第2話 猫のどんちゃん


 猫のどんちゃん



       ※


 十一月二十七日、日曜日。

 黄色。日常にはあまり存在しない鮮やかな色に、世界は埋め尽くされていた。それが今日の青願せいがん神社だったのである。巨大な鳥居も手洗い場も社殿も、今にも黄色く染められていた。

 太平洋側に面するあい市。北区にある青願神社は小高い丘の上にあり、数えきれないほどの銀杏の木が生えている。この時期、多くの銀杏の葉が色鮮やかに染まり、神社を含む丘が全体的に黄色いシートに覆われているみたい。普段は参拝客の少ない境内に、カメラを持った多くの人が訪れていた。県外からも多く訪れるために、普段にはない賑やかさ以上の騒がしさが形成されている。

 そんな小高い丘には百段ある石段があり、そこにも黄色をたくさん見ることができる。下っていくと、学校のグラウンドよりも大きな公園につながっていた。今は布張りのぼんぼりが運動会の万国旗のように数多く吊るされていて、多くの出店もある。

 青願神社銀杏祭り。

 青願公園では出店や一般参加によるフリーマーケットが開催されていて、こちらも老若男女の大勢で賑わっている。雑音交じりの演歌が流れるスピーカーからは、すり鉢状の大きな滑り台横に設置された特設ステージで十五分後に開催されるヒーローショーの連絡が告げられていた。

「…………」

 ステージの反対側、屋台とも少し離れた場所に茶色いペンキが少し剥げたベンチがある。小学生が二人座っていて、その左側……紙袋から顔を出している鯛焼きを銜えながら、神社の黄色を呆然と見つめている男の子。青崎あおさきとう、小学六年生。前ボタンの長袖シャツ姿で、咀嚼する鯛焼きの甘さを口いっぱいに感じつつ、さほど表情を緩めることなく、どこか焦点の合わない視線で黄色という色を捉えている。

「…………」

 今いる青願公園は、道路を挟んで十階建てのマンション、東方にある市営住宅に挟まれている。普段は小学生の遊び場として活用されていた。しかし今は、ぼんぼりが吊るされた出店や、普段は訪れないだろう大人がたくさんいる、という見知らぬ異空間が形成されている。どこか、自分たちの遊び場を大人に取られてしまった変な気持ちを抱きながらも、この銀杏祭りを楽しみにしていたこともあり、気持ちが随分とおおらかなものになっていた。『ああ、大人もたまにはああして遊びたいんだなー』と、知った風にこくこくっと首肯を繰り返す。

 涼しさから若干の冷たさを含むようになった深秋の風は、冬太の耳を覆う髪の毛を揺らす。少し前までは清涼感を得たものだが、今は肩を窄めたくなった。

 見上げる空は、茜色を濃くしている。そろそろこの公園に夜が訪れることとなるが、今日は人が多く賑やかなので、まだ家に帰る必要はない。

 冬太は、鯛焼きの最後の一切れを口に放り込んでから、正面に見える屋台の列の、右から二番目を目にする。

「にしてもさ、さすがにかき氷が辛いと思うけどな……」

 視線の先には、『氷』と涼しげな旗を掲げた出店がある。ここから三十メートルほど離れているが、色鮮やかなシロップが入った大きなビンが見えた。もう長袖を着ていても肌寒くなってきているのに、観察してみると、列ができているので人気がある様子。考えるに、あの氷の売れ行きが、祭りの熱気を物語っているのだろう。

勝平かっぺい、これからどうする?」

 焼きそばを食べる白地に黒線のあるジャージ姿の同級生に話しかけるが、相手は割り箸を動かすことに躍起になっているせいか、返事はなかった。こちらの声が聞こえなかったかもしれないし、もう一度声をかけようとして……急ぐ必要はなく、相手が食べ終わるのを待つことにする。

(…………)

 石段の上にある神社の参拝は済ませていた。出店も一通り回っており、特にすることはない。いつもなら公園で遊ぶところだが、いつもの公園でなくなっているので、そういうわけにもいかない。というより、そろそろ晩ご飯の時間である。

 冬太は缶のソーダを口にして、横に置く。出店にはラムネが売られていたが、二百円と高かったため、近くの自動販売機で買ってきた。喉元を過ぎたソーダは、流れていく間に冷たさを感じなくなる。

「どうする? ステージでもいってみる?」

 隣人が割り箸を置いたタイミングで話しかけた。

 さきほどヒーローショーの放送があったばかり。することといえば、ステージで開催されるショーと、暗くなってからの演歌大会を観るぐらい。

「どうしよう? そろそろご飯かな?」

「あ、ごめん、俺はそろそろ帰るわ。というよりは、トレーニングしないといけないから」

「あ、そうなんだ。うん、いいよ。いつも頑張ってるよね。さすが勝平だ」

 ジャージ姿の友人は焼きそばの空容器を足元に置き、腕を胸の前から横に曲げていった。早くもトレーニングを開始して、ストレッチをしている様子。とするなら、そろそろ解散して、家に帰るべきだろう。なんとなく祭りに後ろ髪を引かれる思いはあるが、一人で残っていても楽しくない。他のクラスメートの姿も見えたが、今から輪に入れてもらうのも気が引けるし。

 そうして、これからの予定が『帰宅』と傾きつつある冬太の目が、

(……ぁ)

 屋台と屋台の間の光景に焦点が合い、見知った人物を見つけた。

若林わかばやしさんだ……)

 見つめた瞬間、心臓が小さく跳ねる。

 視線の先、クラスメートの若林佳奈かながいた。いつものように赤枠の楕円眼鏡をかけ、髪の毛を後ろで縛っている。来週はもう十二月だというのに、赤い金魚が泳いでいる浴衣を着込んだ格好で。『寒くないだろうか?』と思わず心配になるが、余計なお世話に違いない。佳奈の隣には浴衣を着た男の人と女の人がおり、両親であることは家が近所なので知っている。

(…………)

 屋台に隠されるように、視界から佳奈の姿が消えた。方向からして神社の方に向かったので、お参りするのだろう。

 息を吐く。ゆっくりと長い息を吐き出して、無意識に小さく下唇を噛んだ。

 視線を神社に向ける。黄色が痛いほどに飛び込んできて、距離があって赤い金魚の浴衣姿を見ることはできない。

 神社に向かって足を踏み出そうとしたが……視界に別のクラスメートの姿が映り、踏み出そうとしていた足を止めた。体を反転させてから柵を越えて道路に出る。進路を家のある西方に向けて。

(…………)

 未練がましくもう一度後ろを振り返る。公園はまだまだ大勢の人間によって占められていて、特設ステージからはヒーローショーの曲が流れているが……脳裏では、赤い金魚が泳いでいて、思わずにんまりしてしまう。心が弾むような気持ちで帰路についていった。

 正面から吹いてきた風に頬を冷やすものだが、今は心地よく感じられる。

(金魚って)

 浴衣の柄を思い出したら、口角が上がっていくことを止めることはできなかった。

 にんまり。


       ※


 十一月二十八日、月曜日。

 愛名市立愛名西小学校には美術部がある。特にこれといった活動内容はなく、これといった活動成果もない小規模な部。月火水曜日の放課後に美術室に集まり、各々絵を描いたり粘土を触ったりお喋りをしたりする。とにかく自由奔放。顧問もめったに姿をみせることなく、部員には放課後のお喋りの場として活用されていた。

 冬太は、そんなお気楽極楽な美術部に所属している。四年生から部活に入れるようになり、男子はだいたい野球部や卓球部といった運動部に入るのだが、体を動かすのが得意ではなく、楽そうだからという理由で美術部に決めた。活動が週三日しかないし。

 運動部は試合によって引退するが、美術にそういった行事はなく、卒業式間際になんとなく在校生に送り出される、という程度に過ぎない。そのため、六年生の十一月下旬の今日も、西校舎四階にある美術室に顔を出していた。

「…………」

 今日の部活には六人が参加している。下級生の女子二人がお喋りに興じており、下級生男子の二人は廊下側の席で粘土を捏ねながらも、漫画について熱く語り合っている。

 年功序列により、美術部部長を就任することとなった冬太だが、遊んでいる下級生を注意することなく、開いたスケッチブックに宇宙空間を描いていく。中心に土星を描き、周辺に星を散らしている。そこに海にいる魚や鯨を泳がせた。まだ色はつけていないが、なんとなくおもしろい絵になりそうな予感がしている。最後までこの感覚を持続できればいいのだが、これまで一度としてできたことがない。

 ふと顔を上げて窓側に視線を移すと、同級生であり六年一組のクラスメート、紺色のワンピース姿の佳奈がいる。何かをしているわけでもなく、窓の方に顔を向けながら頬杖をついていた。楕円の眼鏡越しに、きっとグラウンドを眺めている。

 学校の敷地は正方形で、校舎は職員室や各教科の教室がある西校舎と、各クラスのある北校舎がある。『L』の字に建てられており、校舎の内側にグラウンドがあった。

「…………」

 冬太は立ち上がり、窓側にある蛇口で手を洗う振りをして、佳奈が何を眺めているのかを確認する。といっても、見る前からなんとなく察しはついていたが……グラウンドにはジャージ姿の陸上部がいた。六年生は十月の大会で引退しているが、一人だけ六年生の部員が練習に交じっている。クラスメートの勝平である。勝平は元々野球部だったが、夏の大会で引退後、陸上に席を移して先月の大会で活躍していた。大会後も部活に残り、今もああして白地に黒線のあるジャージ姿で練習に汗している。『家に帰ってトレーニングするぐらいなら、学校の広いグラウンドで走る方がいいに決まっているじゃん』と、ああして部に残って。

 今、グラウンドを一周した勝平は、膝を曲げることを意識しながら、みんなの輪に交じっていった。

 冬太は、グラウンドと横にいる佳奈の間に視線を動かしていく。

「…………」

 グラウンドを見学している佳奈は、練習している勝平の姿を目で追っていた。楽しいのだろう、たまに頬を大きく緩めている。

 冬太は、小さく息を漏らした。理由は不明だが、鈍い痛みにも似た感情を得ている。

 また大きな息が漏れていった。


 午後四時三十分。約一時間の部活動を終えて帰宅する。ほとんどお喋り部となっている現状、根を詰めてやるものでもないと、部長の冬太が解散を提案し、全員から賛同を得た。

 冬太の家は、小学校の東門を出てから北上していく。徒歩十五分の距離。家の前の道路まで一切曲がることなく直進するので、小学校に入学してから一度も道に迷ったことがなかった。という行程なので、別れる際に道を曲がる同級生を羨ましく思うことがある。一度でいいからああしてみんなと一緒に帰りたいが、家がそちらにない以上、願いが叶うことはなかった。

 見上げる空は青色から茜色に変わりつつある。夏だったらこの時間帯は、真っ青な空に、焼けるような空気が覆い尽くしているのに、今は肌寒くて仕方がない。Tシャツの上に前ボタンのシャツを一枚羽織っているだけでは、そろそろ厳しい。あまり着込むは好きでないが、帰ったら母親に上着を出してもらおうと思った。帰宅したらけろっと忘れてしまうといけないから、今すぐ掌に書いておきたいが、下校途中にそんなことはできない。忘れないように頭で繰り返していく。

『帰ったら長袖を出してもらおう。帰ったら長袖を出してもらおう。帰ったら長袖を出してもらおう』

 繰り返している今はちゃんと覚えている。しかし、五分後の保証はできなかった。

「そうそう、昨日、銀杏祭りにいってたよね?」

 さきほど学校と家の中間地点にある坂の上の信号を過ぎたところ。歩いているのは通学路だが、時間帯が影響してか、前後にランドセルの姿は見当たらなかった。住宅街を抜けていき、そろそろ正面に十階建ての大きな病院が見えてくる。

「えーと、ヒーローショーがはじまるぐらいに」

 隣にはクラスメートであり同じ美術部の佳奈がいる。冬太がかけた声に対し、背負っている赤いランドセルを横に振り、少しだけ斜め上の方に視線を向けた。そうして何もない空間から、昨日のことを思い出そうするみたいに。フリースの下から出ているスカートの裾は、歩調に合わせて一定の間隔で揺れていたが、今は一瞬だけその周期がおかしくなった。

 冬太は、背負っている黒いランドセルを小さく跳ね上げてから、口元を大きく緩めていく。

「しかも、金魚の浴衣着て」

「あわわわわっ。見てたの見てたの? うー……」

 瞬きを繰り返しながら、唇を尖らせていく佳奈。肩を小さく上下させ、息を吐き出していく。眉間の皺が深くなるばかり。

「あれはねあれはね、お父さんとお母さんのせいなの。ああいう行事になるといつも張り切っちゃうっていうか、雰囲気を大事にしているっていうか……寒いのに、あんな無理することになったの。せっかくだからって……うー、青崎くんに見られていたなんて、恥ずかしいよぉ」

