遂した。
「頑張ってよ。試合があったら、絶対応援にいくからね」
「おう……って、応援にくるってことは、そっちが先に退院してるってことなんじゃ……」
やはり勝負には勝てそうにない気がした。
瞬間、設置されているスピーカーから館内放送が流れる。みえではないが、入院患者を呼び出すもの。設置されている時計を見ると、午後六時を回っていた。世界はすっかり暗闇に支配されている。橙色の照明がやけに目についた。
「ちょっと長居しちゃったな。もう帰るよ。勝負だからな、すぐ帰ってランニングでもやってみる。いつかぎゃふんと言わせてやるからな。覚悟してやがれ」
「あ、あの、静流くん……」
視線を相手に合わすことなく、膝の上のにゃんさんの頭を撫でる。
「その、また来てくれるかな? 病院って退屈で……」
「ああ、別にいいぜ。部活がある日は厳しいけど、そうじゃなければ」
「ほんとぉ。約束したからね」
「ああ。じゃあな」
静流の首肯に対して、最後に向けられた笑顔はとても輝いている。その顔に見つめられるだけで、赤面してしまいそう。
静流は立ち上がり、そのまま柵を越えて道路に出ていく。
(そうと決まれば、頑張ってみますか)
月曜日も同じようなことを思った気がするが、結局思いを実行に移せなかった。しかし、今回はみえとの勝負がある。今度こそ何かはじまりそうな予感があるし、なんとしても何かをやらなければならない。
(ランニングでもしよう)
今日はいいことがあった気がする。世志乃の無事を確認することができたし、同級生のみえとは勝負することが決まったし。それだけのことで、思わずふわふわっと浮いてしまいそうな足取り。
頬の緩みは、なかなか抑えることができなかった。
※
十月三十一日、月曜日。
静流は野球部のマネージャーを目指して勉強している入院中のみえと会い、背中を押された。ずっとスタート地点に立つばかりで、そこから先どうすればいいか分からずに燻っていた思いを、みえの言葉によって前に踏み出せたのである。
みえから、『毎日継続すること』と『目標をイメージして練習すること』というアドバイスをもらい、静流はさっそく翌日から実践している。
学校がある日、いつもは七時に起きるのだが、一時間早く目覚まし時計をセットし、ジャージに着替えて、近所をランニングした。来週から十一月ということもあり、東の空には太陽が顔を出したばかりで薄暗い。吐き出す息はまだ白くならないが、空気は肌に張りつくような冷たさがあるも、気持ちがいいぐらい澄み切っている。
進路を家から北に向けて、みえが入院している病院の前を通過する。広場のベンチを横目に、川沿いの堤防を東に向かっていく。すると、登下校時に近くを通る青願公園に到着した。小学生の頃はよく放課後に友達と集まった公園だが、中学生になってからは遠ざかっており、訪れたのは久し振りのこと。弾む息のまま膝を曲げて鉄棒にぶら下がり、腕に力を入れて懸垂をやってみて……五回しかできなかった。がっくり。筋力トレーニングもしている野球部員だというのに、情けない。
公園には小高い丘があり、無数の銀杏の木が生えている。丘には百ある石段があり、石段の頂上に青願神社がある存在する。見上げてみると、下からでも大きな鳥居を視認することができた。せっかくだから百段ある石段に挑戦してみようか思案するが……やめておく。初日から飛ばすと、きっと長続きしない。みえのアドバイスはあくまで『継続』である。無理することなく、朝早く起きてランニングの継続させることを優先することに。
家に帰ると七時だった。いつも起きる時刻である。汗を掻いていたので急いで頭を洗い、朝食を食べようとするが、走ってきたばかりのせいか、あまり食欲は湧かなかった。
制服に着替えて登校する。今日は朝練がある日。遅刻は厳禁。家を出ると、なんだか体が重たい気がした。これを無理しない程度に毎日『継続』しなければ。でないと、勝負に負けてしまうから。
挫けそうだが……頑張る。
昼休み。
今日は一時間早く起きたせいか、午前中の授業が眠たいことこの上なく、各教科を担当する教師を見極めながらうまいこと目を閉じて……昼休み。母親の手作り勉強がやけにおいしく感じられ、一心不乱に箸を動かしていくと、昼休みを三十五分も残すことができた。いつもならクラスメートとどうでもいいような会話をして時間を潰すところだが、今日は教室を出て図書室に足を向ける。
訪れた図書室は南校舎一階。開放されているのは知っていたが、入るのは初めて。雑然と本棚が並んでいる印象に、この空気になぜだか居心地の悪さを得るのは不思議である。手前の方に設置されている机には自習している上級生がおり、横目にしながら奥の方に足を進めていく。『スポーツ』という棚を見つけ、野球のトレーニングに関する本を手に。
ページを捲ってみると、『芯がしっかりした体の効果を知ろう』や『正しいフォームを覚える』、『下半身を強化する』といったトレーニングの項目が目についた。立ち読みを試みるも、慣れていないせいか字をうまく追うことができず、カウンターで借りて教室に持ち帰ることに。初めてなので、図書カードを作るのに手間取るが、なんとか十五分前までに戻ることができた。
席に戻り、さっそく目にする。最初の項目である『ストレッチ』から字を追っていく。
「…………」
黙々と。
「…………」
クラスの雑踏も気にすることなく、黙々と。
「…………」
慣れない読書も気にすることなく、黙々と。
「…………」
「……なんで読書?」
「……ああ?」
かけられた声に、落としていた本から顔を上げると、正面に一年一組のクラスメート、竹(たけ)之(の)内(うち)真(しん)也(や)がいた。髪の毛はスポーツ刈りで、太い眉毛は存在を強く主張しているみたい。
真也は同じ野球部員でもある。
せっかくなので、静流は得たばかりの知識を早速披露することにした。
「あのさ、ストレッチってさ、いつもどうやってやってる?」
「はぁ?」
「いや、今まではさ、ただ先輩の真似をして、腕を引っ張ったり、腰を曲げたりしてたけど……こいつによると、ストレッチには三つの意味があるらしいんだ」
その一、怪我をしない体作り。
野球は走攻守すべてにおいて全身を動かしながらも、瞬間的に最大限の力を発揮するスポーツ。突然の激しい運動に対応できなければ、捻挫や打撲、肉離れ、アキレス腱断裂といった大怪我につながってしまう。そういったことを防止するため、ストレッチで柔軟な体作りをすることが必要である。
その二、可動域を広げる。
関節の可動域を広げることは、運動の基本である。自分の可動域以上に負荷をかけると怪我し、反対に、可動域が狭ければ大きな動作や柔軟な対応をすることができなくなる。ストレッチをして可動域を広げることで、怪我に強い体となり、プレーの向上につなげることができるようになる。
その三、運動能力値を向上させる。
ストレッチをして柔軟性が向上すると、プレーの幅が広がり、運動能力値を上げることができる。俊敏性や柔軟性もそうだし、疲れにくくなり、疲労回復しやすい体にすることもできるようになるのである。
「凄いよな、ストレッチって。深いなー。実に深い。『準備運動程度だ』って、ちょっと侮ってたよ」
「……あのさ、ストレッチについて、そんなにきらきらっした目で言われても、ちょっと引くぐらいの反応しかできないけど。その、アイドルの写真集を胸に抱えてるオタクみたいで」
「そうかな? 多分さ、『オタク』って言葉の印象がよくないだけで、『その分野に熱中したり精通している人』ってことだろ? 何かに取り組もうとする人間は、それを目指すべきなんじゃないかな? プロ野球選手なんて毎日練習ばっかりでさ、『野球オタク』だろ? そうだよ、どんなことにも『オタク』になるべきなのかもしれない」
口角を上げていく静流。
「この本の最初に書いてあったけど、まず基本が大事だよな。しっかりストレッチして、怪我をしない体にしないといけないんだ」
「うんうんうんうん。なんかさ、当たり前のことを当たり前のままに言われた気がする。『今さら』って感じだけど」
「……そっちはそうかもしれないけど、おれにとっては目から鱗なの。いいよな、お前は、レギュラー予備軍なんだから。まあ、実力なんだから、僻んでもしょうがないけど」
真也は一年生なのに、全体練習終了後の個別練習に参加することができている期待の一年生。球拾いの静流とは天地の差である。
「お前みたいになれるかどうかは分からないけど、おれはおれでこういった基本から地道にやっていくことにするよ。急いだって、球拾いは球拾いのままだから」
「ふーん、お前はそうやって自分を蔑んでるわけか。どうでもいいけど……けど、やる気になったってことはいいことだと思うぜ。誰かに何か言われたのか?」
「んっ……?」
やる気になった理由は、試合に出たいため。試合に出たい理由は、入院しているみえとの勝負のため。けれど、そんなこと言えるわけがない。女子と勝負しているのもそうだし、それ以前に女子と外で会っているなんて、知られただけであっという間に噂が広まってしまう。狭い学校社会では、一のことが百にも千にもなって広まっていくのだ。発言には気をつけなければならない。
「……あ、あのさ、練習があんまりおもしろくないのって、きっと練習を漠然としてるからだと気づいたんだ」
本当は『気づかさせてもらった』だが。
「用意されているものをただやってるってだけで、おもしろくないじゃん。どうせやるなら、楽しい方がいいに決まってる。やらされる練習も、自分がから取り組んだ方が絶対楽しいはずなんだよ。ってこと。今日だって早起きしてランニングしてきたんだから」
と、そこでチャイムが鳴った。五時間目始業のチャイムである。
「まっ、おれはおれでこつこつやっていくよ。いつかお前と一緒に試合に出られるように」
「まあ、頑張れよ」
「おう」
五時間目は理科である。教室後ろのロッカーに教科書を置いているため、取りにいかなければならない。席を立ち、まだ教師がきていないので騒がしいままの教室を移動する。
(なんか、ちょっと眠いな)
弁当を食べたばかりであること。今日は一時間早く起きたこと。さらには、今の今まで慣れない本を読んでいたこと。それらの要因により、盛大な欠伸が出てしまった。
