三節

 九



我が心の憂は、日月逾々きて、ここに来たらざるがごとし。





 妙に澄んで冷たい空気に、野崎は着流しから覗かせた腕を天井へ向けて仰ぎ見た。

 文机の前にどっかと胡坐を掻いた彼は、一頻ひとしきり文を連ねては肘をつき、骨張った手を其の頭に添へた。


「情景も繊細に紡がば紡ぐ程、ごったになった虚実が色を増す。おれは実に何も見ちゃゐないのだ、あゝ、何も見られんのだ、おれは、……実に、病人が輝くくれェに臆病だ。」


 いっそ病期に在る者の方が奔放に、冒険的に為れるにやと野崎は思って居った。其れは余りに出不精で恐がりな自分への当て付けのやうに響く。


 野崎は、自分が直ぐにでも死ぬと信仰しんじて居たからこそ辛うじて人並みに気丈と勇気と、多少の楽観を含んで笑って居られた。苦しみは其んな彼に取って一過性の試練としか映らずに去った。

 終りは始まりの一歩だと、誰かが云ふ。確かに然うだ。彼の場合、極端だが、終りを常に観て居るが故、新しい行動と云ふ身投げに、馬鹿々々しくらず向き合へたのだった。

 野崎がを書くのも、ペンを捨てぬのも、一過性を、其の刹那を認めて居たからに他ならない。永遠に遺る筈も無いと、何処かで物理を信用して居るから、恥を書き捨てる。虚像と映像丈けが残る。何時いつか野崎の面影は悉皆すっかり消へ果てゝ、未来人の頭に浮かぶは今と従頭てんで異なって仕舞った日常の風景。文を辿れど思い描かるゝは未来其のものだ。過去は尽底すっかり昇華される。其れは望まれた死であった。旧い文芸の死だ。更新は野崎に取って好ましいものである。信条と云ふ堅いものでもないが、ずっと変はらぬものなど在り得ぬし、在っては醜いやうな気もするのだ。


 ―まるで命でも削らるゝやうな書き心地だ。

 野崎はぷいと机上にぱったり腕を組んで、片頬を乗せた。横になった箪笥が眼に映る。其れさへ真の死の予告のやうに思へた。


「あゝ、遣る瀬無いな。」


 最期に何か書かうと、其れ丈けの動機で執ったペンは自活の力を得たやうにぐい々々躍ったが、不意に、自分が此の先も予定調和に反して細く生き永らへるのかと思ふと急に心臓が痛む気もるのだ。苦しいと云ふより、惨めで目を逸らしたくなるあの衝動に駆られるからだ。


 其の度、「何だい、あんた、う死ぬッて極めたぢゃないか!」と励ますのだ。大仰に云はずとも、其れが唯一の救いみたものだったから。


「変な心地がる。」


 横を向いた儘、然う発した。小さく力まぬ音故に顎も然して動かず、腕に振動は大して伝はらなかった。ぼーッとした空気の澱みが、六畳半に融けた而已のみ


 其の言葉は、昨日、谷原と談笑した光景を思ひ出し乍ら、の友人が心底嬉しさうに野崎の作品を手にして居たのをぼんやり反芻した故にだった。


 妙な心地がする。自分は作品と共に今にも消へやうとして居るのが、一番近い友人、否親友が、自分の作品を手元にて、何度も其の頭に刻んだと云ふ事実があると、其れが現世と野崎を因絡こんがらがらせて、悉皆すっぱり死に切る事が出来なくなって仕舞ふ様な気がたのだ。

 ずっと、遺した詩篇や小説と共に、野崎の遺骸が生き続けて仕舞う。だから野崎は全てを葬らうと思った。全ての筆跡を自分の身と共に焼き去らうと決めた。其れが救済だったから。死を完遂さす為の条件だったのだ。


 では何故なにがゆへ今新たな消去をて居るのかと云ふと、筆を止めた途端に死ぬからだ。……死に縋り乍らも、自分で真に享年を掻き切らうとは思はぬ、自殺丈けは愚か者のする癖だと思って居った。