「そりゃ、お気の毒だったね。もうすぐ十二月だからね、あれ、寒かったかもしれないけど、でもさ……」

 冬太は視線を相手とは反対側に向ける。

「その……結構似合ってたと、僕は思うけど……」

「そ、そう? 嬉しいな。ありがとね」

「うん……」

 紅色に頬が変色していく冬太は、感じていた肌寒さをすっかり忘れることができた。歩調が強くなってしまいそうになるが、それでは相手を置いていくことになるので、衝動を抑えていく。

「…………」

 四階建ての郵政の社宅を横目に歩いていくと、正面に見える十階建ての病院が巨大な壁のように見えてきた。『近所』といっても過言でないため、家にいるとよく救急車のサイレンを聞くこととなる。

 巨大な建物を目に、前方にある下り坂に足を向けて……左側に、小さな公園があった。そよ風公園。鉄棒とブランコとベンチと砂場が狭い空間にひしめいている小さな公園で、橙色の柵に囲まれている。今は誰も遊んでおらず、そればかりか、ここで遊んでいる子供を見たことがない。この辺りで遊ぶ公園いえば、青願公園と決まっている。大きさが百分の一ぐらいしかないそよ風公園では、野球もサッカーもできないし、遊具も少ないので、学区に暮らす子供にはあまりに人気がなかった。

 にもかかわらず、冬太はこの公園を毎日訪れている。なぜかというと、小学校には近所の子と集団登校を義務づけられており、そよ風公園が集合場所だから。

 団長である冬太も副団長である佳奈も集まり、毎日学校まで登校する。二人の家は道を一本挟んだ近所中の近所であった。

「まだ今日、月曜日なんだよね。月曜日から部活があると、一週間が長い気がするから、いやだな」

「そうかもだけど、わたしは結構平気かな。学校って、嫌いじゃないから。朝起きるのはちょっと辛いけど、起きちゃえばどうってことはないから……あっ! 青崎くん、ちょっと待って」

「んっ……?」

 左手にはまだそよ風公園がある。何かを見つけて小走りに向かっていった佳奈の姿に、冬太は首を傾けていく。

 佳奈はベンチの方に向かってしゃがんでおり、こちらに背中を向けたまま戻ってくる気配がない。一分待とうが二分待とうが、状況は一切変わらない。

 冬太に、戻ってこない佳奈を置いていくという選択肢はない。橙色の柵を越えて、ベンチのすぐ前に立つ。

「若林さん、どうかしたの?」

「あ、ほら、青崎くん」

「……ああ」

 振り向いた佳奈は、その腕に猫を抱いていた。そのままベンチに腰かけていく姿に、冬太は腰が引けるというのか、なんとも近寄りがたいものがある。

「猫ね……」

 猫が苦手というわけではないが、単純に免疫がなかった。猫なんてクラスメートも親戚も誰も飼っていないため、どう接したらいいか分からない。よく聞く話だと、いきなり爪で引っ掻かれたり噛まれたりするらしく、注意が必要。それが気後れとなり、上半身が引いてしまう。

 一歩、二歩と後退りしていき、ベンチから距離を取って、きっちりと安全な距離を確保する。

 すっかり身が引けている冬太の視界では、糸のように目を細めて、嬉しそうに猫を抱いている佳奈がいる。その姿、とてもかわいらしくあった。そんな表情を浮かべられることが実に羨ましく思えるほどに。

(猫って、そんなにいいのかな?)

 戸惑いはあるものの、嬉しそうな笑顔が目の前にあるなら、引力に導かれるように、一歩、また一歩と近づいていき……一人分の距離を置いてベンチに腰かける。

「……猫、怖くないの?」

「怖い? ううん、怖いわけないよ。だって、こんなにかわいいもん。ねぇ、どんちゃん?」

「どんちゃん!?」

「そうよ。こうやって『どーん』と構えているところが、とっても素敵だから、どんちゃん」

「それって、若林さんがつけたの?」

「うん。どんちゃんと仲よしだから。ねっ、どんちゃん?」

「どんちゃん、ね……」

 首を傾ける冬太。『とっても素敵だからというなら、もうちょっと素敵な名前をつけてあげればいいものを』と思うも、口に出す勇気はなかった。

「どんちゃんとやらは、随分と人に慣れてるみたいだね」

「あれれ? どんちゃん、もしかしてもしかすると、お腹空いているのかな? もー、仕方がないな。青崎くん、ちょっとどんちゃんのことお願いね。すぐ戻ってくるから」

「あがぁ!?」

 冬太の口からは、嗚咽のような呻き声のような叫びのような悲鳴のような、とても言葉にならない声が漏れた。なんと、いきなり猫のどんちゃんを膝の上に載せられたのである。びくんっと全身が縦に揺れて、そのまま全身硬直してしまった。

 そんな冬太を無視して、佳奈はランドセルを揺らしながら道路へ駆けていく。

 残された冬太は、突然のことにどうしたらいいか分からない。膝の上で丸まった灰色と黒の斑模様の猫に、戸惑うばかり。いきなり時限爆弾を渡されてあたふたしている心境に似ていたかもしれない。

 ごくりっ! と喉が大きく鳴る。空気が冷たいというのに、額に汗が滲んできた。

「…………」

 初対面の膝の上だというのに、一切の躊躇なくのんびりと丸まっているどんちゃんは、小さく耳をぴくぴくっとさせてから、喉を『ぐーぐーぐー』と鳴らしている。

 その音、冬太は怒っているのかもしれないと警戒の色を濃くし、佳奈みたいに触れることができなかった。引っかかれたらたまったものではない。

「…………」

 ベンチに腰かけ、膝の上には猫のどんちゃん。この状況で願うことがあるなら、どうにかしてどんちゃんを膝からどかしたい。しかし、不用意に動けば猫の機嫌を損なうかもしれないし、だからといって他力本願で助けを求めようにも、周囲には誰もいなかった。

 考えてみると、佳奈に膝の上に爆弾を載せられた時点で、動きを封じられたことになる。

 理不尽な。

「…………」

 額にはいやな汗が浮かんでいく。脇の下には、つつぅーっと冷たい汗が垂れていくとともに、状況をどうすることもできずに膝が小さく震えてしまう。『振動がどんちゃんに伝わって起こしたらどうしよう!?』と怯えていた。

「…………」

 どんちゃんが機嫌よく起き、自らが立ち去ることを祈るのみ。しかし、今眠ったばかりなので期待は薄い……冬太は引きつった顔で正面を見つめて、いなくなった佳奈が戻ってくるのを待つ。ひたすら待つ。とにかく待つ。

 そうして自分たちの通学路を見ると、通りかかった上下黒色のジャージ姿の少年が見えた。近所に住んでいる一つ上の中学生で、最近ああしてランニングしている姿をよく見かける。助けを求めるチャンスだが、声をかけられるほど仲がいいわけではない。

 嘆息。

「……どんちゃん」

 こうなったら、自ら道を切り開いていくしかない。意を決してどんちゃんを膝からどかそうとする。そのためには、どんちゃんに触れなければならない。変わらずに『ぐーぐーぐー』と喉を鳴らしている体に触れるのにはかなりの勇気が必要となる。だがしかし、いつまでも寄り道した公園のベンチでじっとしているわけもいかず、決心したものは行動に移さなければ。

 冬太は拳を握りしめた。ぎゅっと。

「ど、どんちゃん、触るよ。お、怒っちゃ駄目だからね」

 愛犬に話しかけている老婆を見ては、『言葉が分からない犬に、どうしてあんな風に話しかけてるんだろう?』と疑問に感じたものだが、自然とそうなっている現状。なんとも新たな境地に立っているような気がした。

「…………」

 どんちゃんに触れることを意識すると、自然と指が震えてきた。ぶるぶるぶるぶるっ。その手をゆっくりと伸ばして、そーとそーと近づけていって、どんちゃんの頭に触れるように……そーとそーと……そーとそーと……触れた。

「あがぁ!?」

 触った瞬間、どんちゃんの耳がぴくっ! と動く。冬太は反射的に手を引っ込め、全身を硬直させながら様子を窺うと……どんちゃんは神経が想像以上に図太いらしく、触られたことを気にすることなく悠然と眠っている。

 どんちゃんの神経の太さに、冬太はほっと胸を撫で下ろしていた。

(よし、今度こそ)

 再チャレンジ。恐る恐るという感じで、冬太はまた手を伸ばしていって、頭に近づけていき……十センチ、五センチ、一センチ……触れた。またぴくっと耳が動いたが、今度は襲われる恐怖に奥歯を食い縛ることで耐え、手を引くことなく頭に載せる……どんちゃんも変わらずに眠っている……冬太は、無意識に止めていた息の限界を迎えた。

「……ぶはあぁーっ!」

 力いっぱい張っていた肩が落ちるように下がっていったと同時に、冬太の口から勢いよく息が吐き出されていく。食い縛っていた歯から力が抜けていき、巨大化していた目は時間とともに元通りの大きさに戻っていった。

「はははっ……あはははっ……だ、大丈夫じゃんか。なんだよ、おとなしいもんでさ。あはははっ」

 撫でる。頭をなでなでっと撫でてみる。しかし、どんちゃんからの反応はなく、膝の上で眠っている。

 叩く。頭をぽんぽんっ叩いてみる。しかし、どんちゃんからの反応はなく、膝の上で眠っている。

 摩る。背中をすべすべっと摩ってみる。しかし、どんちゃんからの反応はなく、膝の上で眠っている。

 掴む。尻尾をぐむぐむっと掴んでみる。しかし、どんちゃんからの反応はなく、膝の上で眠っている。

「ど、どんなけ警戒心がないんだ、どんちゃん!? それはそれで動物としてどうかと思うよ!?」

 額には、大粒の汗が浮かんでしまった。いらない世話を焼いていることは自覚しつつも、口が止まることはない。猫相手に。

「まったく、金持ちの家の子なら、絶対誘拐されてるよ。どんちゃん、気をつけてね。あと車にも気をつけて。どんちゃんが轢かれたら悲しいじゃん。若林さんだって泣いちゃうよ」

「ねぇねぇ、青崎くん、誘拐ってどういうこと?」

「あがぁ!?」

 一瞬、膝の上から猫から言葉が返ってきたと思って、心臓が激しく脈動した。びっくりである。仰天である。

 しかし、声は膝の上からでなく、顔を上げた正面からのもの。

 目の前に、背中からランドセルがなくなった紺色のワンピースが立っていた。肩までの髪は後ろで二つに縛っていて、顔を斜めに傾けている。

(ああ……)

 事実の確認、そして認識に、乱れた気持ちを落ち着けるように小さく吐息。

(あがぁ!?)

 刹那、どんちゃんに話しかけていたことを知られ、恥ずかしくなってきた。体温が上昇することを誤魔化すように、視線も話題を逸らしていく。

 無理してでも。

「……ど、ど、ど、どこいってたんだよ!? いきなり猫なんか預けられて、どうすればいいか分からなかったじゃんか。しかも、こんな眠ってるし、どうすればいいんだ!? まったくさ! まったくだよ!」

「『どうすればいい?』って、そんなの、どんちゃんと一緒に遊んでいればいいだけだと思うけど」

「あ、遊んでいればって、あのね……」

 嘆息。先日寿司屋にいったときに父親からもらった巻貝をのように、口いっぱい苦い味が広がっていく。眉を寄せ、置かれた状況に言い様のない理不尽さを得ながらも、うまくそれを言葉にすることができない。知識不足。

「遊ぶね……」

 佳奈がいなくなったからこそ、どんちゃんのかわいらしさを知ることができた。それはそれでよかったので、プラスとマイナスが相殺されて、トータルで考えてみると、よかったことにしておく。でないと、ここにいる自分が恥ずかしい。

 都合よく自身のやる瀬なさを打ち消してから、改めてこの状況に陥った要因を追究していくことに。

「で、そっちは何してんだよ? いきなりいなくなってさ、どこいってたんだ?」

「家に帰って、これ持ってきたの」

 佳奈は、乾燥した鰯の稚魚がたくさん入った袋を両手にしている。煮干。

「どんちゃんね、これが好きなのー」

 佳奈が持っている袋をがさがさがさがさっと揺らすと、目ざとく上体を起こしたどんちゃんが『みあー』と鳴いた。おねだりしているみたいに、前足をくいくいっと動かしている。今まで呑気に眠っていたのに、今は目をらんらんっに輝かせていた。そしてまた『みあー』と鳴く。自分の欲求が満たされるまで粘るように『みあー』と鳴き、『みあー』と鳴く。とにかく『みあー』と鳴く。

