猫の背中

@miumiumiumiu

第1話 猫のエプロン


 猫のエプロン



       ※


 九月一日、木曜日。

 居間ではテレビが点けられている。いぶし銀の刑事が、ゆったりとした曲調に合わせるように、取調室で容疑者に話しかけていた。『世の中に殺されていい人間なんていないんだよ。復讐だなんて、そんなこと馬鹿なこと、死んだ恋人は望んでいないんじゃないか?』と。犯人は唇を噛みしめ、静かに涙を流す。

 けれど、テレビの前にいる視聴者は、短髪のいぶし銀役者が披露している名演技に感動することはない。なぜなら、テレビは点いているものの、観ていなかったから。

 その心は、どこか遠い空。

「…………」

 むら世志乃よしの、七十歳。三LDKの木造二階建てで一人暮らしをしている。昨年前では息子夫婦と孫の四人暮らしだったが、今は一人で暮らしていた。

 特に何かをしたわけではないが、ぐったりと疲れたように、座椅子に深々と腰かけている。部屋着である半袖の薄茶色の前ボタンシャツ、布のスラックス姿で、惚けるように目の焦点はどこにも合っていない。

 点けられているテレビがCMになったタイミングで、宙を漂っていた意識が戻ってきた。壁にかかる菱形の時計を見ると十一時を少し回っていて、カーテンが開けられた窓からは、南方から太陽の光が入っている。気がつくと、随分光の角度が浅くなっており、部屋の三分の一ぐらいに入っていた。

 静かな空間に……外からは子供のはしゃぎ声。前の道路は小学校の通学路になっており、昨日までの夏休みは静かなものだったが、今日から二学期で、登下校時の賑やかな声が戻っている。

(……もうお昼ですか)

 リモコンでテレビの電源を落とし、腰かけていた座椅子から立ち上がった。陶器でできた動物が並んだ棚があり、その上の写真立てには昨年息子夫婦と孫の三人とともに撮った写真が飾られている。玄関の前にしゃがみ込み、孫と顔の高さを揃えて。

 写真に写る四人は笑顔を浮かべているが、その内、三人の分の笑顔はもう見ることはできない。もうこの世にいないから。

 死んでしまったから。

(…………)

 息子夫婦と孫は、去年事故に巻き込まれ、他界した。

 昨年九月十八日に起きたほん航空五十二便墜落事故。乗客乗員四百八十一名内、死者数は四百八十名、生存者一名。奇跡的な生存者一名は日本人だったが、世志乃の息子夫婦も孫もその一人に選ばれることはなかった。

 息子が海外転勤が決まり、家族三人で海外へ移住するところ、飛行機が墜落事故を起こしたのである。

 移住に関して世志乃も誘われたが、海外生活を不安視して断っていた。結果、飛行機に乗ることなく命を拾うこととなるのだが……家族三人を失った生活は、光という光が消えたみたいに無気力なものに。

 絶望の果ての放心情報から立ち直るのに数週間という時間を有し、それ以後もまともに前を見えなくなった……今日までの時間の経過とともに深い絶望は薄らいでいるものの、一年経った今も心の傷は完全に癒えてはいない。それぐらい、家族を失ったショックは世志乃の心も体もぐちゃぐちゃに掻き混ぜていったのである。

(…………)

 暮らしていても世界中から取り残された気分で、誰かと会話を交わすことはほぼ皆無。他人との接触といえば、飛行機事故の被害者の会からの電話と、一週間に一度市役所から訪問員がやって来る程度。

 けれど、寂しいという思いは感じなくなった。それはきっと寂しさに鈍くなったからだろう。諦めに似た気持ちもあるのか、一人でいることにすっかり慣れていた。

(…………)

 もはや生きている意味はない。惰性として生きている生活には、当然のように意義も意味も見出せない。飛行機事故での保険金と年金をもらっているので生活費に困ることはないが、生きていこうとする活力が湧いてこなかった。楽しいことはなく、生き甲斐もなく、感情は漂白されたように真っ白なもの。息子夫婦と孫が他界したというのに、自分だけが生き残ってしまっていることに罪悪感に似た感情を抱いていた。

 こんなことなら一緒に中国についていけばよかった。あの飛行機に乗れば、取り残されることはなかったのに。

(…………)

 人生の惰性でも空腹を得るもので、今日も命をつなぐために、台所で昼食の準備をする。空腹を得たというよりは、いつもの習慣を淡々とこなすように。

 流し台の下を開けると、夏の名残でまだ素麺が五袋も残っていた。まだまだ暑いので冷たくして食べるつもりだが、肌寒くなってきたら温かくして食べようと思っている。

 やかんに入っている麦茶を湯飲みに注ぎ、四人がけのテーブルに茹でた素麺の入った丼を置く。正面に息子夫婦が座ることなく、左隣には孫娘の姿もいない。

 吐息。

(…………)

 一人分の素麺を食べ、流し台でお椀を洗って食器乾燥機に並べていく。その間、何の感情もない。

 午前中に庭の掃除も洗濯を終えている。庭に干した洗濯物を取り込むのはまだ早く、やることといえば……いつものように居間でテレビを観る以外に思いつくものはなかった。(…………)

 ゆったりとした動作で居間に移動して、テレビ正面の座席に腰かける。左手でリモコンを手にしたとき、壁にかけられた菱形の時計はもうすぐ頂上で二本の針が交わろうとしていた。夕方になったら洗濯物を取り込んで、前の道路を掃除する予定だが、まだまだ四時間もある。一年前まではあんなに早く過ぎていた時間が、今は止まっているよう。

「……はぁー」

 肩を大きく上下させると、半分以上白くなった肩までの髪が小さく揺れた。世志乃はかけている丸眼鏡をくいっと上げると、また口からは息が漏れていく。

「……ごほごほごほごほっ!」

 咳。発作のように咳が出ること、最近よくあった。その目は自然と棚の上の方にある茶封筒に向く。そこには春に役所の人間に急かされた健康診断の結果があり、『再検査』という赤い紙が入っていた。

「ごほごほごほごほっ!」

 出ている咳と健康診断の結果に因果関係があるかどうか分からないが……体もだるくなっているし、症状はどんどん悪化しているような気がする。早く再検査を受けた方がいいのだろうが、なんとなく乗り気がせず、ずっと棚の上に置かれたまま。三か月間、ずっと。

「…………」

 咳が止まると、赤くなった顔から色が抜けていき、ティッシュで口元についた涎を拭う。

「……はぁー」

 点けたテレビでは天気予報をやっていた。明日も晴天のようで、今日から九月だがまだまだ残暑厳しく、暑い日がつづきそうである。扇風機の風を頬に受けて……トイレにいきたくなった。立ち上がって廊下に足を向けようとしたタイミングで、視界に違和が。

「……あれは?」

 目の端には世志乃の身長よりも大きな窓があり、そこにいつもにない色を見つけた。水色。引かれるように窓に顔を向けてみると、草木の茂る庭に、水色のワンピースを着た女の子が立っていたのである。今は前屈みになったかと思うと、東方を見つめていた。

 庭の東方にあるのは……自転車を停めている物置。

「あらあら、珍しいお客さんですこと」

 見覚えのない女の子が、誰も訪れることのないこの家の庭に立っている。その姿を見た瞬間、無音だった世界に小さな音符が生まれた気がした。連動するように、世志乃の口角が僅かに上がっていく。石ばかり転がる河川敷にきれいなビー玉を見つけたような高鳴る気持ち、久し振りのこと。

 点けたテレビをそのままに、玄関でサンダルを履いて、引き戸を開けた。

「…………」

 眼前にいる女の子は物置の前にしゃがみ込み、じっとしている。見た目は幼稚園児か小学一年生かの小さな女の子。髪の毛は短く、耳を隠す程度。

 世志乃は蚊が入らないように引き戸を閉め、しゃがんでいる女の子に声をかけていく。

「お嬢ちゃん、どうかしたんですか?」

「……しぃー」

「しぃ……?」

 振り向いた女の子の真似をするように、口の前に人差し指を立てる。理由は分からないが、あまり大きな音を出せる状況ではないらしい。世志乃は自分の家なのに、履いているサンダルを忍ばせながら女の子の横に並ぶと……自転車が置かれている屋根つきの物置に、大きな毛玉を発見した。

「……あら、猫ですね」

 自転車の後輪横にある巨大な毛玉は、丸まった猫だったのである。灰色と黒色の斑模様。今は警戒しているのか、顔を上げてこちらをじっと見つめていた。

「猫ですねー」

 世志乃の横には、猫をじーっと見つめている女の子。猫と睨めっこしているように。

 ここは世志乃の家の庭で、門が開いているから女の子はそこから入ってきたのだろう。子供相手に『不法侵入はいけませんよ』なんて注意もできないし、そんな気もない。ただ今は、女の子がこれからしようとしていることに興味津々である。

「すみません、名前は何というんですか?」

「ふえ? 名前はこずえだよぉ」

「こずえですか、かわいい名前ですね。ほら、おいで、こずえ。ほらほらー」

「やはははっ。違うよぉ、おばあちゃん。こずえはわたしよぉ」

 大きく表情を崩して笑う女の子。置かれている現状が心からおかしいみたいに。

 如月きさらぎこずえ。小学一年生。あい西小学校に通っている。

「おばあちゃん、あの猫さん、お名前はぁ?」

「はい……? あの猫、こずえちゃんの猫じゃないんですか?」

「おばあちゃんの家にいるからぁ、おばあちゃんの猫でしょ?」

「いいえいいえ、違いますよ」

 一度大きく瞬き。てっきりこずえの飼っている猫が家に迷い込んできたかと思ったが、どうも違うようである。見てみると、猫は首輪をしていない。

「野良猫なんですね」

「あの猫さん、かわいいぃ。抱っこしてもいいぃ?」

「どうでしょうね、抱っこは少し難しいんじゃないかしら。野良猫は警戒心が強いですから、ここからもうちょっと近づくと、逃げちゃうと思いますよ」

 ただ、そうやって忠告したところで、幼い女の子の好奇心を止めることはできそうにない。こずえは、しゃがんだまま少しずつ歩を進めている。

 その姿、微笑ましくあった。

「大丈夫だとは思いますけど、爪で引っかかられると大変ですから、気をつけてくださいね」

 こずえと猫の距離はまだ三メートルぐらいある。さすがにこれ以上近づくと逃げ出すだろうと踏んでいたが……こずえが距離を詰めても猫は座り込んだまま動くことがない。耳を立て、円らな瞳で近づいているこずえのことを見つめている。その目は警戒するというよりは、興味があるみたいに。

