いつか、きみに

◆ケータイ小説文庫版『一瞬の永遠をキミと』発売一周年記念作品


「海に行こう」

 その日は、式を一週間後に控えたある夏の日。

 いつもは遅くまで寝ているお前が、どうしてかその日ばかりは早起きをして、まだ寝ぼけ眼の俺にそう言った。

「海って、今日?」

「当然。なんのためにわたしが早起きしたと思ってるの」

「……だから昨日あんなに早く寝てたんだ」

 風呂から上がったときにはもう熟睡していた昨夜の姿を思い出す。近頃は忙しかったし疲れているのだろうと、そのままゆっくり寝させていたら、まさか今日のための体力温存だったとは。

「俺、四時間も寝てないんだけど」

「夜更かしは美容の大敵だぞ」

「早く起きるって教えてくれれば早く寝たのに」

「びっくりさせようと思って。人生にサプライズは必要らしいよ」

「そういうの、ありがた迷惑っていうらしいよ」

「とにかく起きて。わたしサンドウィッチ作ってるから、その間に準備してね」

 寝巻とそう区別のつかないTシャツとジーンズ姿でキッチンへ向かう背中を見送りながら、俺はひとつ大きなあくびをした。寝起きがいいのは昔から褒められるところだ。ベッドを綺麗にメイキングしてから、寝汗を吸ったTシャツを脱いだ。


 出発したのは朝の六時半。さすがにまだ風は爽やかだけど、朝イチのニュースで流れた天気予報では、昼には猛暑になるらしい。過酷な旅になるだろう。何せこの町から海までは随分遠い。俺たちの住む町は、山と田んぼだけは豊富な内陸の町だ。

 おまけにここでもうひとつ、とんでもないことが発覚した。俺は当然遠い海まで、電車を乗り継いで行くもんだと思っていたのに、お前は違ったみたいだ。

「……まじで言ってる?」

「まじで言ってる」

 細長い指にぶら下がっているのは、三年前にゲーセンで取ったウサギのキーホルダーと、俺のバイクのキー。どうやら俺たちは目的の海までバイクに乗って行かなければならないようだった。


 まだ、町は動き出してはいない。静かで、行き交う車も数えるほどだ。

 低い空の夏の朝、通り慣れた道をお前を後ろに乗せて進む。風は少しずつ温くなっている。早いうちに行けるところまで行きたい。

「わあい、やっぱり後ろっていいねえ。乗ってるだけなんて最高」

「免許証、お前も持ってきてんだろ? 疲れたら代われよ。海まで結構遠いんだからさ」

「やだ。わたし今日は絶対運転しないって決めてんだもん。あ、見て、でっかい犬」

「うわホントだ。でかいなあ」

 早朝から犬のお散歩をしているおじいちゃんに、お前は大きな声でごあいさつ。おじいちゃんは、バイクに乗って声を上げてるどう見ても怪しい女にも、丁寧に頭を下げ返してくれた。うん、世の中、捨てたもんじゃないなあ。


 この町から海のある町に行くには、まず通らなければいけない場所がある。それがこの、“もみじ山”と呼ばれる峠。秋には見事な紅葉を見せてくれることからこの通称が付き、観光客も毎年大勢やって来るこの場所だけれど、当然、夏の今は瑞々しい緑ばかりで、それはそれで綺麗ではあってもそこらの山となんら変わりない。ゆっくりと登って、気を付けつつ下るだけ。

 少し暑くなってきたからかどうなのか、山を登っている間、お前は一言も喋らなかった。あまりに静かだから、バイクに乗ったまま寝ているんじゃないかと心配してしまったくらいだ。峠のてっぺんに着いたとき、ぎゅっと俺の服を掴み直したから、ちゃんと起きていることを知ったけれど。

 本当は、ここで一旦運転を代わってもらおうと思っていた。でも、なんとなくこのままにしておいてあげたい気がして、そのまま峠をのんびりと下りた。


「ちょっと、止まって」

 お前がそう言ったのは、峠を下りてからまた随分進んだところでだ。山道を抜けて少しずつ建物が増えてきたところ。ちょうどその場所に駐車場があったから、俺はそこに入ってバイクを止めた。

「どうかした?」

 問い掛けに答えないまま、お前はバイクを降りて駐車場を出た。そうして車通りの少ない道路に立って、振り返り、この駐車場を眺めた。

 しばらく、お前はただそこに立って、ここを見ていた。いや、たぶん、お前が見ていたのは“この場所”であって“ここ”じゃない。それは、俺の知らない、ここにあったどこか。

「なあ」

「ごめん。もう行こう」

 お前は笑顔を浮かべながら戻って来た。慣れたように後ろに跨ると、自分で止めたくせに「早くしろ」と背中を叩く。

 俺はひとつ息を吐いて、アクセルを開いた。エンジンが音を上げてバイクが前へ進む。背中にごつんと硬いものが当たった。お前がかぶっているヘルメットだった。どうしてか泣いているような気がして赤信号で振り返ったけれど、お前は泣いてなんかいなかった。


 それからまたいくらも進み、陽が随分と高く上がった頃、俺たちは民家もろくに見えないような道を走っていた。

 両脇に田んぼ。田んぼの向こうには山脈。道路の右隣は線路が一本走っていて、二十分くらい前に真っ赤な二両編成の電車が走って行くのを見た。

「田舎だなあ」

「そうだね」

「腹減った」

「じゃあ休憩しようか。もう少し行ったら神社があるから、そこでサンドウィッチ食べよう」

「いいねえ」

 お前の言うとおり、しばらく行くと右手に小さな神社が見えた。田んぼばかりの中、そこだけわさっと木が生えて、緑の中から鳥居が見える。

 線路をまたぐ小さな踏切と、用水路をまたぐ小さな橋を通って神社にお邪魔した。神社に人はいなかった。少し、外よりも涼しい気がするのは、この非日常の雰囲気に飲まれているせいだろうか。

