六節

十三


「僕は、きみに殺される為に生きて居たのかも知れない。」


 突如気味の悪いやうな事を呟き、谷原はめくらの如くぼうっと定まらぬ浮いた目をして何処かを見詰めて居た。


「妙だな。あんた、如何したって云うんだ。多分、おれの方が先に死ぬだらうに。」


 どちらかと云へば、此のやうなセンチメンタルな詩の断片を度々言にするのは野崎の方だった。谷原は大抵其れを聴いて屈託無く笑ひ飛ばし、友人特有の朗らかさで以て場を収める。

 彼は湯呑に手を伸ばして添へ乍ら、投げて居た目を半分残った茶の表面にゆっくりと下ろした。


「僕は、別に何の優れたものも描けないんだよ。然れでも何となく生きて終う、ずる々々と、平らかを引き摺って征くのだよ。

 其処で君のやうな文を見て、圧されて、無駄を働き続ける前にやっと死ねるんだ。」


「あんた、面白い事を云ふな。」


 今度は野崎が、笑いに変えて呑気な風を繕った言を返した。まるで何時もと逆であった。

 ―おれがそろそろ死のうと思ッたのに、若しや、あんたが其の場を掠めとるんぢゃなからうな。…野崎は妙な直感が然う告げるのを脳に聞いた。冗談では無かった。此処の所死ぬ決心許りで生きて居ると云ふのに、其の鍵を取られては堪ったものでない。


 谷原は酒も飲まぬのに急に眠たくカッとなって、

 ――熱にでも浮かされたやうな気分だ。と瞼を重くした。否、最う自分の喉はゼエヽヽ云ひ、腹は悲鳴を上げて居るや知れん、其れを僕は知らない振りして、外面を塗りたくって頭ばっかり元気で居るんだ。斯うも思った。


 野崎は横目に谷原を据え乍ら水を口に入れた。

 其の目を離さぬ儘、一転、潤った言葉を開く。


「あんたは、おれと違って仕事に必要なんだから、生きると良いよ。」


 励ましでも無く、只の一意見だった。社会との繋がりがしっかりと出来て居る谷原の身は、野崎から見れば随分自分とは違った者に見えた。谷原が消へれば、其の分、空いた仕事が残る。会社が、空白を抱える。一方、名の上がらぬ文人が一人死んだところで、会社も何も、社会が其れで困る迄も無かった。経済が狂ふでも無し。

 気楽と云へば、気楽だ。美しく散らうと、簡単に思へる。人に拠るが、マア会社に如何しやうとか、後を如何任せんとか、事前に六ヶ敷むつかしく考へずに済む。上等であらう。


「少なくとも、おれは、あんたの事殺したかねエよ。」


 話を友人の発言に戻し、野崎は自分の意を断定した。適当な返しである。谷原は気だるげに目を逸らした。


「そらそうかい。」


 其れから又た、そらそうだらう、と谷原は続けた。声は小さい。

 何を思って居るんだか、野崎にも皆目見当付かぬ。今日の谷原は妙だ、嫌な事でもあったか、仕事のし過ぎで頭が狂ったか。


「君は本当に幸せさうだ。」


 谷原は湯呑から手の平を離して机上に腕を組み、息で薄く笑ったと思ひきや、ひょいと妙な事を口にした。彼には、死の準備を整える野崎の様が、充実した生に見へたのだった。

 そして片腕を袖から出し、何となしに漬物をばりゝゝと喰った。

 谷原の動作でどんゝゝ減ってゆく皿を目に入れると、野崎はやっと自分が飯を食って居た事を思ひ出した。他に何も無い、会話丈けの空間を錯覚して居た為である。

 谷原が妙な独白を持ち込んでから抽象の問題に気を取られ、物質界の喧騒を忘れてしまって居たのだ。


 瞑想もせぬ内に、斯んな外の俗界で、周りに気が及ばなくなる程、意識を取られる事があるとは。何故であらう、と思った。

 詰まる処、自分は他者と「終り」を語りたいのだらうかと思った。死を運ぶ形式だけでない、終りをどう描くか、如何終るか。其れは究極の生である。遺したいものは何か、どう消えるのが美しいか―。


「幸せだッてエ。」


 訊き返して、野崎は随分滑稽な気持ちに襲はれた。自分が、他人の目には幸せに見へるらしい。

 如何した、あんた、やっぱし変だよ。……と云はうとして、敢て止めた。

 思ひ出したやうに最後の一口を箸で集め、平らげる。

 只だ、深く考ふれば少しは分かってしまいさうに、引っ掛かった。

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未定 yura @yula

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