 現金極まりないどんちゃんに、佳奈はベンチに煮干五匹を置く。

 すると、どんちゃんは『いただきます』とばかりに『みあー』と鳴いてから、顔を近づけて鼻をくんくんっさせ、煮干を銜える。口に入れて、かしゃかしゃかしゃかしゃっ、と小気味いい音を出して咀嚼するどんちゃんは決してがっついておらず、優雅に食事を楽しんでいるように、ゆっくりと時間をかけて煮干を食べていく。

 どんちゃんの仕草が、愛しくて仕方のない佳奈。目は糸のように細くなり、頬が緩んで落ちてしまいそう。

「かわいいね、どんちゃんは。かわいいな、どんちゃんは。かわいくて仕方がないな、どんちゃんは。もうかわいくてかわいくて、どんちゃんを食べちゃいたいぐらい」

「……食べるのは、表現として間違ってると思うよ」

「どんちゃーん」

 どんちゃんが食べている間でも、佳奈は『もう我慢できない!』とばかりに頭を撫でる。しかし、相手はいやがる様子もなく、それが佳奈の頬を緩める以上にだらしなくさせていた。

 恵比須顔。

「あのね、青崎くん、どんちゃんね、土曜日からここにいるの。お母さんと買い物から帰ってきて、ここにどんちゃんがいてね、こっち見てる気がしたの」

 好奇心に佳奈が近寄っていくが、どんちゃんは逃げることなく、耳をぴんっと立てて真っ直ぐ見つめてくる。勇気を出して両手を伸ばしてみると、なんと触ることができた以上に腕に抱えることができたのだ。一切抵抗なく、まるでぬいぐるみのように。あまりのかわいらしさに、佳奈は家にお持ち帰りしようとしたが、母親に首を振られたので、断腸の思いで断念した苦い記憶がある。

「で、昨日もね、銀杏祭りの前にきたら、ここにいたの。まるでわたしのことを待っていてくれたみたいに。だから急いで家に帰ってね、煮干持ってきたら、こうやっておいしそうに食べてくれるの。もー、かわいいんだから」

「まあ、こんなに無抵抗なら、愛嬌があるように見えるね。若林さんが気に入るのも、分かる気がするよ」

 相手の気持ちを分析しているようであるが、それはそのまま冬太自身のことを示していた。最初の躊躇が嘘のように、今はどんちゃんの体に触りたい。一切抵抗なく、すべてを受け入れてくれる。膝の上に載っているときなんて、自分を必要としてくれている気がして、愛しくて仕方がなかった。佳奈が相手をしている姿を見ると、どこか嫉妬にも近い感情すら生まれてしまう。

 ただ、隣にいる佳奈みたいに『かわいいかわいい!』と跳ねるように髪を揺らしている姿は、『きゃぴきゃぴっ!』と女の子が騒いでいるようで、断じて男子がするわけにはいかない。思いを自重することとなるが、心情的には隣人と同じ気持ちである。

 素直になれない冬太は、それでも関心のあるどんちゃん情報を少しでも仕入れようと、質問する。

「どんちゃんは、どこの家の猫なの?」

「んっ……? そりゃ、きっと野良猫よ。だって、首輪ないもの」

「そうか? 首輪はないけど、こんなに人懐っこいから、どっかで飼われてるか、もしかしく、以前どこかで飼われていた、っていうことじゃないかな……あれ、どんちゃんって、腹だけ白いんだ? うーん、きっと雑種なんだろうね。そうか、なら、やっぱり野良猫なのかもしれないね」

 首を傾けることとなる冬太。野良猫がこんなに無警戒のはずはないのだろうし、飼い猫ならこんなところで呑気に寝ていたり餌をもらっていたりすることもないだろうから、『以前は誰かに飼われていたけど、よんどころない事情で飼い主に捨てられた』なんてことを佳奈の前では言いたくない……やはり野良猫というのが一番いい気がするので、そういうことにしておくことにする。こだわるポイントでもないし。

「まあ、野良猫だろうが飼い猫だろうが、どっちでもいいけどね」

「そうそう。どんちゃんのかわいさに間違いはないわ。ほらほら、どんちゃん、もっとほしいよね。あげちゃうよ」

「……煮干、うまそうだな」

「食べてみる?」

「うん」

 冬太は、煮干を与える佳奈と、ゆっくりと咀嚼していくどんちゃんの様子を眺めながら、もらった煮干を齧っていき……表情の変化とともに、なんとも苦々しい気持ちがした。


「なあ、そろそろ、帰らないと」

 茜色が、頭上の空いっぱいに広がっている。学校帰りに寄り道したそよ風公園にいる冬太は、まだランドセルをベンチの横に置いている。遊ぶなら遊ぶで、ランドセルを一度家に置いてからでないといけない。といっても、そろそろ暗くなるので、母親に外出を止められるだろうが。

「しかし、羨ましいぐらい、ぐっすり寝てるな。そんでもって、尻尾掴んでも平気ってところが、凄いよね」

 ベンチに腰かけている佳奈の膝の上、どんちゃんが体を丸めて眠っていた。これまで生きてきて、身の危険なんて一度も経験したことがないような無防備な姿。

 どんちゃんの様子に、冬太はぼやくように言葉を吐き出す。

「この、幸せ者が」

「……ねぇ、青崎くん、あのね、えーと……青崎くんってさ、その、あの、あのね……」

 佳奈は隣人の方を見ずに、膝の上のどんちゃんを撫でているようで、実はそこに意識はない。顔を上げることができなくなると同時に赤面させながら、恐る恐るといった感じで口を動かす。

「青崎くん、か、勝平くんと仲いいよね?」

「勝平? ああ、仲いいっていえば、そうだけど」

 勝平はクラスメートの男子である。去年二学期に転校してきた。その際、冬太はたまたま隣の席だったために仲がよくなり、昨日も二人で銀杏祭りにいった間柄。

「仲がいいなんて、わざわざ口にするようなもんじゃないと思うけど……えーと、勝平がどうかしたのか?」

「勝平くんって、今、陸上部に入っているよね?」

「ああ」

 今日もグラウンドを走っていた。それは美術室から確認している。

「夏に野球部を引退して、みんなはそれで終わりだけど、勝平はもっと運動したいからって陸上部に入ったんだって。で、秋の大会で陸上部の六年生は引退したんだけど、先生に頼み込んで、練習に参加させてもらってるんだってさ。ああやって野球のためにトレーニングしているらしい。ほんとに好きなんだね、野球が」

「凄いね、勝平くんは。頑張っていることがあって、ほんとに凄いな。わたしとは大違い」

「大違いって、若林さんだって、部活入ってるじゃん」

 冬太と佳奈は同じ美術部で、今も部活後の下校途中。どんちゃんのかわいらしさに、随分と長い寄り道になってしまっているが。

「充分じゃない?」

「ううん、わたしは駄目よ。だって、勝平くんはしたいことに全力で向かっているって感じだけど、わたしはしたいこともろくにできないから……」

「したいこと?」

 初耳であるが、佳奈にはやりたいことがあるという。もちろん冬太には興味津々な話題であり、追及していくことに躊躇はない。

「したいことって、何だよ?」

「あわわわわっ。わたし、いらないこと言っちゃったかな? 大変」

「別に秘密にすることでもないんだろ? 教えてくれよ。もしかしたら力になれるかもしれないし」

「うー……」

 佳奈は視線を上げて……小さく俯いた。元々それを打ち明けるために佳奈は『勝平』の名前を出した。いつまでも恥ずかしがっている場合ではなく、勇気を振り絞って口を開いていく。

「あのね、青崎くん……わたしね……」

 佳奈は膝の上のどんちゃんの背中を撫でつつ、双眸はぼやけた虚空を漂っている。これから口にすることを意識することによって頬を紅に染めながら、喉を振り絞るようにして言葉を紡ぐ。

「わたし……わたしね、勝平くんのことが好きなの」

「あがぁ……!?」

 届けられた言葉によって、冬太の目が見開いたと同時に、全身が硬直した。告げられた言葉の衝撃は凄まじく、半分開けられた口を閉じることもできなくなる。

『勝平くんのことが好きなの』

 その言葉に、反応することができない自身に反して、胸の鼓動は高鳴っていく。

 どくどくどくどくどくどくどくどくっ!

 血液が全身を激しく巡っているよう。なんとなく、ベンチに座っていることにすらも不安に感じるほど、存在が揺れていた。

 だからこそ、心が乱れ、

「あ……」

 視線が泳いでいった結果、

「あの、さ……」

 なんだか息苦しくなってきた。金魚のように口をぱくぱくっ。

「ど、ど、ど、どうして……」

 かけられた言葉の意味は分かるが、このタイミングで告げられた意味が分からない。

「僕に、それを……?」

「勝平くんと仲がいいから」

「……その、勝平の、どこか好きなの?」

「勝平くんは、やさしい、格好いいし……って、好きな理由なんて、本当はわたしにもよく分からないよ。気がついたら、好きになってた、から」

「…………」

 恥じらうように首を傾けた佳奈の表情に、冬太は吹いてきた冷たい風が胸を突き抜けていくような感覚がある。

 気がつくとやけに喉が渇いていた。

 冬太は、自身が感じている違和感を相手に悟られないように平然を装い、痺れたみたいにうまく動かすことができなくなった唇をどうにか開く。

「……へー、勝平のこと、が、好きなんだ。へー」

 これまでは自然と言葉が出てきたのに、冬太の声がぎこちなくなる。

「そっか……そうなんだ……ちょっと驚いた、な……」

 本心としては存在を揺るがすほどの驚愕だが、相手に悟られないように心がけていく。

「そう、勝平を、ね。好きなんだ。そうなんだ……そっかそっか」

「あ、青崎くんは、好きな子いないの?」

「あがぁ!?」

 口の中が爆発するように、唾が盛大に飛んでしまった。慌てて口元を手の甲で拭っていく。

「ぼ、僕は、別に、そういうのは……」

「そうなの? 好きな子はいた方が楽しいと思うけどなー」

「…………」

「わたしね、ずっとずっと勝平くんに気持ちを伝えたくて、でも、なかなか勇気が出なくて、それで……青崎くん、勝平くんと仲いいよね? 勝平くんって、好きな人いるの?」

「か、勝平が、好きな人、いるのか、どうか……?」

 現在、とてつもなく大きな戸惑いが渦巻いている。乱れた思想では、空間すべてに紙屑が舞っているように収拾がつかない。置かれている状況の混乱によって、自分がどうしてこんなに困惑しているかも理解できなかった。

 ただ、自分がどれだけ冷静さを失っているとしても、隣人から問われている内容があるなら、返答しなければならない。

『勝平は誰のことが好きなのか?』

 そんな話、一度だってしたことはない。話すことといえば、漫画の話だったりゲームの話だったり、また勝平は野球が好きなので、その話を冬太が聞いたりして、時間を過ごすことが多い。

 だからこそ、『誰が好きか?』なんて話題、これまで縁がなかった。であるなら、問われた質問に答えることはできない。それは考えたところで変わらないだろう。

「……いや、ごめん、僕にはよく分からないけど……か、勝平って好きな子いるのかな?」

「あれ、反対に問いかけられているよ? うーん、おかしいな?」

 小鳥のように首を傾げる佳奈。照れ笑いは、少しずつ消えつつあった。

「じゃあね、青崎くん、わたしに協力してくれない?」

「きょ、協力って?」

「えーとね、勝平くんのこと、教えてほしいの。どんなことだっていいよ。例えば、どんなことが好きだとか? 嫌いなものとか? よく観るテレビとか? 誕生日とか? そうそう、誕生日がまず知りたいな。何座なのだろう?」

「ああ、若林さん、星座占いが好きだもんね」

「うん」

 佳奈は、勝平の星座すら尋ねることができなかった自身の意気地なさに、思わず落ち込みそうになるも……できなかったものは仕方がない。だから悔やんだって仕方がなく、今までは駄目だったけど、これからだったらどうにかなるかもしれない。

「だから、お願い、協力してほしいの」

「協力ね……」

「駄目ぇ?」

「……べ、別に駄目ってわけじゃなくて……協力するぐらいなら、いいけど」

 すんなりと頷くことはできなかったが、しかし、冬太は首肯していた。本心としてはこの件に関わりたくないと頭で警報が鳴っている。しかし、満面の笑みを浮かべる佳奈の前で首を横に振ることができずに、つい。

「いいよ、勝平のこと、いろいろと教えてやるよ。お前のこと、ちゃんと応援してやるから」

「ほんとぉ? 約束したからね。わーい」

「ああ……」

 相手が両手を叩いて喜んでいる姿に、なんとも複雑な思いに駆られてしまう。冬太は、必要のない苦労を背負い込んでしまったこと、後悔の念を抱くこととなるが……もう遅い。

 冬太は、相手に悟られないように嘆息してから、意識して語調を強める。

「まあ、頑張れよ。ちゃんと気持ちを伝えられるといいな」

「うん」

「じゃあ、今日はそろそろ帰ろうよ」

 そうして二人は、茜色が色濃くなってきた空の下、公園にどんちゃんを残して帰宅する。といっても二人の家は道を一本隔てた近所で、ここから徒歩二分の場所。

(……あーあ……)