 前にいるこずえはとうとう手の届く距離に辿り着いた。それだけでは満足いかないように、恐る恐るといった感じで手を伸ばしていく。

 しかし、それでも猫は逃げる気配はない。

「……ちっとも逃げないですね」

 世志乃は、距離が詰まっていくこずえと猫を交互に見つめる。はらはらと、手に汗握る心境で。

「こずえちゃん、ちょっとでも危ないと思ったら、すぐ戻ってくるんですよ。怪我なんかしちゃ、おもしろくないですからね」

 すぐ近くで見ているだけなのに、胸を打つ鼓動の周期はおかしくなっていた。

 どきどきどきどきどきどきどきどきっ。

 依然として動くことのない猫はのんびりしているが、それでも野良猫である。いつ豹変して、爪を出すか分からない。威嚇するように毛を逆立てて、体ごとこずえに突っ込んでいくかもしれないし、下手をすると噛みこともある。

「ほ、本当に気をつけてくださいね」

 ごくりっと息を呑む。緊迫感は世志乃の体を縛りつけるようで、こずえと猫の様子を一挙手一投足見守っていると……ゆっくり近づいていったこずえの手が猫の頭に載った。それでも猫は動くことがない。こずえがやさしく撫でると、猫は目を細めていった。

 そんな猫の様子に、世志乃の口から、思わず止まっていた息が漏れていく。『ぶはあぁーっ!』と。知らぬ間に力の入っていた両肩が、ゆっくりと落ちた。

「あー、どきどきしました。心臓に悪いですよ……それにしても、随分と警戒心のない猫ですね。首輪はないみたいですが、もしかすると飼い猫なのかもしれませんね。どこかの家から逃げてきたとしたら、大変です」

 世志乃がああだこうだと猫に対して想像している間、猫は気持ちよさそうに体に顔を沈めていった。その姿、すっかりこずえに心を許しているようで、『警戒心』という言葉とは無縁のごとく。

「猫っていっても、いろいろなんですね。こんなにのんびりした猫は、初めてです」

 世志乃にとっての野良猫は、危険を察してすぐ逃げる警戒心の強い生き物だった。しかし、目の前にいる猫はこれまで抱いてきた猫のイメージから逸脱している。なんたって初めての人間に体を触れさせたのだから。

 見てみると、こずえがぽんぽんっと楽しそうに猫の頭をやさしく叩いている。それを眺めていると、心の奥底がくすぐられるような思い。

「こずえちゃん、あの、私にも触らせてもらっていいですか?」

 にこにこと緩んだ表情がとろけそうなご機嫌のこずえとともに、世志乃はそぉーと猫の背中に手を伸ばしてみる。しかし、そうやって新たな手が増えたところで、猫は微動だにせずに丸まったまま。肝が据わっているのか、神経が図太いというのか、はたまたとんでもなく鈍いのか。

 猫の毛は柔らかく、背中に弾力があった。その胸には感動にも似た気持ちが芽生えており、自然と頬が緩んでいく。

「この猫、かわいいですねー。それにしても、眠ってばかりで、疲れているのかしら? 体は、ちょっと痩せてますね。もしかしたらお腹が空いているのかもしれません。こずえちゃん、ちょっと待っててください」

 世志乃は玄関に戻ると、居間からテレビの音がしたので、立ち寄ってリモコンで消す。台所に向かい、止めた足と同時に、視線を宙に向けた。

 当たり前の話だが、世志乃は猫を飼っているわけではないので、キャットフードを持っていない。『猫の餌はどういったものがいいのか?』を思案するように首を傾けていき……思いつくものがなく、冷蔵庫と流し台と食器乾燥機の間を視線が彷徨っていく。

「うーん、素麺はさすがに食べないと思いますし、たくわんも違うでしょうね。お味噌汁ご飯にしたいところですけど、ご飯は炊かないといけませんし、うーん……無難にパンでいいのかしら?」

 五枚切りの食パンを手に、一瞬だけトースターに目を向けるが……すぐ首を振る。自分が食べるわけではない。『猫舌』という言葉もあるので、熱いのは禁物な気がする。

 袋ごと食パンを持って玄関の引き戸を開けると……そこに待っていた光景に、世志乃の目を真ん丸に。

「まあ!」

 物置にある自転車の横、そこにいるこずえ。そのこずえの胸に、なんとなんと、猫が抱かれているではないか!

 猫は前足を前に突き出すような変な格好で、横に伸びる髭が落ちていて『困ったなぁ』という表情をしているように見える。こずえの抱き方が雑なせいで、苦しそうですらある。

 そんなこずえと猫の姿に、驚いた五秒後には笑みが零れていった。

「ほらほら、こずえちゃん、その猫、窮屈そうにしてますよ。下ろしてあげてください。これ、台所からパン持ってきました。一緒にあげましょう」

 小鳥のように小首を傾げるこずえの頭を撫でてあげると、こずえは放り出すような危なっかしい手つきで猫を下ろした。ただし、猫は変な姿勢をしていたが、地面にはちゃいんと着地する。おっとりしていても、猫の運動神経は備わっているようである。

 座って耳を立てている猫に、世志乃は食パンを小さくちぎり、足元のコンクリートに置いた。

「パンは好きかしらね?」

「好きかしらねぇ?」

「気に入ってもられるといいですね」

「いいですねぇ」

「うふうふ」

 こずえとともに期待に満ちた目で猫の様子を眺めていると……首をきょろきょろと動かした猫は、ゆったりとした動作でパンに鼻を近づけ、くんくんっと小さく動かしてから、銜えた。顔を小さく上下させながら咀嚼していき、飲み込んでいく。そうしてパンを持っている世志乃に顔を向け、『みあー』と鳴いた。『もっとほしいよぉ』と言っているみたい。

 世志乃は、パンの耳の部分をちぎり、コンクリートの地面に置くと、猫はまたゆっくりと咀嚼して、飲み込む。顔を上げて、『みあー』と鳴いた。

「気に入ってもられたみたいですね。もっとあげましょう」

「あーあー、わたしもやりたいわたしもやりたいぃ」

「うふうふ。いいですよ、お願いします」

 食パンを渡すと、こずえは嬉しそうにしゃがみ込んで、猫の口の前に食パンを持っていく。

 猫は食パンに齧りつき、ゆっくりと咀嚼。飲み込んで、また目の前にある食パンに齧りついていく。

 世志乃は、目を輝かせて食パンを与えているこずえの姿を目に……不意にその姿が、昨年亡くなった孫のひなに重なって見えた。

(っ……)

 いきなり現れて、自分の横で楽しそうに笑っているこずえの姿、まるで亡くなった孫が生まれ変わって遊びにきてくれたみたい。そう思うと、目頭が熱くなってくる。

(…………)

 蘇った孫との日々を胸に、感情をしっかり押さえ込む。その作業は一年前から幾度となく行ってきたこと。亡くなった家族との思い出にいつまでも浸っているわけにはいかない。少なくとも、世志乃の前にはこずえがいるのだから。

「うふうふ。あっという間になくなってしまいそうですね」

 見てみると、こずえが手にしている食パンが随分小さくなっていた。このままだとパンとともにこずえの指が齧られてしまう。相手は野良猫、『狂犬病』の猫バージョンがあっては大変である。

「こずえちゃん、もう小さくなったから、下に置きましょうね。猫だってそっちの方が食べやすいですから」

「はーいぃ」

 こずえがパンの欠片を置くと、猫は相変わらずゆったりとした仕草で顔を近づけ、ゆっくりと咀嚼し、飲み込んでいく。顔を上げて『みあー』と鳴いた。

「おばあちゃん、猫さんが鳴いたよ。パン、もっとほしいのかなぁ?」

「そうかもしれませんが、今日はもうお終いにしましょう。あんまり食べちゃうと太ってしまいますから。それに慣れないものをたくさん食べたらお腹が痛くなるかもしれませんし。こずえちゃんだってお腹が痛くなったらいやでしょう? 今日はここまでにしましょうね」

「はーいぃ」

「それにしても、本当に人懐っこい猫ですね」

 頭を撫でてやってもいやがる様子がない。顎の下をくすぐると、糸のように目を細めていく。

 瞬間、世志乃の心には小さな槍を持つ小悪魔が生まれ、限界を知りたい衝動が芽生えていた。にやりっ。

 背中を大きく撫でてみる。大丈夫。

 お腹を擦ってみる。大丈夫。

 抱き上げてみる。大丈夫。

 尻尾の掴んでみる。大丈夫。

 どうしたところで、大丈夫。

「……どんなに心が広いんでしょう」

 この分なら、放っていてもこずえに危害を加えることはないだろう。猫の額に『無危害』という太鼓判を押したくなった。

「すみません、こずえちゃんの家はどこにあるんですか?」

「わたしのおうちぃ? うーんとねうーんとねぇ……あっちぃ。あそこに見えてるよぉ」

 西方には小高な丘があり、百段ある石段の上に青願せいがん神社がある。神社の南方は公園で、道路を挟んで十階建てのマンションが聳えている。大きな蒟蒻のように。こずえはそこを指差していた。

