四節
十
「谷原、
新刊号を
不図、差し挟む様な同僚の声で谷原は我に還った。
「
「野崎が。」
谷原には一寸意外な切り口の話題であったから、耳にする儘鸚鵡返しを為てみた。
其の同僚には野崎の出港が谷原の把握に入って居るものと思い込まれていたから、如何も谷原のピンと来て居らぬ顔を凝視しつつ怪訝そうな色を滲ませた。
「何だイ、知らねえでたのか。」
「うん、知らないね。」
ぱっつりと述べた谷原の口元はぼんやりと余韻を残して、直に思考へと彷徨う様を見せた。余りに唐突で昏いものがパッと彼を襲うかと思うと、
作業の間は目の回る忙しなさが幸いしてか気に掛からなかったが、扨て昼食を、と手を停めると不意に野崎の行方が頭を衝いて来た。確かめねば正解に辿り着きやうも無しに、想像の根が幾つにも分岐して
チト遠くの食堂で昼にしやう、との理由付けと共に彼は颯爽と社を抜け出した。
此の辺の渡し場と云ふと一つだ。其処を辿れば恐らく居る、身を投げ出さぬとも限らぬ友人の姿が或いは其処に在ろう。
長腰掛けに、嗚呼時間でも戻したのかと思ふ位、落ち着いて身を預けて居た。
確かに、同僚から話を聞いたのは今朝で…、三時間程経って居る筈だ。船着場にずっと居ったのか、はて返って来たのか。
声を掛けやうと思へど、向うが余りに
其れから何秒も経たか知らぬ、ぐう、と辺りを見回した野崎の方に此方を気付かれて
タニハラ、
と野崎の小さな口がそろりとその発音を示した。声はきっと微かにも出して居ない。喧騒に掻き消される程の遠くからであるが、余りに軽い口の運びで、谷原はそう観測した。
気付かれて了ったからには、踵を返す事も出来まい。先ず親友が馬鹿げた考へに至って居らぬと云ふ一段落を此の目で見て安堵しつつ、谷原は長椅子に歩み寄った。
「如何して君、之んな処に。」
単刀直入に飾り気の無い、如何にも清潔な谷原らしい口吻である。風情も何も考へて居らぬ、只、浮べた疑問を直ぐ様にでも壊さう、との機械的問い。
回答者に当る野崎はぢっと
十一
はア、とでも
「妙な事訊いたか。」
「
全く然うだ……谷原は内心を容易に浚はれたやうで気を逸らしたが、軈て隣の薄く濁した
――此奴は、昼でも朝でも
谷原は改めて然んな印象を頭で文にして打った。朝の彼は知らぬ、只敷衍の思考が安易に弾き出した。
野崎は頭を擡げて居た、心中に抱へた
谷原からすれば、野崎は靄を捨て切れぬ生来の性質を持って居る丈けに思へた。併し野崎から言はせてみれば、彼は影を後天的に抱擁して居た。心中の靄が付き纏って居る事が、執筆の上でドウも、固有の味を遺すやうな気がして、明確な証拠も無しに、ジッと囲って居たのだった。捨てやうと思へば、捨てられた。然し、殊更に今、作品を燃やし尽して終おうとする、創りかけの寿命に向かうに至っては、
十二
―余りに湿ッぽくて、ちょっくら小散歩でもしやうと思ったんだ。
野崎の回答は斯うであった。
「小散歩には足が臆病でサ、廻りに人間の居ない、海上の小舟に逃げ込んだ訳だ。」
「足を使はないんぢゃあ散歩でも無いやなァ」
ヘエ、違ェ無え。と野崎はカラ々々音を立てて笑った。
こちとら死の予感迄携へて来たって云ふのに、暢気な状況に落ち着いたものだ。谷原は拍子抜けした勢いで息を吐き乍ら無難に乾いた愛想笑いを仕組んだ。
「死への軌跡が全く
掃溜めを小さく打明けるやうに、野崎は投げた。死ぬのは明確であると云ふ顔をし乍ら、着地を如何に形取るか、況してや此の日にしやうとの期限など、極めてはいまいのだ。馬鹿らしいと思はれて仕様が無い、と
「そりャ、其処迄明瞭なら自殺準備だらう。見っとも無いよ」
野崎はじっと目を開けた儘、耳に入って来る谷原の声調を酌んで、噛むやうに受けた。
「そうか。」
「然うだよ。」
細やかに語尾を上げ、揺らした野崎の小さな問いは、キッパリと谷原に肯定され、包まれた。一見粗暴な言葉遣いを
「君、最う昼は喰ッたのかい。」
切り込むやうに投げられた谷原の問いに、野崎は「いゝや」と。大して重要な話では無いと云ふ風であった。衣食住に関して、此の男は人並みの関心を持たぬ。格別細くも無いが、何処か蒼白い顔色は其の食生活を一面で物語って居た。
谷原は味に五月蠅いのでも無いが、嗜み程度の
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