 佳奈と別れて、玄関の鉄枠のある木製の扉の前に立つ。『随分とおかしなことになってしまった』と、大きく肩が落ちていった。

「はあぁー……」

 吐き出した息は、白くなって消えていく。

 冬の足音は、かなり近くまで迫っていた。


       ※


 十一月二十九日、火曜日。

 放課後。西校舎四階にある美術室で美術部が活動している。といっても、今日は四人しかきておらず、四年生二人は昨日観たテレビの話題で盛り上がっていた。手を叩いたり机を叩いたりしているので、相当おもしろかったのだろうが……冬太は観ていないし、話を耳にしていてもおもしろいとは思えなかった。

 今日も真面目に木製イーゼルに向かっている冬太は、昨日書いた宇宙に泳ぐ魚の絵をぼんやりと眺めてから、思うままに線を足していく。魚の数が少ないような、土星の輪に違和感があるような、遠くの星がただの点になっているような、宇宙空間がうまく表現できていないような……とにかく気に食わない。こんなの、昨日にはない思いである。どこかどうかというのは分からないが、線を足さねばいられない衝動を抑えることができない。

(…………)

 これまでも何か気になることがあるとき、思うように手が動かない。明日テストがあるとか、苦手なプールの授業があるときとか……冬太は吐息して、鉛筆を置く。

 気分転換という意味合いで視線を窓側に向けてみると、頬杖をしている佳奈の姿がある。襟がひらひらっしているワンピース姿で、視線は窓側に向けられていた。上半身を乗り出しているので下にあるグラウンドを眺めているのだろう。きっと頬を緩ませているに違いない。

 冬太は席を立ち、後ろにある資料を取りにいく振りをして窓側に寄ってみた。茶色いグラウンドには陸上部が練習していて、白地に黒線のあるジャージ姿の勝平の姿がある。スタートラインに立ち、合図によって三人がスタートするが、五十メートル先にあるゴール地点を勝平が一番に駆け抜けていた。

 冬太の視界の隅では、胸の前で小さく手を叩いている佳奈の姿。音は出しておらず、窓の方に体を向けているので、後ろにいる後輩には見られていないと思っているだろうが……横から見ている冬太には丸見えだった。

 嘆息。

「……ぁ」

 と、いきなり佳奈の顔がこちらを向いた。刹那には、『あー、見られちゃったよー』とばかりに、頬を膨らませて睨みつけてくる。向けられている表情は、『こっそり見ているなんてひどいよー』と訴えている。

(…………)

 苦情のような視線を向けられる覚えはないから、小さく笑みを返して冬太は席に戻っていく。

 胸には、ひどく疼く思いがあった。それがどういったものなのか、今の冬太では分からない。ただ、時間を過ごすことにすら不安を感じるような違和感はあった。

 憂鬱である。


 部活が終了し、下校となる。まだ空は青色を有しているが、西の空に赤色が滲んでいた。

 冬太は今日から上着を一枚増やしている。白いフリースは風に揺れ、髪の揺れる勢いに冷たさを得た。外でじっとしている分には、かなり辛いものがある。だというのに、今はじっとしている。じっと公園のベンチに座っている。足元には黒いランドセルと赤いランドセルが並んでおり、昨日までにない戸惑いを覚えながら、冬太は隣人を見つめていた。

 隣に座る白いコートにチェックのスカート姿の佳奈は、いつものように肩までの髪を後ろで二本に縛り、膝の上にいる毛の塊を愛でている。背中を摩って、『ぐーぐーぐー』と喉を鳴らしている姿を慈しむようにして。

 冬太は、包まれる空気の冷たさに手を摩りたくなる気持ちを抑えながら、寄り道したそよ風公園で隣人といること、いつもにない緊張の色が帯びていた。

(…………)

 昨日、まさにこの場所で、佳奈から衝撃的な告白をされた。『クラスメートの勝平のことが好き』と。佳奈からそんなことを打ち明けられるなんて、恋愛についてこれまで免疫がなかっただけに、うまく対応できていない現状はなんとも歯痒い。昨日からずっと、気持ちが乱れているようで、不安定な心が波打っているよう。それが証拠に、昨夜は寝つきが悪かった。

「あ、あのさ」

 不安定に揺れる気持ちを耐えるように奥歯を噛みしめて、冬太は隣人に話しかける。

「八月一日だって」

「ふい?」

「か、勝平の誕生日。八月一日なんだって。夏休みだな」

「ということは、獅子座だね。えーと、今日の占いはどうだったっけ……? よし、明日からに期待しよう」

「……さすがに全部覚えてるわけじゃないんだね」

「そりゃね。でもでも、蟹座はちゃんと覚えているよ」

 佳奈は七月八日が誕生日。

「『友人が悲しそうにしていたらさりげなくやさしい言葉をかけてあげましょう。そうした小さな幸せが大きな幸せにつながるかも』だって。あわわわわっ、青崎くん、もしかして、ちょっと悲しそうにしている? だったら、ちょうどよかったよ」

「……まったくしてないけど」

「でね、水瓶座は『価値観が変わる一日。今後の方針を変える貴重な一日となります。ラッキーカラーは赤です』だって。青崎くん、今日という日を大事にしてね。あと、見た感じじゃ赤が一切ないから、帰ったら赤いシャツを着よう」

「一日っていっても、学校終わって、あと家に帰るだけだけどな。赤いシャツなんて持ってないし」

 冬太は二月十五日が誕生日。

「でさ、勝平の好きな人ってのは、その……ごめん、無理だった。いくら仲がよくたって、好きな人だなんて、なんか話題にしにくくて……でも、今日は無理だったけど、その内なんとかするからさ。きっと。多分。できたらいいな。できるかな? うーん、どうでしょう? あはははっ……あんまり期待しないで待っててほしい」

「ありがとね。うん、期待しないで待ってる。ただね、勝平くんの好きな人っていうよりも、まずわたしがしっかりしないといけないから」

 勝平が誰を好きかというよりは、自分の気持ちをちゃんと伝えられることが大事であると、佳奈は分かっていた。勇気を持つために、頑張ろうとしている。のだが、分かっていても、なかなかうまくいかない。これまで告白なんてしたことがないから、どうすればいいか分からない。

 でも、難しくても、恥ずかしくて、告白したい。告白して勝平に気持ちを伝えたい。それぐらい、今にも気持ちが張り裂けそうだから。

「うー、勝平くんに超能力があればよかったのに。そしたら、わたしの考えていることをそれとなく読み取ってくれるだろうから」

「……破天荒なほど無茶言ってる、この人」

 顔を見つめ合い、小さな笑み。

 冬太は、漠然とした話の詳細について、提案する。

「きっとだけど、目標を決めた方がうまくいくと思う。目標というか、期限というか」

 本日は十一月二十九日。今年もあと一か月。

「今年中に告白するとか」

「こ、今年って、あと一か月しかないよ。そのことを想像しただけで……あわわわわっ。これから年末まで、毎日が大変なことになっちゃうよ」

「ど、どんなことになるのか、ちょっと見てみたい気はするけど……随分と、顔が真っ赤だね」

 冬太は、毎日緊張にぎくしゃくしながら授業を受けている佳奈の姿を想像して……思わず『ぷぷぷっ』と吹き出していた。

 是非見てみたい。

 けれど、そんな意地悪をするわけにはいかず、妥協案を提示することに。

「じゃあさ、卒業するまでってのは、どう? それなら覚悟も決まるんじゃない?」

 今日は十一月二十九日で、小学六年生としての日々は残り四か月。入学したときは六歳で、小学校生活はそれまでの人生と同じ六年間もあると、卒業なんて遠い未来のことだと思っていたが……気がつけばあと四か月。あっという間である。

「さすがに、卒業までにはなんとかなるでしょ? というのか、卒業までにできなかったら、もうできないんじゃない? 今は同じクラスだからいいけど、来年から人数も多くなってきっと別々のクラスになるだろうから、今みたいに顔を合わせることもなくなるだろうし」

「それは……うん、そうかも」

「だから、卒業までを意識してさ、告白すればいいんじゃないかな? そうか、二月にはバレンタインもあるから、ちょうどよかったかもしれないね」

「う、うん。なんとか卒業までには頑張ってみたいな……それにしても、なんか、あれだね、冬太くんは簡単なことみたいに言うね? わたし、そうなったことを想像すると、それだけで心臓が破裂しちゃいそうだよ」

「そりゃそうだよ。だって、僕のことじゃないもの」

「うー……もうちょっと親身になる方がいいと思います。協力してくれるって言ったのは誰ですか? そんなことじゃ立派な大人にはなれませんよ」

「あれ、急に敬語になった? しかも、それは先生視線?」

 相手の思いもしない変化に、冬太は頬を緩めつつ、わざとらしく目をぱちくりっ。頬が緩んでいく。

 気を取り直すという意味合いで、こほんっと咳払い。

「よし、卒業までに告白することに決定ね。そこまでは僕も全面的に協力するし、でなきゃ、もう無理だな。さすがに『ずーと』ってわけにもいかないから」

「もしかしてもしかして、わたし、青崎くんに見捨てられちゃうってこと? 寂しいな」

「『見捨てる』っていうのは印象がよくないけど、若林さんが卒業までに告白すればいいだけのことでしょ? きっと小学校のいい思い出になると思うよ。頑張れ」

「うん、頑張ってみるね」

「僕、『頑張れ』って言うだけだから楽だなー」

「うん、『頑張る方』は大変よ」

 佳奈は、何度も何度も、こくこくこくこくっと頷いてから、さらに力を込めて、こくこくこくこくっ! 首肯する。そうして、その双眸に決意の色を滲ませた。

「よし、やってみるよ。うんうん。わたし、やる。やるからね」

「その意気だよ」

 相手の気迫に投合するように、腹に力を入れて声を出す冬太であったが、

(けど……本当にこのままでいいのかな? なんか、どっかで引っかかってる気がするけど……)

 内側では、言い様のない不安が広がっていくようで、説明できない気持ち悪さを得ている。抱いている不安として、どこかでボタンをかけ違えたことに気づかないまま、ボタンをかけつづけているような……現状に対し、本心から笑顔を浮かべることはできなかった。ただ、どこがどう不安なのか分からないため、原因不明の鬱憤が自身に蓄積されていく。どこに埋まっているのかも分からない地雷が目の前の道にあるような気がして、未来が気がかりなものに。

 ただ、自分のことより、今は佳奈の方を応援してあげたい。本人がやる気になっている以上、抱く不安を口に出すことは憚られた。

(このまま全部がうまくいけばいいんだけど)

 抱いているマイナス要素が杞憂であってほしいと念じながら、大きく息を吐いていく。そうして白くなった息が空間に溶けていくのを呆然と目に。

(…………)

 落ち着こうとするが、気持ちはやはり不安定。

 自分の後ろへと通り過ぎていってしまう時間が、取り返しのつかない未来に向かっているような気がして、恐怖にも似た感情が芽生えている……見上げた空が暗くなることが、妙に怖くなっていた。包まれる寒さは、周囲の空気というよりも、内側から発生しているように。


       ※


 十二月は『師走』と呼ばれていることが影響しているかは定かでないが、日々を過ごすことに関して、他の月よりも忙しい空気が包み込んでいる。

 世間は賑やかになりながらもとても騒がしく、テレビでは毎日のように特別番組が放送されていた。周囲でもいろんな行事が予定されていて、瞬く間に過ぎ去っていく……そして気がつくと新年が幕を開けていた。

 吹きすさぶ北風は猛烈に冷たく、多くの生命を脅かす厳しさがある。室内の空気も凍るようで、朝はいつも布団から出るのが億劫で仕方のない。この時期、冬太は世の中に魔法が存在することを実感する。なぜなら、炬燵には眠たくなる魔法がかけられていると疑いようがない。

 短い冬休みはあっという間に過ぎていき、小学六年生の三学期が開始した。日々が過ぎていくごとに、小学生である時間がどんどん失われていく。

 六年間を思い返してみても、修学旅行とか運動会とか、いくつか思い出と呼べるものもあるが、ないといえばない。そんなに優秀な児童ではないので活躍するような行事もなかったし、学校の勉強ができたわけでもないし、所属している美術部の活動はほとんどお喋り部みたいなものだし……よくもまあ同じような毎日を何の疑問も感じることなく過ごしてきたものである。実に無難な六年間で、卒業までもきっとそんな日がつづいていくのだろう。