 其れから、何時だって今書いて居るものが一番ましだと、夢想して居るからだ。後から観ると常時いつも、の時は麻酔に打たれて居たんだらうな、と思ふ位に遠く稚拙な出来に感ず。眼が擦れて居るやうだ。恥の上塗りと云っても過言でなかった。ただ稀に、極くまれに、後から鑑賞すれど光の温かさ、残り香を確かに透視し得る作が、幾つか遺る、其れ丈けが、自分が生きて居ると云ふ実感に成った。


 物書きを少しでも進めた後けは、まるで善良な事をた様に健やかな心持で居られた。人助けをしたのでも何でも無い筈が、恰も、聖書の言を敬虔に固守出来た長老のやうに美しい生き方をして居るンぢゃないか、と云ふ、澄んだヴェールを薄く身に纏へる気持になった。


 いつだって、罪ほろぼしだ。


 如んな恰幅を描かうが、総てが痩せこけた上皮うわかはに思へる。むなしい、ただ等しく苦しい、だが其の手を止めては、急に自分の存在其のものが腕の端から透明に散って行くやうな、一見滑稽な予感が真面目にてならない。


 口で残した言ひ草も例外でない。昨日の、谷原になにとなく放った…の数々も、…今、正に頬から皮下に感ずる己と連続性を持った当時の自分、が発して居た言だと思ふ途端、身を焼きたくなるやうな卑屈に似た感が我を占める。…昨日は昨日、云ってみれば別の物体、生命だ―と認めねば、窮屈な慚愧で死んでしまひさうなのだ。

 昨日の己の責任を、今日の自らは背負はない。ひとつ/\日捲りを千切るやうに今日の終りキッカリで打消し込んで、バッと錘を脱ぐ。其れ丈け責任が軽くなる。また、復た重ねた責務で上塗りして、又た捨てる。……捨てた気に成る。

 此度の野崎は何日いつも然うだった。何時いつからだったか、れ知れぬ。思ひ出したくない丈けか知れぬ。区分が附かなく為ってしまった。否、区別を見る億劫さを、過度に増幅させて置いて、ッたらかしにた迄とも云へやうか――つまり、彼は其の場限りの憧憬を乗せては削り、健やかに長い筈の息を、幻想にる細隙を突っ込む事で人工的に狭めやうと試みて居た。


 独りだ。


 軽い和服を羽織った野崎がふと上体を起し、凝りを突き飛ばすやうに両腕を伸ばすと、憐れな袖がはらりと肌を避け力無く肩に覆ひ被さった。

 ひとりでも然して構はなかったのは、死が傍に居ると錯覚して居たからだ。

 生を支へる終りが、嗚呼楽観を孕んで居た。

 其れは屈辱であらうか?野崎は解りたくも無かった。同じ死ぬなら、直ぐ死んで仕舞へた方が美しいか?只、準備の無い、跡穢すサヨナラは無責任且つ薄汚れたものだと思う。



―――字を書くから血を吐くのではないか?


 何処か、一般論が囁く。知らん振りて野崎は涼し気に顔をつくった。


「なぜおれが、生き永らへちまうンだらう。」


 急襲にも似た頭痛が、此処でパッと起れば好いのだが、生憎彼のノンセンチメンタル、すなはち頑健――な身体には然う云う御愛想が欠けて居た。

 天井を仰げば吊り下げ電燈に掛かった和紙の覆いが野崎を凝視みつめて居た。自分は彼の様にぢっと安定とどまっちャア居られない、と一考。


 印行いんこうの界で走り廻る友人を思ひ浮べては遠い事のやうに想像を奔らせてた。

 又た此処とは異なる俗界。悪いものぢゃ無いが、今更其処に足を入れるのも、何だかナァ。思ひ遣られる。


 詰まる処おれは、安住を要求もとめてるらしい。其れは流れ去る事而已のみに張付いて在る、停ったら即ち死ぬ類の、うか/\したやましい安寿だらう。……とたしかだか知れぬ結末めいた言の破片をふら/\独誦どくしょうで繋ぎ留め、ドウモ一着つきました、と云いたげの顔を繕った野崎は、一風呂浴びた後、酒を虚言でついばんで、気の儘、変り映へせぬ深更を、さも気取るやうに貪った。

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