二節
五
谷原は先日自分を葬ると云った友人の著作を傍らに
風の良く通る場所、高く市街を見下ろせる場所で、彼の作品を改めて観たいと思ったのだ。単行本ひとつ、ふたつ、…薄い其れらの三冊は、容易に谷原の左腕に収まった。横に携え、只其れ丈けを弁当のやうに運んで、丘の上に着いたら
家から会社を少し過ぎ、脇に逸れると小高い丘に続く草道がある。先人が踏んだ道こそ在るが、態々往かうとでも思わねば通らぬやうな、外れである。
若々しく足を前に々々進めて上がるにつれ、谷原は遠足に行く子供の底無しな明るさを身に着けて居る気持ちになった。ハイキングと称して地元の小山に登り、頂上で持って行った御握りを拡げて喰らい、其れ丈けで一戦挙げた兵士のやうに揚々と家路に着く、無邪気な男児と同様であった。今の谷原に取って、御握りが野崎の著作であり、ハイキングの男児に対しては連れが居らず一人であるという相違がある丈けであった。
久方振りに、谷原は、会社からも世間付合いからも放たれた自分勝手の身分で、悠々と振舞う己を見付けた。
一歩、二歩と丘の縁の方へ近付く。落ちぬ程度に辺りを
『
そして雑誌に投げて
それから俗に投じたと語って居た『
三冊の題は、静か
抽象に過ぎて、他人である自分には彼が何を云はんとしたか判る筈も無いが、其れでも谷原は、上辺を
少しずらして縦に並べた灰色の「有態」の文字が配置されて居る、オレンジの表紙を何となく谷原は目に入れ、徐ろに披いた。
「―
出自を辿る十七の男による話である。阿達は時に野崎であるかのやうに錯覚される。…野崎は堺の外れから此方へ来たらしいが、最う五年は故郷をみて居ないと云ふ。酒を自らの腿に乗せた手で何気なく持ち乍ら、それきり話を拡げなかった、あの日の野崎の相貌が想ひ起された。
見度くないのかね、とは訊けなかった。訊かうと思へば造作無く聞けるが、ドウも訊く気に為れなかった。此の
六
暫く
その風向きの正体は、或いは此の領域に同じく足を踏み入れた彼の所為だったらう。暫く描写の羅列に没入して居るうち、背後に人が訪れた気配を感じて、初めて谷原は後ろへ目線を動かした。
其処には野崎が居た。彼が此処に居る理由は思ひつかず、流石に驚いた。其れは恐らく、野崎も同じであったのだらう。双方、互いを見乍ら如何にも意外だと云った風を隠さないで居る。
夫々名前を何となく口に任せる儘呼び掛け、軽く首を捻った。
「君もかい、こりゃ驚いた。」
「まさか谷原も此の丘に呼び寄せられたとは思はなんだ。…なんだイ、それ」
野崎は遠く目に映る手元に気付き、目を細めて凝視し乍らベンチへ近付いて行った。其れが到頭自身の著作物だと判ると、二重に驚く素振りを見せる。
題名を一つひとつ述べ、野崎は確認するやうに内容を思い出して居た。谷原は表紙を本人に見せつゝ「然うだ。」と相槌を打った。
七
パッと手元を改めて視るに、目に飛び込んで来たのは「旅情の消失」。
直前に読んだ一文が、直ぐさま谷原の脳裏を掠めた。
「希薄な蒸気は寒さに遇ふと雪のやうな粉に為ってしまふ。」
躍るやうに揺れる水蒸気が、ふっと吹付ける静寂の吐息に依って結晶と化し、白い姿を顕はす、…其んな様子が瞼に浮かぶやうだった。
此の一節が好きだ、と感想を素直に、その著者へ向けてやると、野崎は居心地悪さうな、大層な事を云はれたやうな
「有難う。おれも此の
現実味の在るやうに感じさす具体性が、虚構の虚構たる世界、其の所以を巧く演出する。学者様だらうが、おれはこの遠い異国の故人を
ほお。と谷原は一息ついたなり、野崎も自分の居ぬ処で珍しい洋書なんぞに耽って居たのだなと解す。当り前だ、彼は本を相手にする職業なのだから。しかし、斯う
「然ういや、野崎は何が
漸く思ひ出して谷原は改まった。探るやうな気で訊いたが、当の本人はあっけらかんと、なんとなく、と答へるので、
彼は谷原の前に、何時もの袴姿で立った儘。軈て、ゆっくり、問ひに応へる為かのやうに、今迄谷原の手元に屈められていた上身を起こし、しゃんと直って遠くに見へる山々を仰いだ。ぴゅうと
「何か、外でも視たいと思ってさ。」
目を細め乍ら飛ばされた言葉は、其れ丈けであった。
だが其れに、言外の苦痛を忍ばせて居ること位、谷原も容易に察した。
「
谷原は、冗談でも言って置かなければ、其れで冗談の選択肢に放り込まなければ、先を取られて仕舞ふかも知れぬと本気で直感した。投げる対象は、己の身であらうと、その書き溜めて焼かれる寸前の著作だらうと
ひとつ噛み込む間を与へて、終に野崎が軽く
「あんたの前ぢゃ、しない。」
……だって鮮明に残って、邪魔だろ。
それを口にしたら眉を少し下げて、まるで悼むやうに、気遣いとも偽りとも
「ずっと、一生、頭の裏に遺るんだぜ。おれの瞬間が。
其れ程、死ってンのは大きなもんだ。夫れ自体が傷と成って、あんたを
だから、間違っても其んな事しちゃ気の毒だ。数少ねえ親友に、其の仕打ちを選ぶなんざ余りに変だ。最期に仇を遺すの
妙に其の
之れは気遣いでも
八
親友同士は夕暮れ迄語った。過去の執筆情景
此の儘、夜中まで語って居ても好い位であった。盃が無いのは寂しいが、月を器にして月日が一転する迄語れるやうな気もして居た。此の時
夕に
丘を降り、家々の間に身を進めるなり、騒々しさが改まって二人の帰還者を包んだ。
夕暮れ時は帰りの合図だ。其処此処の子供が元気に駈け抜け、煮物の匂いへ一直線に入って往く。
最後、谷原はひとつ気丈の儘に相手へ向けた。僕は、良かったかもしれない。と。…其れは歩き乍らもぽつゝゝ考へて居た事であった。
「君、何時消へるか判らないからさ。是で、君が次の瞬間居なくなるって云ふ取留めの無い不安が、一寸だけ一掃された気がするな。」
野崎は其れを受けて少し考へる素振りをしてから、口を横に開いて屈託無く笑い飛ばした。
「思ったより、あんたにゃ心配掛けちまってるみてエだ。
おれは、死ぬ
御免
明日も又た会はねば、野崎は
孰れにせよ、地下に眠るに未だ僕達は早いに違ひない、……其れ丈けは確かな事だらう、と切りを附けて、谷原は一度振り返ったきり、少し下を見乍らずんゝゝと家路を縮めて行った。
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