 この上ないほどに平凡である。


 三学期となり、六年生は授業らしい授業もなく、学校に集まっては文集を書く作業や、楽しくお喋りをして帰っていく日々。

 今日はクラスで行う『お別れ会』の準備のため、班ごとの発表内容を考えていた。その際、ふと窓に視線を向けると、グラウンドで低学年が体育の授業でサッカーの試合をしている。ぼんやり眺めていると、なぜだか『懐かしさ』を覚えてしまった。まだ在学しているというのに、下級生のようにグラウンドを駆け回ることが自分にはすでに失われているみたいに。試合に出ていない体操服が、退屈そうに鉄棒にぶら下がりながら話し合っている様子は、『自分も前はあんな風にしてたんだっけ?』と感慨深いものがあった。

 そんななか、週三日の美術部の活動も先細りとなる。冬太の作品意欲も減退していて、気分転換に紙粘土をいじっていてもなかなか形になることはない。潰しては捏ねるを繰り返すばかり。覇気がなく、すっかり惚けていた。

 年末に部長の座は後輩に譲っているため、もう顔を出す必要もないが……これまでの惰性で美術室に通い、部活後の下校時は、必ずといっていいほどそよ風公園に寄り道している。だがしかし、そよ風公園に寄ることになった契機のどんちゃんは、野良猫の気まぐれだろうか、姿を見せなくなっていた。十一月の最終週からはいつもベンチに丸まっていたのに、最近はぱったり。冬太はずっとベンチに座って待っているが、ちっとも現れてくれない。それでも冬太はベンチに座っている。なぜなら、隣に佳奈が腰かけているから。

 どんちゃんは姿を見せないものの、『佳奈の告白を協力する』という意味合いの相談は継続していた。

「最近さ、勝平がちょっと変なんだよね。うまくは言えないけど、『心ここにあらず』って感じで。若林さんもそう思わない?」

 佳奈の告白に協力すると決めた日から、部活がある日は必ずそよ風公園に寄り道し、『告白するにはどうすればいいか?』やら、『最近の勝平に関する情報交換』といった話題で盛り上がっている。本人たちは真面目に取り組んでおり、卒業までの残された時間で、『どうすれば佳奈がうまく告白できるか?』を真剣に考えては意見交換に費やしている。だいたいは、本番を想像した佳奈が赤面しつつも首を傾けながら『まだちょっと勇気がないの。ごめんね』といったやり取りで、公園を後にするパターンが多かった。

 きっと今日もそうなることは明らかだが、それでも冬太はよかった。家に帰ったところですることはなく、こうして佳奈と話しているだけで楽しかったから。

「やっぱり勝平、落ち着きがなくなってない? 具体的にどうだっていうのは難しいんだけど……ちょっとしたことなんだけど、みんなで話してるときにぼぉーっとしてたり、移動教室を間違えたりして。こんなこと今までなかったのに。うーん、なんか、悩みでもあるのかな?」

 などと話していく二人は、誰もいない公園で当たり前のようにベンチに隣り合って座っている……その光景が、その二人のやり取りこそが、これまでにない波乱を呼び込むとも知らずに。

 波乱が鋭く牙を剝くのは、一月の最終日である一月三十一日のこと。


       ※


 一月三十一日、火曜日。

 昨夜は少しだけ雪が降った。集団登校の集合場所であるそよ風公園の橙色の柵には、うっすらと雪が積もっている。雪合戦で遊べればよかったが、そんなに量はなく、玉にしようとすると白色に茶色が混ざるため、断念した。

 六年間使っているランドセルを背中に、黄色い腕章をつけた団長の冬太は、副団長の佳奈とともに下級生と通学路を歩いていく。頭上の電線からたまに落ちてくる雪に気をつけながら、緑色をしていない緑のおばさんが交通整理している信号を越えて、愛名西小学校に到着。東門で出迎えていた先生に元気に挨拶して、校舎の『L』の線が折れる場所にある下駄箱で上履きに履き替えていく。

「あ、勝平だ、おはよう」

 赤地に黒い線のあるウインドブレーカー姿の勝平がすぐ後ろからやって来た。耳にかかる髪の毛を揺らしつつ、きりりと吊り上がった目はいつもなら覇気のある勝平を表しているが、今はなんだか眠そうに細くなっている。

 ふと視線を下駄箱奥に向けてみると、登校する際に一緒だった佳奈が、そそくさと階段に歩いていくのが見えた。その姿、意中の勝平と一緒にいることが恥ずかしく、この場にいることが耐えられないように。

 冬太は嘆息。『そんなことじゃ、卒業までに告白なんて無理じゃない?』などと心配になりつつ、勝平とともに階段に向かっていく。目指すは教室のある四階。

「随分と眠そうだね。昨日遅かったの?」

「うーん……まあ」

「テレビ?」

「うんにゃ、違うけど。最近さ、なんか、あんまり寝つきがよくなくて……ふはぁー、眠い」

「もしかして、何か悩みでもあるの?」

 冬太はずっと抱いていた疑問を口にする。年明けぐらいから、勝平の様子がおかしかった。教科書を忘れ、移動教室を間違えるといった、普段ではしないミスを起こしていたのである。これまで心配していたが、なかなかそれに触れることができず……けれど、今なら踏み込んでも自然な気がした。

「なんか最近、勝平らしくなくて、ぼぉーっとしてるときがあるし……心配なことでもあるの?」

「おっ、鋭いね。まあ、あるといえばあるよ。けど、だからって、誰かに相談するようなことでもないし、相談したからってどうにかなるもんでもないし……あー、眠い」

「はははっ。瞼がくっつきそうだね。ちゃんと前見て歩いてよ。席につくまでは登校だからね」

「遠足みたいに言うなよ」

「おやつは三百円まで」

「いいの?」

「よくは、ないね……」

 隣を歩く危なっかしい足取りを気にかけながら、一緒に階段を上がって四階に到着。

 通路を右折する。すると、東側の奥までずっと廊下がつづいていて、天井には一定の間隔で照明が設置されているが、点灯されていなかった。各教室の前には傘起きがあり、だいたいどこも置き忘れている傘が二、三本は置かれている。

 階段に近い教室が冬太と勝平が所属する六年一組。

 廊下には暖房設備がないため、吐き出す息は白くなる。外を歩いてきた冷たい手を意識しながら、教室に入ろうとして……目に映った光景に足を止め、連動するようにしてその頭上には一つの疑問符が浮かぶことに。

(……あれ?)

 教室前方から入ろうとしたが、それを阻むようにして赤いランドセルが立っていた。白いコートに、髪の毛を後ろで縛っている後ろ姿は、一緒に集団登校してきた女子のもの。

(若林さん……?)

 なぜそうして入口に立ち止まっているのか分からない。寒いから早く入ればいいものを?

 冬太は不思議に思いつつも、それについて触れることなく、佳奈を追い抜いて教室に入っていこうとして……目が巨大化する。

『おおぉ! お二人さんが揃って登校してきたぜ!』

『お前ら付き合ってんだろ! ひゅーひゅーっ!』

『祝福ムードで満開なんだから、手ぐらいつないでこいよ!』

『知ってるぞ、いつも公園でいちゃついてるよな!』

『オレたちのこと、ちゃんと結婚式に呼んでくれよ!』

 冬太が教室に入るや、待っていたかのように騒がしい声が炸裂していた。その矛先は、入口で状況に混乱している冬太。きっと同じ気持ちで、佳奈は立ち止まっていたのだろう。

 あまりに突然のことに、冬太は瞬きすることも口を閉じることも忘れて、目を白黒させる。

(……っ)

 騒音としか思えない教室のざわめきに心を圧迫させながら、教室前にある黒板に視線が移る。そこには冬太と佳奈の名前がたくさん書かれていて、相合い傘で並べられたものは、赤チョークで描かれたハートに囲まれていた。周囲も多くのハートマークが散りばめられている。

(……なんで!?)

 冬太の頭上には、多くの疑問符が舞い踊る。『どうしてこんなことになっている!?』と疑問符を浮かべたところで理解できるものではない。

 頭には、まるで舞台の紙吹雪のように、多くの色が飛び交う混乱したまま、自分同様に立ち尽くしている佳奈に視線を向けると……俯き、辛いことに耐えるように、唇を噛みしめながら小さく震えていた。

 刹那、目の前が真っ赤に染まったと思えるほど、冬太の興奮状態が頂点に達する。

(駄目!)

 関係を勘違いされているこの状況は、あまりにもまずい!

 現状に、全身の血が逆流するように感情が荒ぶっていき、冬太は急いで黒板消しを手にする。込み上げてくる痛々しい思いを抑えるように、背中から突き刺さる多くの言葉に耐えるように、背伸びしながら黒板消しを動かしていく。

(駄目だよ! 僕じゃない!)

 消す。消す。消す。消す。雑に黒板掃除するように、書かれている冬太の名前も佳奈の名前も、どんどん消していく。

(僕じゃない! 僕じゃないんだ!)

 一通り黒板の字を消して、破裂せんばかりに高まっている感情を抑えながら後ろを振り返ると……クラス中の男子が、口元を緩めながらこちらを見ている。

 にやにやにやにやっ。

 にたにたにたにたっ。

 冬太は嗚咽が漏れそうなぐらい気分が悪くなった。苦痛に耐えるように奥歯を噛みしめて、自分の席に向かう。口を閉じたまま、足早に一番後ろの席に。その間、顔面は真っ赤に染まっていたことだろう。

(若林さんは、勝平のことが好きなんだよ!)

 クラス中に勘違いされてしまえば、目標としている佳奈の告白に支障が出てしまう。いや、それ以前に、勝平にそんな誤解をされれば、佳奈の立場がない。

(僕じゃないんだ!)

 冬太は席につき、クラス中の視線を受けながらも、不機嫌を示すように力強く頬杖をつく。誰の顔も見ないように視線を下げていった。

(我慢しなきゃ我慢しなきゃ我慢しなきゃ我慢しなきゃ)

 理屈としてではなく感覚的に、今は動いてはいけないと思った。からかわれていることに対して、声を荒げて否定することや、反感の異を示すように動くと、反して事実が肯定される気がする……言いたいことはたくさんあるが、それらをぐっと抑えて、強く結ぶように口を閉ざす。

(若林さん……)

 同じ立場にある佳奈のことが心配になった。少しだけ上げた視界では、立ったままずっと俯いていた佳奈が、ゆっくりと自分の席についていく。

 そんな姿に、ちくりっと胸が痛んだ。

(違うんだ……)

 冬太ではない、佳奈が好きなのは勝平である。

 断じて冬太ではない。

 冬太では、ない。

(…………)

 どこでどう間違ってしまったのか、クラスメートに勘違いされることになった今日までの日々を悔やみつつ、取り返しのつかない現実に大きく肩が落ちていった。


 突如としてクラスメートに冬太と佳奈の仲をからかわれるようになったのは、いつも部活帰りに寄っているそよ風公園のやり取りを目撃されたこと。本人はそんな意識なかったが、遠目からすると、二人が仲よく喋っていたように見えたらしい。まるで仲睦まじい恋人のように。学校の教室ならともかく、外で二人きりで会っていたのだから、はたから見ればそういうことになるのだろう。冬太だって、クラスメートの男女が同じことをしていたら、そう勘繰りたくなるに違いない。

 そよ風公園でのやり取りは、佳奈の告白のために話し合っていたが、その行為が足を引っ張っていたなんて……できることならタイムマシーンに乗って、公園でのやり取りを妨害したいところ……そんなこと、漫画ではないので不可能だが。

 嘆息。

 今回の件で、冬太は佳奈と距離を取るようになっていた。教室ではもちろんのこと、毎回参加していた部活を休むようになる。集団登校の際も一言も口をきかなくなり、下校するときは佳奈がまだ教室にいるのを確認してから、そそくさと出ていく。帰りが一緒になったら、また勘違いされてしまう。そんなの、駄目だから。

 冬太は、せめて佳奈が勝平に告白できるまでは、接点を絶とうとして……そのまま関係が希薄となっていく。

 それはまるで、つながっていた糸が切れたみたいに。


       ※


 二月十五日、水曜日。

 冬太にとって、今日は特別な日だというのに……まったく感情が起伏することはなかった。

「…………」

 佳奈のことを避けるようになってから、すでに二週間。その間、本当に一言も言葉を交していない。同じ通学路を通い、同じ教室で授業を受けているというのに。

 二月中旬となり、卒業式まで一か月を切っている。授業は半日となるために荷物も少なく、ランドセルを背中にする回数も極端に減っていた。通っている間は、背負うランドセルは野暮ったく感じていたが……ここにきて、うまくロックができなくなった金具や、側面の剥げた革の部分が愛しく感じるようになっていた。