ふはあー……。
次の授業は気持ちよく眠れそうな気がする。午前中もばっちり寝ていたが、午後も『寝る子は育つ』というありがたい言葉に縋ることにした。
今週の金曜日から中間テストなのに、こんな調子でいいのか疑問であるが……しかし、テスト期間一週間前ということで、放課後の練習はない。放課後は思う存分自主練習をすることができる。やる気で漲っている今なら、これまでにない成長ができそうである。この気持ちがあるなら、テスト勉強なんて二の次でいいに構わない。そうに決まっている。今こそ蛹から蝶に脱皮するとき。
それは断じて、いやな勉強から逃げているわけでなく。
決して逃げているわけでなく。
本当に逃げているわけで……ないとは言い切れないが、無理してでも言い切るしかない。
(うん、勉強は夜やればいいよな)
やりたくないことを後回しにして、放課後はストレッチを極めようと、今から熱く拳を握っている。
こんなに滾る気持ち、野球をはじめて初めてのこと。
なんとなく日々が充実している気がした。
※
十一月二十七日、日曜日。
午後四時に愛名市立大学付属総合病院の広場にいる。一番北側にあるベンチ。腰かける静流は上下黒色のジャージで、タオルを首に巻いていた。ここまでは走ることなく早足程度だったので、汗は掻いていない。
いつもはここから走るのだが、ちょっとだけ寄り道。
「でさ、朝早くに、神社に女の子がいるわけ。しかも、いつも境内で筋トレやってんの。腕立て伏せとか腹筋とか。最初見たとき、神社の座敷童的存在かと思ったぜ」
静流の自主トレーニングの結果として、『三日坊主』という可能性もあった。だが、『無理をしない』を念頭にトレーニングに取り組んでいった結果、もうすぐ一か月が経つのに、ちゃんと継続できている。毎朝六時に起きて、青願神社までランニングしていき、最初よりも足取り軽く辿り着けるようになっていた。息もあまり切れなくなったし。鉄棒の懸垂も、最初は五回しかできなかったが、今では二十回できるようになっている。
そんななか、ランニングと懸垂では物足りなくなってきたこともあり、青願神社までの百段の石段ダッシュをトレーニングに取り入れた。神社には龍の口から水が出ている手洗い場もあるので、汗を掻いた顔を洗ったり、口を濯ぐには打ってつけであるし。
そうして石段を上がっていくと、いつも静流より早くTシャツ姿の女の子が境内にいる。必ず。
「あの子、どれぐらいだろ? もしかしたら、まだ小学校に入っていないかもしれないけど……とにかく毎日筋トレしてるわけ。しかも一人で。淡々と。凄くない?」
誰かに強要されているという雰囲気はなく、率先して筋トレをしている女の子の姿に、静流は『負けるもんか』という意気込みを得た。まだ声をかけたことはないが、密かにライバル視している。
「どうして筋トレなんかしてるんだろう? 謎だな?」
「うーんとね、もしかしてもしかすると、根っこは同じかもしれないよ」
みえは視線を宙に漂わせ、自身が思い描いたことがある、遠い日を見つめていく。
「その子も、静流くんと同じく、野球がやりたくて懸命にトレーニングしてるかもよ」
「女の子が野球を? んな馬鹿な」
「分からないよ。野球やりたい女の子だっているかもしれないし。以前のあたしみたいにさ」
「ああ、そうか、お前、やりたかったんだっけ? そうかそうか、経験者は語るってやつだな」
「うん、毎日バット振ってたね。あわよくばホームラン打ちたかったから。振ってたバットはプラスチックのやつだったけど。しかも、結局は叶えられなかったし……でも、今はその夢を弟に託しているから大丈夫」
みえは、パジャマにカーディガンでは寒くなってきたので、今はフードつきのコートを羽織っている。寒いなら病室でじっとしているべきかもしれないが、にゃんさんに会いたい気持ちは止められない。
そんなみえの髪の毛は、背中まである髪の毛が耳にかかる程度に短くなっていた。『髪が邪魔なのよね』とばっさり切ったから。『髪の毛は女の命』という言葉を鼻で笑いながら。
それについて、静流から『わわわっ。てっきりかわいい猿がいるのかと思った』という感想が漏れ、みえは『まあまあまあまあ、かわいいだなんて、静流くんはほんとに正直者なんだから。うふふふ。うふふふ。うふふのふ……ってぇ! 猿ってどういうこと!? うっきぃーっ!』と眉を吊り上げていくやり取り、さきほどしたばかりである。
「あたしは駄目だけど、でも、弟は来年からお世話になるからね。よろしく」
みえの弟は現在小学六年生。進学先は東凪中学校である。
「にしても、静流くんの練習が順調そうでよかったよ。もしさぼってるようなら、あたしのメガトンパンチをお見舞いしなくちゃいけないところだったから。命拾いしたね」
にこにこと表情を緩ませながらも、胸の前で強く拳を握っているみえ。しゅしゅっとシャドーボクシングのように前後させた。
「よーし、なら、あたしも負けてられないざますよ」
「そうだぞ、勝負なんだから。おれが試合に出るようになったら、絶対応援にくるんだぞ。覚悟しやがれ」
「うん……」
みえは小さく頷き、右手で目頭を触れた。ごみが入ったみたいに。
「……にしても、にゃんさん、どこいっちゃったんだろうね?」
みえはにゃんさんと一緒にレーズンパンを食べるためにこうして風の冷たい外のベンチに座っているのに、もう一週間も姿を見ていなかった……まるで実家に娘が寄りつかなくなった親の心境で、大きく嘆息する。
寂しい。
ぐすんっ。
「あーあ……にゃんさんにとってあたしは、所詮はご飯をくれるきれいで素敵で都合のいい女でしかなかったのね。貢がせるだけ貢がせておいて」
「……自身を美化する図太さと、被害者妄想の華々しさ、末恐ろしくて、危うくちょっと見倣いたいところだったぜ。危ない危ない」
吹く風は深く身に染みるほどに冷たいというのに、静流の額には大粒の汗が浮かんでしまう。
こんなやり取りをしている静流には、弾むような気持ちが芽生えている。これはクラスメートと楽しい会話をしているようで、これまでにない新しい何かなのかもしれない。うまく静流には表現できないが、かけがえのない時間であることは間違いなかった。
「最近さ、めっきり日が短くなってきたよな。ほら、もう星が見えてる。あそこに」
指差す空には、茜色と闇色の混同する空に小さな光が宿っていた。
「あんまり遅くなるとなんだから、そろそろ退散するよ。これからまた青願公園にいって、懸垂やってくる。階段ダッシュも。もうあんまり息が切れなくなってきたから、他のメニューも考えないといけないんだよね」
「うん、またね。日が短いと、あんまり練習できなくなるね。だからこそ、ここが勝負よ。部活の練習時間が減っても、減った分、しっかり意味のある練習をして、それ以外の時間でどうやって過ごすか? そこが大事、ってこの前読んだ本に書いてあった。勝負は冬なのよ」
こほんっと咳払い。
「寒い間に怪我をしない丈夫な体を作るのですよ。分かりましたか?」
「あー、へいへい。いつも的確なアドバイスをありがとうございます。さすがはうちのマネージャーは、やり手だねー」
相手のことを『マネージャー』と評したことに対して、目の前にある表情が紅潮し、どこか照れ笑いに変わっていったことに、『よし、勝った』と拳を握る静流であった。
「じゃあな」
「あっ、ちょっと待って」
立ち上がった静流と同時にベンチから腰を上げたみえ。正面から静流のことを見つめて、頭に目をやるときにやや顔を上げる。だからこそ、視線の角度に、予想していたことが正しかったと首肯した。
「最近、静流くんってさ、随分大きくなってきたよね?」
「そうか? いや、自分ではよく分からないけど」
「大きくなったよー。あのね、弟も大きくなってきてね、今じゃあたしより大きいの。けど、弟よりも静流くんの方が大きいな。さすがは成長期だ」
「そんなもんかね」
実感なく、首を傾けることになる静流であるが……言われてみると、トレーニングをはじめてから、やけにご飯がおいしくなり、おかわりする回数が増えている。体重は増えていたから、栄養が身長にも反映されているのかもしれない。
「そうかそうか。おれって、いつの間にか人間としてそこまで大きくなってたのか。知らなかった」
「『人間として』っていう発言については、是非とも法廷で顔を合わせるところだけど」
「訴えられるの!?」
「ほらほら、背が高くなったよー」
「そう……かな?」
やはり自分ではよく分からない。しかし、並んでみると、みえの後頭部を見ることができた。去年まではさほど変わらなかったのに。そもそも男子としてあまり背が高い方ではなかったので、背が高くなったという認識はなかったが……誰かに言われると、その気になってしまうから不思議である。
成長の実感について、嬉しさを噛みしめたいところ。しかし、みえの前では喜びを表すのは恥ずかしく、逆転の発想を提案することにする。意地悪で。
「おれがってより、お前が縮んだんじゃない?」
「そっちが大きくなったんだよ!」
絶叫。
「まったく、第二次成長期の恩恵をもろに受けちゃってさ。今に見てろ、あたしだって巨人化して、いつか静流くんのこと指で潰してやるからな。ぷちっと」
不敵な笑み。川名みえ。
「ともあれ、この調子で頑張ってくれたまえよ。静流くんの成長を計算して、四番の座は空けておくとしようか。期待しているよ、一年生」
「それは、ありがたき幸せですな……って、お前はマネージャー通り越して、監督になってるぞ!?」
「ごほんっ。『中学生という時間はな、たった三年間しかないんだぞ! 悔いを残さないように、どんなことにも精一杯励むんだ! いいな! 一分一秒って時間を無駄にするんじゃないぞ!』ってな感じ?」
「わわわっ、似てる似てる。そこにさ、あの独特の暑苦しさが加われば完璧だ」
顔を見合わせ、腹を抱えて笑っていった。
周囲にある木々の枝がざわめきはじめる。吹いてくる風は、『冷たさ』と『厳しさ』を有していた。
冬である。
「じゃあ、またな」
広場から柵を越えて道路に出る。一度ベンチを振り返って相手がこちらに手を振っているのを目に、弾むような駆け足となり、ランニング開始。
(よーし、今日も頑張るぞ!)