「あそこがお家だよぉ」

「あらあら、こずえちゃんはご近所さんだったんですね、知りませんでした。それでしたら、ちょっとぐらい遊んでいっても平気ですね」

 いざというときは送っていけばいいだけのこと。

「もうちょっとだけなら、ここで猫と遊んでてもいいですよ」

「ふえ?」

 かけられた声に、こずえは瞳を丸くして、唇を突き出す。

「おばあちゃんも一緒に遊ばないのぉ? 一緒に遊んだ方が楽しいよぉ」

「はい……?」

 背中を向けて歩き出そうとした足を止めた。

「一緒に遊ぶ、ですか?」

 考えてみる。家に入ったからって、やることはない。洗濯物を取り込むまで、まだ三時間以上ある。やることといえば、せいぜいテレビを観ることぐらい。

 玄関に向けていた視線を物置の方に向けると、楽しそうなこずえの笑顔がある。その腕には円らな瞳のかわいらしい猫もいる。

「そうですね、一緒に遊びましょうか。楽しいですもんね」

「わーいわーいぃ。ねぇねぇ、おばあちゃん、あれもらってもいいかなぁ?」

 にっこりと微笑み、雑草が茂る木々の間に駆けていくこずえ。小さなアーチ状の柵を越えて、庭に生えている蜜柑と柿の間に小さな体を滑り込んでいった。

 そこには、地面からは背丈六十センチメートルある緑色の草が生えている。茎は細く、真っ直ぐ空に向かって立ち上がっており、先端に穂をつけていた。俗にいう『猫じゃらし』である。

 こずえは猫じゃらしを手に、自転車横に腰を落としている猫の元へ。

「これでねこれでねぇ、こうやって猫さんの顔の前でこうするのぉ。とってもおもしろいんだよぉ」

 こずえは、人差し指と親指で摘んだ猫じゃらしを、猫の前で左右に振る。最初は小さく、徐々に大きくしていって。

 猫は、目の前で揺れる猫じゃらしを見つめ、追いかけるように顔を左右に振っていき、『もう我慢できない!』とばかりに右の前足で引っ掻いた。右足で引っ掻き、右足で引っ掻き、右足で引っ掻き、勢いあまってバランスを崩しては、今度は左足で引っ掻く。

 こずえは実に楽しそうに目を輝かせながら、円を描くように猫じゃらしを動かしていく。

 猫は、右足、右足、左足と引っ掻いていき、『いただき!』とばかりに首をくいっと伸ばして、かぷっと銜えていた。

「ああっ、噛んじゃ駄目よぉ。ほらぁ、離すのぉ。エプロン、ちゃんと離すのぉ」

「…………」

「エプロン、放してぇ。エプロンってばぁ」

「……あの、『エプロン』というのは、その猫のことですか?」

「うん、そうだよぉ。名前ねぇ、エプロンにしたぁ。だってぇ、白いのがエプロンみたいなんだもーん」

 猫は灰色と黒色の斑の毛で覆われているが、首から胸にかけて白い毛で覆われている。こずえには台所で料理する母親がつけたエプロンのように見え、命名していた。さっき猫じゃらしを取りにいっている間に。

「駄目かなぁ、エプロン? かわいいと思うけどぉ」

「駄目なんてことはありませんよ。こずえちゃんがそう呼ぶなら、私も便乗させてもらうことにしますね。ほら、エプロン、放してあげなさい。こずえちゃんが困ってますよ」

 世志乃が首元を掴むと、猫はおとなしく猫じゃらしを放していた。

「あらあら、こうやるとおとなしくなるって、本当だったんですね」

「ふえ? どうしてエプロン、元気じゃなくなっちゃったのぉ?」

「えーとですね、確か……小さい頃に、お母さんに首元を銜えられることが多いらしいです」

 世志乃が首元を摘んでいるため、ぬいぐるみのように身動きせずに空中にぶら下がっている猫の姿に、微笑む。

「こずえちゃんもお母さんに叱られちゃったら、元気がなくなっちゃうでしょう? そんなものじゃないでしょうか。以前テレビでやってたのを思い出してやってみましたけど、本当なんですね」

 表情を変えることなく、抵抗するようにばたつくこともなく、真っ直ぐ見つめてくるエプロン。円らな瞳で自由を訴えているみたいに。

「うふうふ。じっと見つめられていますね。あんまり意地悪しちゃいけませんから」

 世志乃はエプロンを地面に戻していた。

 すると猫は、仮死状態から生き返ったみたいに、こずえが振っている猫じゃらし跳びついていく。前足を伸ばして、体ごとぶつかるように。

「なるほど、こうやって狩りを覚えていくんですね。猫も勉強が大事みたいですね」

「やはははっ。ほらぁ、こっちよぉ、エプロン」

「本当にかわいいです」

 世志乃の言葉は、猫じゃらし遊ぶエプロンのことでもあり、無邪気に笑っているこずえのことでもある。

 またしても脳裏に過るのは、去年亡くなった孫のこと。こちらを見上げながら、小さな手で積み木を渡してきたり、夕食時にピーマンが食べられなかったり、台に乗って顔を洗っていたり、家の中を走り回っていたり……思い出したら、胸にある大切な部分がきゅっと縮こまってしまう。

(…………)

 猫と遊ぶこずえの姿を微笑ましく眺めながら、世志乃は空っぽだった体に、懐かしい潤いが注がれていく気がした。

 九月に入ったものの、吹いてくる風は、まだまだ夏の暑さを有している。しかし、今は心地よく肩までの髪を揺らすことができた。去年の家族を失った大事故を経ても、こんなにも微笑ましい気持ちになれること、大きな奇跡が起きているみたいである。


       ※


 猫のエプロンは夕方にやって来ることが多かった。世志乃が洗濯物を取り込んでいると、いつの間には庭の物置で丸まっている。インターホンを押すこともなく、家に呼びかけることもなく、エプロンは我が物顔で敷地内踏み入って、のんびりして。

 世志乃はエプロンに毎日餌を与えるようになり、いつしか生活の一部となっていた。いつまでも地面に置くのはかわいそうだと、専用の皿を用意して、暫くはレーズン入りのスナックパンを与えていたのである。

 ある日、スーパーでの買い物の際、ふと目にペットフードの棚に足を止めた。エプロン用に買う予定だった籠にあるスナックパンと棚に並ぶキャットフードを見比べ、世志乃は生まれて初めてキャットフードというものを購入しようと思ったのである。

 棚には色鮮やかなたくさんのキャットフードが並んでおり、どれを買えばいいのか分からない。しかし、味のない食パンをおいしそうに食べるエプロンだからどれでも喜んでくれるだろうと、『猫満足!』という謳い文句のドライフードを購入。『にゃんごはん』というネーミングのかわいらしさも選考基準に含まれていた。

 人間にも好みがあるように猫にも好みがあるだろうが、エプロンは『かりかりっ』と小気味いい音を出して食べてくれたので、気に入ってくれたようである。よかったよかった。

 毎日やって来る猫のエプロン目当てで、こずえが遊びにくるようになった。こずえは小学校一年生で、学校が終わると午後四時頃に遊びにくる。自転車の横で丸まっているエプロンをぬいぐるみのように抱き、幸せそうに頬ずり。その姿、実に微笑ましいものがあった。

 世志乃にとって、昨年失われた家族三人は二度と戻ってこない。その悲しみ引きずるばかりで、まともに顔を上げることもできない日々だったが……気がつくと笑顔を浮かべていた。こずえにエプロンという新たな存在ができたから。

 日々がとても楽しかった。エプロンが近寄ってくるのは愛しくて、餌を食べているのを見ていると幸せな気持ちになれる。こずえがエプロンを抱えている姿は、孫が人形を抱いているようで心から溢れるきらきらが止まらない。

 また笑顔を浮かられること、もう二度と手にすることのないはずだった至福を得た気がした。


 涼しくなる風とともに時間は目の前の世界から過ぎ去っていき、とうとう九月十八日を迎える。昨年、息子夫婦と孫を亡くした華本航空五十二便墜落事故から一年。被害者の会は現地を訪れて追悼したみたいだが、世志乃は断った。飛行機に乗るのは怖かったし、現地を訪れたところで失われた家族が戻ってくるわけではない。大勢の人間とともにやり切れない思いをするぐらいなら、家で思い出に浸っていたかった。

 それに世志乃は、エプロンの世話にしなくてはならない。遊びにきてくれるこずえとお喋りをしなくてはならない。それが今の日常であり、唯一の楽しみだから。


 ある日、呼吸困難になるぐらい激しく咳き込むことがあった。二分もすると落ち着いたが、そうして家に一人でいると、無性に心細くなる。庭に出てみると、その日もエプロンのことを出迎えることができた。そうすることで、日々を過ごすことで得る不安な気持ちを忘れることができたから。


 エプロンが家を訪れるようになってから一か月が経過した。毎日当たり前のように家にきてくれるこずえもエプロンも、今では世志乃にとってなくてはならない大切な存在。

 それはもう、去年亡くした家族のように。

 知ってしまったこの幸せ、もう失いたくなかった。


       ※


 十月三日、月曜日。

(あら、エプロンだわぁ)

 近所のスーパーへ買い出しにいった帰り道、小高い丘になっている青願神社の北側の道を通ると、猫のエプロンを見かけた。

 エプロンは道路をゆったりとした足取りで横断して、段になっている丘の手前で一瞬だけしゃがみ込んでからジャンプする。そして、石造に鎖をつなげた柵のある敷地内に入っていった。

 斜面の北側から見上げると、丘には多くの銀杏の木がひしめくように生えている。エプロンはそこに紛れるように斜面を上がっていく。

 世志乃は自転車を停めると、ビニール袋の入っている前籠の重みでハンドルが大きく動き、危うく転倒しそうになった。危ない危ない。体勢を整えて、斜面を見上げる。

「エプローン」

 世志乃にとって、エプロンは今や家族といっても過言ではない。外で見かけた偶然の嬉しさを分かち合いたかった。自転車の前籠にはドライフードの『にゃんごはん』が入っている。それを教えてあげたい。

「もうすぐご飯ですからね、遅くなっちゃ駄目ですよー」

 世志乃の声に、銀杏の木の間を縫うように歩いていたエプロンはぴたっと立ち止まる。素早くこちらを振り返り、じっと観察するように見つめて。そこにある顔は、家にくるときのような柔和な顔つきでなく、どこか警戒する鋭い目。

