二節

五 

 

 谷原は先日自分を葬ると云った友人の著作を傍らにこさへて丘を上った。

 風の良く通る場所、高く市街を見下ろせる場所で、彼の作品を改めて観たいと思ったのだ。単行本ひとつ、ふたつ、…薄い其れらの三冊は、容易に谷原の左腕に収まった。横に携え、只其れ丈けを弁当のやうに運んで、丘の上に着いたら一仕切ひとしきり読んで仕舞おうと思った。外で読まう、其れ丈けの動機だ。


 家から会社を少し過ぎ、脇に逸れると小高い丘に続く草道がある。先人が踏んだ道こそ在るが、態々往かうとでも思わねば通らぬやうな、外れである。

 若々しく足を前に々々進めて上がるにつれ、谷原は遠足に行く子供の底無しな明るさを身に着けて居る気持ちになった。ハイキングと称して地元の小山に登り、頂上で持って行った御握りを拡げて喰らい、其れ丈けで一戦挙げた兵士のやうに揚々と家路に着く、無邪気な男児と同様であった。今の谷原に取って、御握りが野崎の著作であり、ハイキングの男児に対しては連れが居らず一人であるという相違がある丈けであった。

 久方振りに、谷原は、会社からも世間付合いからも放たれた自分勝手の身分で、悠々と振舞う己を見付けた。


 ずっと萌黄色に囲まれて居た視界がパッとひらげて高所特有の澄んだ、些か天上に近づいたやうな趣きの風が谷原を迎へた。呆けて突ッ立って居る丈けでも其の広いパノラマに散り々々と為った塔だか家屋だかの建物がひしめいて居るのが判る。景色を無意識にいだいて居る。あヽ僕は、んなのを見下ろして、郡長迄見下ろして、超然内閣なんざ組織したみてエだ。――谷原は喉だか口内から透通った含み笑いが出さうだと思った。


 一歩、二歩と丘の縁の方へ近付く。落ちぬ程度に辺りを凝乎じっと眺めて、大して見るやうなものも無い、だゝっ広い景色の存在する事を態々確認したのち、傍に在る樫のベンチで揚々と本を拡げる事とした。


有態ありてい』、

そして雑誌に投げて何円いくらか貰ったと云ふ「旅情の消失」、

それから俗に投じたと語って居た『御影みかげ』。


 三冊の題は、静かながらに野島の痛切な、沸々とく詞の源を表はして居るやうだった。

 抽象に過ぎて、他人である自分には彼が何を云はんとしたか判る筈も無いが、其れでも谷原は、上辺をすべる丈けの観賞だらうと、充分だった。無理な推測は寧ろ野崎を傷付ける而已のみだらうな、と言訳付けて。

 少しずらして縦に並べた灰色の「有態」の文字が配置されて居る、オレンジの表紙を何となく谷原は目に入れ、徐ろに披いた。


「―北上川きたかみがはを東に臨み、果ては何千里との田畠を擁す沓沢みずさはの畔、…其処に阿達あだちの生れ故郷とやらが在るらしい。……」


 出自を辿る十七の男による話である。阿達は時に野崎であるかのやうに錯覚される。…野崎は堺の外れから此方へ来たらしいが、最う五年は故郷をみて居ないと云ふ。酒を自らの腿に乗せた手で何気なく持ち乍ら、それきり話を拡げなかった、あの日の野崎の相貌が想ひ起された。

 見度くないのかね、とは訊けなかった。訊かうと思へば造作無く聞けるが、ドウも訊く気に為れなかった。此のかた地元から転居せず温まって居た僕には遠く離れた感覚であらう、と其れ丈けの感想を此方に残して、野崎が話題を不図ふとすり替へたので、それきりである。



 暫くページに見入る内、風向きが妙に変はった。いつ読んでも、何度目を通しても、気付けば双眸をすっかり本に没入させて終ふ。肩にそっと馴染むやうに、言葉が身を包んで呉れる。読んだ途端に然うなるだとか、どれ位読むと然うなるとか、明確な瞬間は判らない。一寸ちょっと見やうと思って、次気付いた瞬間には何時の間にか短針が傾いて居て、文字の紡ぐ感情に心を奪はれて居るのであった。気付かぬうちに攫はれて居る。

 その風向きの正体は、或いは此の領域に同じく足を踏み入れた彼の所為だったらう。暫く描写の羅列に没入して居るうち、背後に人が訪れた気配を感じて、初めて谷原は後ろへ目線を動かした。

 其処には野崎が居た。彼が此処に居る理由は思ひつかず、流石に驚いた。其れは恐らく、野崎も同じであったのだらう。双方、互いを見乍ら如何にも意外だと云った風を隠さないで居る。

 夫々名前を何となく口に任せる儘呼び掛け、軽く首を捻った。


「君もかい、こりゃ驚いた。」

「まさか谷原も此の丘に呼び寄せられたとは思はなんだ。…なんだイ、それ」


 野崎は遠く目に映る手元に気付き、目を細めて凝視し乍らベンチへ近付いて行った。其れが到頭自身の著作物だと判ると、二重に驚く素振りを見せる。

題名を一つひとつ述べ、野崎は確認するやうに内容を思い出して居た。谷原は表紙を本人に見せつゝ「然うだ。」と相槌を打った。



 パッと手元を改めて視るに、目に飛び込んで来たのは「旅情の消失」。

 直前に読んだ一文が、直ぐさま谷原の脳裏を掠めた。

「希薄な蒸気は寒さに遇ふと雪のやうな粉に為ってしまふ。」

 躍るやうに揺れる水蒸気が、ふっと吹付ける静寂の吐息に依って結晶と化し、白い姿を顕はす、…其んな様子が瞼に浮かぶやうだった。


 此の一節が好きだ、と感想を素直に、その著者へ向けてやると、野崎は居心地悪さうな、大層な事を云はれたやうな含羞はにかみを浮かべ、…其れから思ひ出し乍らに「れはね……」と打明けた。