 本日は、四時間目の授業に校長先生がやってきて、これからの将来に向けての話を聞かせてくれた。といっても、内容はほとんど覚えていない。毎週月曜日の全体朝礼のとき同様にきっとありがい話だっただろうが、聞いていてぴんっとくるものはなかった。けれど、普段は姿を見ることのない校長先生が教室にいる光景は、なんともありがたい気持ちになる。理由は不明だが。

 授業は四時間目までしかないので給食はなく、他の学年が給食を食べている時間に掃除をして、帰りのホームルーム。特に連絡事項はなく、すぐに下校時間。

 教室のざわめきを耳に、冬太は教室にまだ佳奈がいることを確認してから、急いで廊下に出て階段を駆け下りていく。一階の下駄箱でスニーカーを履き、吹いてくる風に黒色のコートを靡かせながら下校する。この時間帯は東門が開いていないので、遠回りで正門の南門まで歩いていかなければならない。面倒だが、そういうことになっているので仕方ない。

「…………」

 慣れない南門から敷地内を大回りして歩いていく。まだ給食の時間であるため、グラウンドには誰もいない。なんとなく寂しい気持ちになった。

 思い返してみると、去年までは早い時間に帰ることができる六年生のことを羨ましく教室の窓から眺めていたが……今は教室で給食を食べている方が羨ましいように思える。

「…………」

 今日は二月十五日。つまり、昨日は二月十四日で、世間一般ではバレンタインデーだった。年明けから計画していた予定では、昨日佳奈が勝平に告白することになっていたが……それが行われたかどうか、確認はできていない。だがしかし、佳奈も勝平も雰囲気がいつもと変わりないので、そんなことがあったとは思えなかった。

「…………」

 学校と家の中間地点である坂の上の信号を越えて、住宅街を北方に向けて歩いていく。六年生しかこの時間には下校しておらず、冬太が早く教室を出てきたので、前方にランドセルを見ることはなかった。

「…………」

 視線は下がっていて、最近ずっと包まれている気まずい思いを抱いたまま、ただただ白くなる息を吐き出していく。

 こういった場合、したくもないいやな想像をしてしまう。もしかすると、このまま一生、佳奈とは話せないかもしれない。このまま卒業すると、中学校は集団登校ではないので一緒に登校することはなく、クラスも多くなるので一緒になる可能性は低く、もう顔を合わすこともなくなってしまうかも。その事実は寂しい思いがあるが、現状がそうなってしまった以上、どうすることもできない。

 包まれるやり切れなさは大きなものだった。

「…………」

 吹いてくる冷たい風が、心の奥底にある弱い部分を刺激する。

「…………」

 二週間前に、教室で佳奈との関係をからかわれたとき、何も言わないことが得策だと思っていた。荒れ狂う現状に対して、じっと耐えて何も行動をしないことが最善だと考えていたが……今思うと、そういった口実を目の前にぶら下げて、何かすることを恐れていたのかもしれない。自分が行動することで、それまでの佳奈との関係が壊れていってしまいそうで。

 何もしないことで、大切な今を守ろうとして……その考えとは裏腹に、今は大切なものを失っていた。

「…………」

 部活帰りに、佳奈とそよ風公園に寄り道した日々は楽しかった。最初は猫のどんちゃんと遊び、佳奈の恋愛相談を受けて、どうしたら勝平にうまく告白できるか真剣に考えていて……願うなら、あの日々を取り戻したい。

 なくしたもの、とてもかけがえのないもの。

「…………」

 現状は、狂った歯車に動かされている気がした。もう佳奈に協力はできない。相談を受けることもできないし、そよ風公園に寄り道することもできない。ああして二人の時間を過ごすことができない。

 できないできないできないできない。冬太は、もう佳奈のすべてに背を向けてしまっている。

 名目は『佳奈のために』というもので。

 自分がいない方が、佳奈には都合がいいに決まっている。自分がいることで、佳奈の邪魔になってしまう。

 だからもう、佳奈とは向き合えない。

 もう二度と。

「…………」

 すぐ横を主婦らしき女性が乗った自転車が通過していく。冬太は誰もいない通学路を黙々と北方に向かって歩いていき、十階建ての病院が見えてきた。そろそろ下り坂となり、家が近い。

「…………」

『小学校を卒業するまでに告白する協力をする』

 その目標は、果たすことができない。ちゃんと協力するといったのに。あんなに作戦を考えたのに。

「…………」

 左手に、橙色の柵に囲まれたそよ風公園が見えた。六年間通っている通学路なので、もう公園前の道を何千回も通っている。そのため、風景に違和を得ることはないが、今は公園のベンチに目を向けられなくなっていた。目にするだけでも、苦々しい思いに駆られてしまうから。

 正直な気持ちとしてはあのベンチに向かいたいが、強く望んだところで、選択するわけにはいかない。

「…………」

 自然と下唇を噛み、少しだけ歩く足に力を入れ、そよ風公園を通り過ぎようとして……刹那、思いもしなかった存在によって阻まれていた。

「……嘘ぉ?」

 冬太の足が止まる。想像しなかった眼前の光景に、目を点にさせたまま、間抜けにも口がぽかーんっと開いてしまった。

「……どんちゃん?」

 前方には、急ぎ足の冬太を通せん坊するように、耳を立てた猫のどんちゃんがいた。灰色と黒色の毛に、胸だけ白色の毛は、間違いなくどんちゃんである。道路に座り込んで、円らな瞳で真っ直ぐ冬太のことを見つめてくる。微動だにすることなく、じーっと。

「…………」

 冬太の心が、凍りつくような緊張を得た。どんちゃんの真っ直ぐな眼差しを受けていると、抱いている複雑な感情を見透かされているみたい。

 心臓は一気に高鳴っていく。

「ど、どんちゃん、今まで、どこいってたんだよ? ずっと心配してたんだから」

 問いかけたところで、相手から返答があるわけもなく……ただ、じっと見つめられていることに変化はない。

 冬太は、止めた足を進められないまま。

「どん、ちゃん……」

 喉が鳴る。

 猫相手だというのに、なぜだか全力で逃げ出したい衝動に駆られてしまう。けれど、そうしようにも体が石化したみたいに自由を奪われている。

 どんちゃんに見つめられていると、うまくいかない現状を責められているような気がして……視線は下がっていく。

「…………」

 気まずさを得ながらも、その頭では、これまでどうすることもできずに絡み合っていた思考の糸が少しずつ解けていく印象がある。

(…………)

 このまま、佳奈との距離を取ったまま卒業してしまうなんて……いいわけがない。

 そんなこと、望んでいない。できることなら、またあの頃のように笑い合いたい。横に並んで、一緒に笑って、悩んだり考えたり、どんちゃんをかわいがったりしたい……部活後のそよ風公園のやり取りをしたい。それが紛れもない冬太の本心である。

 どうにもならない現状なんて関係なく、からかうクラスメートなんて気にすることなく、冬太の好きなようにやれるのなら、このまま佳奈がくるのを待っていたい。

 待って、佳奈との日々を取り戻したい。

 約束した通り、佳奈の告白を手伝ってあげたい。

(そうだ……)

 約束した。協力すると約束した。その約束をまだ果たしていない。

 なら、このまま卒業するなんて、いいはずがない。

(約束したなら、ちゃんと協力しないと)

 逃げるわけにはいかない。辛いものに背を向けるわけにはいかない。前に向かって突き進んでいくべき。

 冬太はどんちゃんの横を通り過ぎるのでなく、正面から向き合って……覚悟し、手を伸ばしていった。一切警戒なく、身動きすらしないどんちゃんを抱き上げていく。

「そうだよな、このままでいいわけないもんね。しっかりしなくちゃ」

『みあー』

「だね。けじめをつけないと」

 冬太は、自身の意思を示すように大きく頷いてから、回れ右。くるっと、風を切るようにして。

 今まで歩いていた方角は北だが、回れ右をした以上、顔は南を向く。そちらは小学校のある方向。

 通学路からは、半日授業を終えた六年生が続々とやって来て、前方の道で東方に曲がっていく。

「…………」

 冬太はどんちゃんを抱きながら、じっと立ち尽くしていき……五分後、白色のコートが現れた。

 姿が目に映った瞬間、冬太には次の行動を起こすことに微塵の迷いもなかった。心の奥底からその存在を求めるように、名前を口にする。

「若林さん!」

 空間を突っ切るように発した冬太の声に、下校途中だった佳奈は目を丸くしていた。驚いているような戸惑っているような表情は、かけられた声が大きかったせいか、最近避けていた冬太から声をかけられたせいか、はたまた胸に抱いているどんちゃんのせいか……冬太は、意を決するように言葉を紡いでいく。

 交わした約束を果たすために。

 もう逃げるわけにはいかない。

「ごめん、最近、なんかずっと変な風になっちゃって。でも、もうやめる。みんなにどう思われようが、関係ない。僕は僕だし、若林さんは若林さんだから」

 だから、

「若林さん」

 明日、

「明日さ、勝平をここに連れてくるよ」

 あの日の約束を果たすために。

「若林さん、頑張ろうね」

 すべては佳奈のため。それが冬太のすべきこと。


       ※


 二月十六日、木曜日。

 放課後。

 見上げてみれば真っ青な空が広がっていて、太陽がとても高い場所にある。快晴。吹いてくる風は冷たいが、天気がいいせいで外の空気は気持ちよく感じられた。力いっぱい空に向かって伸びをすれば、心地よい脱力感を得られるに違いない。

 しかし、そんな爽快さとは無縁のごとく、下駄箱を出たところに表情を強張らせた冬太がいる。これまで経験したことのない極度の緊張を帯び、羽織っている黒色のコートを重たく感じた。ノートと筆記用具が入っている手提げ鞄を右手に、赤い生地に黒線があるウインドブレーカーの背中を追いかけていく。

「な、なあ、勝平、今帰りか?」

「んっ? ああ。帰って飯食ってから、また学校きて部活だけど」

「ああ、トレーニングの陸上部か。そっかそっか。そうだったそうだったね、勝平には陸上部があるんだった」

 知っていた情報なのに、これっぽっちも想定していなかった。額に汗が浮かぶことになるが……ぶつかった壁に出鼻を挫かれるも、そうやって挫けるわけにはいかない。気を取り直し、ぐっと全身に力を入れて耳を覆う髪の毛を大きく揺らしながら、言葉をつなげていく。

「部活がある前に、ちょっと時間ないかな? というのか、できれば今からがいいんだけど。駄目なら、練習が終わってからでいいからさ、ちょっと付き合ってほしい場所があるんだ」

「ごめん。今日は駄目だ。帰ってから部活までに、いかなきゃいけない所があるし、部活が終わってからも都合が悪いから」

「いや、その、ほんとにちょっとでいいんだけど……」

「ちょっとも無理。ごめん」

「そんな……」

 否定を意味するように手を横に振り、南門に歩いていってしまう勝平の姿に、冬太は置いてきぼりをされる寂しさを得るが……おめおめと引き下がるわけにはいかない。そよ風公園には佳奈が待っている。

「おい、勝平ってば」

 追いかけていって、肩を掴んだ。力づくでもこちらを振り向かせ、なんとしても頷かせるべく。

「遅くなってもいいからさ、ちょっと付き合ってくれよ。ちょっとでいいから」

「……お前、どうしたんだよ? どんな用があるか知らないけど、明日でいいだろう? 明日も学校あるんだから」

「学校じゃ駄目だよ。学校じゃ、その……みんないるし……」

「みんながいたら駄目なのか? なんだそれ?」

「と、とにかく! どうしても今日頼みたいんだよ!」

 声が大きくなったこと、冬太自身も驚いた。六年生は下校時間だが、下級生はまだ給食の時間なので周囲に誰もいないことに、ほっと胸を撫で下ろす……隠さなければならない部分があるだけに、なかなか視線を上げられない。

「ごめん、その……大声出して……」

 視線が落ちそうになるも、気力を持って相手を見つめる。睨みつけるように強く。

「お願いだから、一緒についてきてほしい」

 理由はそよ風公園に到着してから話す予定だったが、そんなわけにはいかなくなった。少しは情報を開示して、相手に分かってもらうしかない。

「若林さんが待ってるんだよ」

「はぁ? どうして若林が俺を待ってるんだ? えーと……いや、そんな約束してないけど」

「そ、そりゃ、約束はしてないっていうか、約束してないから、こうして頼んでるんだよ」

「なんでお前がそんなこと? なんにしろ、そんなの明日でいいだろう? 今日は駄目なんだ」

「明日じゃ駄目なんだよ。どうしても今日じゃないと」

 当初は要件を告げずにそよ風公園まで連れていくつもりだったが、会話の流れから、それが困難なものに思えてきた。さらに深く踏み込んで相手を説得するしかない。

 冬太は一瞬の躊躇を経て、その口を大きく開ける。

「若林さんが、その、お前に告白したいから、って……」

 遠回しの言い方をしても相手に承諾してもらえそうにないし、それ以外に会話を進める術が冬太には思いつかない。待っている佳奈には多少の罪悪感もあるが……言ってしまった以上、なんとしても勝平をそよ風公園に連れていかなければならない。