「どうしたんです、エプロン? こっちにおいでー」

 手招きしても、近寄ってくることはない。嘆息し、こちらから迎えにいこうとするが……目の前にある斜面は、角度が十五度ぐらいある急なもの。今日の上下スウェット姿ならなんとかなるかもしれないが、やめておく。今は買い物帰りだし、そもそも斜面を上がるなんて、誰かに見られたら恥ずかしいから。

 エプロンはいつも夕方にやって来るのだ、急がなくてもそれを待てばいいだけのこと。

 手を口元に当てる。

「エプロン、あんまり遠くにいっちゃ駄目ですよー」

 声をかけたが、エプロンは頷くこともなければ、世志乃のことなど関心がないように、そそくさと斜面を上がっていってしまった。見方によっては、逃げるようにして。

 銀杏の木々に消えてしまったエプロンの姿に対し、世志乃は暫く見送り……刹那に眉を吊り上げていく。

「まったくもう、随分と余所余所しいですね、エプロンってば。いつもお世話してあげているというのに」

 ぶつぶつぶつぶつっと呟き、頬に空気を溜めていく……瞬間、人の気配に、はっと我に返った。誰もいない斜面に向かって話しかけている自分を、通りかかった中学生二人組が見ていたからである。一気に頬が赤くなり、誤魔化すように咳払い。こほんっ。

 自転車に跨る。

(エプロンのせいで恥ずかしい思いをしてしまいましたね)

 まだ向けられているだろう中学生の視線から逃げるようにして、自転車のペダルを漕ぐ足に力を入れる。

(今日はちょっとご飯を少なくしちゃいましょう)

 小さな復讐の炎を燃やすのだった。


 夕方。随分と日が短くなっており、午後六時だというのに、空は茜色から闇へと染まりつつある。夏ならまだ明るい時間帯なのに……季節は確実に世界を通り過ぎていく。意識すると、なんとも言い様ない寂しさに包まれていく。

「…………」

 庭の隅にある物置の前、自転車のサドルに腰かけて西方にある青願神社の小高い丘を見つめる世志乃。視界にある空の薄暗さは、丘の斜面に切り取られている。

 足元にはエプロン専用の皿があり、手にはキャットフードの『にゃんごはん』がある。けれど、肝心のエプロンがいなかった。もう洗濯物も取り込み、夕食の準備も済んで、あとはエプロンに餌をあげるだけなのに。

「……こないですね、エプロン」

「どうしちゃったのかなぁ? もしかするとぉ、事故にでも遭っちゃったのかなぁ? だったら心配だなぁ。エプロン、のんびりしてるからぁ、車がきたら轢かれちゃうかなぁ?」

「事故は大変ですから、こずえちゃんも気をつけましょうね。けど、エプロンなら大丈夫ですよ。のんびりしていても、猫ですからね。危険なことには近づかないと……思いたいです」

 初対面の人間にすら体を触れさせる警戒心のなさは、『安心』という言葉から無縁な気がする。

「とはいえ、大丈夫ですよ、さっきね、青願神社の方にいくのを見ましたから。だから事故には遭っていないはずです」

 退屈そうに頬杖をしつつ、いつまでも遊びにこないエプロンのことを心配するように、『うむー』と眉を寄せているこずえに、世志乃はにっこりと微笑みかけていく。

「もしかしたら、今日はお腹が空いてないのかもしれませんね。どこかでご飯食べて、もう家に帰っちゃったのかもしれません。あの人懐っこさなら、別の家でもご飯がもらえそうですから」

「ねぇねぇ、おばあちゃんが見たのってぇ、そこの神社のことなのかなぁ? そっかそっかぁ、あそこの神社かぁ。だったらぁ、茄乃なのちゃんなら分かるかなぁ?」

 こずえのクラスメートに茄乃という女の子がいる。

「あのねあのねぇ、茄乃ちゃんってぇ、毎日あの神社にいってるんだってぇ。だから明日訊いてみようかなぁ? エプロンのことぉ、知ってたらいいよねぇ」

「へー、お友達の茄乃ちゃんって子は、毎日神社にいってるんですか? 参拝してるんでしょうか?」

「ふえ? サンパン?」

「参拝です。お参りにいくってことですよ」

「ううん、違うよ。茄乃ちゃんはねぇ、えーとえーとぉ……あれぇ、茄乃ちゃん、神社に何しにいってるんだっけぇ? やはははっ。忘れちゃったぁ」

「それも明日学校で尋ねておきましょうね」

 いつもは五時には帰すようにしているが、今日はエプロンがこないものだからすっかり遅くなってしまった。座り込んでいるこずえの頭にぽんっと手を置く。

「今日はもう遅いですね。エプロンと遊ぶのはまた明日にしましょう。あんまり遅くなると、お母さんに心配かけてしまいますから」

「でもでもぉ、まだエプロンきてないよぉ? もうちょっとだけ待ってちゃぁ、駄目かなぁ? お腹空かせてたらぁ、大変だよぉ」

「お母さんに怒られちゃっても平気ですか? エプロンのご飯なら私がちゃんとあげておきますから、安心してください」

「……はーいぃ」

「また明日ですね」

 残念そうに足を踏み出すワンピースの背中に、喜ばせてあげられなかったことが胸の奥で泥のように沈殿していく。

 もしこのままエプロンが遊びにこなくなれば、ああして毎日遊びにきてくれるこずえのことをがっかりさせてしまう。なんとしてもエプロンには遊びにきてもらわなくてはならない。

(…………)

『どうしてエプロンがこなかったのか?』を考察するために、まず今日見かけたエプロンの姿を思い出してみる……買い物帰りに見たエプロンは、神社の斜面を急ぎ足で上がっていった。今にして思うと、あの姿は、どこか遠い場所にいくような印象を受ける。それはもう二度と会うことのできないような……なんとなく、海外にいく家族を玄関で見送ったときに似ていた。

 吹いてきた風が、胸を通り抜けていく。そこにぽっかりと穴が空いたみたいに。

(……大丈夫ですよね?)

 大丈夫だと信じたい。エプロンは明日になればまた会うことができると。昨日までと同じように。抱いている不安なんて最初からなかったみたいに。

(…………)

 もう寂しい思いはたくさんである。大切な家族とのお別れはもう済ましている。一生分の悲しみはもう経験した。もういい。これ以上は、たくさんである。

(…………)

 深く考えると、ぬかるんだ沼に沈んでいきそうなので、楽観的に考えてみる。今日はたまたま気まぐれでこなくなっただけで、明日になればきっと遊びにきてくれるはず。一か月以上通っているのだ、餌づけには成功している。

 今日はたまたまである。

 明日になれば、きてくれる。

 大丈夫。

(……よし、また明日)

 青願神社の小高い丘の向こう側には、茜色が消えていた。見上げてみると、僅かに星が瞬いている。

 耳に届けられる見えない虫の音は心地よいものがある。だが、心の扉をノックされているようでもあった。見えない何かに急かされているみたいに。

 知らぬ間に、大切なものが失われているような気がして。


 猫のエプロンと過ごす日々を世志乃は望んでいる。楽しいから。そういう気持ちを抱かせてくれるから。

 しかし、世志乃の希望は叶えられることなく、次の日も、また次の日も、庭にエプロンが現れることはなかった。

 夕方、遊びにきてくれたこずえとともに待ち惚け。退屈だから、こずえのために饅頭とお茶を用意して、エプロンがこないことを紛らわすように小学校のことを尋ねたりして時間を過ごすことに。

「最近、お友達の茄乃ちゃんはちゃんと授業受けてますか? 確か居眠りしちゃうっていうことでしたが」

「茄乃ちゃん? 寝ちゃうと五月女さおとめ先生に怒られちゃうからぁ、最近はちゃんと授業受けてるよぉ。けどぉ、たまにねたまにねぇ、『うとうとっ』してるみたいなんだぁ。茄乃ちゃん、ソフトボールがやりたくてねぇ、いつも朝早く起きて練習してるんだってぇ。それでちょっと眠たくなっちゃうみたいぃ」

「朝早くに起きてソフトボールの練習しているなんて、茄乃ちゃんはえらいですねぇ。でも、学校で居眠りしてはいけませんね。褒めていいのやら、叱っていいのやら、先生も複雑なところでしょう」

 頭を悩ましている先生の姿を想像し、『自分だったらどうするだろう?』と考えては……結論が出ずに、こほんっと咳払い。

「こずえちゃんは、茄乃ちゃんみたいにしたいことないんですか?」

「わたしぃ? わたしはエプロンのこと飼いたいよぉ。でもでもぉ、お母さんが駄目だっていうからぁ……エプロン、あんなにかわいいのになぁ。うーん、どうして駄目なのかなぁ?」

「こずえちゃんの家はマンションですからね、猫を飼うのはちょっと難しいでしょうね。うちは大丈夫ですから、いつでも遊びにきてください。といっても、エプロン、遊びにきてくれなくなっちゃいましたから、つまらないかもしれませんが……」

 物置の前に座り込み、盆にある緑茶を啜ってから、庭の西方にある金柑の木を見つめる。エプロンは青願神社のあるそちらからくることが多かった。帰るときもあちらで、一度青願神社で見かけたことがあるから、もしかしたらあそこで暮らしているのかもしれないが……やはり野良猫をこちらから見つけるのは至難の業だろう。遊びにきてくれることを待つしかない。

(…………)