「じゃーん。特製、ハムときゅうりのサンドウィッチ!」

「ハムときゅうり? 俺にはいつもふわふわたまごのサンドウィッチを作らせるくせに」

「わたしがふわふわたまごを作れるわけないでしょ」

 お参りをしてからお社に腰掛けて、ふたりで温くなったサンドウィッチを食べた。うまくもまずくもなかったけれど、なんだか少し、しあわせな気持ちになった。


 少しずつ民家が増えてきた。と思ったら、さっきまでの田んぼはどこへ行ったのかあっという間に街中に入った。交通量も随分多くなっている。この街を抜けた先に、目指す海はある。

 途中でファミレスを見つけた。駐車場へのウインカーを出しかけて、目的地はもうすぐだからと我慢して先へ進んだ。少し混みあった道はまた車通りが少なくなり、平坦な道がほんのわずか坂道になった。

「もうすぐだよ。この坂道をのぼって降りたら、そこが海」

 後ろでお前が言う。海が逃げるわけもないのに、俺は無意識にスピードを上げる。坂の一番上へ来た。でもここからはまだ見えない。両脇の木がアーチみたいに上に広がって、目の前の海を隠している。

 潮の香りがいっぱいにしていた。波の音も聞こえていた。ついアクセルを開きたくなるけれど、下りは慎重にゆっくりと下りる。

「ブレーキなんて、要らないから」

 お前が叫ぶ。そう言うわけにはいかないからって俺は言う。なびく俺のTシャツを、お前の小さな手がきつく掴んでいた。

 陽の光が、大きく当たる。その瞬間、風が強く吹き抜けた。


 海は、空と同じ色をしていた。透明な青。陽は高くなり、とても鮮やかな色に光っている。

 バイクを堤防の手前に止めて、ふたりで砂浜へ降りた。砂は踏むたびにかわいい音を立てて、海へ近づくにつれくっきり足跡を残すようになる。

 お前はひとりで先に、波打ち際まで走って行った。砂浜の色が変わっているぎりぎりのところに座って、打ち寄せる波に手を触れた。

「冷たい?」

「冷たい」

「貝殻に気をつけてね」

「大丈夫だよ」

 俺も隣に座って、同じように手を置いた。流れてくる海は冷たくて、陽射しに火照った肌には心地よかった。

 お前が動かないから、俺もずっとそこに居た。お前は何も表情に出さないまま海を眺めていて、俺は、そんなお前の横顔を、黙って見ていた。


 プロポーズしたとき、お前は俺にこう言った。

「いいけど、あなたはわたしの一番じゃないよ。それでもいい?」

 いいよと、俺は言った。だって知っていたから。お前が一番に、きっと死ぬまで心の真ん中に置いているのは、俺ではない別の人だってこと。

 それでもよかった。その人は、俺にはできなかったことをしてくれた人で、その人が居たから今ここにお前が居て、もう一度俺の手を取ってくれたのだと、今は知っているから。

 もう、随分長い間一緒に居る。まだまだ俺たちふたりとも、子どもと言える歳の頃から。

 ただ、十年前に一度だけ、つまらない理由でその手を離したことがあった。その手を離したことが、小さな心にどれほど傷をつけたのか、そんなことに気づかないまま俺はお前に背を向けた。

 たったひとりになったお前に、ただひとり、手を差し伸べてくれたのは、三日間という短い時間をお前と一緒に過ごした人だった。

 その人は、お前にとって、今も誰より特別な人。

 途切れるはずだったお前の人生に、未来という大切な宝物をくれた人。

 もう、いないけれど。いつまでもお前の心に、寄り添ってくれている人。


「夏海」

 呼ぶと、お前は振り向いた。泣いているかと思ったら、やっぱり泣いてはいなかった。

「何?」

「しあわせになろうな」

「どうした突然」

「なんとなく言いたくなった」

「何それ」

 笑う顔に、つられて笑った。それなのに泣きそうになって、慌ててくちびるを噛んだ。

 潮の匂いがする。太陽が落ち始めて、空が夕焼け色になってきた。海も色を変える。夕方の海。

「わたし、もう結構しあわせだよ」

 お前が言う。

「もっとしあわせになろうよ」

「どんなふうに?」

「俺たちふたり家族になってから、いっぱい子ども生んで家族増やして、みんなで仲良くわいわいやって、そのうち孫もできるから超溺愛して、そろそろいいかなあって思ったら、ふたりで一緒にぽっくり死ぬ」

「しあわせだねえ」

「しあわせだろ。ああでも、子どもがいなくても、ふたりだけで静かに暮らすのもいい。ずっと恋人気分が抜けなくて、よぼよぼになっても手を繋いで歩くような」

「それもしあわせだねえ」

「だろ」

 きっとなれると思うんだ。そんな家族に。もう、二度とだって、お前がひとりにならないような、特別でありふれた家族に。

 約束するよ。俺が側に居る。もう絶対に、この手は離したりしないから。

 どこまでも行こう。行けるところまで。これから先の長い道、ふたり寄り添って、お前が、心から笑えるような、しあわせな日々を。

 そう、いつか。きみに会える日まで。

「行こう、トオル」

 小さな手のひらが差し伸べられる。俺はそこに自分の手を重ねた。

 大きさの違う手。でもそれをぎゅっと握って。長さの違う歩幅。でも同じスピードで。

 まっすぐ、ゆらゆら。俺たちは歩いて行く。白い砂浜に足跡をつけて。

 前を見て、歩いて行く。



【いつか、きみに】おわり

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飴玉文庫 沖田円 @en_okita

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