病院に野良猫のにゃんさんが訪れることはなくなったが、静流は時間を見つけて、みえに会いにいくことにした。トレーニングとは違うが、これもみえの教えてくれた『継続』に違いない。雨が降ってランニングができないと生活のペースが崩れるように、今ではこうして一週間に一度はみえと話さないと、なんだか調子が狂ってしまう。毎週楽しみにしていたテレビ番組を見逃してしまう心境に似ているかもしれない。
(勝負の冬、か)
吐き出す息はすっかり白くなっている。見上げた空は茜色が黒色に呑み込まれようとしていた。まだ五時過ぎだが、本当に日が短くなったものである。
こうして季節は移り変わっていき、今年もあっという間に暮れていくことだろう。去年の今頃は小学校に通っていて、部活も引退していたので毎日だらだら過ごしていたが、まさか一年後の自分が目標を持って充実した日々を送れるようになっているなんて想像もできなかった。そう思うと、今ある現状が不思議に思えるし、一年前の自分がなんだか情けなくなる。
『なんでこんな簡単なことにも気づけなかったのだろう?』
有意義な今があるからこそ、気づけなかったそれまでの日々がもったいなくて仕方がない。悔やんだところでどうすることもできないが、できることなら過去の自分に教えてあげたかった。
(それにしても……)
暗くなりつつある道を、腕を前後に振ることを意識してランニングしていく静流であるが……懸念事項がある。それはさきほどのみえについて。並んで立った際、みえのことが小さく見えた。瞬間、激しい動揺が走ったのである。表に出さないようにするのが大変だった。
みえが小さく見えること、それは静流の成長を意味していることは間違いない。しかし、感じた小ささは、背の高さだけではなかった。『川名みえ』という存在が小さく、希薄に見えたのである。
まるで、泡が弾けるようにすぐにでも消えてしまいそうで。
(…………)
もう夏から四か月も入院しているのだ、肌は青白く、頬はほっそりと痩(こ)けている。その姿が、三年前に亡くなった祖父の姿に重なって見えた。時間の経過とともに、存在から色がどんどん抜けていき、なくなりそうで……ぶるぶるぶるぶるっと強く首を振る。みえは寿命を全うした祖父とは違う。まだ中学生である。子供である。病院に入院しているからって、同じ結果になるわけがない。
(…………)
みえは、自分が出場する試合の応援にくるのだ。だから、静流はなんとしても試合に出られるようにしなければならない。それが今の静流にできることであり、自分の努力である。
(…………)
喉が大きく鳴った。弾む息を目に、焦る気持ちを胸に押し込めて、今日もトレーニングに努めていく。
いつか太陽の下で躍動する自分の姿を想像しながら、その姿を喜んでくれるみえの姿を思い描いて、今日も白い息を弾ませていく。
(ファイトだ)
静流にとって中学一年生の冬は、学校の勉強はほどほどに、野球部の試合出場を目指して体作りを邁進する季節となった。おかげか、腕立て伏せの連続回数の増加や、ストレッチによる柔軟さの向上など、体が変化しているのが自分でも実感できている。
これまでの成果がいよいよ目に見えるようになっていた。
なんとなく、風呂上がりに鏡の前に立ち、ボディービルダーの真似をしたくなる心境になる。その行為、家族に見られたら恥ずかしいことこの上ないが、今のところはばれていないので大丈夫。それでも廊下の足音に慌てたことは二回あり、びくんっ! と体が揺れて心臓の鼓動がおかしくなったが。
苦笑いである。
恥ずかしい。
※
入院しているみえとの会話によって芽生えた意識の変革は、静流の野球に対する姿勢を劇的に向上させる。
グラウンドでの球拾いの場合、ずっとボールを追いかけるだけであった。しかし、球拾いですら練習として意識し、意味合いを持つことで変わった気がする。ピッチャーの投球とバッターのスイング、特に体の動きと向きを注意して目にし、打球の方角に距離がなんとなく分かるようになった。右バッターの外角のボールに食らいつくようにバッターの体が流れれば、ライト側に打球が飛んでいく。内角のボールに対して腕を畳んで体の回転をスマートにスイングすればレフトに飛ぶし、体の開きが早くてもレフトに飛ぶ。そういった内容を本で読んだが、練習中に注視することで、感覚的に打球がどの方向にどれぐらいの距離が出るのか、分かるようになったのである。今では打球音とともに体が動くようになっていた。
キャッチボールでボールを投げるときも、通常は三本指でボールを握るが、親指ともう一本の指の二本指で握って投げるというトレーニングを取り入れていた。普段は使わない指に力を入れることで、指全体の感覚や筋肉が鍛えられる。特に親指と薬指が投げにくかったので、重点的に練習することにより、ボールを握る感覚が以前よりも養われていた。事実、冬休みが明ける頃にはすべての指で三本指と変わらないように投げられるようになったのである。その分、感覚が研ぎ澄まされたのだろう。
バッティングに関しては、一本の平均台に立って素振りをするイメージで行う。地面から足を上げることなく、バットを振り上げる際に、体がぶれないように確認しながらスイング。ぶれるようなら平均台から落ちるイメージとなり、下半身が安定していないことを意味する。無駄のない体の使い方をすれば、体がぶれることなく素振りすることができる。そうなれば、力いっぱい踏み込んでも下半身が安定しているため、実際に平均台に乗っても落ちることはないだろう。スイングするときはいつもそう意識し、段々と力を入れる位置などを体が覚えていく。下半身を使う感覚が養われていった結果、飛距離も出るようになっていた。
といったように、どんな練習にも具体的に意識するポイントを作ること、意味合いを持つことで、これまで漠然とやっていた練習が濃密なものとなり、その分体が技術を吸収していく。それらは本から学んだことや、病院で会う専属マネージャーのみえから教えてもらったもの。
有意義な練習を行い、技術の上達とともに時間を過ごすことができるようになり……気がつくとカレンダーの残り日数が少なく、学校は冬休みとなる。
冬休みの部活はだいたい四時に終わるため、静流はトレーニングも兼ねて毎日病院に通うことにした。病院の前を通りかかると、いつもみえの姿を見ることができる。今日の練習やうまくいかないプレーのことや、野球ばかりでなく昨日観たテレビや学校のことなど、たわいない会話をすることが日常となっていた。
後から振り返ってみると、そのたった三十分が、かけがえのない時間となっていたのだが……この時点では気づくことができなかったのは残念なことである。
静流にとってこの冬休みは、これまでのそれと比べて、一番充実したものとなっていた。
※
一月十四日、土曜日。
年が明けた。年末年始という賑やかな期間はあっという間に過ぎ去り、気がつくと新年が早くも半分経過していた。もう新年惚けも冬休み惚けもない。中学一年生にとって短い三学期が開始された。
今シーズンはさほど寒くならないという予報であったが、それでも昨日は雪が降った。うっすらと積もるも、昼には溶けてなくなった。
空は茜色が色濃くしており、北風が厳しさを世界に教示しているように吹き抜けていく。
病院のいつものベンチ、いつもの二人、いつもの男女、いつものように会話が交わされる。
ただし、ある事情により、男子の方は少しだけ気持ちが昂っていた。嬉しいことがあったから。今日はその報告のためにここにやって来たのである。
「昨日さ、朝のホームルームのときに、いきなりひげ枝に話しかけられたんだよね。びっくりした」
病院東側にある広場のベンチ、ジャージ姿の静流は、白くなる息を弾ませながら、報告すべき吉報を隣人に伝える。
「メンタルトレーニングについての本を読んでたんよ。そしたらさ、『おお、美河、随分と頑張ってるみたいだな。関心だ。お前、練習でも少し動きが変わってきてるからな。いいぞいいぞ。お前の努力はちゃんと知ってるからな。がはははっ』って一方的に言って、廊下に消えていったわけ。なんか今にも鼻歌口ずさみそうな感じで」
その間、静流はただただ口をぽかーんっと開けていることしかできなかった。突然のことに、何を言われているのか分からなかったから。『頑張ってるな』と言われたところで、自分にとってはさほど頑張っている意識はない。本を読んでの勉強や、トレーニングをすることが、今では日常と化している。
「『なんだあのひげの人、熱でもあんのかな? お大事に』って気にかけなかったんだけど……それがさ、放課後の練習になってびっくりなんよ。ひげ枝の指示でさ、いきなり個別練習に参加させてもらえるようになったんだ」
前半の全体練習が終わると守備練習となり、いつも静流は球拾いをするために外野のさらに外側に向かうのだが……今日から、レフトの守備練習に参加できるようになった。
球拾いからの昇格である。
目標に向かって、大きな一歩であった。
「フライ捕るの、楽しいのなんのって。ひげ枝が打った瞬間にさ、バットや体の向きで、どっちに動けばいいかだいたい分かるんだよね。だから一歩目がスムーズに出てさ、難なくキャッチできるの。打った瞬間、『これはちょっと無理かな?』ってやつも、地面ぎりぎり捕れちゃうから、楽しくて楽しくて」
「おお、素晴らしい。すっかり静流くんも真の野球部の一員だね。おめでとー。ついに自主トレが実を結んだわけか。あたしも自分のことのように嬉しいよ。いや、もはやあたしの手柄と言っても過言じゃないわ」
「それは図々しい気がしなくもないけど……まあ、そういうことでもいいよ」
「うん、今の軽い冗談じゃよ」
「いや、冗談の口調ではなかったような……」
「冗談じゃよじゃよ」
防寒対策として、もこもこっ! としたフードつきのコートに身を包み、白いニット帽を深く被ったみえが、ぱっと花咲くような輝く笑顔を浮かべた。弾む白い息を吐き出すとともに、左隣に座る静流の肩をばしばしっ叩く。
「さすがは静流くんだ、あたしが見込んだ男子だけのことはある。いやー、見る目があるなー。あたし」
「なぜそうも誇らしそうに……けど、おれなんかまだまだだよ。やっと守備練習に参加させてもらえるようになっただけで、試合に出るにはまだまだ道が遠いなー」
謙遜しているものの、部活後半の個別練習に参加できずに球拾いをやっている内は、絶対に試合に出ることはできない。やはり進歩であろう。
「お前のおかげだよ。今日までいろんなアドバイスをくれたから、頑張ってこれた。ありがとな。川名は最高のマネージャーだぜ」
と、普段は言わないようなちょっと歯が浮くようなことを言って、照れ笑いを浮かべる静流。
状況がかなり恥ずかしくなってきたので、相手の頭を目に、話題を変えていく。なんとなく、耳が赤くなっているのが自分でもよく分かった。
「そ、そんなことより、お前、そんなに寒いのか?」
隣に座るみえはニット帽を目の上ぎりぎりまで被っている。横からも後ろからも髪の毛を見ることができないぐらいに。印象としては冬山を登山しているよう。