 手にしている『にゃんごはん』の目的を、このままでは果たすことができない。

 嘆息。気持ちに暗い影が舞っている気がした。

「ごほごほごほごほっ!」

 発作的に咳が出た。体を大きく前後に動かして、呼吸すら困難になるぐらい強いもの。

「ごほごほごほごほっ!」

 息を吸うときに、『ひーっ!』と喉元が鳴る。それからまた咳を繰り返し、一分ほどでどうにか治まってくれた。

「あー……」

 涎が垂れている。ハンカチを取り出し、口元を拭う。

 見てみると、目を丸く、口をぽかーんっとさせたこずえがいる。突然のことに驚かしてしまったようである。

「ご、ごめんなさいね、変なところを見せてしまって」

「……おばあちゃん、病気なのかなぁ?」

「そんなのではありませんが、けど、たまにこうなるんです」

「お医者さんにいった方がいいよぉ」

「そうですね……はい、そうです」

 病院にはいっていない。健康診断で再検査の紙をもらったが、まだ封筒に入れたまま。理由は、病院の雰囲気が苦手であることと、なんとなく、通院することが億劫であること。家には心配するような家族もいないし、このままでもいいと思っている。

 けれど、こずえが言うのであれば、少しだけ考えてみようと思った。楽しい思いを抱かせてくれるこずえの願いだから。

「ちゃんと病院にいかないといけませんね。ええ、そうすることにします」

 肩を大きく上下させて、深呼吸。乱れていた心を落ち着ける。

「こずえちゃん、エプロンこなくて残念でしたね」

「うん……わたしぃ、明日からちょっと捜してみるよぉ。きっと神社の方にいると思うからぁ、お願いすれば茄乃ちゃんだって一緒に捜してくれるかもしれないしぃ。ばいばいぃ、おばあちゃん」

「……あっ」

 勢いよく立ち上がって、走っていくこずえのTシャツ姿が、なぜだか世志乃には青願神社の斜面で最後に見たエプロンの背中と重なって見えた。

「…………」

 こずえがいなくなり、一人でぽつりっ。熱が冷めるように、あっという間に楽しかった思いが消えていく。

 一度大きく肩を上下させてから、世志乃は湯飲み二つと饅頭のパックがある盆を持って、玄関に入っていく。夕食の準備をはじめなければならない。といっても、今日は昨日作ったカレーである。温めるだけ。洗濯物も取り込んでいるので、することがない。

(…………)

 これまでこずえとエプロンとともに過ごす時間が楽しかったからこそ、これからの時間が退屈に思えてしまう。以前はこんな思いしなかったのに、今は暇で仕方がない。

 はてさて、一人のときはどうやって時間を潰していたのか? ちょっと前のことなのに、思い出すことができなかった。

「ごほごほごほごほっ!」

 また咳が出た。急いで洗面所に向かい、口を濯ぐ。喉が焼けるような感覚がした。胃酸が逆流してきたのかもしれない。

「…………」

 静かな家。誰もいない家。世志乃一人だけの家。

 少し気味悪く感じた。

 小さく吐息。

「…………」

 薄暗い台所に向かっていく。


 次の日もエプロンは遊びにくることはなかった。こずえも遊びにくることはなかった。一日中、世志乃は一人で過ごすこととなる。

 その次の日も、エプロンは遊びにこない。こずえも遊びにこない。また一日が過ぎていく。

 その次の日も。

 またその次の日も。

 ただただ孤独に身を置くこととなる。

 賑やかさを失った日々。

 世志乃の生活。

 そのまま世界は、秋を深めていく。


       ※


 十月二十四日、月曜日。

「はぁー……」

 口から漏れるのは、無意識に吐き出された溜め息。顔を上げてみると、西方に青願神社の丘が見える。秋がどっぷり深まっているが、青願神社の銀杏はどれも青々としていて、まだ黄色く染まることはない。きっと来月になれば黄色が小高い丘を染め上げ、参拝客が多く訪れることだろう。毎年恒例の銀杏祭りも予定されている。

 そうしてまた一つ季節の終わりを体感する……考えてみると、世志乃には季節が移ろっていくことで残されている命が削られていく思いに駆られた。

 今では時間の経過が、恐ろしくて仕方がない。

(……今日も、ですね)

 エプロンが遊びにこなくなってから、数えてみると、もう三週間。あの灰色と黒色の斑模様が懐かしく、ただ、今では本当にそんな猫がいたのかと疑うほどである。外に出たとき、その目は自然とエプロンの姿を捜すも、見つからない。見かけたと思ったら違う猫で、もうエプロンには会えないかもしれない。

 エプロンが遊びにこなくなり、目当てにしていたこずえも家を訪れることがなく、庭はすっかり静かな空間。少し前まで、エプロンの小さな鳴き声と、こずえの無邪気な笑い声が木霊していたのに。

 吐息。

(…………)

 もうすぐ空が鮮やかな茜色へと染まる時刻。虚ろな瞳で変色した空の色を見つめていると、無性に寂しい気持ちが募ってくる。また何もない一日が終わってしまうことが、まるで大罪を犯している気持ちに。また昨日と変わらない今日が終わってしまう。生きている意味もなく、することもなく、目標もなく、意義もなく、ただ命をつなげていくだけの日々。

 楽しいことが失われた。

 覇気をなくしていた。

 ここで一人。

 孤独を得る。

(…………)

 昨年の飛行機事故で、感情の根底が崩壊し、あらゆる感覚が希薄になった。世界から大切なものがなくなり、喜怒哀楽の感情が減少して、ただ時間を過ごしていく。失うものはなく、得ようとすることもなく、無気力に呼吸を繰り返す。無自覚に脈動して、残された命を使い切ることが、世志乃の時間。

 事故からずっと無気力な生活に身を置いていた。だというのに、夏を過ぎ、不意に胸の高鳴る喜びを得る。野良猫のエプロンと小学一年生のこずえの登場によって。

 猫のかわいらしさを得た。こずえの笑顔に孫の面影を見た。家を訪れてくるだけで、空虚で灰色だった世界にぱぁーっと色が溢れていく。

 餌を食べているエプロン。笑顔を浮かべるこずえ。丸くなるエプロン。頭を撫でているこずえ。『みあー』と鳴くエプロン。『やはははっ』と無邪気に笑うこずえ。世界に光を照らしていく。

 楽しさ、さらには愛しさまで得ることができた感覚は、飛行機事故以来、初めてのこと。家族を失い、絶望に沈み、もうそんな感情、得ることはできないと思っていたのに……気がつくと胸は温かく、空間に溢れる温もりにやさしく包まれている。

 まだそんな光が自分に残されていたことを知ることができた。世志乃は生きていく希望があったのである。絶望した未来から慈しまれているようで、世界から生きることを許された気がした。

(…………)

 だがしかし、目の前に灯った輝く光は、すでに失われた。もうエプロンがくることはない。こずえが家を訪れることはない。世志乃は一人、世界に取り残されたように孤独を得ている。言い様のない疎外感に、やはり宿った光は幻であり、全世界から見捨てられているよう。

 寂しい、それが正直な気持ち。存在から色がなくなり、無気力な体は無色透明になったみたい。こんな感情、飛行機事故によって絶頂を迎え、二度と得るものではないと思っていたが、気がつくとまたその思いに駆られている。

 きっとこれは、エプロンとこずえが遊びにこなければ感じることはなかっただろう。世志乃の生活に干渉したために、今ある世界に期待してしまった。『自分には生きていくまだ楽しみが残されている』と。

 けれど、今は一人。どこにも楽しみを得ることはできない。生きる希望を見出すこともできない。

 これからも一人で生きていく。残りの命を細々とつなぐようにして。

(…………)

 世志乃の家族のように、世の中には事故や病気で、生きたくて生きられない人間だっている。もし命を分けてあげられるなら、心からそう願いたい。こんな無意味な生活に身を置いて、ただそうして時間を過ごしているだけでは申し訳ない。

 ここにいる自分に、憤りすら得てしまう。なぜ自分だけが生き残ってしまったのか? どうせなら、家族とともに死ねればよかったのに。

 海外への生活を不安視して断った過去の自分、恨みたくなる。

 戻れるものなら、一緒に飛行機に乗りたかった。

 家族とともに、死にたかった。

(…………)

 世志乃にとって、生きていくことは、惰性でしかない。

 もう生きていても、意味がない。

 やめてしまいたい。

 死んでしまいたい。

(…………)

 願うことがあるとすれば、もう一度だけでいいから、エプロンを抱いてみたかった。遊びにくるこずえと笑い合いたかった。けれど、どうやらそれも叶わない。世界に取り残された世志乃には、誰も近寄ってきてくれないから。

 孤独であるから

(…………)

 庭にある物置の前に立ち、ぼんやりと青願神社のある小高い丘を見つめる。青々とした小さな山、その向こう側に広がる灰色の空に、世志乃は飛び立っていきたい。この世界から永遠の別れをするように。

 色を失った灰色の世界から、無とへ還るように。

(…………)

 庭に設置された物干し竿にシャツが揺れている。午後四時で、そろそろ取り込む必要がある。膝に手をつき、ゆっくりと膝を伸ばしていく。立ち上がって、目の前の飛び石に足を向けていって……刹那、異変が訪れる。

(……ぁ……)

 視界が歪んでいた。地面が大きく波立つ水面のように起伏しており、足元が覚束なくなってしまう。

 直後には、電撃が駆け抜けるような激痛が頭部の内側を駆け抜けた。一瞬にして全身から力が抜けていき、重力に抗うことができずに膝から崩れていってしまう。それは落ちるようにして。

(……あ、ぁ……)

 一瞬にして視界が白濁していった。自身が巨大な渦に呑み込まれていく奇妙な感覚を得る。

(……──)

 意識が消えていく。つながった細い線が切れるように、全身の感覚が失われた。

(────)

 もうない。世志乃の意識はこの地から飛び立っている。

 歩くこともできない。

 立ち上がることもできない。

 見ることができない。

 聞くことができない。

 痛みを得ることもできない。

 孤独を感じることもできない。

 できないできないできないできない。世志乃の存在そのものが、もう世界を感知することができなくなってしまった。

(    )

 存在は、世界から排除されていく。


       ※


 如月こずえ。小学一年生。大きな瞳と、耳を隠すぐらいの髪の毛の女の子。カレーライスに入っているにんじんは人類にとって脅威であると信じて疑わない年頃だった。学校の授業では国語が苦手で、特にみんなの前で教科書を朗読するとき、惨めなまでにうまくいかない。読もうにも、すぐつっかえてしまい、恥ずかしい思いをしてしまう。

