ハナミズキの幸福

◆電子書籍『色なき風が聴こえる』掲載作品

※アンソロジー内での固定設定を内容に含んでおります。



 さて、何から話し始めようか。

 かつてこの場にあった花屋の話なら、語れることがありすぎて迷ってしまう。そう、ここには花屋があった。仲の良い兄妹で営んでいた、様々なものに愛された店だ。店内には色鮮やかな花が一日と欠かすことなく並び、温室の植物を使ったハーブティーの香りが常にあたりを包んでいた。店の名は確か、色なき風、といったか。名の通り、どこからかふらりと現れ、頬を撫でるように人々の心に触れ、ぬくもりや音や香りを運び、そしてまたいずこかに旅立って行った、どこか不思議を纏った店だった。

 客の前によく出ていたのは兄のほうだ。妹は口がきけず、店先に出ることはあまりなかったが、人と話すことができない代わりに植物の声を聞くことができた。植物たちはやれ可笑しな人間もいるものだと面白がって様々なことを話したものだ。水の味や虫たちの噂話、雲の飛ぶ理由や夜空に浮かぶ宝石の採り方など、他愛ないお喋りをしながら、時には、望んだ人間のもとへ運んでほしいと願うこともあった。

 そうだ、あの時の話をしようか。よく覚えている。季節がぐるりと巡る間の物語だ。

 始まりは、ある春のただ中。眠っていた桜が咲き、その他の花や虫たちも目を覚まし始めていた季節に、ひとりの青年が店を訪れた。青年は、洒落た店の雰囲気に馴染みがないのか落ち着かない様子だったが、兄が話しかけるといくらか緊張がほぐれたようで、店を訪れたわけを語った。

 青年は、恋人に頼まれある花を買いに来たのだった。花の名はアザレア。赤や躑躅つつじ色をよく見る花だが、青年はその鮮やかな色味ではなく白のものをと指定した。兄はすぐに青年の要望を妹に伝え、その花を用意させた。白いアザレアだけで作られた質素な花束を受け取った青年は、アザレアという花を初めて見たと言い、笑顔で店を後にした。青年がいなくなったあと、妹が気まぐれに兄に筆談で何かを伝えたようだ。すると兄は顔を綻ばせ、白いアザレアの入っていた今は空の容器を、指先でひとつふたつと撫でたのだった。

 それからまた青年がやって来たのはひと月後のことだ。桜はすっかり緑に姿を変え、草の匂いを含んだ風が吹いていた。青年はふたたび恋人に使いを頼まれたらしい。今回彼の恋人が指名したのはローダンセという花だった。この店ではちょうどその日に新しく仕入れた種だ。牡丹によく似た色の花を、丁寧にまとめ着飾らせてから手渡すと、青年ははにかみながら、実は自分は花のことはさっぱりわからないのだと零した。わからないが、こうして花束を渡すと恋人がいたく喜んでくれる。その笑顔を見るのが何より幸せだから姿も知らぬ花を買いに来るのだ、と青年は言った。兄は青年に、ならば少しだけでも花のことを知ってはどうだと提案した。よければ妹が教えるからと、妹の許諾も得ぬまま訊いたのだが、青年は恥ずかし気な笑みを湛えたまま首を横に振った。自分は花の姿を愛で、恋人の笑顔に心躍らせるだけでいいのだと。彼の恋人も、彼には花のことは知らなくてもいいと言ったのだそうだ。あなたはただ私の欲しい花を買って来て、一緒に眺めてくれるだけでいいと、植物を愛し知識も豊富であるはずの彼女は、花の名以外を青年に教えることはなかった。

 次の月も、青年は店を訪れた。梅雨に入る前のことだ。アルストロメリアという様々な色に咲く花を買った。そして梅雨が明ける頃にはナスタチウムを求めにやって来た。どちらも用意されていたかのように瑞々しいものが店に咲いていて、あるだけすべてを妹が花束にし、兄が青年に手渡した。青年は愛おしそうに花を抱えやはり笑顔で帰っていく。しかしその背を見ながらなぜか首を傾げる妹のことを兄は不思議に思ったらしい、わけを問い質そうとしたが、他人にあまり関心のない妹はすぐに興味が逸れたのか温室へ戻ってしまったため、理由を聞けず今度は兄のほうがひたすら首を傾げていた。