「こんな場所でじっとしてるから寒いんだろうけど。まあ、風邪引いて病院に菌を撒き散らしても大変か。だったら、病室でおとなしくしてろ、って話になるんだろうけど、そんなのは退屈ってことなんだよな。うん、難しいな」
「うーんとねうーんとね、その……あのね、静流くん……」
みえは口淀み、どこか言いにくそうに視線を宙に漂わせて……溜めている緊張を抜くように、小さく息を吐き出した。
白くなる息が消える時間、胸にある思いを口に出す勇気を絞り出すように、腹の中心にぐっと力を入れていく。
「その、どこかでね、にゃんさんのこと見かけたら、あたしの代わりにご飯あげておいてくれないかな」
以前は毎日のようにこのベンチに訪れ、みえの与えるレーズンパンをおいしそうに食べていたのに、かれこれ二か月も姿を見せていない。きっと野良猫の気まぐれだろうが、『交通事故に遭った』とか、『心ない人間に悪さをされた』とか、いやな想像をしようとすればいくらでもできるため、心配といえば心配である。
「今もお腹空かして『みあーみあー』鳴いてるかもしれないって思うと、気になっちゃって気になっちゃって、最近……夜もぐっすりです」
「……そりゃよかったな。快眠を感謝しろよ」
「い、今のは冗談よ。じょ、冗談じゃよ……けど、静流くん、本当にお願いできるかな?」
うっすらと浮かぶ涙によって、目をきらきらっさせた、少女漫画の主人公みたいに胸の前で手を組んで懇願するみえ。人生最高の笑みを携えているという自負があった。作られたものではあるが。
「静流くんを真の静流くんと思って、お願いが二つあるの」
「まあ、おれはおれだけどさ……お願いが二つある!?」
「一つはね、今言ったにゃんさんのこと。このままじゃ、心配で心配で、病院食だけじゃ物足りなくて、売店のお菓子を食べまくっちゃいそうだから」
にっこり。
「で、もう一つはね、弟について」
みえの弟は一つ年下の小学六年生。来年中学校が同じとなる。
「前に言ったよね、お父さんと弟と一緒によく野球やってたって」
夏休みにテレビで夏の甲子園を観て、居ても経ってもいられなくなり、時間を見つけては近所の広場で野球を楽しむようになった過去。随分と遠い日のことであるが、みえにとっては懐かしく、かけがえのない思い出である。
今はもう、あんな風にボールを追いかけたり、バットを振ったりはできないが。
「来年野球部に入る予定だから、びしっと鍛えてあげてほしい。今まではあたしがああだこうだ言って育ててきたんだけど、あたしじゃね……」
「ふーん、弟ってのは、野球やってたのか?」
「うん、四年生から部活に入ってたよ」
「四年から? じゃあ、一緒にやってたはずだな……」
小学校が同じで、学年が一つ下とはいえ同じ部活にいたなら、知らないはずがないのだが……首を捻る静流には、ぴんっとくるものがなかった。後輩に『川名』という名前が思いつかなかったのである。
けれど、その腑に落ちない思いは、次の瞬間に氷解する。
「……ああ、そうか、思い当たらないはずだ」
去年までの記憶から、みえの弟のことを思い出そうとして……静流も四年生から野球部に入っており、一つ年下であれば二年間は一緒にやっていたはずだが、一切思い出すことができない。それもそのはず。みえは昨年の二学期に転校してきた。小学校の野球部は夏に引退する。
つまりは、当時六年生だった静流が引退後に、みえの弟は転校して野球部に入ったのだから、知らなくて当然である。
「ってことは、今は引退してて、ボールには触ってないわけね」
「ボールには触ってないけど、でも、陸上部に入ってるよ。前に言ったと思うけど、冬は勝負だからね、しっかり体を作らないといけないから」
みえは『自分がなれない分も、弟を立派な野球選手に育てることを生き甲斐にしている』とばかりに表情を緩ませて……しかし、直後に視線を虚空に彷徨わせる。
「けど、こんなあたしにできることなんて、ほとんどないだろうからさ……その点、静流くんなら来年から同じ野球部で傍にいるから」
ぺこりっと頭を下げる。
「弟のことをよろしくお願いします」
頭を上げる。ニット帽を深く被ったまま、その行為に、これまで築いてきた大切なものを相手に託すようにして。
「弟と一緒に、試合に出てください。あたし、二人のやってる試合、絶対応援にいくから」
「それぐらいのことだったら、どーんと胸を叩いて『任せとけ!』って言いたいところだけど……お前の弟ってことより、おれが試合に出るのすら怪しいからなー」
静流にとっては、他人の面倒よりもまず自分のことをちゃんとしなければならない。
「難しいかもしれないなー」
「大丈夫。静流くんなら絶対レギュラーになれるよ。なんたってあたしが見込んだ野球部員だもん。もうばっちり」
「どこを見込まれたと?」
「そんなの決まってるじゃん、こうしてさ、あたしの暇潰しに付き合ってくれたこと。病院って暇で暇で、にゃんさんだってこなくなったし。退屈なのよね……っていうのは冗談であるようなないようなだけど、でも、話を聞いてくれて、実行してくれたよね。ただそれだけのことで、静流くんはあたしにとってスーパー野球部員よ」
歯を出してまで笑みを浮かべ、小鳥のように小首を傾げていく。
「だからお願い、来年から弟と二人で、いっぱい試合に出てください」
いっぱい試合に出てください。いっぱいボールを追いかけてください。いっぱいいっぱいグラウンドで青春を輝かせてください。いつかテレビで観た甲子園の高校球児のように。
それは自分が果たすことのできない夢だから。
託したい思いだから。
「お願いします」
「…………」
照れ隠しのために冗談っぽく言っている面もあるが、相手は真剣に頭を下げている。ならば、静流も茶化したり誤魔化すようなことをするわけにはいかず、しっかり応えなければならない。
(だったら)
部活動が楽しく感じられる、この世界を見せてくれたみえの頼みは、断ることができない。
「よし、弟がどれぐらいの実力なのか、専属マネージャーの手腕を拝見しようじゃないか。って、おれよりうまかったら困るけど」
「そ、それって、もしかして?」
「おう。来年から一緒にレギュラーになることを目指すよ」
「ほんとぉ? ほんとにほんとぉ? ありがとう、静流くん!」
両腕を広げて体いっぱい感謝の気持ちを述べるとともに、受け入れてくれた結果を噛みしめるようにして、力を入れていた肩を落としていく。連動するように、双眸からは溢れる感情があった。頬へと伝わった筋は、雫となって足元に落ちていく。
「っすん。よかった。ほんとによかったよ。っすん。静流くんがそう言ってくれて、ほんとによかった。っすん」
「……お、おい」
静流は目の前の光景に戸惑いの色が出る。色濃く。みえが突然涙を流したから。それだけのことで、わけもなく罪意識が芽生えてしまった。
「そ、そんな、泣くことじゃないだろうが。おい。誰かに見られたら、変な風に思われるだろ」
置かれた状況に戸惑いの色が濃く、きょろきょろと首を動かして人目を気にするが……寒い冬の日、外のベンチに座っている人間は皆無である。
ほっと安堵。
「川名、もう、そんな泣くなよ、こんなことでさ」
「嬉しい。嬉しいよ。っすん。ほんとによかった。よかったよ」
まるで幼い子供のように、みえは両腕を使って涙を拭う。何度も、何度も、溢れるその思いが涸れるまで。
「ありがとう、静流くん」
「ごめんね、静流くん」
感情の高鳴りに涙が溢れ、幾度となく涙を拭い、それでも涙は涸れることなく出つづけていき……十分が経過した頃、みえは大きく息を吐き出すと同時に、ゆっくりと立ち上がった。
「泣いちゃうだなんて、あたし、どうしちゃったんだろうね? えへへっ」
みえは頬に紅色に染めて、照れ笑い。ここまでずっと涙を流していたことは、自分でも感情をコントロールできなかった。けれど、今はしっかり気持ちを落ち着いている……本当はずっとこのままでいたいが、そうするわけにはいかない事情がある。みえは、これから、進みたくない方向に足を向けなければならない。踏み出すのは、みえにとっては今日しかないから。
息を呑み、みえはさきほど乗り越えた先にある、もう一歩先に踏み込んでいく。
「実はね、静流くん……あたしね、これから暫く、ここには来れないんだよね」
「はっ……? どういうことだよ?」
「最近にね、ちょっとだけ調子が悪くて、調べなきゃいけないこととか、いろいろあるみたいで……ごめんね、静流くん」
「…………」
体のことを言っていると、静流は何も口にすることができなくなった。今まで楽しく話してきた相手なのに、急にみえが遠い存在になったようで……ベンチに腰かけたまま、立ち上がることもできない。
ただ、静流が見上げた先にある表情は、重たい雨空がきれいに晴れ渡るような清々しさを有していた。ずっと抱えていた重たいものを地面に下ろすことができたみたいに。
「…………」
「約束だからね。弟とにゃんさんのこと、頼んだから。でもってでもって、静流くんのことも、ずっとずっと応援してるよ」
「…………」
「でも、負けないぐらい、あたしも頑張るね。早くこんな帽子、取りたいしさ」
「…………」
「じゃあね、静流くん」
「…………」
ふわふわこもこもの厚手コートに包まれたみえが、ゆっくりとした足取りで建物に戻っていく。静流はその後ろ姿を見送るのみで、立ち上がることも声を出すこともできない。
見つめている。歩いていくみえの背中が、今はとても小さく見えた。思わず目を見張るほどに。
みえはガラス張りの扉から病院内に入ると、こちらに手を振ってくる。玄関ロビーの方へと歩いていき、壁に遮られるように見えなくなった。
「…………」
ただただ呆然とするしかない。急に泣きじゃくり、今までずっと言わなかった体のことを口にして、暫く会えないと告げられて……今まで知っていたみえが、急に知らない人になったみたい。
「…………」
まだベンチから立ち上がることのできない静流の胸は、言い様のない不安と、ぽっかりと大きな穴が空く喪失感を得ている。ただ、それがいったい何を示しているものなのか、静流には分からない。
ただ事実としては、みえは入院患者であること。会えなくなるのだから、いい意味であるはずがない。
(…………)
冬の冷たく厳しい風が、静流の頬にぶつかってくる。
見てみると、世界は暗闇に覆われようとしていた。点灯している街灯が、小さく瞬く。
冬はその季節と深める。
この世界に望まない事実を残して。
周囲の寒さが、厳しさを増していった。
※
みえは、通路から広場にいる同級生に小さく手を振ってから、玄関ロビーに向けて歩いていく。冷え切った体には、室内の暖房が心地よく感じられた。
「……お待たせ」
一階の受付にはソファーが五十ぐらい並んでいる。みえの声に、腰かけていた男の子が跳ねるように立ち上がったと思うと、早足で近寄ってきたので、小さく笑みを返した。
「さあ、戻ろうか」
「大丈夫なのか?」
「平気よ」
サイズの一回り大きな前ボタンシャツに、腕にコートをかけている男の子とともに、自動販売機コーナーとATMの前を通り、採血採尿室の前にあるエレベーターの前に。ボタンに手を伸ばそうとしたら、男の子が素早く動いて代わりにボタンを押してくれた。すぐに扉が左右に開く。乗り込む。
