未定

yura

一節

一 

 

 ああそれは惜しい、惜しい、まるで死んでしまふやうぢゃないか、君が……。


 おれの作品を葬る、という打明話を聞いて、谷原は眉を寄せた。

 友人――谷原の前で六ツヶ敷い顔…薄いやうな儚いやうな色を浮かべた野崎は酒とも云へぬ程甘ッたるい真白なカクテルを片手にぎゅっと掴んで居た。


 おれは詰まる処、俗なものしか書けない。ずッとさうだ。いろんな事をしやうとして智を割ッた積りだが、斯うして振り返るとみな下俗な散文許り。自分に拠ったものしか書けねえんだ。下俗が悪イと云ふんぢゃねえが…


 野崎は明日にでも死にさうな青白い顔をして、薄命特有の諦めを目に乗せて居た。

 其の睫毛を伏せ、親友の谷原にだけ、なんの決意と云ふ程でも無いが、葬りの手順を打ち明けたのだ。酒の席、特別な意を払ふ事もなく、唯、世間話の体に。


「おれは…私は私を葬るのだ。火葬の海に消へて了へば、私も又供養されるのだと、然う思った。」

「なんだいそれは、序文かい。」

「いゝや、独り言だ……」

「君はよく僕を喰ったやうなことを云ふ。」


 然ウかい。野崎はふと眼を見張り、朗らかに空気を打ち消した。其れを見るに、谷原にしては野崎の笑った顔を差し向ひにするのも之が最後のやうな気がして、寒気がするやうだった。


 個室だらうと居酒屋は五月蠅い。常に廻りの談笑が背後に為って会話を包む。

だが此の時許りは喧噪も何もなくなって了った。在っても無いと同じものだった。それ位、野崎の舌は重く沈思しているやうな言ひ回しであった。


れを書いても、おれの手に掛かりゃ喜劇となっちまう。」

「其れは君にとっては悲劇なのかね。」


 うむ、うむと唸ったなり、野崎は問ひに答へる事も無い。薄暗い居酒屋特有の灯かりが、二人を見下ろして居た。



「おれは、あとさき尠ねえやうな気がするんだ。」


 その詞を繰り返すやうになったのは何時いつ頃からか、谷原が記憶するに去年の晩夏だったらうか。

 野崎に大した病は無い。寧ろ健康その物のやうな身体をして居る。只、野崎の決意とも取れる余命宣告は、影ともひかりとも為って其れからの言動に彩を添へた。

 復た、能く在るセンチメンタリスムだらうな…一興を演じて居るのだらうな……、谷原が斯う考へるのも億劫になる位、野崎はもう「れと決まって居るのだ」、と云ふ顔を隠さなかった。


 己と共に、野崎は筆跡を総て消去る心算だった。


「…だっておれは、総て皆の為に書いた積りが、今から見りゃその全部がひっくり返って独りの手慰みにしか過ぎなかったんだから…其んなの、自分が死んだら笑ひぐさだらう……」


 あの――請うやうな野崎の顔まはりの憐れさが谷原の脳裏に焼かれて消へなかった。泣きさうな頬をして居た。もう、きついやうな不恰好な戦慄わななきが、その刻の野崎の顔を支配する許りだった。


 如何しやうも無く、此奴は苦しいのだな。

 谷原は其の時に野崎を、然う俯瞰したのだった。自分が少し許り此奴の哀しみを楽観的に、ひろい目で捉へて、其の気に為れば直ぐにでもすくってやれる、然う確信して居た。否、して居た、振りをして居たのだ。自分は、いつも偉い―全部の問題が、大した事無いやうに見得る、それが自分の大人である所以だと、思って居たからだ。だから文人である、野崎の心中錯綜してもつれた悩みには谷原の主義からして無縁の態を採らざるを得なかったのだ。繊細よりも大胆が持て囃される出版界に居ったのも一因か知れぬ。只自分には、慈悲が人より存すると思って居た。其れ故、野崎の拙い文を誰より近くで、親友として抜きで、純粋に愛好して居たのだ。

 文学を皆目解らぬが、野崎の文は面白いと思った。善くそこ迄、僕らが普通見得ない処迄描くものだとはっとした。初めは感心だった。読む内に引っ張られて行ったのだ。引き返さうか、と思った時にはもう最後まで歩み切って了って居た。



 だから野崎が其の著作総てを放擲するに至っては、心穏やかでない。即ち自分の嗜好の大抵が無に帰すと云ふ事。谷原は、俗人乍らに、此の小さな親友の生きた証を、認めて居たのだ。他の者に認められぬとも、芽が出ずとも、美しい文は美しいと思って居た。新聞に載せてやらうかと持ち掛けた事もある。其れは野崎の方から願い下げられて終ったが。おれにはまだそんな長いものは書けない、と、自らに望みを失している風の、如何にも申し訳なささうな面を下げて、目元に皺を寄せてそれきり黙って仕舞った。谷原はその姿を珍しいものでも観るかのやうに眺めて居た。


 文人の友達が居る事自体、谷原の周りでは珍奇な事でも無かった。ただ世間話序でに野崎の話が出て、相手が其れに首を突っ込んで来たならば、

「ああ。未だ顔は出ちゃゐないが、其の内でかくなるぞ。見て置け」

未だ若いから。と大口で決まり文句を叩いた。自慢と云ふ程でも無いが、嘘偽りは彼に無かった。そのうち本当に認めらるゝに違ひないと、文壇を半ば無条件に信頼して居た。其の内情を少しも知らぬと云ふのに、大層な肩の預けやうだった。周りはそれを見てにこゝゝと、悪気も無く受け流す丈けだった。


