四節


「谷原、や。」


 新刊号をた束ねて机上へ押し積むと、何となく心中の景気も良くなったやうな気もする。此の処、増刷、新刊の多くて賑やかな職場である。

 不図、差し挟む様な同僚の声で谷原は我に還った。


先刻さっき其処の船着場で、野崎文士を見たンだが、何処か往くんだらうかね。」

「野崎が。」


 谷原には一寸意外な切り口の話題であったから、耳にする儘鸚鵡返しを為てみた。

 其の同僚には野崎の出港が谷原の把握に入って居るものと思い込まれていたから、如何も谷原のピンと来て居らぬ顔を凝視しつつ怪訝そうな色を滲ませた。


「何だイ、知らねえでたのか。」

「うん、知らないね。」


 ぱっつりと述べた谷原の口元はぼんやりと余韻を残して、直に思考へと彷徨う様を見せた。余りに唐突で昏いものがパッと彼を襲うかと思うと、一度涌き出した妙な憶測は身辺から離れず仕舞いであった。徒の小旅行、…隣県、隣町止まりの彷徨ふらつきであらう。きっと亦た、あの日友とはなした思ひ出が糧と為り、ペンを執る気に為ったのだ、…然う思う事にしやう、と、沸々する不安を切り付けた。


 作業の間は目の回る忙しなさが幸いしてか気に掛からなかったが、扨て昼食を、と手を停めると不意に野崎の行方が頭を衝いて来た。確かめねば正解に辿り着きやうも無しに、想像の根が幾つにも分岐して将又はたまた空の方向から新たな候補が風と共に脳裏に入り込んで来るものだから、救いやうも無い。他に目を移しても騒めきは消へず、永久に耳許を落着かなくさせる。あっ気らかんと為て居る谷原でも此の時許りは駄目さうであった。

 チト遠くの食堂で昼にしやう、との理由付けと共に彼は颯爽と社を抜け出した。


 此の辺の渡し場と云ふと一つだ。其処を辿れば恐らく居る、身を投げ出さぬとも限らぬ友人の姿が或いは其処に在ろう。

 たは最う、疾うに脚の届かぬ島にでも足跡を消したか。


 長腰掛けに、嗚呼時間でも戻したのかと思ふ位、落ち着いて身を預けて居た。

 確かに、同僚から話を聞いたのは今朝で…、三時間程経って居る筈だ。船着場にずっと居ったのか、はて返って来たのか。

 声を掛けやうと思へど、向うが余りに察知きづかぬもの故に妙に気負って仕舞い、足がしゅんと力を無くし、前に踏み込む事も躊躇われた。

 其れから何秒も経たか知らぬ、ぐう、と辺りを見回した野崎の方に此方を気付かれてしまった。

 タニハラ、

と野崎の小さな口がそろりとその発音を示した。声はきっと微かにも出して居ない。喧騒に掻き消される程の遠くからであるが、余りに軽い口の運びで、谷原はそう観測した。


 気付かれて了ったからには、踵を返す事も出来まい。先ず親友が馬鹿げた考へに至って居らぬと云ふ一段落を此の目で見て安堵しつつ、谷原は長椅子に歩み寄った。


「如何して君、之んな処に。」


 単刀直入に飾り気の無い、如何にも清潔な谷原らしい口吻である。風情も何も考へて居らぬ、只、浮べた疑問を直ぐ様にでも壊さう、との機械的問い。

 回答者に当る野崎はぢっとみどりの水面を凝視みつめて、眼を伏せると転がすやうな絡げた声で、ああ了解わからん。と丈け低声に零す。



十一


 はア、とでも返礼かへしさうになったが此処は抑へ、谷原も隣に腰掛ける事に為た。長期戦になりさう。長期と云へど、昼休憩の内たかが二三分の消費で終りさうに無い、と云ふ程度の見積りであるが。


「妙な事訊いたか。」

いや、おれの勝手だ。おれこそ妙な予感ざわつきを匂はせたなら悪ィね。」


 全く然うだ……谷原は内心を容易に浚はれたやうで気を逸らしたが、軈て隣の薄く濁した表情かおの野崎が、あの日、「だって、酷だろ。」と己の目の前丈けでの身投げを否定為た、苦笑にも就かぬ面影の残照と重成かさなって、未だ昼間に関わらず何だか今が夕暮のやうな気に為った。

 ――此奴は、昼でも朝でも年中ずっと日暮みてェな風を纏はせて居るな。

 谷原は改めて然んな印象を頭で文にして打った。朝の彼は知らぬ、只敷衍の思考が安易に弾き出した。


 野崎は頭を擡げて居た、心中に抱へたもやを愛撫するやうに。

 谷原からすれば、野崎は靄を捨て切れぬ生来の性質を持って居る丈けに思へた。併し野崎から言はせてみれば、彼は影を後天的に抱擁して居た。心中の靄が付き纏って居る事が、執筆の上でドウも、固有の味を遺すやうな気がして、明確な証拠も無しに、ジッと囲って居たのだった。捨てやうと思へば、捨てられた。然し、殊更に今、作品を燃やし尽して終おうとする、創りかけの寿命に向かうに至っては、う身を離さうとして離せるものでもなくなって居たのだ。一寸清々しい気持で死ぬには、気付くのが遅かった。



十二


 ―余りに湿ッぽくて、ちょっくら小散歩でもしやうと思ったんだ。

 野崎の回答は斯うであった。


「小散歩には足が臆病でサ、廻りに人間の居ない、海上の小舟に逃げ込んだ訳だ。」

「足を使はないんぢゃあ散歩でも無いやなァ」


 ヘエ、違ェ無え。と野崎はカラ々々音を立てて笑った。

 こちとら死の予感迄携へて来たって云ふのに、暢気な状況に落ち着いたものだ。谷原は拍子抜けした勢いで息を吐き乍ら無難に乾いた愛想笑いを仕組んだ。


「死への軌跡が全く明瞭はっきりして居ねえんだ。」


 掃溜めを小さく打明けるやうに、野崎は投げた。死ぬのは明確であると云ふ顔をし乍ら、着地を如何に形取るか、況してや此の日にしやうとの期限など、極めてはいまいのだ。馬鹿らしいと思はれて仕様が無い、といっそ諦観しても居た。


「そりャ、其処迄明瞭なら自殺準備だらう。見っとも無いよ」


 野崎はじっと目を開けた儘、耳に入って来る谷原の声調を酌んで、噛むやうに受けた。


「そうか。」

「然うだよ。」


 細やかに語尾を上げ、揺らした野崎の小さな問いは、キッパリと谷原に肯定され、包まれた。一見粗暴な言葉遣いをる野崎の方が存外に臆病で二の足を踏み、幽明どっち附かずのやうな儚さを持って居る。紳士ぶった谷原の方が、最早男らしい、勇断に富む、生来だった。


「君、最う昼は喰ッたのかい。」


 切り込むやうに投げられた谷原の問いに、野崎は「いゝや」と。大して重要な話では無いと云ふ風であった。衣食住に関して、此の男は人並みの関心を持たぬ。格別細くも無いが、何処か蒼白い顔色は其の食生活を一面で物語って居た。

 谷原は味に五月蠅いのでも無いが、嗜み程度の良否よしあしは語るし、友人と此処が旨いだの彼処あそこは半人前の店主だだの好き放題云い合い、気に入った店を抽出しては能く梯子酒なんぞ愉しんだ。

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