 夏になるとヒマワリを買いに来た。大輪の花は一輪でも艶やかだが束にするとなお優雅で、強かな生命を思わせる姿をしていた。蝉の声がつくつくぼうしのものしか聞けなくなる頃にはトルコキキョウを、近所の犬が頭に紅い葉を乗せて歩いているのを見つけた日にはペチュニアを、青年は恋人のために買っていった。月に一度しか来ないとはいえその頃にはすっかり顔馴染みとなっていた青年のことを、兄は妹に訊ねた。さて次は何を買いに来るのだろうねと。しかし妹は興味のない素振りで、自慢のハーブの葉を撫でるだけだった。

 その年は夏が長く、秋が短かった。少し風が冷えるようになったと思えば、まだこちらの準備も整わぬ間に最後の季節へと移り変わってしまった。

 しかしまだ雪は降りそうにない。青年が次にやって来たのはそんな時季だった。そろそろ来る頃かと思っていた兄は、予想通り店に現れた青年に声をかけようとした。だが寸の間声を詰まらせてしまったそのわけは、青年の変わり果てた顔つきに驚きを隠すことができなかったためだろう。青年はひどく疲れた顔をしていた。たったひと月の間にいくらも歳を取ってしまったかのようだった。それでも変わらず笑顔を見せた。必死に浮かべた寂しい笑みで、青年は恋人から聞いてきた花の名を口にした。兄が、わずかにためらったのは、青年の言うマリーゴールドという花が贈り物には相応しくないことを知っていたからだ。頼まれているのだから贈り物とは言えないかもしれないが恋人へ渡すことに変わりない。教えてやるべきか、そう悩む兄の横で、しかし妹のほうは淡々と可愛らしい花たちを水から取り上げ、兄に話す隙も与えぬまま、出来上がった花束を珍しくも自ら青年に手渡したのだった。青年は礼を言い、花と同じ山吹色の紙で包んだ小さな花束を抱き、門を抜けていった。

 そして空から雪が降る。随分冷える年の瀬に、青年は花屋を訪れた。ひと月前よりも頬が痩せたように見えた。青年は、ガラス張りの向こうから鮮やかな電飾の光の届く店内で、クリスマスローズを手に取った。恋人に頼まれたのだといつもと同じことを兄に伝えた。

 花が好きな彼の恋人は、今年の春から月に一度、彼に頼み事をするようになった。自分の望む花を買って来てほしいと花の名を彼に告げたのだ。青年は花には詳しくなかったから、恋人が選ぶ花の意味を知らなかった。選ぶ花に意味があると考えたこともなかった。きっと恋人もその意味を青年に伝えるつもりはなかったのだろう。ただ、いつか彼がその意味に気づいたとき、けして悲しい涙を流すことがないようにと最後に彼女は願ったのではないか。あの春が遠い過去になってしまった今になり、そう思う。

 年が明けても青年はやって来た。晩に降った雪がまだ道に薄く残る晴れた日のことだ。青年は、兄が憂えるほどやつれていたが、自分は元気だから心配ないと答え、消え入りそうな声でキンセンカを、と続けた。キンセンカは黄や橙の陽気な色合いをしている。青年は溌溂とした見目の花を手にし、ようやく以前と同じように微笑んだ。太陽のような花だ、これを見ればきっと彼女も元気に笑うに違いない、と、濃く香る花束を嬉しそうに抱き締めた。この日は妹は温室から顔を出さず、青年が帰っても、淹れたばかりのハーブティーをひとりいつまでも飲んでいた。

 そして次に青年が来たのは街が美しく白銀に染まった凍てつくような寒さの日だった。雪も降りやまないようだから今日は早く店を閉めようか、兄妹がそんな話をしていた時だ、両肩に雪を被った青年が慌ただしく店内へと駆け込んできた。兄が挨拶をするよりも先に、ベゴニアをくれと青年は言った。彼女がその花が欲しいと言っている、すぐに用意してくれと、普段の穏やかさとはまるで違う必死な様子で叫ぶのだ。兄が急いで温室の妹へそれを伝えに行こうとすると、妹はすでに青年の望む花を抱え店に出て来ていた。しかし妹が用意したのはいつものような花束ではなく鉢植えだった。青年は、妹の抱える鉢を見てわずかに躊躇いを見せたが、すぐに受け取り、雪の積もる道を駆け足で帰って行った。