 小学一年生の夏休みは、外でいっぱい遊び、盆休みに家族と祖父母の家に遊びにいった。久し振りに見る祖父母は元気そうで、スイカをたくさん食べたこと、とても嬉しかった。

 祖父母の家には、三毛猫がいた。大きなテレビのある居間の棚の上で丸くなっていたのである。こずえは恐る恐る三毛猫に近づいていき、相手の顔色を窺いながらそーと手を伸ばして頭を撫でる。抱っこして、祖母の教えてもらった猫じゃらしで遊んだ。とてもかわいかった。猫と遊ぶ時間はとても楽しかった。家に持ち帰りたくなったぐらいに。

 さすがに祖父母の家にいる三毛猫を持ち帰るわけにはいかないが、家でも猫を飼いたくなった。あんなにかわいいのである、家にいたら毎日が楽しくて仕方がないだろう。考えただけで、胸のときめきが止まらなかった。

 欲望に突き動かされていくように、こずえは早速母親におねだりしてみた。だが、『つうと言えばかあ』な感じで断られてしまう。『駄目よ。マンションじゃペット禁止なんだから』と。こずえはそんな母親に下唇を出して、くるっと後ろを振り返る。そんなことを言われて断念するほど、こずえの思いは弱くない。賛同してもらえなかったけど、こっそり飼えば大丈夫だろうと考えた。まずは猫が必要で、猫を捕まえるべく、近所を探索するようになる。

 夏の残暑が厳しいなか、麦わら帽子を被って元気いっぱいに出発。すると、玄関ロビーを抜けたマンション前の道路に早速猫を見つけた。素早く道路を横切る白猫。胸のときめきを抑えながら、こずえは白猫を追いかけていくと……白猫は、家と家の間にある塀の上にジャンプし、住宅の向こう側へいってしまう。幅が狭く、とてもこずえでは入れそうにない。断念。

 青願神社から西方に歩いていくと、そよ風公園という小さな公園がある。見てみると、黒白の猫がベンチの陰で丸まっていた。大チャンス。近寄っていくと、こちらの気配を感じたのか、顔を上げた猫はさっと立ち上がり、背中を向けてどこかにいってしまった。めげずに追いかけていくと、住宅の塀を越えていったので、どうしようもない。断念。

 小学校の方にいってみると、茶色の猫が塀に沿って歩いていた。慌てて追いかけていくと逃げられてしまうので、アニメに出る頬被りをした青髭の泥棒みたいに、こっそりと忍び足で近寄っていく。緊張感を帯びながら、一歩、二歩、三歩、と近づいて、四歩目を踏み出したとき、猫がこっちを振り向いた。目が合う。ごくりっと喉が鳴った。相手のこちらの真意を気づかれないよう、興味なさそうに素知らぬ振りをする。しかし、そうしている間に、猫はどこかにいってしまった。断念。

 八月下旬は、猫を捕まえようと近所を徘徊するが、ことごとく失敗を繰り返すばかり。捕まえるどころか触れることもできない状況。何度も諦めそうになりながら、祖父母の家にいた猫のことを思い出しては口元を緩めて、消沈する気持ちを振り払って帰っていく。『今日は駄目だったけど、明日ならなんとかなる』と楽観的に考えながら。

 夏休みが終わった。まだ猫は捕まえられていない。なら、夏休みが終わっても家を出て猫を捕まえなければならない。猫と暮らす『むふふ』な生活を目指して。

 九月一日は始業式を済ませて、下校して牛乳を飲んでから、早速探索を開始。残暑厳しく暑かったが、走りにくいので麦わら帽子を被るのはやめた。半袖のワンピース姿で路地の隙間や塀の上を見つめて……マンションの前にある青願公園で猫を見つけた。追いかけていくと、灰色と黒色の斑模様の猫は、鉄棒の横を通って公園を横断する。さらに道路を渡って東方へ歩いていく。尻尾を大きく揺らしており、後ろにいるこずえのことに気づいていない。

 チャンスだった。こずえは『今度こそ!』と慎重に足を動かしていき……猫は一軒の民家に入っていく。庭の大きな家で、柿や蜜柑の木が生えていた。鉄の敷居越しに見ると雑草も生えていて、猫じゃらしもある。

 猫はそんな庭を我が物顔で歩いていた。ゆったりと、尻尾を緩やかに揺らしながら。

 視線を横に向けてみると、庭には黒い門がある。インターホンのボタンもそこにあった。ここが入口に違いない。猫みたいに柵の間を通るわけにはいかないので、追いかけるためには門を潜るしかない。けれど、勝手に入ってはいけないだろうし……門の前で『どうしようかなぁ?』と迷っている間に、猫が見えなくなってしまった。瞬間、もう居ても経ってもいられずに、気がつくと門を開けて入っていた。ここが知らない人の家だということも忘れて。

 門を抜けてすぐ、猫を発見。物置に置かれている自転車後輪の横で丸くなっている。願ってもない大チャンス到来。こっそりと近づいていって、腰を屈めてひっそりと近づいていく。

 と、突然声をかけられた。体がびくんっと揺れる。心臓が跳ね上がっていた。しかし、それは他人の家に勝手に入っている罪意識ではなく、目の前の猫にばれて逃げられてしまうかもしれないという不安から。けれど、前方の猫はまだ丸まっているので、一安心。ほっと息を吐いて顔を向けてみると、丸い眼鏡をかけたおばあちゃんが玄関の前に立っていた。猫のことを教えて、騒がないように口元に人差し指を当てる。

(そーと……そーと……)

 これまではすべて猫に逃げられていた。けれど、猫まで三メートルもない。こんなチャンス、もう二度とないだろう。慎重に慎重を重ねながら慎重かつ慎重にいかなければならない。半歩ずつ、摺り足近づいていって近づいていって近づいていって近づいていって……猫の頭に手が届くという距離になって、猫が顔を上げた。目が合う。ぴきーんっと全身硬直することになるが……猫は逃げる素振りがなかった。ほっと安堵して、そーと手を伸ばしていき……なんと、触れることができたのである。一気に気持ちが華やいでいく。そのまま頭に手を載せ、ゆっくりと前後に動かしていく。そうして頭を撫でることができた。そのまま手を動かしていき、体を擦ることができた。さらには抱きしめることにも成功。

 やった。

 ようやく猫を捕まえることができた。

 抱っこしている猫は、首元からお腹にかけて白い毛をしていて、エプロンをしているみたいだったので、『エプロン』と名づけた。おばあちゃんと一緒にご飯をあげて、抱っこして、猫じゃらしで遊んで……翌日からも遊びにくる許可をおばあちゃんにもらい、猫と遊ぶことにした。猫と遊ぶこと、抱きしめているだけで幸せを感じることができる。横にいるおばあちゃんも楽しそうに微笑んでいた。とても嬉しい。

 幸せというやつだった。


 こずえがおばあちゃん家に通うようになって一か月が経った頃、異変が起きた。毎日きていたエプロンが、おばあちゃん家に遊びにこなくなったのである。

 がっかり。

 エプロンと遊ぶこと、あんなに楽しかったのに、それがなくなってしまうとは……残念な気持ち、大切なぬいぐるみを母親に捨てられた心境に近かったかもしれない。涙が出てきそう。肩が大きく上下するほどに、がっくりである。

 エプロンと遊べなくなることは残念だったが、もっと残念なことがあった。エプロンが遊びにこないことで、おばあちゃんがしょんぼりと寂しそうにしていること。エプロンと一緒のときは活き活きしていたのに、今では病人のように表情が薄らいでいた。咳もたくさんして、苦しそう。

『このままではいけない!』そう思った。おばあちゃんのあんな寂しそうな姿、見たくない。またおばあちゃんに笑顔を浮かべてもらえるために、エプロンを捜すことにした。見つけて、またおばあちゃんに笑ってほしかった。


 十月二十四日、月曜日。

 学校から帰ると、ランドセルを勉強机に放り投げ、台所でドーナツを食べる。むしゃむしゃむしゃむしゃっ。おいしかった。紅茶は砂糖を入れているはずなのに、あまり甘くないことを母親に尋ねると、『ドーナツが甘いから、紅茶が甘くなくなっちゃんだね』と教えてもらった。理屈はよく分からないが、『そうなんだー』と大きく頷く。

 長袖の黒シャツに長い白色スカート姿で、玄関でスニーカーを履いて、飛び出していった。『今日こそエプロンを見つけるんだ!』と拳を握りしめて。

 空は雲に覆われているので、雨が降るかもしれない。けど、降ったら降ったらで、すぐ帰れるように近所を探索することにする。『用心のために傘を持参していく』という発想はない、邪魔だから。

 マンション一階の玄関ロビーを出ると、目の前に青願公園ある。そこにクラスメートの女の子を見つけた。ちょっと肌寒くなってきたのに、女の子は半袖のシャツにハーフパンツ姿。

 声をかける。

「茄乃ちゃん、また練習なのかなぁ?」

「あっ、こずえちゃんだー。お散歩?」

「違うよ、エプロンを捜してるの。茄乃ちゃん、見かけたことない?」

「エプロンって、ああ、この前言ってた神様のことでしょ? そうだったね、こずえちゃん、神様を捜してるんだったもんね」

 外跳ねの髪の毛の女の子は、こずえの捜している『エプロン』を『神様』と呼ぶ。

「いつもこの辺にいると思うけど……神様、どこいっちゃったんだろう?」

「心配だよねぇ」

 こずえは茄乃とともに滑り台やブランコの横を歩いていく。

 青願公園は北側に小高い丘があり、多くの銀杏の木が生えている。丘には百段ある石段があり、その上に青願神社の境内があるのだ。下からでも巨大な鳥居を見ることができた。

 石段の前まで別れる。

「じゃあねぇ、茄乃ちゃん。今日も練習頑張ってねぇ」

「こずえちゃんも神様見つかるといいね。ばいばーい」

「また明日ねぇー」

 こずえの目の前で、茄乃は元気に石段を上がっていったと思ったら、一度も休むことなく頂上に消えていった。『茄乃ちゃんは凄いなー』と素直に思う。真似しようにもこずえにはできない。せいぜい真ん中辺りで息切れすることだろう。

 まだ黄色くならない多くの銀杏の木を見つめてから、空を覆う雲を見上げる。学校から帰ってきたときより、雲の色が暗くなった気がした。

(それにしても……エプロン、どこいっちゃったのかなぁ?)