 絶対に。

「若林さんはお前のことが好きなんだよ。だから、それを告白するために、待ってるんだ」

「…………」

「若林さんは真剣なんだ。だから、勝平も真面目に受け止めてほしい」

「…………」

「頼むよ、遅くなってもいいからさ、そよ風公園にいってやってくれよ。この通りだから」

 懇願するように頭を下げる冬太。もう形なんて気にしていられない。佳奈との約束を果たすためには、こうするしかない。

「お願いだから」

「…………」

「勝平……」

 相手からちっとも反応が返ってこないこと、冬太は歯を食い縛る。瞼を上げることが怖くて、ぎゅっと強く閉じたまま……五秒が経過して、十秒が経過して……熱くなる全身に、冷たい風が吹き抜けていく。

「…………」

「……ぷっ、ぷははははははっ!」

「勝平……?」

「お前ら、随分とおかしなことになってるな」

「あがぁ……?」

 冬太は顔を上げた。そこには腕組みをして首を傾けている勝平の姿。苦いものを口に入れたときのような、複雑な算数の問題を前にしたように、眉間に皺を寄せて。

 相手の様子はこっちが思っているような良好なものではなく、冬太の心が強く圧迫される。このまま話していても、いい方向に進展しそうにないことが分かってしまう……けれど、止まっている場合ではない。

 喉を鳴らした。ごくりっ。

「ほんとに真剣なんだよ、若林さんは。だからさ、頼むよ……」

「悪いけどさ、俺、そんな気分じゃないから」

「気分じゃない……?」

 瞬間、血液が頭を激しく巡るような感情を覚えた。真剣に話しているのに、そんな発言されるなんて!

 感情が震える。

「き、気分じゃないってどういうことだよ!?」

「怒られても……」

「ふざけてんじゃないよ! 頼むから真剣に考えてくれよ!」

「ふざけてなんかいないよ」

 勝平は相手の感情の揺らぎに対してどう対応すればいいか困惑する。空間に息を白い息を吐き出して空を見上げた。『自分の立場をどう説明すればいいのか?』と思案するように……顔を冬太に戻す。こちらの真剣さを告げるように、決して相手から目を逸らすことなく、口を開けて正面から言葉を伝えていく。

「そんな気分じゃないっていうのは、俺の本心だ。詳しいことは、あんまり言えないけどさ、その……今な、家族のことで、大変なんだ」

「家族のこと……?」

「ああ。家庭の問題というか、家族の危機というか……ごめん、家の事情だからさ、いつか話せる日がきたら話すけど、今は勘弁してほしい」

 そういった事情を抱えていたからこそ、年明けから落ち着かない思いがあった。

「で、そんな状況だから、他人のことに構ってる余裕がないんだよね。ましてや告白を受けるなんて。誰かのことを考えるよりも、今は自分のことをしっかりやらないといけないから。もう時間がないみたいでさ……」

 勝平は再び青い空を見上げて、双眸を細めていく。口元を小さく緩めていった。

「それにさ、俺がいったってところで意味ないだろう? だって、若林が好きなのは俺じゃないんだから」

「あがぁ!? な、何言ってんだよ? 勝平のことが好きなんだから」

「違うよ、そんなことない。冬太、それ、本気で言ってるのか?」

「本気だよ。本人から聞いたんだから、間違いない」

「本人がそう言ったからって、必ずしも正しいってわけにはならないと思うけど」

 勝平は笑みを浮かべて、冬太に背中を向けた。

「若林が好きなのは、お前だよ、冬太」

「っ……!?」

 告げられたのがあまりに突飛だったので、冬太は暫く目を白黒させて……急いで手を横に振っていく。頭では、先月のクラスメートの勘違いが頭に過っていた。

「ち、違う。違うよ。あんなの嘘だから。みんなが適当なこと言ってるだけで、そんなわけないから」

「そういえば、ちょっと前にそんな噂が流れてたっけ? まあ、噂は噂なんだろうけど、そんなのは関係なくて、若林が好きなのは、冬太だよ。見てれば分かる」

「…………」

「他人のためにお節介焼こうとしてるみたいだけど……自分のことってなかなか気づかないものかもしれないな。はははっ。だからさ、若林が待ってるなら、俺じゃなくて、お前がいくべきだ」

「違うよ。そんなの違う」

「違わないよ」

 自分の言葉に自信があるように、勝平は淀みなく言葉を紡いでいく。

「なんで冬太は『若林が俺のことを好き』ってこと、知ってるんだ? 本人から聞いたんだろ? ってことは、若林にとってお前がそれだけ親しい存在ってことだ。自分の好きなやつを言えるぐらい、お前に気を許してるんだよ。女友達よりも誰よりも、お前にな。じゃあ、なんでそんなことができるのか? 考えてみれば、すぐぴんっとくるはずなんだけど」

「…………」

「冬太、お前がしっかり若林の気持ちを受け止めてやれよ。じゃあな」

 勝平は満面の笑みを残して、冬太に背中を向ける。そのまま南門を越えたときには、これまでのやり取りはすっかり頭から消え、これから自分がしなければならないことを思考していく。

 最愛の家族の期待に応えられるよう、懸命に日々を費やしていくことになる。残された短い時間を無駄にしないために。


「…………」

 別れを告げて、南門に歩いていく勝平の背中に対し、冬太は何も言い返すことができなかった。相手を追いかけることもできず、今はただ呆然と立ち尽くすしかない。

 その胸では、鼓動の周期がおかしくなるのを止めることができなかった。

 どっくんどっくんどっくんどっくんっ!

 これまでずっと胸に引っかかっていたことがある。佳奈が勝平を好きであると聞き、それに協力するとなったとき、理由も分からず気持ちが揺れ動いた。落ち着かなくなるというか、常に心の奥底にしこりのようなものができ、言い様のない不安に駆られるように。

 それが、勝平の言葉によって、すっきりした気がする。ばらばらだったパズルのピースが自動的に組み合わさっていき、今まで見ることのできなかった本当の絵を眺められるようになった。

 どっくんどっくんどっくんどっくんっ!

 冬太は佳奈に会わなければならない。約束を果たせなかったことを謝らないといけないし、それ以外のことでも。

 どっくんどっくんどっくんどっくんっ!

 後ろから急かされるように、冬太は南門へ足を進めていく。向かうのは、そよ風公園。

 あの場所で、彷徨っていたこれまでの日々を終着させる。

 でなければ、一生後悔してしまいそうだから。


       ※


 まだ太陽が高い位置にある。吹く風が冷たさと厳しさが含まれているが、この時間帯では、少しだけ柔らかさも得られた。

 白色のコートを羽織ることなく、手提げ鞄を横に置き、そよ風公園のベンチに腰かけている佳奈。こうして冬太が勝平を連れてくるのを待っている。

 ただ腰かけているだけだが、脈動が狂っているみたいに激しく、緊張の色が濃かった。全身に不必要な力が入っているのだろう。落ち着きがない。

「…………」

 十一月にここでどんちゃんを見つけて、それから冬太と一緒に部活帰りに寄り道するようになった。話していくうちに勝平への気持ちを打ち明けることになって、告白するためにどうしたらいいか相談するようになって……思い返してみると、あの日々は楽しかった。

 先月、冬太とのことをクラスメートにからかわれ、距離が離れてしまったけど、昨日、また冬太が話しかけてきてくれた。それがとても嬉しくて、そして今日、なんとここに勝平を連れてきてくれるという。

 話を聞いたとき、帯びる動揺に言葉を返すことができなかった。ただ、相手の勢いに押されるように、小さく頷いたことは覚えている。それはつまり、いよいよ告白を決行することを意味し、心の奥底が強く刺激された。

 そして今日、放課後の今、ここに腰かけている。もうすぐ極限状態に陥ると考えるだけで、心臓がおかしくなりそうだった。

 どきどきどきどきっ!

「…………」

 時刻は午後一時半になる。昨日までなら家に帰って昼食を食べている頃だが、今は空腹を得ることはない。これからしなければならないことを考えると、腹の具合なんて気にしているゆとりはないから。

 寒いはずなのに、背中に汗を掻いてきた。かけている赤枠の楕円眼鏡をくいっと上げるが、視線は下がっていく。そのまま時間が過ぎていくのみ。

「…………」

 正直な気持ち、こうして置かれている状況として、どこかぎくしゃくとした印象があった。気持ちの詳細は佳奈にもよく分かっていないが、正常だったものがいつの間にかずれ、そのまま現状を迎えている気がする。

 佳奈は、現状にしっくりきていない。

 やり直そうにも、どこでどう間違えたのかが分からないだけに、軌道修正することができなかった。今は流されるままに行動していく。

 これから冬太に連れてこられる勝平に、気持ちを伝えて。

 意識すると、全身が熱くなっていく。コートを脱いで、冬の風に身を晒していく。

 吐き出す息は、白く広がり、消えていった。

「…………」

 公園隅に生えている銀杏の木は、寒さに耐えるように、今はすっかり葉を失って寂しいもの。『そういえば、秋に両親と一緒に青願公園の銀杏祭りにいったっけ? 金魚の浴衣を着たんだった』なんてことが頭に過ると、その姿を冬太に見られていたことを思い出し、恥ずかしい気持ちが蘇った。きゅっと手を握る。

「…………」

 ここに座ってすでに十五分経過している……緊張の色が多少薄らいでいて、ちょっと肌寒くなってきた。脱いでいたコートを羽織り、下がった視線はすぐ前の地面を見つめる。小石が転がる公園の土は、いつも見ているものなのに懐かしい感じがした。

 ここは集団登校の集合場所。今日まで当たり前のように足を踏み入れていたが、小学校を卒業したらもう立ち入ることもなくなるだろう。

 ちょっとだけ、寂しい気持ち。

「…………」

 世界が自分を置いてどんどん進んでいってしまうと思えるぐらい、今は時間がゆっくり流れている。頭は真っ白で、季節がゆっくりと移ろっていくように、ここに座る佳奈も世界とともに少しずつ変わっているのかもしれない。もしかしたら、よくここで眠っていたどんちゃんはこんな気持ちだったのかもしれなかった。

「…………」

 今では、緊張の色も、ぎくしゃくした現状も、佳奈を取り巻くすべての色を忘れることができた。

 世界がとても静かなものとなっている。

「……っ」

 地面の茶色が濃くなった。それは影が差したから。

 顔を上げると、そこに黒色のコートの身を包んだ冬太の姿があった。心臓がどきりっと跳ねるが……しかし、目を配らせてみても、冬太以外に誰の姿もない。

「遅かったね、青崎くん」

「…………」

「どうしたの?」

 口を一文字にして、黙りこくっている冬太の姿に、首を傾ける佳奈。告白しなければならない自分が緊張するならともかく、第三者の冬太がそんなに体を強張らせている理由が分からない。

「青崎くん?」

「……ごめん。勝平のこと、連れてこれなかった」

「ふい?」

 目をぱちくりっ。自分がこれから告白しなければならない相手が、予定と違って来ないという。つまりは、告白できないことを意味し、告白のための極限の緊張をしなくてもいいことを意味する。

 不思議なことに、残念な気持ちよりも、ほっと安堵した方が大きかった。きっと昨日から帯びていた緊張から解き放たれたからだろう。

「そっかそっか、仕方ないね。だって、わたしだもんね。告白されたって嬉しくないよね」

「違う、それは違うよ」

 冬太は慌てて、胸の前で両手を横に振る。大雨のなかを走る車のワイパーのように素早く。

「若林さんがどうってわけじゃなくてね、勝平は、その、今ね、家族が大変なんだって。詳しくは教えてもらえなかったけど……で、自分のことで精一杯で、他のことに気を回すような余裕がないらしくて」

「うん。大丈夫よ。わたしは、平気だから」

 告白する気ではいた。ちゃんとその覚悟していたが、絶対にしなければならない理由はない。気持ちを伝えて関係が変わってしまうことよりも、もしかしたら、このまま何もしないことが正解だったのかもしれない。今の距離感を大切にするために。結果論かもしれないが。

 勝平がこれなくなった以上、『こうなった方がよかったんだ』と考えることで、佳奈はこうしてベンチに座っている意味を処理しようとした。

「なんか、ほっとしちゃった。今日はずっと、学芸会の本番みたいに緊張してたからね。ありがとね、青崎くん、わたしのために頑張ってくれて。もう充分。これで充分だから。いろいろと迷惑かけちゃって、ごめんね」