 果たして青年は彼女の頼みを聞き続けた。愛情深く、最後まで、彼女のために花を買い続けた。

 やがて春の訪れを感じ始める季節となる。ちらほらと見える愛らしい色の花は桜ではなく梅だろう。青年は店にやって来た。そして今日がこの店に来る最後の日になると言った。今日買う花が、彼女の最後の頼みなのだ。青年はしかし、そう呟いたきり花の名を口にしようとはしなかった。ただただ何度も訪れた花の香る店の中で、ひとりどこかを見つめ立ち尽くすばかりだった。兄は、事情はわからなかったものの、ひととせ見続けた青年に心寄せずにはいられなかったのだろう、感情をまるで失ったような顔をした青年の肩を抱き、温かいハーブティーでもどうだと勧めた。だが、それでも動かぬ青年に困り果てていた時に、温室から妹が顔を出した。妹は手に鉢植えを持っていた。咲く植物は、色こそ青年が最初に求めたアザレアと同じだったが、形は随分と違うものだ。妹から無理やりにそれを渡された青年は、重みのある鉢を抱えながら、これは、と訊いた。兄は小さく笑いながら、ポインセチアだと答えた。

 人間は、心が動くと涙を流す。さも不思議なそのしずくは、時として、どれほど清い川の水より美しい。

 青年は泣いた。白い葉のポインセチアを眺め、はたはたと目からしずくを落とした。なぜかと言えばその花こそが、青年の恋人が最後に望んだ花だったからだ。青年はポインセチアを抱き締めながら、なぜわかったのだと妹に問いかけた。なぜ彼女がこれを望んだとわかったのだと。答えなかったのは妹が言葉を話さないこととは関係ない。妹は、彼の恋人が望んだものを知っていたわけではなく、ただ植物の言葉に従ったまでだったのだから。白いポインセチアは言ったのだ、きっと次は自分の番だ、あの青年のもとへ自分を運んでくれないか、と。

 青年は、愛情深く恋人の頼みを聞き続けた。そして彼の恋人もまた、深い愛を最後まで彼に注ぎ続けた。病に侵されながらも、彼から愛される幸福を感じ、変わらぬ思いを誓い、未来への憧れを胸に困難に打ち勝つことを決意した。どれほど辛く苦しい時も彼だけを見つめ希望を持ち、彼の存在に心安らぐ日々を送ったのだ。しかし止まらぬ病の侵攻に絶望する。不安に苛まれ、確実に近づく彼との別れを思い悲しみ嘆いた。それでも、迎えた最後の時には、彼女は自分の人生に悲運ではなく幸福を見た。日々どれほど幸せであったか、真心に包まれた優しい時間をどれほど愛おしく思っていたか。今でなくともいつか彼に伝わればいいと、彼女はそう思ったのかもしれない。そして、彼女のいなくなった青年の未来にたったひとつのことを願った。きっと悲しみに暮れ立ち上がるには時間がかかるだろうけれど、必ずまたひだまりの中、誰かの愛に包まれるように。誰より愛し、誰より自分を愛してくれた青年の、限りない幸福だけを彼女は願った。

 死んだ恋人からの手紙に書かれていた花の名は、彼女の愛を示していた。だがその意味に、花に込められた言葉の意味に青年が気づく頃には、青年はすでにふたたび立ち上がれていることだろう。

 それから青年は花屋を訪れることはなかった。いや、正しくは一度やって来たのだが、その時にはすでに花屋はなくなっていたのだ。青年はしばらくの間、門の外から人のいない洋館を見つめていたが、やがて私を見上げ微笑むと、来た道を、隣を行く人間と手を繋ぎ、帰って行った。

 さて、これがかつてここにあった花屋にまつわる物語のひとつだ。そう、知っての通り今はもうここに花屋はない。兄妹も、そして温室に住み着いていた互いを兄弟と呼び合う仲だった白猫も、すでに他の地へと旅立ってしまった。あれから幾度も季節が巡ったが、彼らは元気にしているだろうかと今も時々思うことがある。できることならまた会いたいとも思う。だが寂しく感じたことはない。私は私なりの楽しみがありこの場所に立ち続けているのだから。かつてこの場所に、植物の声を聞くことができる少女がいたように、またいつか私の言葉が聞こえるものが現れる日を待ち、そう、君のような人間が訪れる時を待ち、私はここに存在している。長い時の中で私が見てきた星の数ほどの物語を語って聞かせるために。この地で起きた些細な奇跡をどこかの誰かに伝えるために。それがまた、誰かの物語へと繋がることを願って、私はとわに語るのだ。

 何、私の物語が君のためになるかどうかは知らないが、暇つぶしにくらいにはなるだろう。時間があるなら木陰に入り、もう少し聞いていくといい。さあ、次はどの物語を語ろうか。



【ハナミズキの幸福】おわり

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