 周囲をきょろきょろと見渡したところで、これまで二週間以上ずっと見つからないのだ、そう都合よく見つかるはずがない。分かっているが、でも、エプロンのことだから、その辺の茂みからひょいっと出てきては、『みあー』とご飯をねだってきそうな気もする。

 この青願公園に接している道路は小学校の通学路で、ランドセルを背負った下校途中の小学生の姿があった。背は高く、全員こずえよりも年上である。そんな人たちがいる所で『エプロン』と口にするのはちょっぴり恥ずかしい。口を閉じたまま、出てきてくれることを念じながら、周囲に目を配っていく。

 大きな滑り台に、エプロンの姿はない。

 隣接する団地の自転車置き場に、エプロンの姿はない。

 今は花がなく、雑草しか茂っていない団地の花壇を覗き込むが、エプロンの姿はない。

 青願神社の裏まで足を運んでみた。猫を見つけたが、黒猫だった。

 自動販売機の裏も覗いてみるが、成果は得られない。

(…………)

 空を灰色の雲が覆っている。意味はよく分からないが、何かに急かされているような気がして、気持ちが落ち着かない。止まっていることがいけないような気がして、足早で道路を通過していく。この気持ち、国語の時間に、教科書の朗読の順番が回ってくる寸前みたいで、とてもいやな感じがした。

 噴き出す汗が、次々と首筋へ流れていく。脇の下に流れるものは、とても冷たく、気持ちの悪いもの。

(…………)

 歩いて歩いて歩いて歩いて、捜して捜して捜して捜して……今日もエプロンは見つからない。

「っ!」

 小さな段差があった。下を向いていたのに、焦る気持ちに注意散漫となり、躓いて転倒してしまう。強かに右膝を打ちつけ、痛みが走る。見てみると、血が滲んでいた。

「ううぅー……」

 なんだか悲しくなってきた。エプロンを見つけようにも見つけることができず、こんなところで転んで怪我をして……自分のことが惨めに思える。こんな風に泣きべそをかいていること、やる瀬ない。

 唇は鳥の嘴のように尖る。目はきらきらっと光っていた。

 しかし、こずえがこんな辛い状況にあるのに、周囲には助けてくれる人はいない。普段困っている自分のことを助けてくれる父親も母親も学校の先生も友達も、誰もいない。

 ならば、自分で立ち上がらなければならない。それ以外に、術はないのだから。

「…………」

 立ち上がって、地面についた手をぱんぱんっと払っていく。小さな砂利がついたらしく、ちょっと痛かった。

「…………」

 どうにもならないと思った。野良猫を捜そうとしたところで、見つけられそうにない。それがここ数日で実感できたこと。もう駄目。見つかりっこない。

(……帰ろう)

 諦めよう。

 自分には無理だから。

(…………)

 青願公園に足を向ける。横断するのか家までの近道だから。歩いてみるが、歩を踏み出す度に擦り剥いた右膝が痛かった。

 体育の授業、クラスで一人だけ前転ができなかったときのように、まるで人生に絶望するように、こずえはがっくりと肩を落としていく。視線を下げてすぐ前の紺色のアスファルトしか見られなくなる。青願公園に着くと、アスファルトが茶色い土に変わっていた。

 公園には上級生と思われる男子が五人、大きな滑り台で大声を出して遊んでいた。坂を斜めに横断するような危ない遊び方で、先生が見ていたら注意されそうだが……今のこずえには関係ない。上級生が怪我をしようがどうなろうが、知ったことではない。そもそも上級生を注意できるような勇気もないし、度胸もない。

「…………」

 五十メートル先に、巨大な壁のように聳えるマンションはいつもと変わらないが、なんとなくとぼとぼっと帰る足には、いつもより巨大に見えた。気持ちが沈んでいるこずえのことを切迫してくるよう。

 顔を大きく上下させて、吐息を漏らしていく。

 はあぁー……。

(……っ!)

 と、その時、気配がした。

 青願神社のある丘には大きな銀杏の木がたくさん生えており、足元には多くの雑草が茂っている。そこから『がさがさがさがさっ!』と不気味な音がしたではないか!? 反射的に顔を向けてみると、そこにある茂みに、

「あっ!」

 一匹の猫がいる。

「エプロン!」

 エプロンがいた。灰色と黒色の斑模様に、首筋から胸にかけて白い毛、間違いない。丘と公園の隔てた塀にちょこんっと座り、こずえの方をじーっと見つめている。その姿、胸だけ白い毛を誇らしく自慢しているみたい。耳は遠くの音も聞き漏らさないようにぴんっと立っていた。

 絶望に打ちひしがれていたこずえの表情が、一気にぱぁーっと明るくなる。

「もぉー、エプロン、今までどこいってたのぉ? 全然こないもんだから、心配したんだよぉ」

 今までずっと元気なく泣きべそだったのに、声を上げて頬を一気に紅潮させる。二週間も三週間も捜していて、諦めかけていて、けど、こうして巡り合うことができた。歓喜は嵐のように渦巻いている。安堵はとても大きく、無意識に吐き出された息によって体から力が抜けていき、思わずその場にしゃがみ込んでしまいそう。

 見てみると、エプロンが反対方向に顔を向けている。ここにこずえがいるというのに、あちらに関心があるみたいに。と思ったら、ゆったりと歩いていってしまう。

「あっ、エプロン」

 エプロンが塀はこずえの肩ぐらい。手を伸ばしたが、ひらりっとエプロンに躱されてしまった。エプロンは石段の方に歩いていく。

「ちょっと待ってよぉ、エプロン。おばあちゃんが会いたがってるよぉ」

 どんどんどんどん歩いていって、石段の上でこちらを振り返るエプロン。そうしてこずえの動向を窺っているように。

「待ってよぉ、エプロン」

 顔を上げたまま追いかけていくと、こずえが石段に到着する寸前に、またエプロンは東方に歩いていく。その動作、気紛れを示しているような、意地悪をしているような。

「エプロンってばぁ」

 頬を膨らまし、こずえも全力で追いかけていく。車がこないかをちゃんと左右を確認してから道路を渡り、緩やかな下り坂を歩いていく。見失ったようにも思えたが、ちゃんと角を曲がったところでエプロンが待っていてくれた。近寄っていくと、手の届きそうな距離になってまたエプロンは背中を向け、歩いていってしまう。

 まるで、エプロンがこずえのことをどこかへ誘っているみたいに。

(エプロン、どうしちゃったんだろうぅ?)

 あんなに仲よかったのに、今は触らせてもくれない。態度が余所余所しいエプロンに、一抹の寂しさを得つつも、立ち止まっている場合ではない。

 エプロンが向かっている方向に、おばあちゃんがある。最近はエプロンを捜すばかりで、遊びにいっていなかった。もしこのままエプロンがおばあちゃん家までいってくれれば、また一緒に遊ぶことができる。想像すると、歩く足にこれまでにない力が入っていた。

 急ぐ。急ぐ急ぐ急ぐ急ぐ。分からないが、見えない風によって背中を押されているように、こずえは歩む足を急ピッチに動かしていく。

(……おばあちゃん家だ)

 エプロンは柵を通り、まるで我が家のように柿や蜜柑の木が生えるおばあちゃん家に入っていった。

 エプロンの行動に、こずえも口元を緩めながら黒い門を通っていく。ようやくエプロンをおばあちゃんに会わせることができる。

「おばあちゃーん、エプロン見つけたよぉ」

 にこにこの満面の笑みで門を開けて飛び石のある庭に入っていって……直後に目を見張ることに。同時に、心臓が大きく跳ね上がった!

(っ!?)

 物置の前、最初は洗濯物が落ちていると思ったが、違う。そこに茶色いシャツ姿のおばあちゃんが倒れていたのである。飛び石の上に頭部があり、うつ伏せになったまま身動きすることがない。

「おばあちゃん!?」

 慌てて駆け寄って体を擦るが、反応はない。瞼を閉じたまま、目を覚ます気配がなかった。

「おばあちゃん! おばあちゃんってばぁ!」

 自転車の横にはエプロンの皿があり、ちょこんっとエプロンが座っている。じーっとこずえのことを見つめていると思ったら、また気紛れを起こしたみたいに、門の方へ歩いていってしまった。

 けれど、今はエプロンのことよりも、倒れているおばあちゃんのことである。肩に手を置き、揺り動かしていく。

「おばあちゃん、起きてぇ! おばあちゃん!」

 大変である。こんな外で人が眠るわけがない。緊急事態に直面しているのは間違いない。もしかしたら、このままおばあちゃんが死んでしまうかもしれない。そうすれば、二度と会えなくなってしまう。

 そんなのいやだ。

「おばあちゃん!」

 声を出す。決死になって声を出していく。そうすることが、こずえにできるすべてであると信じて。

「おばあちゃん! おばあちゃん!」

 呼んで呼んで呼んで呼んで、叫んで叫んで叫んで叫んで、声の限りを振り絞って……不意に世界が暗くなる。こずえに大きな影が覆い被さったから。

 そしてその影により、停止していたここにある世界が動き出す。

 こずえは、その中心にいながらも、声を出す以外にすることができなかった。

 ならば、こずえは今も懸命になって声を上げていく。

 大好きなおばあちゃんを助けるために。


       ※


 世志乃の世界は、灰色の靄に閉ざされている。無味なコンクリートで全世界が覆われているみたいに、右を見ても左を見ても、空も地面もすべてが灰色だった。

 そんな異空間で、世志乃はただただ呆然としゃがみ込んでいる。身を置いている世界の異常さにも動じることなく、放心するように思考を停止させて。

 今は動くことも考えることもできず、自身がそこに存在していることすら認知することもできない。

 できないできないできないできない。今の世志乃には何もすることができない。

(……ぁ)