 告白はできなかったが、けれど、気持ちの整理はついている。告白なんて自分一人ではできなくて、冬太の協力を得たが、そんな他人に頼っている段階で告白する資格はないのだろう。つまりは、今の佳奈では駄目なのだ。それが分かっただけでも収穫だった。

 とすれば、もうここに座っている意味はない。佳奈は立ち上がる。急に空腹を得た。早く帰って昼食を食べないと。無性にお好み焼きが食べたくなった。たまに母親がスーパー横にある屋台で買ってくる具がいっぱいのデラックスを。

「早く帰ろう。なんか、安心したらお腹が空いちゃったよ。ちょっと遅くなっちゃったから、お母さんが心配しちゃっているかもしれないな」

「あっ、ちょっと待って」

 ベンチから立ち上がろうとしていた佳奈に、冬太は正面に立ったまま動くことはない。冬太にとって、この公園にいる意味をまだ成していないから。

 冬太は、逃げ出したくなる気持ちを押し殺して、気合いを入れるように腹の中心に力を入れる。目にも力を入れ、佳奈のことを見つめた。

「あのね、分かったことがあるんだ」

 この公園に寄り道するようになったときから、冬太にはずっと腑に落ちない部分があった。それが何を意味するかずっと分からなかったが、今日理解した。

 さっき、放課後になってから。

 決意を言葉にする。

「聞いてほしいことがあるんだよ、若林さんに」

「ふい?」

「若林さんが勝平のことを話して、協力するって言ったけど」

 協力する意味で、勝平に関していろいろと情報を集めて、一緒に話し合ってきたけれど、

「でも、それがずっと」

 ずっとずっと、

「いやだったんだ」

 いやだった。勝平のことを話すこと、勝平のことを好きだという佳奈と話すこと、いやでいやで仕方なかった。

「別に若林さんと話すことがいやだったわけじゃなくて、若林さんと勝平の話をするのが、ほんとにいやだったんだ。どうしてそんな気持ちになったのかずっと分からなかったけどでも、さっき勝平の言葉を聞いてようやく分かったよ」

 下校時、勝平にそよ風公園についてくるのを断られたときに、自分の気持ちを理解した。

「僕はね、『若林さんが勝平のことを好きなこと』、それがいやだったんだ」

「…………」

「いやでいやで仕方なかった。若林さんが照れるように勝平のことを話すことが。だって」

 だってだって、

「僕は、若林さんのことが好きだったんだから」

 ようやく自分の気持ちを認識することができた。

 冬太は佳奈のことが好きである。

 だからこそ、佳奈の告白に協力することをずっとぎこちなく感じていた。

 自分の好きな相手が、他の誰かを好きである事実は、胃が捩じれるぐらいの激情の思いがある。

「いやだ」

 いやだいやだいやだいやだ」

「若林さんが勝平のことを好きなの、そんなのいやだよ」

「…………」

「いやなんだ。そんなの絶対いやなんだ。だって、若林さんを好きなのは僕なんだから」

 佳奈のことが好きなのは冬太であるから。

「ごめん……ごめんね、いきなりこんなこと言われても、困っちゃうよね。でも、今日言わなきゃいけないと思った。でないと、これから一生、こんなこと言えないと思って」

 ついさっき自分の気持ちに気がついて、伝えなければならない気持ちが高鳴り、こうして佳奈の前に立っている。

「あ、でも、勘違いしないでね。だから勝平を連れてこなかったってわけじゃないから。それはほんとだよ。その、あいつ、変なこと言うんだよね。若林さんが好きなのは、勝平じゃなくて、その……僕だって……はははっ。馬鹿だよな、あいつ。そんなわけないのに。はははっ……」

「…………」

 唇を歪ませて、どこか困った表情で笑っている冬太の姿に、佳奈は意味深長に口元を緩め、真っ直ぐ相手のことを見つめる。

「ねぇ、青崎くん」

 佳奈には内側にふつふつっと湧き上がる思いがある。こんなこと初めてで、どう表現すればいいか分からないが……ただ、声に力を入れることでしか示すことができなかった。

「どうして青崎くんが告白しているの!?」

 語尾の強さは、相手を責めるよう。

「今日はわたしが告白するはずでしょ! なんで青崎くんが好きなんて言っちゃうの!?」

「しょ、しょうがないだろう。好きなもんは好きなんだから」

「今日はわたしが告白する日で、昨日からずっと緊張していたのよ。心臓が口から飛び出しちゃいそうなぐらい。わたしの純情な気持ち、返して」

「む、無茶言うなよ。僕は僕で、若林さんのために精一杯やった結果、こうして……あれ、なんで僕、告白してるんだろう?」

「自分でも意味分かってないなんて、それこそ意味分からないよ」

「確かに、意味不明ではあるね。けど、分からないことぐらいあるでしょ。僕は神様じゃないんだ。分からないことの一つや二つ、あるに決まってるじゃん」

「そんなわけないよ。自分がやっていることぐらい、分からない方がおかしいよ。無理に開き直りするの、やめてほしい」

 口論が過熱するというよりは、拙い口喧嘩がヒートアップしてきた。佳奈はそんなこと望んでいないというのに、今は口を止めることができない。

「馬鹿じゃない」

「ば、馬鹿じゃないよ。だいたい、馬鹿って言った方が馬鹿じゃないか!」

「だったら、青崎くんが馬鹿ね。言っているから」

「若林さんもだよ!」

「もー、意味分からないよ! 青崎くん、意味が分からない! なんでこんなことになっているの!」

 止まらない。上下する唇を止めることができず、二人の間に亀裂が入り、徐々に大きな溝となる。先月のことで暫く口がきけなくなったことを経験しているだけに、このままエスカレートすれば、もう二度と顔を合わせられなくなるぐらい致命的なものになることだろう。

 そんなこと、佳奈は望んでいない。ならば、どうにか収束させなければならないが……勢いのついたその口を止めることはできなかった。

「馬鹿じゃないの? わたしのことが好きだなんて、馬鹿だし変よ、そんなの」

「馬鹿じゃないし変でもない。好きなもんは好きだからしょうがない」

「あわわわわっ。馬鹿で変な人がここにいるよ。いやー。誰か助けてー」

「馬鹿に馬鹿なんて言われたくないよ」

「わたし馬鹿じゃないもん。馬鹿って言う方が馬鹿だもん」

「それはさっき僕が言ったことだけど」

「もー、意味分からない」

 佳奈の口からは、発したくない言葉がどんどん吐き出されていく。本心とは裏腹なもので、歯痒い思いが込み上げてくるばかり。言葉をぶつければぶつけるほど鼻の頭が熱くなってきて、感情の高まりに、いよいよ目頭が気になるようになってきた。

「勝平くんが格好いいの。わたしは勝平くんが好きなのだから」

「そんなの知ってるよ。何回も言う必要ないだろうが」

「好きなのだから、何回言ったっていいでしょ」

「うるさいよ」

「うるさくない」

「うるさい!」

「うるさくない!」

 二人の間にある溝が、いよいよ修復不能となり、もう二度と越えられない大きさまで広がっていく……と、そんな矢先に、

『みあー』

 という鳴き声が。

 騒がしかった空間に一瞬の空白が流れて……見てみると、ベンチの横に灰色と黒色の斑模様の猫。首から腹だけが白いことが特徴の、どんちゃんである。

「どんちゃん、だ」

 いきなり現れた気まぐれ猫に、佳奈は目の前にいる相手のことも忘れて、どんちゃんを抱き上げる。その行為、自然と口角は上がっていった。

「どんちゃん、今日もきてくれたのね。嬉しいな。どう、お腹空いてない? 大丈夫かな?」

『助かった』というのが、どんちゃん登場の感想だった。どんちゃんが現れてくれたおかげで、冬太に向けていた言葉を止めることができた。

 これならまだ、二人の関係を修復することができる。

 気持ちに素直になることができる。

「どんちゃんどんちゃん、青崎くんって、わたしのことが好きなのだって。おかしいよね」

 佳奈は決して機嫌が悪いわけではない。そう装っているだけで、突然告白された事実に、戸惑っているというか、うまく対応できていないだけ。どうしようもなく、気がつくと荒々しい言葉を相手にぶつけていたに過ぎない。

 それは、告白されたことが、あまりにも嬉しくて。

「ねぇ、青崎くん。今日は青崎くんが悪いよ。ちゃんと反省するべきだと思うの」

「……最初に謝ったじゃないか」

「ほんとに反省している?」

「……してるけど」

「そう。なら、許してあげようかな? 許してあげないでおこうかな? うーん、どんちゃん、どうしようか?」

 佳奈の胸は、心地よさで満たされていた。世界の幸せを独り占めにしているみたい。

「どんちゃんなら、どうする?」

 もしかしたら、ずっと勘違いしていたのかもしれない。確かに佳奈は、勝平のことが好きだった。それは間違いない。見ていると、心が熱くなってくるから。ただ、その『好き』は本人直接告白するようなものではなく、憧れというか、テレビや雑誌にいるアイドルを見ているようなものに近かったかもしれない。勝平とはクラスは同じなものの、あまり話したこともないし、遠くから見ているだけで満足だったから。

 に対して、このベンチでずっと話していた冬太との時間は、本当に楽しかった。相手と向き合い、距離が縮まっていった気がする。二人の距離感が今ではなくてはならないものになっている……先月にクラスメートにからかわれてから、冬太とは距離を置いていた間、嘘みたいに話すことがなくなった。それが、とても辛かった。毎回楽しみにしていたテレビ番組が、予告もなく放送中止になったみたいに。

 最近は授業中も気がつくと冬太のことを見ていたし、近くを通る度にどれだけ声をかけたかったか。

 その気持ち、本物かもしれない。ここで待っている間、その思いが自身の隅々まで浸透していき……心の奥底に隠された気持ちに気づけたのかもしれない。

 ならば、あとは素直になるだけ。

「ねぇ、青崎くん」

 今、佳奈の目の前にいてくれる冬太のことが、とても大切な存在に思える。かけがえのない大切な人に。

「中学校に入ったら、部活入るよね?」

「んっ? うーん……まだ卒業もしてないからな、考えたこともないけど……うん、多分、入ると思う」

「だったら、また一緒に美術部に入らない?」

 そうやって誘うことが、今の佳奈の精一杯。少しだけ表に出すことができた素直な気持ち。

 また一緒になりたいから。

 これからもたくさんお喋りしたいから。

「今までは名前ばかりで実質お喋り部だったけど、中学入ったら、絵のこと教えてほしいな」

「あ、ああ、別に構わないけど」

「ほんと? 約束したからね」

 にっこり。

「ねぇねぇ、お願いがあるのだけど」

 もう一歩、佳奈は踏み出していく。燻る思いを満たすように。

「中学校に入ったら、わたしのこと、『佳奈』って呼んでほしいな」

 今までのように『若林さん』ではなく。

「そしたら、青崎くんのこと、『冬太くん』って呼ぶから」

「うん……まあ、努力はするよ」

「うん」

 今日は気持ちがいいほどの青空が広がっている。そろそろ春の足音が聞こえてくることだろう。

 春になれば小学校を卒業して、いよいよ中学生となる。新しい環境で、新しい仲間に囲まれ、新しい生活が待っている。

 今までの佳奈なら、新たな一歩が不安だったが、今は楽しみで仕方がない。考えただけで、頬を大きく緩んでしまう。

 思い描く中学生活が、充実したものになると疑うことなく。

「それにしても、勝平くん、家族の事情って、心配だね。どんなことがあるんだろう?」

「知らないけど、そっとしておいてあげた方がいいと思う。僕たちにはどうすることもできないと思うし」

「それもそうだね。それにしても……そんなことでわたしの告白を逃すなんて、なんて損しているのかしら? もったいない」

「……これまた、随分と大きく出たもんだね」

「そうじゃない? せっかく女の子から告白されるっていうのを、ふいにして。青崎くんもそう思うでしょ?」

「……思わないといけない空気になりつつあるね」

「どんちゃんだってそう思うよね?」

 佳奈が貼りつけた満面の笑みで問いかけると、どんちゃんは立てていた耳をぴくりっと動かし、『その件に関し、当方は一切関与しておりません』とばかり、佳奈の膝に丸くなる。

 佳奈は、少しだけ頬を膨らませて……ふと目の前が明るくなったように、顔を上げて正面にいる冬太を見つめた。

「そうそう、言えなかったから一日遅れちゃったけど、青崎くん、お誕生日おめでとう」

「あ、ああ……」

「水瓶座のあなた。今日はとっても素敵なことがあるでしょう。クラスメートの女の子は大切にね」

 佳奈は歯を出して、満開の笑みを浮かべる。

 そこに抱く気持ちは、昨日までにない新鮮な輝き。

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