「有難う。おれも此の表現いいぐさが、眼に飛び込んだ瞬間すきになッてよ。こりゃ引用だ。基は、ヨハネス・ケプラアの書いた、ソムニウムだかって本の注釈にあったもんだ。月上世界の話を描いた、虚構の作だ。虚構って云ふが、れも彼が本職に天文学をいだいてッから旨い事出来てる。

現実味の在るやうに感じさす具体性が、虚構の虚構たる世界、其の所以を巧く演出する。学者様だらうが、おれはこの遠い異国の故人をえらいもんだと思ってるよ。」


 ほお。と谷原は一息ついたなり、野崎も自分の居ぬ処で珍しい洋書なんぞに耽って居たのだなと解す。当り前だ、彼は本を相手にする職業なのだから。しかし、斯う明白地あからさまに、自分の全く知らぬ事を持ち出されると、余計に野崎が訳の分からぬ他人のやうに目に映じてくる。一言で云へば、「遠さ」を、一つ々々認識してゆくやうに思へた。


「然ういや、野崎は何がって此処に。」


 漸く思ひ出して谷原は改まった。探るやうな気で訊いたが、当の本人はあっけらかんと、なんとなく、と答へるので、かへって此方が拍子抜けしてしまった。

 彼は谷原の前に、何時もの袴姿で立った儘。軈て、ゆっくり、問ひに応へる為かのやうに、今迄谷原の手元に屈められていた上身を起こし、しゃんと直って遠くに見へる山々を仰いだ。ぴゅうとひやかしの風が彼の服に一時留まっては摺り抜けて行った。


「何か、外でも視たいと思ってさ。」


 目を細め乍ら飛ばされた言葉は、其れ丈けであった。

だが其れに、言外の苦痛を忍ばせて居ること位、谷原も容易に察した。


此処こっから、投げちまふ何て云ふなよ。」


 谷原は、冗談でも言って置かなければ、其れで冗談の選択肢に放り込まなければ、先を取られて仕舞ふかも知れぬと本気で直感した。投げる対象は、己の身であらうと、その書き溜めて焼かれる寸前の著作だらうと何方どちらでも構はない。孰れにせよ谷原の決して望まぬ所であったからだ。


 ひとつ噛み込む間を与へて、終に野崎が軽く微笑わらった。


「あんたの前ぢゃ、しない。」


……だって鮮明に残って、邪魔だろ。


 それを口にしたら眉を少し下げて、まるで悼むやうに、気遣いとも偽りともれる顔を作った。


「ずっと、一生、頭の裏に遺るんだぜ。おれの瞬間が。

其れ程、死ってンのは大きなもんだ。夫れ自体が傷と成って、あんたをえぐるから。動的な死は、静的なそれよりウンとまばゆ衝撃ショックを与へる。

だから、間違っても其んな事しちゃ気の毒だ。数少ねえ親友に、其の仕打ちを選ぶなんざ余りに変だ。最期に仇を遺すのけは、しない。」


 妙に其のひかりを映す顔に見入って、谷原は咄嗟を返せなかった。

 之れは気遣いでも揶揄からかいでも躊躇いでもなんでも無いと、谷原は想った。



 親友同士は夕暮れ迄語った。過去の執筆情景なんかに関する明るい話だった。著者から斯うして直に裏話を聴けるとは、なんて好い身分に就いたらうと、谷原も大層愉快に耳を傾けて、野崎以上に能く口を開いた。


 此の儘、夜中まで語って居ても好い位であった。盃が無いのは寂しいが、月を器にして月日が一転する迄語れるやうな気もして居た。此の時ばかりは、青年期の余談癖が再度身にくだって来た錯覚を起こした。


 しかし野崎は宛然まるで家へ帰ってからも未だ何かが積って居るやうに、チョイと先をぐ様子を見せた。じゃあ漸次そろそろ、…と切り出される儘、谷原も流れに乗った。


 夕にくらいろを附けられた丘を降りる間、弾んだ話は絶えなかったが、其の合間を縫うやうに、今日の互いの言動が想い起され、沈思、考察、反芻しさうになる。其の度、片方の声で眼前に思ひを戻した。


 丘を降り、家々の間に身を進めるなり、騒々しさが改まって二人の帰還者を包んだ。

 夕暮れ時は帰りの合図だ。其処此処の子供が元気に駈け抜け、煮物の匂いへ一直線に入って往く。


 最後、谷原はひとつ気丈の儘に相手へ向けた。僕は、良かったかもしれない。と。…其れは歩き乍らもぽつゝゝ考へて居た事であった。


「君、何時消へるか判らないからさ。是で、君が次の瞬間居なくなるって云ふ取留めの無い不安が、一寸だけ一掃された気がするな。」


 野崎は其れを受けて少し考へる素振りをしてから、口を横に開いて屈託無く笑い飛ばした。


「思ったより、あんたにゃ心配掛けちまってるみてエだ。

おれは、死ぬとき条件きまりを一つ々々添付していった方があんたの為かな。」


 御免かうむる、と云ひ乍ら、谷原も笑って居た。

 明日も又た会はねば、野崎は一段もっと知らぬ処へ行って仕舞ふやうに谷原には思へたが、将た考へると明日会はなくとも変はらず彼は机の前から一歩も動かないで居るに違ひない、とも思へた。

 孰れにせよ、地下に眠るに未だ僕達は早いに違ひない、……其れ丈けは確かな事だらう、と切りを附けて、谷原は一度振り返ったきり、少し下を見乍らずんゝゝと家路を縮めて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る