またもや男の子が『5』と『閉』のボタンを押し、扉が左右から閉まっていく。みえと男の子以外は誰もいない。
僅かな浮遊感を得るとともに、みえは、急に体から力が抜けていくみたいに、体が傾いていく。
「ぁ……」
「だ、大丈夫かよ!? 無茶するから」
「ああ、うん、ごめんね……ひはははっ」
今は歩くことはおろか、立っていることもままならなかった。男の子に肩を借りて五階に到着。手前から二番目の病室に戻る。個室であり、白いカーテンが開けられている窓側にベッドが置かれていた。一度腰かけてから、乱れている心を落ち着かせるように長く息を吐き出す……厚手のコートを脱いで、ゆっくりと横たわっていった。頭にニット帽を被ったまま。
「あー、年かなー。もう体に力が入らなくなってきたよー」
「変なこと言うなよ、中学一年生が」
「ひはははっ……しかし、いつの間にか、あんたも大きくなったもんだねー。もうあたしなんて追い越されちゃったじゃん」
目の前の男の子に肩を借りたとき、体を預けていると安心することができた。相手は一つ年下だというのに。身長も二センチ越されている。以前なら悔しくて地団駄を踏むところだが、今はとても喜ばしく感じられた。
「ちゃんと今日も走ってきた? なんたって瞬発力が大事だからね、ダッシュよ、ダッシュ。三十メートルダッシュ」
「うん、十本やってきた。心臓が爆発するんじゃないかと思った。あれはしんどいね。だからこそ、やり甲斐あるよ」
「さすがは我が弟だ。弱音でも言おうもんなら、張り倒すところだったわ。あたしのメガトンパンチは岩も砕くからね。命拾いしたわね」
頬を緩めてから、一度目を閉じてみる。それだけのことで、全身から感覚が失われてしまいそう。まるで水のように、指と指の間を擦り抜けていくようにして。三十秒もすれば意識がなくなることは必至である。
力を入れて瞼を上げる。今は無理してでも目を開かなければならない。
「今日はちょっと張り切っちゃったかな? 疲れちゃった。でも、とってもよかったよ。あんたのこと、ちゃんと静流くんに頼んできたからね」
「んっ……? どういうこと?」
「こうやって病院にいるからね、もうあたしじゃ無理なのよ。悔しいけど、あたしはもうあんたの足を引っ張るだけ。だから、あんたのことは静流くんに頼んできた。ああ、来年は先輩になる人だからね」
にっこり。
「静流くん、あんたに負けないぐらい懸命に練習やトレーニングに取り組んでるよ。きっと会えばすぐ意気投合するんじゃないかな? だから、これからはあたしじゃなくて、静流くんに教えてもらいなさい」
「いやだよ、そんなの。急に何言ってんのさ!?」
「急じゃなくて、前からずっと考えてたことなんだけどな……」
「だってだって、おれはずっと姉ちゃんの言う通りにやってきたんだぜ。なら、これからだってずっと姉ちゃんじゃないと駄目じゃんか」
「もー、わがまま言わないの。いい、これはあたしからの最後のアドバイスだと思って、しっかり聞きなさい。そうすれば、あたしはもっとあんたのことを応援できるから」
一度枕に頭を沈めてから、そのまま闇の奥底に入ってしまわないように、首に力を入れる。目を開けていることにこれほど気力が必要だなんて。
溶けてなくなっていきそうな気持ちを強める。まだ今を終わらせるわけにはいかないから。
「あたしはね、小さい頃からあんたのファンなのよ。ファン第一号なの。あんたの活躍するところ、ずっとずっと夢見ながら今日まで応援してきたんだから。あたしのためにもいっぱい練習して、ユニホーム着て試合に出てさ、精一杯野球を楽しんでよ」
いつか一緒に観た甲子園の高校球児のように。
「あんたが活躍するところ、ずっと見守ってるから。手助けしてあげること、あたしにはもうできなくなっちゃったけど、でも、来年からは、静流くんといっぱい練習して、二人で同じグラウンドに立ってよ。お願いね」
「姉ちゃん……」
「そんな寂しい顔しないの。もー、しっかりしてよ。あたしのこと、がっかりさせちゃ駄目だからね」
言い放って、みえは力尽きるように枕に頭を沈める。同時に、瞼が重たくなり、視界が遮られていった。
(頼んだわよ……)
ようやく瞼を閉じることができた……そうして夢の世界へと旅立っていくみえ。口元は小さく緩んでいる。これから楽しい夢が見られることを知っているみたいに。
抱かれた気持ち、心地よい風に吹かれているよう。
存在は、『明日』という日を信じている。どういった保障もされていない未来の時間に、必ず身を置けると疑うことなく。
※
三月二十四日、金曜日。
今日は静流にとって、これまでの人生でもっとも印象に残る一日となる。いい意味でも、そうではない意味でも。
その後の人生、静流がずっと前を向いていられたのは、今日という日に辿り着き、今日という日を乗り越えたからかもしれない。
大切な時間を抱きしめて、未来に歩んでいく。
昨年秋から継続しているトレーニングは、朝起きて洗顔することみたいに静流の日常と化していた。懸垂の回数増加やランニングの距離など、日々の成長を実感できる。部活の練習でも、全体練習後の個別練習にも参加することができ、意味のある部活動にすることができていた。
すべてが順調だった。世界が静流を中心に回っていると思えるほど。
野球部員として、順調な日々を過ごしていく一方、心の片隅には不安な気持ちが少しずつ増殖していく。それは、入院しているみえについて。本人から伝えられていたように、あれから何度病院を訪れても、みえの姿を見ることはできなかった。一度受付で病室のことを尋ねてみたが、同級生というだけでは何も教えてもらえなかった。
自分の生活が順調だけに、みえに伝えられないことが残念で仕方がない。会えない時間が寂しく……けれど、みえも頑張ると言っていたし、まだ勝負の途中である。静流はみえに勝つために、一日も早く試合に出なければならない。試合に出て、みえに試合の応援をしてもらうためにも。
※
そして、三月二十四日という運命の日を迎える。
今日は三学期の終業式であった。受け取った通知表に、ただただいやな汗を掻くしかない静流だが、そんなこと気にしない。まだ一年生である、高校受験まではまだ二年ある。まだ二年も(ヽ)ある。二年あるから、大丈夫。大丈夫と思いたいし、今は学校の勉強よりも野球である。それこそが静流の生活。静流は一日も早く、みえとの勝負に決着をつけないといけないから。
午後の練習はいつもより一時間早く終了した。午後三時。
グラウンド整備の前に、野球部顧問の角刈り体育教師、古枝によってミーティングが開催される。部員は全員、バックネット前に集合。
ミーティングの内容は、明日からの春季大会について。そのためのレギュラー発表である。
背番号『1』のピッチャーから順番に呼ばれていき、白の側面に深緑のラインのあるユニホームが配られる。
静流は、二年生の先輩が次々に呼ばれていくのを目に、『自分もいつかああしてユニホームをもらうんだからな!』と熱く拳を握った。みえとの約束を果たすには試合に出なければならず、試合に出るためにはユニホームをもらわなければ話にならない。今はまだ駄目だけど、いつかきっと成し遂げてみせると、背中に炎を燃やしている。
ライトの『9』まで配布され、これまで全員が二年生であった。次に補欠メンバーが呼ばれていく。背番号『10』は、なんと静流のクラスメートである竹之内真也。二年生にも負けないバッティングセンスがあり、評価されての背番号『10』である。同じ一年生ながらユニホームを着てベンチ入りすることが羨ましく、戻ってきた真也の肩を、『こいつ』と小突いておいた。
ユニホームが配られていく最中、静流はミーティング後のことを考えていく。
『まずは手荒い祝福として真也の頭をぽかぽかっと叩いて、グラウンド整備をしてから制服に着替え、帰りの途中にあるコンビニで紙パックのジュースを買う。飲みながら下校して、家に帰ったらすぐ通知表を机の奥に隠すことは忘れてはならない。ジャージに着替えて入念にストレッチをしてから、病院経由の青願公園までいき、鉄棒で懸垂やって石段ダッシュをして、神社の手洗い場でうがいをすると気持ちいい』
なんてことを想像していて、その目は焦点が合っていなかった。すっかり惚けていたのである。それは断じてしてはいけない油断であった。なぜなら、静流は歴史的瞬間を聞き逃すという失態をしてしまったから。
「…………」
「おい、美河!」
「……はい!?」
目が丸くなる。いきなり大声で名前を呼ばれ、あまりにも突然のことに全身が大きく縦に揺れてしまう。
呼んだのは顧問の古枝。静流は慌てて立ち上がる。すると、全員がこちらを注目していて、静流の慌てた様子に笑っている先輩もいた。恥ずかしいし、情けない。穴があったら入って、上から厳重に蓋をしてほしい心境。
「あの、えーと……」
「こら、ぼぉーっとしてんな。お前、いらないのか? ほら、早くしろ」
「はい……?」
まったく話を聞いていなかったのだ、言われている意味がさっぱり分からない。『いらないのか?』と言われて、首を傾げること以外にできることはなかった。『何を?』と聞き返したいところだが、いらない地雷を踏んでしまうかもしれないと、出かかった言葉を呑み込んでいく。
部員の目がますます自分に集中している。特に二年生のそれは自分の行動を激しく非難されているようで、小さく縮こまるばかり。できることならこのまま蒸発でもして、空気中に霧散したかった。
「……あの?」
「ほら、早く取りにこい」
「はぁ……」
示される通りに前に出ていくと、顧問の古枝には『ミーティングしてんだから、話はちゃんと聞いてろ!』と頭を小突かれた。『ぐー』で。痛みに耐えていると、正面から『15』の背番号があるユニホームを渡される。
「へっ……?」
渡されたものは、野球部のユニホーム。
「これって……」
あまりに唐突なことに、目玉がぐるりっと一周。
静流の両手にあるもの、紛れもなく東凪中学校野球部のユニホーム。試合に出るために必要なもので、みえとの約束を果たすためには欠かせないもの。
そうして、念願のユニホームを手に入れた。まだユニホームをもらっていない二年生もいるのに、差し置いて一年の静流が。
ごくりっ! と大きく喉が鳴る。
目指していたとはいえ、こんなに早くもらえるなんて、想像もしていなかった。けれど、目の前に現実がある。静流の手にユニホームがある。
ぱっと顔を上げて、混乱する今の状況を整理するために、角刈りの古枝に目を向けた。
「これ……」
「まずは守備要員として期待してるからな。お前の一歩目は早いし、打球に向かって最短距離で追いつけること、なかなかできるもんじゃない。期待してるからな」
「あ、はい」
戸惑いを隠し切れずに、頭を惚けさせながらも元の場所に戻っていくが……自分がしっかり地面を歩いているかどうかも分からなかった。それぐらい、静流の頭はブラックホールに吸い込まれたみたいに、空虚なものと化している。
(…………)
ミーティングが終了して解散となり、グラウンド整備のために歩き出す。グラウンドを目指していって、少し速い歩調とともに、静流の内側では歓喜の渦が巻き上がっていく。
(やったぁ! やったぞ、川名!)