 目の前の存在に気がついた。今までずっとそこにいたのだろうが、今になってようやく気がつくことができた。

 目の前に一年前の飛行機事故で他界した息子がいる。息子のたかが立っている。三十九歳の若さでこの世を去った親不孝者。顔の皺が目立つようになり、頭にも白いものが見えるようになっている。世志乃は貴志を産むのと引き換えに子供を作れない体になったこともあり、自分のすべてを費やして育てた自負がある。しかし、実際は貴志が自分で大きくなっていっただけなのだろう。特に大学進学と同時に世志乃の手を離れて育っていったこと、申し訳ないようでもあり、誇らしくもあった。

 貴志の隣には嫁のなえがいる。料理をするときみたいに後ろで髪の毛を縛っており、穏やかな表情には特徴的な細い眉毛。貴志と結婚してくれただけでも素敵な嫁なのに、『一緒に暮らしましょう』と同居を提言してくれた。世志乃にとっては世界中の誰にも負けない最高の嫁である。けれど、貴志と結婚してしまったがために、若干三十五歳の若さでその命を亡くしてしまったこと、申し訳ない。

 貴志と早苗に挟まれるようにして、孫のひなが微笑んでいる。腰まである髪の毛は真っ直ぐなもので、頬はぽよぽよととてもかわいらしい。浮かべる笑顔は周囲に幸せを振り撒いているよう。ひなは真っ直ぐこちらを見つめてくる。大好きなひな。あらゆる宝石よりも輝く最高の孫六歳で亡くなってしまったこと、残念で仕方がない。

(ああ……)

 家族がいる。目の前に失った家族がいてくれる。三人とも真っ白な衣に身を包み、世志乃の方を見つめている。

 世志乃の心にある感情は、火が灯ったみたいに熱くなっていた。もう二度と会えないと思っていたのに、こうして会うことができた。なら、もういい。胸に抱いているものを置いて、家族の元へと歩み寄っていきたい。そこに居場所があるから。

 そこが幸せの中心である。

 求める場所。

「みなさん……」

 ようやくここに辿り着くことができた。一年間、ずっと寂しい思いをしてきたが、ようやく家族の元に戻ることができる。

「お待たせしました」

 自分だけが残ってしまったが、もう大丈夫。これからはずっと一緒にいられる。

 一緒に過ごすことができる。

「これからは、ずっと一緒ですよ」

 力なくしゃがみ込んでいた世志乃は、さっきまでもう二度と立ち上がれないと思っていたのに、今は引っ張られているみたいにすんなり立ち上がることができた。

 前を向く。家族の姿を目に映す。もう自分の背後に未練はない。このまま真っ直ぐ家族の元へ辿り着くこと、それこそが世志乃の願い。

 この灰色の世界を一歩ずつ歩んでいき、向こう側の世界へと旅立っていく。それこそが世志乃の望むこと。

 もういい。

 もうこれで。

 これでようやく、生きていく罪悪感から逃れることができる。

「……あの」

 歩んだ足、進める歩……だが、瞬間的にそれを止めた。そうせざるを得ない状況に直面したから。

「どうしてですか?」

 大切な家族のいる場所へ歩み寄ろうと足を踏み出した行為に、三人から首を横に振られてしまったのである。とても悲しそうな表情で。世志乃が三人の元へいくことを拒絶するみたいに。

 突きつけられた事実に、大切な部分を鷲掴みされる思いに、喉が大きく鳴る。

「私が……私がそちらにいってはいけないというんですか? こんなにもみなさんのことを必要としているのに」

 世志乃が強く求めたところで、三人の表情が曇る一方。存在すべてが満ちるぐらい三人のことを欲しているのに、その行為は拒絶された。

 下唇を噛みしめる。まさか家族に拒否される日がくるなんて……ショックである以上に、煮え滾るようなやり切れなさを得てしまう。世志乃の存在そのものを全否定されている。

 視線が下がってしまう。脱力した全身は、今にもその場に崩れていってしまいそう。

「…………」

 前に進むことを止められて、すべきことを見つけられずに、ただただ立ち尽くす。これから先、いったいどうすればいいか分からない。これまでのすべてを捨ててまで家族を求めていたのに、家族の待つ向こう側に進むことができなくなった。

 その事実、ここに存在していることを消し去りたくなる。

 これなら、生まれてこなければよかった。

 こんな惨めな思いをするなんて。

 悔やみたくなる、生まれてきたこと。

「…………」

 保っていた最後の一線が切れたみたいに、世志乃は高い建物から落ちるようにその場にしゃがみ込む。

 ゆっくりと膝を抱え、あらゆる思考を停止させる。

 もう生きていけない。

 これでは。

「…………」

 駄目。

 駄目だ。

 このまま消えてしまいたい。

 泡が弾けるように、すべてをなくしてしまいたい。

 こんな存在など。

 あっていいはずがない。

「…………」

 闇が世界を包み込んでいく。気力なく、ただ深い場所へと沈み込む世志乃の体を、闇が覆い尽くしていく。すべてが漆黒に塗りたくられ、あらゆる部位を世界から掻き消されていく。

 そうして無と化す。

 それ以外の選択肢を、精気を放棄した世志乃では得ることができなかった。

 抗う術がない。

 抵抗する力もない。

 ただ消えていく一方。

 闇に呑み込まれていく。

 足も腕も胸も首も顔も……すべてが漆黒へ。

 溶けていく。

 なくなっていく。

「…………」

 もう、ない。

「……っ」

 不意に、感触を得た。連動するように、足元に投げ捨てていた心に、これまでにない思いが灯っていく。

 それは、外側から伝えられた力によって。

「……これ、は」

 感覚がした。気配した。温もりを得た。もう自分には何も残されていないと思っていたのに、まだこうして世界に身を置くことができている。

 そして見た。その存在を感じた。

 世志乃の目の前、ひなが立っている。円らな瞳で真っ直ぐこちらを見つめてくる。

「ひな……」

 正面に立つひなから伝えられる言葉は、ない。ないが、世志乃の手を取り、必死になって何かを訴えかけてくる。

 見てみると、後ろにいる息子夫婦も視線をこちらに向けている。とても強く、輝く光を宿しながら。

 三人が必死になって、世志乃に何か大切なことを伝えようとしているみたい。

「……どうしたというんです?」

 ひなが前にいてくれる。自分のことを必要としてくれる。だから、顔を上げる。相手に安心させてあげられるように、ざわついていた心を落ち着ける。崩れていた意識を立て直して。

 瞬間、その耳に届けられる声。

『おばあちゃん!』

 灰色の世界に響く子供の声。

 正面にいるひなからものではない。息子夫婦のものでもなく、声は背後から響いてきたもの。だからこそ、後ろを振り返るという発想が生まれた。

 そしてまた、驚愕が世志乃の体を駆け抜けていくこととなる。

「どうしてここに?」

 猫がいた。振り返ったそこに灰色と黒色の斑模様、首から腹にかけて白い毛の猫。エプロンである。エプロンがちょこんっと座って、世志乃のことを見つめている。

『おばあちゃん!』

 声は、エプロンのさらに奥から聞こえてくる。声の主は見えないが、世志乃の知っている女の子であること、ちゃんと分かった。

 すると、エプロンがゆったりとした動作で立ち上がる。こちらに背中を向けて一、二歩と進み、顔だけこちらを振り返った。『早くついてきてよ』と語りかけるみたいに。

「エプロン、もしかして、私のことを迎えにきてくれたんですか?」

 エプロンは表情を変えることなく、じーっと世志乃の方を見つめている。

「そうですか……」

 世志乃は暫く思案するように視線を漂わせて……ゆっくりと首肯する。

 エプロンについていこうとして……けれど、その前に、残されている三人のことを振り返った。

 孫のひな。息子の貴志。嫁の早苗。

「ごめんなさいね、みなさん」

 世志乃がそうやって謝罪の言葉を口にすると、変わらず三人から言葉はないが、その表情はぱぁーっと明るくなった。世志乃の選択を喜んでくれているみたいに。

 世志乃の瞳から感情が溢れていく。雫となって、灰色の世界に散っていく。

「ごめんなさいね。私はまだ、みなさんと一緒にいるわけにはいかないみたいです」

 大きな悲しい思いがある。溢れんばかりの切ない思いがある。目の前に家族がいるのに、その横に立つことができない。けれど、それを目の前の三人が願っている。

 世志乃はまだ、戻るべき場所がある。

「もうちょっとだけ待っていてくださいね。その内、私もそちらへいきますから。それまでもうちょっと頑張ってみることにします。またね、ひな」

 小さく手を振るひなの笑顔を目に焼きつけてから、三人に背中を向けた。

 その選択、胸が大きく疼く。しかし、世志乃に迷いはない。それこそが世志乃の進むべき未来であるから。

「さあ、エプロン、いきましょう。早く帰って、ご飯にしましょう。エプロンの好きな『にゃんごはん』、今日はたっぷりあげますからね。うふうふ」

 灰色の世界、世志乃はエプロンとともに歩いていく。灰色の先にある色鮮やかな世界に向かって。

 もう振り返ることはしない。どれだけ後ろ髪を引かれる思いに駆られても、前だけを見つめていく。

「それにしても、今までどこにいってたんですか? こずえちゃんが心配してたんですよ。もちろん私もです。ですから、心配かけた罰として、今日の『にゃんごはん』はなしにしましょうかね」

『みあー』

「そんな声出したって許してあげませんよ」

『みあー』

「うふうふ。冗談ですよ。ちゃんとあげますからね。さあ、こずえちゃんも待っていることですし、少し急ぐことにしましょう」

 まるで少女の頃みたいに心躍る気持ちで、世志乃は腕を大きく振って駆けていく。

 灰色の終わりを越えて、輝く世界に飛び込んでいった。

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