 野崎は音を上げた事が無かった。故に谷原がこの文人と云ふ割かし呑気な職業に就て居る親友に悲観を投じる事も無かった。しかし野崎から曰はせて視れば、物書き程身を絞るものは無いし、削るものもない。人生そのものだった。だから職業と云ふ気もせねば、全くの娯楽に徹する事も不可であった。職業は変はるが、自分の身は替はらない。文人が疾くに身体と成って了ったと自己を解釈した野崎は、うそれから抜け出せぬと腹を括って居た。


 谷原からすれば其のやうな生き様を選ぶ事は、劇場内での口上以上のものに感ぜられなかった。



「君は一体、何を書きたいんだね。」


 谷原は何気ない風で訊いてみた。野崎はそれを受けてくうを仰いだ。狭苦しい、圧迫された飲み屋の天井。天上界とは程遠い。吾等には御似合いだ、なぞと野崎は自ら見下ろして高みに立った気分になった。たまに斯うして自分が自分から離脱して奇妙に描写を重ぬる事屡々。悪い事では無いと思ったが、自分の身が感覚と共に分裂して其の内引き裂かれちまうんだらうなと云ふ予感を伴って些か不快でもあった。


「大層な物をね。書けりゃ望みも消えるが、たぶんおれがそんな手を担ったら死んじまうろうな……」


 手をぢっと見詰めて目元に僅か皺を寄せる、苦痛とも愉快とも云へぬ物々しい気概を纏った野崎はぽつりと零した。


小者こものはでかい仕事につぶされちまうが落ちだ。」

「いや、君のには君だけの色があるぢゃないか。馬鹿云ふなよ、卑下なんて君らしくない……。」


 妙な笑みを貼り付けて突っ伏した野崎へ向けて、谷原は咄嗟に慰めを見せた。

 御決まりの応酬だらう。落込んで、友が励ます。常套である。其れ丈けならチト脆いかと、軽口を交えた迄だ。実際、野崎は見様に依りゃ愚かな男に映るろうと、谷原は観察した。ぢっとしてりゃ銀行員にでも成れさうな顔立ちしといて、食ひ繋ぎに自ら窮して居るなんて変な奴だ。有名大を出て置きながら、日払いの其れを手に掴むなり原稿用紙へ全部替へて了ふやうな男だ。金を金と思はぬ男だ。


 谷原は店先で早々野崎と別った後、如何どうも醒め遣らぬ気持で、併し往く宛も無いので自宅へ足を向かはせて終った。


 準之介さん。待つともなく構へて居た紗夜さよが戸の音を聞くなりいそゝゝと部屋から出迎えに来た。


「今日は早いのね。」

「あゝ、野崎と飲んで来た。滑稽な噺を送れたさ」


 まあ、何を。

 語の後ろをきゃっと揚げてけらゝゝ笑ふ彼女は、谷原の恋人とも妻とも云へぬ妙な立ち位置に居た。只、知り合うて「住まはせて呉れませんこと。」と男の二ツ返事を待てば其れ迄だった。

 ちくゝゝと針仕事をして居た紗夜はさっさと其れを片付け、谷原に摺り寄るやうに言を続けた。


 谷原にも、この女が一体誰なのか能く解らなくなる時が在った。此の人は何を思って僕に就て居るんだらう、飯はうまいが其れ以外、変はり映へもしないものだが……。


 名前を呼べば彼女は何時もの嬉しさうな目を此方へ動かして、なあにと問ふ。

云ひ出したものゝ然して考へも無かった事を誤魔化す気にれず、気付かれても良いやうな気持で適当に、眼に映った彼女をぢっと視て言を継ぐ。


「髪、伸びたねえ」

「あら、さうね。ずっとここから出やんものですから」

「理容店に知合いが居る。紹介しやうか。籠って許りぢゃ鬱陶しいだらう」

「いゝえ、好いの。駕篭はとっても居心地良いのよ。」


 へえ、と今度は谷原が語尾を持上げた。触れず傷付けずの距離だから、判らない言動を耳に曝け出されるのも珍しい事で無かった。そっと流す。其れを繰り返す内に、紗夜も憚らずどんゝゝ私感を零して呉れるやうになった。どうせ分らぬ事だから、谷原に取っちゃなんの足しにならないが。


「曖眛な事を云って。結局、僕を頼りたい丈けぢゃないのかい。」


紗夜は顔を持ち上げた。


「えゝ、さうよ。あたし、ひとりでいきていけないんですの。」

「かよはいね。」

「えゝ、さうよ。」


 徐に面を伏せ谷原の腕に顔をそっと預けた紗夜を薄目に見下ろし乍ら、その細い面影が、全く違ふのに野崎の弱い顔を思ひ出させるやうに感ぜられて、変な感想だなア、と自らとぼとおした。


「僕のまはりには弱い人間ばッかりだ。」


 そう廊下に零すと、紗夜は、まあ、ひとは、よはいものよ。と在り来りの、本の内容でも思い出すやうに声をくゞもらせた。


 斯う見下ろすに就けても、悪い気持ちなどしてしなかった。世話焼きの所為だらう。半面、自分自体は其れなりの職に就いてしっかり立って居るから何処までも他人事だ、切らうと思えばいつでも切れる、と云ふ事もあるや知れなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る