止めどなく溢れる感情とともに、自然とその頭は、川名みえの顔を思い浮かべていた。
(やったぁ!)
(やったぁ! やったぁ! やったぁ! やったぁ!)
表情をにんまりさせること、今の静流には止めることができない。いくら表情を強張らせようとしても、二秒も保つことができずに頬が緩んでしまう。それぐらい、静流の心は巨大な歓喜に包まれていた。
(やったぁ! やったぁ! やったぁ! やったぁ!)
秋からずっと試合に出るという明確な目標を持って毎日頑張ってきて、ようやく手が届くところまで辿り着いた。念願のユニホームを手にすることができた。それも先輩を差し置いて、一年生の静流が。
生まれて初めて『達成感』を得たかもしれない。充実した気持ちは、背中に羽を生えさせ、大空をどこまでも飛んでいってしまいそう。
(やったぁ! やったぁ! やったぁ! やったぁ!)
下校路にある木村世志乃の家の前を通って、偶然本人に出くわす。『あらあら、いいことでもあったのですか? うふうふ。随分と嬉しそうですよ』と声をかけられてしまった。表情に出ていたのだとすれば、気をつけなければならないが……どうにもすることはできない。なんたって、ユニホームである。我慢しろという方が無理であった。
(やったぁ! やったぁ! やったぁ! やったぁ!)
部活後、グラウンド整備のときも下校しているときも家で着替えているときもストレッチしているときも、頭の花畑が満開に咲き誇っていた。最高の気持ち。『今だったら、重力を無視して空を飛べるかもしれない!』と真剣に考え、思わずジャンプしたほどに有頂天。
(やったぁ! やったぁ! やったぁ! やったぁ!)
だらしない表情ながらも、入念なストレッチを済ませ、上下黒ジャージ姿で家を出ていく。こんな気持ちになることができたこと、すべてみえのおかげ。貴重なアドバイスで自分に道を示してくれたから、この気持ちになることができた。本人に暫く会えないと告げられ、もう二か月ほど顔を合わせていないが、もしかしたら、今日なら会えるかもしれない。なんせ自分はユニホームを配られたのである、今なら不可能なことなんて何一つなく、今日ならみえとも会える気がする。
だからこそ、足取り軽やかに病院へ向かう。ベンチに座るみえの前に立ち、
『今の気持ちにさせてくれて、ありがとう』
そう心から感謝を伝えるために。
(…………)
期待を持って愛名市立大学付属総合病院に向かったが……色を失った花壇と点灯した照明の間にあるベンチに、みえの姿はなかった。そればかりか、広場には誰一人としていない。吹く風が、葉をつけはじめた木々を小さく揺らしていく。
(……そう都合よくはいかないか)
十階建ての病院を見上げて、いくつも漏れてくる明かりのどこかにみえがいるのだろうと想像しては、今日の気持ちをどうしても報告したい気持ちが募っていく……しかししかし、考えてみると、自分の目標は『試合に出ること』である。今日はまだユニホームをもらったに過ぎない。そう思い当たると、そんなことで有頂天になっていた自分がなんとも情けなく、風が頭を冷やしていく……止まっていた足を動かす。トレーニング開始。明日は試合だが、いつものトレーニングを『継続』するために青願公園に向かっていく。
(…………)
いつものコースをいつものペースで走っていって、青願公園に到着。さっきまで茜色が見えた空はすでに寂しいものとなっており、辺りはすっかり薄暗い。公園には誰の姿もなく、設置されている明かりに照らされながら、鉄棒で懸垂をすると、三十回することができた。最後は腕がぶるぶるっ! 震えながらも。おかげで暫く腕に力を入れることができそうにない。
公園内にある石段を駆け上がって青願神社へ到着。龍の像から出ている水で口を濯ぎ、暗くなった境内の静けさに、やけに水が流れる音が大きく聞こえた。刹那には、周辺に生える巨大な銀杏の木が一斉に揺れていく。
ざわめきに包まれると、言い様のない不安に陥るというか、この空間に居心地の悪さを得てしまった。背中から巨大な力によって押されているみたいに、静流は急いで巨大な鳥居を抜けて石段を下っていく。
ランニングでは、白くなることがなくなった息を弾ませて帰宅。気温はまだ低いものの、額には汗を掻いている。タオルで拭い、夕食のために台所に向かう途中、帰宅していた父親に呼び止められることに。
『おい、さっきお前に電話があったぞ。えーと、川名って人が、どうもお前にすぐに会いたいらしい。よく分からないけど、いつものベンチで待ってるとかなんとか』
耳にした瞬間、心臓が跳ね上がった! 全身にこれまでにない焼けるような熱を帯び、見えない糸に引っ張られているみたいに一気に口角が上がっていく。二か月間ずっと会えなくて、会いたい気持ちが高まっていたら、なんと気持ちが通じたみたいに連絡があったのだ! まるで運命によって結ばれているように。
静流は夕食前の空腹も忘れて、家を飛び出していった。
病院東側にある憩いの広場。昼間なら入院患者が息抜きやリハビリをしているが、すでに辺りは真っ暗で、人気のない寂しい雰囲気が包み込んでいる。設置されている街灯は橙色の光を灯し、冷えた空間を照らし出していた。耳を澄ましてみると、国道から車の走行音が響いてくる。さきほどランニングの途中で訪れたときのように、建物にはたくさんの照明が確認され、今も多くの人間が病院内にいることを示していた。
柵を越えて、広場のいつもの北側にあるベンチ、そこに顔を向け、静流は目を見張ることになる。
(にゃんさん!?)
ベンチには猫がいた。灰色と黒色の斑模様で、首筋から腹にかけて白い毛に覆われた猫。
にゃんさん。
間違いない。
(どうして……?)
みえの話だと、去年の十一月ぐらいからずっと音沙汰がなかったのに、このタイミングで見かけるなんて……やはり今日は特別な何かが作用しているのだろう。
耳を立てたにゃんさんの隣には、赤色の生地に黒い線が走っているウインドブレーカー姿の男の子が座っている。見た目、静流と同い年ぐらい。
顔を動かしてみるが……それ以外に誰の姿も見つけられなかった。橙色の街灯が照らすこの広場に、自分を呼び出したみえの姿はどこにもない。
(んっ……)
目を落としてみると、にゃんさんが足元にきた。こちらを見上げて、何かを訴えるように前足を上げながら『みあー』と鳴く。
静流は腰を屈めて、抱き上げる。逃げる気配どころか警戒する素振りもなく、すっぽりと腕に収まってくれた。さすがはにゃんさんである。
「どうしたんだよ、にゃんさん。もしかして、お前も川名に会いにきたのか?」
「……ああ、にゃんさんのことを知ってるってことは、あなたが『静流くん』なんだね。うーん、写真よりもちょっと年上っぽいね。まっ、卒業アルバムだから、一年前より成長したってことか」
ベンチに座っていた男の子は、耳にかかる髪の毛を揺らせて、ゆっくりと立ち上がる。同時に、ポケットに突っ込んでいた両手を出した。
「あー、寒かったー。春一番が吹いたところで、まだまだ寒いよね。それにしても……やっと来てくれたよ。あー、よかったよかった」
「えーと……お前は?」
「川名だよ、川名」
「川名……?」
名字を耳にして、同級生の川名みえに直結。そう意識して見てみると、吊り上がった目が、意思の強そうなみえに似ている気もする。と思った瞬間、みえには一つ年下の弟がいることを思い出した。
ただ、みえの弟がここにいたところで、肝心のみえの姿がない。
「川名はどうしたんだよ?」
「だから、俺が川名だよ。川名勝平(かっぺい)」
「んっ……? あれ、もしかして、電話してきたの、お前なのか?」
頷いたみえの弟、勝平に対して、自分が勘違いしていたことを思い知る。父親から聞いたときは、てっきりみえからの電話だと思ったが、どうやら違うらしい。思い返してみると、父親は『川名』としか言っていなかった。
「お前、おれに何か用なのか?」
初対面。みえから弟、勝平のことを頼まれているものの、それは来年度の話であり、今はまだ……そもそも、静流は明日の試合のことで精一杯で、他のことに構っていられない。ここにはみえに会えると思ってきただけで、本来なら今頃は夕飯をしっかり食べて、明日に備えて早めに休む予定であった。
なのに、この現実がある。ここにみえがいないなら、いる意味はない。すぐにでも帰宅したい気分。
「何の用だよ? 野球のことか?」
「野球? ああ、野球のことは野球のことだろうけど、それはそれとしてだよ。ほら、ついてきて。こっちこっち。って、残念だけど、にゃんさんは駄目だから、置いていってくれるかな。病院だからね、その辺の融通きかないんだ」
「あ、ああ……」
背中を向けて建物に向かっていく勝平に、胸にいるにゃんさんをベンチに下ろす。にゃんさんは『みあー』と鳴いて、小首を傾げたかと思うと、体を丸めていった。
顔を向けると、勝平はもう病院の建物内に入っている。
(いったいどういうことだよ?)
