五節
十二
「今日は僕が奢るよ」
谷原の気前良い提案の流れを折る事は態々しなかった。野崎は曖昧に喉を鳴らして肯定の意を洩らす。
町へ引き返し賑やかな通りの合間、適当に這入った食堂は昼時に由り活気を見せて居た。
――何時か死んで仕舞うなら――、と、天ぷら饂飩を俟ち乍ら谷原が云った。
「其れは今でも遠く先でも構わんと思わないかね」
いつもは野崎の云う様な、抽象的話題を今度珍しく此方の男から切り出したのだ。向かいの煤けた文人の貌を、男らしいがさつな眼できりゝと見詰めて居る。
何が言いたいのだらう。判らぬ故に、飾らぬ感想で以て返す。
「だが、綺麗な秋の方が良いだらう」
綺麗、と野崎の云うのは、主に身辺に気を廻しての事である。作品を全部焼て、押遣って、体裁の綺麗な書を認めて、其れで居て死ぬ。
去る、と言うに等しい最期、其れが美しいと思った。
案の定、谷原は野崎の云う曖昧な「綺麗」を其れ丈けでは解さず、只然う云ふぼんやりとした含みの意があるだらう意図を友人乍らに読み解て少々間を置き考へて居た。
其れから、「死に時があるッて言ふのかい」と問いで返す。谷原が之れを持ち出したのは、何も今で無くて好いではないか、との宥めを含んでの事であった。
前から死ぬと云っては居たが、此の頃其れが妙に現実味を増して久しい。直ぐに此奴が消へさうなのは、前からだったらうが、併し、杞憂に呑まれて居る丈けなのか、谷原には野崎が「進んで往って居る」やうに思へて仕舞ふのだ。
自分も齢を取ったのだらうか。死に近づくに連れ、他人の死迄近しく同情を以て考へるやうになるのだらうか?
此処で野崎の頼んで居た焼魚の定食が運ばれた。皮の萎んできら々々と火の通った鯖が、どうぞと曰はん許りに皿を占めて居る。
同じくして饂飩もテーブルに載った。扨て、と此処に遣って来た本題が揃った所で二人共箸を手に
「
「――其れは、今かい。」
口に箸を運ぶ迄に至らず差出された言を受け、思い切って谷原は野崎の内面に入らうとした。斯うでも訊かなば明瞭に答も返らまい。
野崎は
野崎に謂はせれば、其れは何時だかトンと解らぬのだ。死ぬと思ふ時など無限に在る上、なんどきに適切な其れが身に訪れるか分からず仕舞いであるのだ。
谷原からすれば多少の覚悟を以て投げた問いであるのに、斯うもあっさり返されると拍子抜けも良い所である。其の返答を望んで居たものゝ、勝手乍ら実が伴はぬ気が
幾らかの投遣りな言葉を混ぜこぜて、食の合間に谷原は云った。
「えゝ然うかい。マア君の話が此れからも頂けるってんなら、僕は何も言わんヨ」
白米を運び乍らちらと谷原を上目に窺った野崎は、直ぐ盆の方へ目を移したきり、口を動かして表現を練った後、
「此ン頃は、」と打明ける。
斯う、如何も嫌な気持にならないと小説が書けないのだ。
腸にこびり付くやうな不快が執筆以外の選択を潰して、不可避に筆を進ませる。其れは仕合せな事か?
「おれは、何がしたいのか自分で選ぶとなく、書かねば死ぬから書いて居るんだ」
喧騒に難無く溶ける野崎の言を、大衆は一瞥もせず耳に入れる事すら無いだらう。
谷原は急に雑誌の仕事で取引先と商談して居るやうな気に為った。其れ程野崎の目は表面に冷たく、内に秘めたる熱情を覗かせて居る。
此の親友に対し、あ、之は、曲がらないな。と息を吐いた。何としても終焉を己の手で斬るのだらう。描くと云った生半可な行為では無い。身の上に斬り付けて逃げられなく
谷原は今更の様に、汁に半分浸って味の着いた天ぷらを齧る。旨い。喉も内側から温まるやうだった。口一杯に出汁の風味が香り出す。
「なんだって僕は君の文が好きなんだからなア。君は生きるし、世は読めるしで、一挙両得ぢゃアないか」
鯖を
其れから先を
「消費者ッてんのは、然う々々考えちゃア居ねエよ。あんたみたいに、個を認め骨身迄読んで呉れる奴は、稀だぜ」
「然うかい。態とぢゃない。気付いた時にゃじっくり浸かってるんだヨ。君の文章が外へ働いてるんだろ」
サア、と間を置いて野崎は返さなかった。谷原は世辞を述べたのでない。実際に然うだと思った所を言語化した迄だ。野崎も其れを、悪意の無さを判り切って居る。左れば浮付いた謙遜も感性の否定も運べず、
――僕はね、ほんたうに、素晴らしいものを、描いた事が無い。
谷原は
其の一句は不意に野崎の胸にさっと突き刺さった。普段遣いの会話の身の構え方だったから、油断して居たのだ。詩の読会時の、警戒を張った感性ならば咀嚼する余裕もあったらう。併し唐突に押し寄せた一文は、臓を刺す如き無遠慮さを隠さなかったのだ。
「以前、従軍記者の書いたのを読んだんだ。良かった。やっぱり、死に額を付ける位の身を切らねばあゝいうのは書けぬのかと思ったナ。
でも、君を見て、別に遠きに身を運ばねども素晴らしい純朴が描写出来るのだと思ったのさ。希望だったのさ。此の方、茲を出た事が無い。だが違ったね、君は、内面の遠きに身を運んで、其れを切崩して物を書いて居るのだから……
僕も、死ぬ直前になったら、漸くいゝものを描けるんだらうと思ふ。病床で?余り、御免蒙りたいが」
閉じ切らず、噛み切った鯖も喉に消へ空になった口をポカンと曖昧に放った儘、野崎は暫し佇むやうに言葉丈けを咀嚼して居た。
――僕は記事で、君は小説だから、何も違うだらうがね。
と、谷原が最後は
俗人めいた妙な楽観論許り引き倒して居る谷原が此んな虚ろを口にするなど珍しい。只だ珍奇な丈けでない、違和――、此奴は、おれの詞に同感して居るのではないか、と云った具合の齟齬――を野崎に惹き起した。
嫌いでは無い。斯う云った類の話は。世間話であり、且つ俗塵からはチョイと離れた身の上噺。上等である。唯だ之んな事を云はれては、急に谷原が何処へ向って居るのか、パッと判らなくなって終ふのだ。
友人の作を、書付を、仕事と関係無しに純粋に愛好する、其の至誠は確かで在ったが、微妙な
だが互いに、同じ国に、同一の機構、村の中に生きる故に、決して重ならぬ処許りで棲み分けられる事も無かった。微妙に重なる思想もあらう。其れを、長年、其処迄認めて居なかった。其の機会が無かった丈けである。
――何かを書くってンのは、似た処が在るんだらう。文字を書くのに、おれらは大小問はず何らかの力を削って居るんだな。
野崎は斯う思った。想う
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