置かれている状況がどういったものなのか、さっぱりわけが分からない。しかし、その『わけ』はここにいても分からないだろう。知るためには、ついていくしかない。
建物に入ると暖房がきいていて、冷えた頬が緩んでいくよう。ほっと息が抜けていく。
白い壁の通路を歩いていき、あまり人気のない玄関ロビーと受付の前を通過。歩いていると、やけに通路奥にある非常口の黄緑色が強く見えた。
エレベーターに乗る。その間、二人に会話はない。静流は夜の病院に入らなければならない理由を問いかけようとするが、気が引けた。その理由は分からない。背中を向ける勝平の様子が、会話を阻むような雰囲気があったからかもしれない。
五階に到着。エレベーターから出たすぐ前にナースセンターがあり、パソコンを操作している看護師の姿が見える。照明が半分ぐらい消されているので、通常業務時間を過ぎているのだろう。
通路を歩いていくと、手前から二番目の『502』と表示された扉の前に立つ。横のプレートには『川名みえ』とあった。ここがみえの病室らしい。こうして静流が病院内を案内されるといえばここしか考えられなかったため、得心はいく。
「あ、こんばんは……」
開いた扉に、静流は一瞬たたらを踏むことに。中には背広姿の男性と、セーター姿の女性がいた。静流は女性の方が見たことがあったので母親だと分かる。だからきっと男性の方は父親なのだろう。両親ともに静流に頭を小さく下げて、病室奥を示してくれた。
静流は訪れた病室に両親がいることに戸惑いつつも、不器用に頭を下げる。なんとなく初めていく友人の家みたいに居心地が悪く、俯いたまま奥へ歩を進めた。両親の前を通り、ベッドの前に辿り着く。
と同時に、意識が凍りついた。
「……っ!?」
一瞬にして言葉を失う。思考は白濁し、呆然と立ち尽くすばかり。
「…………」
白いカーテンの前にベッドがあり、天井の照明に照らされた白いシーツを見ることができる。かけ布団の下からは何本かチューブが出ており、ベッドを取り囲む医療機器につながっていた。そうして周辺の機械に一体化するみたいに、横たわっている人物が存在する。
枕の方には、かけ布団から出ている顔。見た瞬間、世界が一変したと思えるほどの強い驚愕に襲われた。最初はマネキンが置かれているのかと思った。瞳は閉じられており、ほっそりとした顔は病弱なまでに青白い肌の色をしている。緑色のビニールマスクをした口は、僅かに曇っていた。それが呼吸をしていることを教えてくれて、横たわっているのが生きている人間であることが分かる。ただし、その頭には髪の毛が一本も生えておらず、剃刀で剃られていたみたいに眉毛も生えていなかった。
(誰だ……?)
横たわっている人物について、大きな疑問符が浮かんでしまう。それを解消させるためにじっくりと凝視していくが……予感はあった。ここには勝平に連れてこられ、病室の前には『川名みえ』と表示が出ていた。であれば、ベッドに横たわっている人物は一人しか考えられない。仮にそれが別人に見えたところで、事実が覆ることはないだろう。
「……川名、なのか」
「どう、びっくりした? 姉ちゃん、静流くんと一緒のときは、帽子被ってたから、分からなかったでしょ? でも、帽子を取ったらこうなってたんだよ」
「…………」
すぐ横に立つ勝平の言葉に、静流が最後に見たみえの記憶を掘り起こす……最後に会った日、みえはずっと白いニット帽を被っていた。それも目のすぐ上まで深く被り、耳まですっぽり覆って。今思うと、ああして髪の毛や眉のことを隠していたのだろう。
「……そんな」
「姉ちゃんね、痛みを抑えるために、抗がん剤ってのを服用してたんだ。で、これがその副作用なんだって」
副作用により、髪の毛を触るだけで抜けてしまう。その様子が、自身が失われていくような感覚に捉われてしまい、みえは自ら髪の毛と眉毛を剃っていた。
「姉ちゃんは、誰にもこんな姿、見せようとしなかった。そりゃ、髪の毛がなくなっちゃったから、恥ずかしいよね。病室から出るときはいつも帽子被って、その徹底振り、たまに寝てるときも被ってたぐらいだよ」
「…………」
「姉ちゃんは、この姿を誰かに見られることを嫌ってて、当然静流くんにも見せようなんて思わなかった。けど……けど、それでも俺は、姉ちゃんの意に反して静流くんをここに呼んだんだ」
吐き出す息の間だけ、勝平の言葉が止まり……本人すら望んでいないというのに、勝平の口は次の言葉をつないでいく。
「誰にも知られないなんて、そんなの寂しいじゃん。姉ちゃんがよく話してた静流くんにも知られないなんて。できるなら、知ってる人に見送ってほしいよね。だって、これが最後なんだから」
「最後……?」
視線が下がる相手の様子に、震える語尾に、静流は問わずにはいられない。いや、正確には、この会話を止めたかった。止めて、現状のすべてから逃れたくて。
いやな予感しかしないし、静流自身がここにいることを拒んでいるようでもある。
「…………」
耳には『最後』と伝えられた。『これが最後』と。意味するものは知らされていない。知らされていないが、目の前の事実が、いやでも静流の胸を潰していく。
意味を察することができてしまうから。
そんなの、とても認めたくない現実だというのに。
「最後ってなんだよ!? なあ、最後ってどういうことだよ!? 変なこと言ってんじゃないぞ!」
「……姉ちゃんはずっと頑張ってきたんだ。ずっとずっと、頑張ってきたんだよ。無理してきたっていうぐらいにさ。もう駄目かってときも、いつも懸命になって……けど、もう充分頑張ってきたから、頑張らなくてもいいよね? 楽になったっていいよね?」
「おい!」
止めたい。今すぐ勝平の口を塞いで、告げられる言葉を止めてしまいたい。だからこそ、静流の声が抗っていく。相手を殴り飛ばさん勢いで。
「お前! さっきからいったい何言ってるんだ!?」
「明日からは、もう苦しい思いをしなくてもいいんだから」
勝平は、ただ眠るみえを見つめる。
もう無理して笑う必要もないし、立ち上がる必要もない。
ベッドの青白い顔は、自分のことが話題に上がっているのに、反応することもなければ、瞼が上がることもない。けれど、それでいい。もうそれで。
勝平は、小さく喉を鳴らした。
「姉ちゃんは、もう……」
「さっきから、変なことばっか言ってんなよぉ! なぁ!」
静流は、言われている事象が何を示しているのか分かってしまうだけに、発散することのできないやり切れない思いが募っていく。
下唇を噛みしめて、心臓の鼓動を気持ち悪く感じて。
「最後だなんて、そんな、縁起でもないこと……お前、知らないだろ? おれは、川名と勝負してるんだぞ。おれが試合に出るのと、川名が退院するの、どっちが早いか勝負してるんだ」
静流が出場する試合をみえに応援してもらう日を夢見て、今日までずっと頑張ってきた。頑張ってこれた。
そして今日、手が届くところまでくることができたのである。
なのに、だというのに、こんなところでその思いを断念するなんて、あっていいはずがない。
自分たちは、これからなのだ。
これからが本当の勝負なのだ。
「川名にはな、おれの応援してもらわなきゃ困るんだよ。じゃなきゃ、これまでのことが全部、意味がなくなっちまうじゃないか。そんなの駄目だ!」
「……ごめん、静流くん……姉ちゃんは、もう……」
「うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさい!」
「姉ちゃん、助からないんだ……」
それは家族にのみ伝えられた事実。
「今夜が峠なんだって……」
峠であると同時に、みえはそれを越えることはできない。絶対に。助かる見込みは皆無であるから。
目の前にある灯(ともしび)は、数時間もすると消えてしまう。
燃え尽きる寸前の姿が、目の前のベッドにある。
「許してあげてね、姉ちゃんのこと……」
『これまでずっと頑張ってきたから、もう楽にさせてあげてほしい』と、勝平はうなだれるとともに双眸から涙が流れていく。
※
静流は、魂が震えた。
唐突に『死』という事実を突きつけられる。それも寿命を全うする年寄りではなく、静流と同級生の死。そんな非日常的なもの、テレビや新聞のみだと思っていた。なのに、すぐ目の前に迫っている。とても受け入れられるものではないが、心は潰されていくばかり。
痛い。心の奥底が捩じれるように、痛い。
(…………)
直面した現実に対し、病室にいる勝平も、みえの両親も、言葉なく俯いている。これが冗談であればどれだけいいだろうか……現実には、ただ時間を過ごしていることですら奇跡とも思えるみえがいる。希薄な存在はじっとベッドに横たわり、身動きすることすらなかった。
川名みえ。
大切な人。
「……そんな」
落ちるように、膝から崩れていった。
「こんなこと……」
信じられないし、信じたくない。みえが死んでしまうなんて、そんなの、受け入れられるはずがない。だというのに、どうしたって受け入れられない現実が、眼前に迫っている。
「いやだ……」
首を振る。首を振り、意識して幾度となく強く横に振っていく……今はただ、首を振ることしかできない。
いやだ。こんなの、いやだ。
こんなこと、あっていいはずがない。
認めるわけにはいかないのだ。
「なんで川名が……」
死ななくちゃいけないんだ!?
「…………」
去年転校してきたときはクラスメートで、今年の秋から病院一階にある広場でよく話すようになって、一気に仲が深まった。それが契機となり、静流の日々はそれまでにない充実したものに変貌していく。目標を持ち、トレーニングを日々継続していくことで、淡々と過ごすことしかできなかった日常が、輝く豊かな色に染まっていた。
そうして今日、ユニホームを手にするという記念すべき日。なのに……あろうことか、自分を変えてくれたみえが、目の前の弱々しい姿に。
その命は、すぐにでも、消えようとしている。
「…………」
いやだ。
いやだいやだいやだいやだ。
無意識に、がっくりと振り下ろされた拳が震える。直面する世界に耐えるよう、力を入れていく。
「……まだ」
まだ命は消えていない。
専門医師がなんと言おうが、家族が首を振り、世界中の誰もが諦めたところで、こうして目の前の命がまだある以上、諦めるわけにはいかない。
例え血のつながった家族までもが諦めていたとしても、静流だけは希望を信じていく。自分では不可能と思われたユニホームを手にすることができたのだ、なら、目の前の命だって失わない方法があるはずである。
最後の最後の瞬間まで、断じて希望を投げ出したくない。
「おい、川名」
呼びかけるように声を出し、ベッドから出ていた手を握った。
(ぁ……)
握ったそれが壊れそうなほど細く、冷たいものだったこと……心が巨大なハンマーで何度も何度も打ちつけられる衝撃を受ける。
けれど、失いそうな思いを留め、声をかける。そうすることが、ここにいる静流の使命であるように。
「明日、試合があるんだ。もちろん応援にきてくれるんだろう?」
静流はそれを頼むだけの権利を手にしている。これまでみえとの日々を経て、見えない絆を手にしているから。
「明日だけじゃないぜ。これからだっていっぱい試合はあるんだ。もっと頑張っておれはスタメンで出られるようにするからさ」
絶対レギュラーになるからさ。
「おれとお前の弟でさ、一緒に試合に出るから……」
みえの望み通り、二人で同じグラウンドに立ち、一緒に白球を追いかけるから。
「だから……だからさ……」
静流も頑張るから。これからだって懸命に頑張っていくから、だから、みえも諦めずに生きてくれよ。
最後の瞬間まで、生きてくれよ。
「川名!」
溢れてくる激情がある。細々とした手を握りしめ、溢れた涙は白いシーツに小さな染みを作っていった。
なぜだか、これまでの日々が頭を通り過ぎていく。そんなこと望みはしないのに、ベンチでのみえとの会話や、にゃんさんと遊んだこと、去年のクラスで隣の席になったこと……みえのこれまでが静流の頭を通り過ぎていき、どこか遠くにいってしまう。
「川名ぁ!」
病室にいる勝平からは、鼻汁を啜る音が聞こえてくる。
母親は声を殺して泣いており、父親が手をかけて寄り添っている。
静流は、みえに対して手を握っていることしかできない。自分を変えてくれた相手なのに、恩を返すこともできずに、うなだれることしかできないこと、申し訳ない。
こんな自分で、ごめんなさい。
何もしてあげられなくて、ごめんなさい。
「……川名」
生きている間に、お前の夢を叶えてあげることができなくて。不甲斐ない自分であるばかりに。
「ごめん……」
ごめん。ごめんなさい。こんな自分でごめんなさい。
「ごめん……」
迫る脅威。静流の神経が衰弱して、感覚がうまく捉えられなくなるほどに希薄なものに変容する。あらゆる音が聞こえなくなり、目の前が真っ白になり、世界すべてをうまく感じられなくなった。
身を置いている無にも等しい世界において……ひたすらに掴んだ手を握っていく。そうすることだけが静流の存在意義であるから。
「ごめん……」
謝罪の言葉だけが、呼吸する際に吐き出される息のように、幾度となく漏れていく。
(…………)
前にある現状が、無残なものでしかない。こんな凄絶な現実に立たされるなんて、世界から見放されているとしか思えない。
もう前へ向いていく希望も持てず。
踏み出す一歩も躊躇して。
この場所に留まることしかできない。
(…………)
これでは、もう駄目。
駄目になってしまう。
大切な人を失うことにより、存在そのものが意味をなくしてしまう。
せっかく日常に輝きを手にすることができたのに。
みえのおかげで、変わることができたのに。
(…………)
生きていくことすら、諦めてしまいそう。
このままでは。
取り返しがつかなくなる。
このままでは。
立ち上がることができなくなる。
このままでは。
前を向くことも、前に進むことも、あらゆるすべてを放棄して、存在の意味をなくしてしまう。
このままでは。
このまま、では。
(……っ)
瞬間、体が揺れた。全身に電撃が流れたように。波のない水面に一滴の水が落ち、氷を溶かして大きく波紋を広げるかのごとく。
静流は、かけがえのない刺激を得た。
静流という存在が、その小さな変化を見逃すことなく、反応する。
(……川名?)
弱々しい命。僅かな空気の流れが発生してだけで消えしまいそうな灯。身動きすら禁じられたみえと儚い存在から、力を感じた。
手を握り返された。
(川名!)
顔を見つめる。ベッドには変わることなく閉じられた双眸がある。
しかし、手には確かに伝わった思いがあった。一瞬の触覚により、相手の望みが伝達されたもの。それは決して、この場所で泣くことを望んだものではない。
「おれ、は……」
直面した絶望に、思わず投げ出してしまいそうだった大切さを、しっかりと握りしめていく。
胸に抱いた気持ちを果たすように。
輝きを纏うようにして。
「頑張る、よ……」
立ち止まることなんてしない。これからずっと前進することを『継続』していく。それを教えてくれたから。
「これからずっと頑張っていくからさ……」
これからずっと頑張っていくから。
「だから」
だから。
「おれのこと、ずっと応援していてくれ……」
ずっとずっと夢を叶える自分の姿を見ていてくれ。
「川名」
みえ。
「ありがとう……」
これまでずっと、ありがとう。
「川名ぁ……」
瞳から零れる涙は、いくつもの雫となって頬を流れていく。
一度は静流の体から放出され、空間に拡散されて二度と戻ることがないとされた大切な思いが、再び静流の胸に集約した。である以上、もう二度と手放さないように抱きしめて、かけがえのない宝箱に鍵をする。
これからの時間を、この思いとともに生きていくために。
みえが望む未来に歩んでいくべく。
振り返ってみると、自分の背中を押してくれたみえに対して、最後の最後でようやく感謝の言葉を述べることができた気がする。
『ありがとう』
そんな簡単なこと、これまでずっとしてこなかったことが不思議で、これまでの自分が惨めに思えてくる。
静流は、みえのいる病室で、自信を持てなかった自分を捨て、いつでも胸を張れるように生きていくことを決めた。誓いである。これからどんなに辛いことがあっても、すべてに絶望して挫けたくなりそうになっても、その手に感じたみえの存在を思い、胸を張って生きていけるように、強い輝きを宿していく。
それが、静流にできる唯一のこと。だから、静流は足を前に踏み出していく。たまに後ろを振り返ることがあるかもしれないが、しかし、常に進路は前にだけ向けていく。
静流は、体ごとぶつかるようにして未来に突き進んでいく。
生きられなくなった人の分まで、世界に躍動するために。
※
夏の日。
うだるような猛暑が世界を覆い尽くしている。
県大会一回戦。
殺人的な日差しに照らされて、グラウンドの空気は強く熱せられた。影響により、注がれる光線が屈折して大きく揺らいでいるよう。
夏である。
真夏である。
「…………」
白の側面に深緑のラインのあるユニホームに身を包んだ静流は、袖で額の汗を拭い、帽子を被り直す。
五回の表。ツーアウトランナー三塁。レフトの守備につき、バッターボックスに立つ紺色のユニホームを凝視する。体の向き、バットの角度、キャッチャーのミット位置をしっかり確認しながら。
その手前、小高くなっているマウンドには背番号10の少年が立っている。キャッチャーのサインを確認し、セットポジション。大きく振り被り、投げた。
刹那、青空に小気味いい金属音が響き渡る。
瞬間、静流は右足を踏み出し、猛然とダッシュしていた。
打球に低いライナーで飛んでくる。
このまま追いかけても捕球できないかもしれない。なら、安全に前でバウンドさせるべきだろう。そうすれば三塁ランナーは生還させて失点するも、バッターランナーを一塁に足止めすることができる。
けれど、静流は駆ける足のスピードを緩めることはなかった。あの打球をヒットにさせるつもりなんて微塵もないから。
(絶対捕ってやんからな!)
空気を切り裂くようにダッシュし、目の前で茶色い地面に落ちそうだった打球を、静流はグローブを突き出して、滑り込むようにして……地面すれすれで捕球。ファインプレーである。
スリーアウト。三塁ランナー残塁。
(よし!)
自分の守備で失点を防ぐことができた。唇を細めて長く息を吐き出してからボールを内野に投げ、ユニホームについた土を払って一塁側のベンチに戻っていく。
途中、マウンド近くに背番号10の少年が立っていた。
静流は口元を緩める。
「コースが甘くなってるぞ。もうばてたか?」
「まさか。まだまだいけるよ。そんな柔(やわ)なトレーニングはしてないからね」
「ああ、その意気だ」
ハイタッチをし、並んでベンチに戻っていく。
(ふぅー……)
学校のグラウンドに設置した簡易ベンチは平均台に似ている。腰かけ、タオルで汗を拭った。
すぐ横では、ヘルメットを被り、バッターボックスに向かう背番号10がいる。
口元に手を当てた。
「おい、絶対塁に出ろよ。追加点取るんだからな。頼むぞ、勝平」
相手が右拳を振ったことに、静流は小さく唇を上げていく。
夏はまだまだはじまったばかり。これから多くの試合が組まれている。
静流は、この場所に立つことができたこと、何よりも誇らしく感じながら、ゆっくりと空を見上げる。
視界には、澄み切った青空。
(精一杯頑張ってみるからな、ちゃんと見てろよ)
心に満ちた小さな達成感とともに、この大会を勝ち抜いていく新たな目標に向かって、応援に声を上げる。
全力で、この瞬間に自身のすべてを爆発させるようにして。
※
歩く。
歩いていく。
今日もそうして歩いていく。
急斜面も苦にすることなく、生えている立派な木々の間を縫うようにして、歩いていく。
髭を揺らし、フットワークよく体を弾ませながら、歩いていく。
小高い丘の上、青願神社。
境内にも木々が多く生えているせいか、空気がとても澄んでいた。
歩く。歩いていく。
境内で見上げた龍の銅像は、今日も口から水を出していた。
「あっ、神様だー。おかえりなさーい」
木造の社殿前に、声をかけてくる茄乃(なの)という女の子がいた。一瞬だけ顔を向け、そのまま横を通り抜けていく。ぐっと力を入れて、社殿の高くなっている床にジャンプ。目の前の手摺りは赤色でとても目立つ色だった。
「神様、最近ちょっと太ったんじゃない?」
かけてくる声に、立てた耳をぴくりっと動かし、けれど異を立てることなく、ゆっくりと全身が毛で覆われた体を丸めていく。
「お散歩いっぱいしてるのに、不思議ねぇ?」
そんな茄乃の疑問に答えるわけではないが、
『みあー』
と鳴いた。
一度瞬きをしてから、ゆっくりと体に顔を埋めて、瞼を閉じていく。
今日もまだまだ散歩しなければならない場所がある。今はちょっとだけ休憩時間。
おやすみなさい。
猫の背中 @miumiumiumiu
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